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『郷愁和想 』
柏木・アトリ2528


 幼い頃のことだ。近所にお爺さんが住んでいた。
 お爺さんの家は、昔ながらの手法で紙を作り続けているという和紙の店だった。
 夏も冬も、店の前を通ると規則的な紙漉の音が聞こえてくる。
 天気の良い日は庭に紙が並べられ、紙は太陽の光を浴び白く輝く。
 お爺さんはその庭にひとりぽつんと立っては、難しい顔をして腕を組んでいたものだ。
 あまり言葉を交わした覚えはないが、側にいるとほっとする、そんな老人だった。

 ある日、近所の子と喧嘩をした私は泣きながらお爺さんの家へ行った。
 泣きじゃくる私に、お爺さんはそっと和紙をさしだして言った。
「おまえさんに、わしの宝物をあげよう」
 それはとても柔らかで、なめらかで、まるで優しさを漉き込んだような紙だった。
 本当なら店に並んでいる、お金を出さないと手に入らないものだ。
「……もらってもいいの?」
「いいとも。ただし、泣き虫にはやらんぞ」
 お爺さんはそういうと、私の頭を撫でながら微笑んだ。
 きっと、あの時からなのだろう。
 私は、和紙を愛している。



 父親の転勤が決まり、その後長い間東京へ行く機会は訪れなかった。
 今また大学生として上京し、晴れて東京で一人暮らしを始めている。
 記憶を頼りに以前住んでいた地域を訪ね歩くと、懐かしい記憶が甦ってくる。
 近所の子どもとかけまわった道をたどり、お爺さんの店へ――というところで、見覚えのない建物が視界に飛び込んできた。
 それまでも何件か家がなくなったり、新しくなったりはしていたが、今目にした“それ”は思い出の景観全てを塗り替えてしまうほどの衝撃を与えるに十分だった。
 お爺さんの店があった場所には、鏡面ガラスで覆われた銀色のビルが建っている。
 最近建てられたのだろう。アトリが住んでいた頃には、こんな建物はなかった。
「お爺さんのお店は、どこへ……」
 立ち退きでどこかへ移動したのではないかと探し歩くも、手がかりも何もない。
 空が夕暮れに染まるまで歩き回ったが、結局店の行く先はわからなかった。
 あの日老人にもらった和紙は、今でも大切に保存してある。
 嬉しい時も悲しい時も、その和紙と老人の言葉がアトリを支えた。
 日本の文化に興味を抱くようになったのも、和紙に興味を持ったからだ。
 伝統文化に触れるたび、アトリはその奥深さに敬意を抱く。
 そして、この分野に興味を抱くことができて良かったと心から思う。
 その喜びに気づかせてくれたのはお爺さんだ。
 アトリは最後の望みをかけて行きつけの画材屋を回ると、店の情報を尋ね続けた。

 数日後、尋ねた画材屋の一軒からお爺さんの店のものと思わしき情報が入った。
 お爺さんはアトリが転勤でこの地を去ってすぐ、亡くなってしまったのだという。
 後継者の居なかったお爺さんの店は、お爺さんを最後に店を閉めたらしい。
――何もなくなってしまった
 その事実を知っても、不思議と涙は出なかった。
 けれど胸の奥にぽっかりと隙間ができてしまったような気分だ。
 あの日、和紙を渡してくれるお爺さんの顔を、アトリは良く覚えていない。
 本当は悪い予感がして、ろくに顔を見なかっただけなのかもしれない。
「……あんなに好きだったのに……」
 アトリは布団に顔を埋めると、空しさを胸に眠りについた。

「柏木さん、折り鶴の折り方って知ってる?」
 翌日、学校へ行くなり同じ学部の女性が声をかけてきた。
 日頃あまり話をする機会がなく、少し苦手意識を持っている人物だ。
「知ってるけど……どうして?」
 何故自分に話しかけてきたのかと思って聞くと、こういうことらしい。
「今度さ、うちのじいさんの喜寿祝いに絵を贈ろうと思ったんだけど、のっぺりした日本画じゃツマンナイっしょ? 鶴でも折って貼り付けてみようかと思ってるんだよね」
 何とも突飛なアイデアではあるが、喜寿祝いに贈る品にしては粋な発想だ。
「でさ、柏木さんって和紙とか詳しかったよね? 何か派手な和紙とか千代紙とか売ってるとこ知らない?」
 そしてそのついでに鶴の折り方を教えてくれというのが彼女の申し出だった。
 和紙を扱った画材屋なら、学校中の誰よりも多く知っている自信がある。
「ええと……じゃあ、今日の帰り、一緒にお店を回ってみる?」
 緊張しながら返答する。頼られる、というのは、どこかくすぐったいものだ。
 すると喜寿画の彼女は、ぱっと顔を輝かせてアトリの手を取った。
「ありがとう! ほんと助かるわ」
 その勢いに、思わずアトリもほっと息を吐き出す。一気に力が抜けてしまった。
 世の中、何がきっかけで人と関わっていくかは予想だにできない。
 二人は授業の終わる時間に待ち合わせると、その足で東京の街へ向かった。

 後日、完成した彼女の絵を見せてもらった。
 既存の日本画の枠を飛び出した何とも前衛的な出来栄えだったが、各所に舞う折り鶴や岩場に佇む亀(これも千代紙で折った)が要所に配置され、絵全体をすっきりとまとめあげている。
 これならきっとじいさまも喜んでくれるだろうと、二人揃って笑った。



 規則正しい紙漉の音も、まぶしいほどの純白の庭も、今となってはもう記憶の中にしか存在しない。
 けれど和紙は今もアトリの側にあって、いくつもの出会いやきっかけを与えてくれる。
 老人の店がなくなってしまっても、アトリの手にはまだあの和紙が残っている。
 そして、日本ではまだまだたくさんの和紙が生産され、日々その伝統が受け継がれている。
 その連綿と続く軌跡に、心を奪われてやまない。

 アトリは鞄の中から折り鶴を取り出すと、机の上に置いた。
 喜寿画の彼女が、お礼代わりにとくれたものだ。
 くちばしも羽もよれよれで、お世辞にも綺麗な出来栄えとは言えない。
 けれど、どんな折り鶴よりも愛しいと思う。
「お爺さん。お爺さんの宝物は、今では私の宝物です」
 アトリは指先で折り鶴をつつくと、そっと微笑んだ。





 了
PCシチュエーションノベル(シングル) -
西尾遊戯 クリエイターズルームへ
東京怪談
2004年02月16日

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