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『眠る獣 』
犬神・勇愛5488

 人里離れた山奥に、ひとつの大きな屋敷があった。その傍には立派な神社。
 一族に連なる者以外はまず訪れることのないこの地は犬神家の総本山であり、本家の人間や有力者、実力者が常に駐在する場所でもあった。
 周りを深い森に囲まれたお屋敷の広間に、緊張感漂う空気が流れている。
 それは決して悪い意味のものではない。
 今、ひとりの母親が産気づいており、一族の者たちは広間でその結果を待っているのだ。
 空高くにあった太陽が地平線に沈もうとする頃、泣き声が、聞こえた。
 静かな屋敷にこれでもかというくらい響く声に続いて、近づく足音。
「女の子でございます」
 巫女が、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて広間へとやってきた。
 喜ぶ声と、落胆の声が混じる。
「おなごか……」
 呟いたのは、集う一族の中でも老いた者たち。
 赤ん坊の父親は、けれどそんな年寄りの声などまったく聞こえていないようで、顔を綻ばせて赤ん坊へと歩み寄った。


* * *


 ――それから、十年。
 赤ん坊は勇愛という名前を貰ってすくすくと元気に育ち、可愛らしい少女へと成長していた。
 その日も勇愛は、いつもと変わらない時間を過ごしていた。朝起きて、御飯を食べて、少し勉強して、庭で遊んで……。
 深い森の中、大きな変化の少ない場所――けれど、小さな変化は日々、勇愛を楽しませてくれる。
 そんな毎日の中、少々珍しい変化が起こった。
 ひらひらと勇愛の目の前を過ぎって、森の方へと飛んで行く蝶々を見つけたのだ。
「わあ……」
 運が、良かったというべきか、悪かったというべきか。
 ちょうどその時、お付きの者の目が勇愛から離れていた。ほんの少し、用を頼まれて、目を離していたのは一分足らず。
 しかしちょうどその一分の間に、勇愛は蝶々を見つけてしまったのだ。
 緑の中を色鮮やかな白い羽根が羽ばたいて、勇愛は好奇心のままに蝶々を追う。
 森の中に入ってから、そういえばひとりで森に入るのは初めてだったと思い出して、勇愛はふと周囲に視線を廻らせた。
 ドキドキと、緊張か期待にか、胸が高鳴る。
 いつのまにか蝶々のことはすっかり忘れて、ひとりで森を冒険することに夢中になっていた。
 可愛い花を見つけて駆け寄り、森に住まう動物を見つけて手を振って、空を飛ぶ鳥を見上げながら歩く。
 そんなことを繰り返してそろそろ家に帰ろうかと思った時、唐突に、気がついた。
「ここ、どの辺なのかな……」
 勇愛が知るどこよりも深く生い茂った木々。どうやら、思った以上に奥まで来てしまったらしい。
 それでもまあ、多分あっちが家だという方角くらいはわかる。歩いていればなんとかなるだろうと引き返そうと反転した時だった。
 背後に、気配を感じて、振り返る。
 いつのまにか、のどかな森の空気が一変していた。
 勇愛の前に現れたのは数頭の野犬だ。緊張感に耐えられず、勇愛は視線を外してしまった――その瞬間。
 野犬が、勇愛に向かって飛び掛ってきた。
「きゃああっ!!」
 おもいっきり手を振って、駆け出す。
 けれどこちらは子供の足で、向こうは四足。勇愛が逃げ切れるはずもなかった。
 近くにいる犬たちがこの饗宴に気付いたのか、どんどんと追う犬の数は増えていく。
「あ……」
 取り囲まれていた。
 前方にも、右にも左にも、もちろん、後方にも。
 犬たちはじりじりと包囲の輪を狭めてきた。いつ、襲いかかってきても不思議はない。
 思わず下がるも、意味はない。しかしそのほんの少しの動きが、事態の変化を招いてしまった。
 野犬たちが一斉に飛びかかってきたのだ。

 勇愛の内で、恐怖が膨れ上がり――爆発する。
 勇愛の意識が弾け飛び、そして。

 そこに残ったのは十歳の少女ではなく、野性の狼だった。
 すべての者を圧するような強い気迫に野犬たちが怯む。
 勇愛は――いや、獣は。その隙を、見逃しはしなかった。


* * *


 勇愛がいなくなったことに気がついて急いで森に探しに出た大人たちは、そのあまりの惨状に思わず目を伏せた。
 木々は引き裂かれ、大木が折れ、森の中にぽっかりと小さな荒野が出来ていた。
 その中心に立つのは、幼い少女――勇愛。
 勇愛の周囲には肉隗と化した野犬たちが転がっており、勇愛は、その肉を貪っていたのだ。
「……勇愛!!」
 叫んだのは、父親だった。
 同時に大人たちも我に帰り、勇愛を抑えにかかる。
 しかし子供ひとりを相手に数十人がかりでやっとという有様だった。


 騒ぎが落ちついてから、数日後。
 勇愛の暴走について散々一族会議が開かれた結果、勇愛は、ある小さな町の神社に住むこととなった。
 首にはその力を封じる護封環をつけてはいたが、勇愛自身はその封印に頓着することなく、今は静かに眠っている。
「……これで、良かったのかもしれない」
 勇愛に寄り沿い、父親がぽつりと告げる。
 眠る勇愛を優しく撫でながら、母親は何も言わずに微笑んだ。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
日向葵 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年10月12日

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