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『天使(?)の午眠 』
天音・神1094)&翡翠・皐月(1091)

◆至る所に危険あり
 眠いし、だるい。春とはいえどこかまだ肌寒い日差しに、天音・神(あまね・じん)は薄手のコートをボタンも掛けずに羽織っただけで歩いていた。荷物は片方の背にしょった楽器のケースだけだ。

 だるい身体を引きずるように歩いていると、やっぱり家で寝ているべきだったかもしれない繰り返し思う。けれど、せっかくのオフをそうやって身体の休息だけにあてて過ごす事はどうしても耐えられなかった。何故か無性にあの人に会いたかった。あの人の持つ、あの独特の雰囲気に触れたかった。断っておくが、あの人にいぢめられたいといかそういうのではない。絶対にない。そりゃあ、あの人は『いぢめっこ』で他人のボケにキツイ突っ込みを入れずには居られない人だし、何気なく罠を張って他人が引っかかるのを気長に待つ様なタイプだ。それは否定しない。俺はしないしきっと本人も自覚してるだろう。そういうお茶目はこうして心の棚に置いて置くとしてだ。あの人に遊ばれたくて行くわけじゃない。結果はそうなるとしてもだ。そう‥‥あの人は音を身にまとう事が出来る。音があの人を慕って寄り添っていくような、そんな不思議な人なのだ。うん、だから俺はあの人に会いたくなる。‥‥って、なんでこんな言い訳めいた事を思うのだろう。俺は俺に言い訳してまで歩いているのか? つ、疲れているのかもしれない。

 内面での葛藤を表に見せない神であったが、立て看板に2回ぶつかり、工事現場の段差に1回足をとられて転がりそうになった。信号を見落として危うく轢かれそうになったところで軽く頭を振る。このままでは目的地に着く前に強制で違う場所に連れて行かれてしまう。下手をすれば病院を通り越して涅槃へ直行だ。
「よし!」
 ここからは安全第一に細心の注意を払って道を歩く。神は低く声を出して気合いを入れるともうさほど遠くはない目的地へ向かって慎重に1歩を踏み出した。

◆楽園と天使(?)
 呼び鈴を鳴らしても、声を掛けても何の反応もない。しかし、勝手知ったる他人の家ということで神は玄関脇の木戸を押し開けて庭へと進んだ。小さいけれど趣味のいい庭だった。葉を青々と茂らせた柿の木が高く枝を伸ばし、柿の木よりはやや小振り桜がちらほらと花びらを落としている。縁側のそばには水仙のツンとした花が咲き競っていて‥‥。
「皐月さん!」
 思わず神はその名を叫んだ。縁側に上にあの人が倒れていた。今日のあの人は赤香色の落ち着いた地色に白い小花を散らした着物姿だった。その袖が落ちた鳥の翼に見える。静かに目を閉じた顔に生気は見えない。どうやって駆け寄ったのか憶えてない程動揺していた。指で触れるのさえためらわれる。美しくも恐ろしい『何か』が目の前で起こっている。それを確かめて絶望するのが怖かった。
「‥‥う、う〜ん」
「‥‥‥‥‥‥‥‥え?」
 みじろじをした翡翠・皐月(ひすい・さつき)はなんとも幸せそうな笑顔のまま、うたた寝を続ける。ぽかぽかとした午後の日差しが着物に燦々と降りそそぎ心地よいのだろう。
「さ、皐月さん〜なんて人騒がせなぁ‥‥」
 しかし、苦情を言いたい相手は未だ夢の中だ。無理に起こしとしても『勝手に勘違いした方が悪い』と完膚無きまでに逆襲されることは目に見えている。
「ま、いいんですけど」
 昨日までの疲れがドッと出た様な気がして、神は皐月が眠る縁側の隅に腰を下ろした。震動や風で皐月を起こさないように気を使い、そっと荷をおろす。仰ぐとそこには抜けるような透明で高く青い空があった。高く遠い雲が風に吹かれて形をゆっくりと変えていく。ザァっと葉の鳴る音が頭上で聞こえ、木漏れ日が差す。なんてことないごく普通の風景だが、懐かしい気持ちがした。こんな風に何も考えずにただ座っているのは何時ぶりの事だろう。昨日まで張りつめていた気持ちがゆっくりとほぐされていく様な気がする。そして、ただそこにあるだけの世界が、なんと美しくて愛しいものなのだろうという気持ちが心の深い場所から湧いてくる。これを音にしたい。そうせざるを得ない衝動にじっとしていられなくなる。神の目には安らかに眠る皐月と先ほど降ろしたばかりの荷が映った。
「そろそろ風も出てきたし、皐月さんを起こすにも丁度良いでしょう」
 自分の中でのそう動機付けに成功すると、神は荷に手を伸ばした。軽い音がしてファスナーが開いていく。そっと取り出したのは木目も鮮やかな『最も優美なる楽器』ヴァイオリンであった。手早く弦を整えると今の気分にぴったりな曲を探す。
「これにしましょう」
 頭の中でメロディをさらい、弓をそっと弦に構える。最初の音が甘く優しく細く庭に響き渡る。フランク作曲の宗教歌『天使の糧(パン)』であった。

◆目覚めれば即準備完了
 真っ白な真綿の上にいる気分だった。どこまでも白い世界はほんわかと暖かい。時折、緩やかな風が頬や髪を揺らしていくのもまた心地良い。丸くなった猫の様に幸せだった。

 白い楽園の様な何もない世界に新しいモノが生まれた。音だった。低くゆったりと流れる甘い旋律が遠くから響いてくる。その音は白い楽園の新参ながら、すこしも拮抗することなく世界に調和してゆく。良い音色だと思う。弦の奏でる音でありながら、なんと優しく柔らかな音なのだろう。うん、久しぶりに聞くけれど腕をあげてきた様だわ‥‥

 がばっと皐月は顔をあげた。普通の人間ならば目を開けてもとっさに焦点が合わずにぼんやりとした景色しか見えないのだろうが、少しばかり普通と違う皐月にはばっちりと音源が見えた。
「‥‥何をやっていらっしゃいますの?」
 言葉に温度があるのなら、今皐月の唇からこぼれた言葉は氷結していたに違いない。演奏しながらもうっとりと音の世界に包まれていた神は、その冷たい響きで一気に現実に引き戻された。眠っていた天使はもうどこにもいない。まだ幼さの残る若い姿の、しかし目だけがどこか異質なモノを宿すいつもの皐月だった。ヴァイオリンの弦にかかっていた弓が離れる。演奏はいきなり途切れた。
「あ、それは‥‥もうそろそろ起きた方がいいかと思って、その、目覚ましの曲を‥‥」
 凍り付きそうな目で見つめられると神は言葉もろくに出てこない。それでも必死の思いでなんとかそれらしい返事を皐月に返す。
「目覚ましですの。まぁそれはお気遣いありがとうございます。ですけれどね、それならばもうちょっとテンポの良い曲の方がよろしいんじゃありませんこと?」
 皐月はつけつけと文句を言う。いつの間に湧いたのか大きな雲が陽光を遮ってしまうと、庭は先ほどとはうってかわって薄暗くなる。季節が冬に逆戻りしたかの様だ。神の心にも体にも冷たい風が吹きつける。
「確かにそうなんですが、ヴァイオリンの音は結構響くし、この曲でも充分だと思ったんです。でも‥‥考え無しでした。すみません」
 神は頭を下げる。皐月を不快にするつもりではなかったのだ。‥‥やっぱり自分はどこか欠落していてマトモな人間ではないのだろうか。先ほどまでの高揚した気分はすっかり消え、ずぶずぶと落ち込んでしまいそうだった。そのまま顔も上げられない。その有様を見て皐月は軽く小さな溜め息をつく。はらはらと舞い散る桜の花びらを見てしまうと、皐月もいぢわるを続けられなくなる。こんな美しい日はもう2度とないかもしれない。こんな日はいつもより少しだけつい優しい気持ちになってしまう。
「しょうのない坊ですこと」
 それは本当に小さな声だった。皐月は裾を払って立ち上がると手を伸ばし、うなだれたまま動かない神の頭をくしゃくしゃにする。
「陽がかげってそこでは寒いでしょう。中におあがりなさいませ、一緒にお茶でもいたしましょう」
「‥‥皐月さん」
 神が顔をあげると、とろけるように優しい笑顔を浮かべた皐月が神を見下ろしている。
「はい。ありがとうございます」
 急いで靴を脱ぎ縁側へと上がる。
「神さんのことですから、きっと美味しいお菓子をお土産にお持ちでしょう? それをお茶うけにいたしましょうね」
「え‥‥あの、お土産って‥‥」
 さっきのヴァイオリン演奏が土産なのだが、これはお茶菓子にはなりそうにない。神の動きが一瞬で凍り付く。
「常々言っておりますものね。お土産なしではお招きしませんわよって‥‥ねぇ。わたくしがあれほど言っているのですもの。神さん、まさかお忘れではありませんわよね」
 先に立って歩きだしていた皐月が立ち止まり、振り返ってにっこりと笑う。今すぐ謝るのと、今すぐお菓子を買いに走るのとどちらがいいだろう。ぎこちない手つきでヴァイオリンを拭いたり、弓を緩めたりしながら、神は激しく狼狽していた。

 そして、当然の様に詫びを言わされた後、皐月指定の和菓子やまでお茶菓子を買いに行かされた神であった。
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深紅蒼 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年12月13日

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