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『嵐の夜に 』
影山・軍司郎1996)&ゼファー・タウィル(2137)


 夜よ今しばらく続けと、その黒ずくめにして濡れねずみの男は願う。
 だが夜がいかに長く続こうとも、彼の無味乾燥な時間が磨り減ることはない。
 夜が早く終わればと、その白い大柄な男は願った。
 だが夜がいかに早く終わろうとも、この危険が終わることにはならない。


 名も忘れられた街外れの廃工場から、1台の黒い乗用車が飛び出した。屋根の上には、ぼんやりと光るアンドンがある。フロントガラス1枚隔てた中で光るサインは、『貸切』。この乗用車は、タクシーだった。灰色のカーテンを幾重にも閉めているかのような雨模様、黒いタクシーはこの只中に乱暴に飛び出して、タイヤを鳴かせながらほぼ90度のカーブを決めた。
 タクシーを運転しているのは――
『ありがとうございます 本日も安全運転です
 運転手は    影山 軍司郎    です』
 否。
 影山軍司郎という男は、黒ずくめの、冷徹な印象を与える男だ。
 今ハンドルを握っているのは、頭の先からつま先まで純白の、大柄な男だった。
 K−1のファンなら何とかその名を知っているであろう、この白い男はゼファー・タウィル。
 実にいろいろな出来事が、この一晩のうちに起きていて、未だに終わろうとしていないのだ。
 影山軍司郎の姿は――
 雨の中に、浮かび上がった。
 ヘッドライトが照らし出したのは、灰色の雨、黒ずくめの男。
 ただの黒ずくめではない。忌まわしいナチスのSSが纏っていたものよりも黒い、軍服だ。
 バックミラーの視界から消えたことに危惧は覚えていたが、まさかジェイソンやマイケル・マイヤーズばりの『先回り』を披露するとは!
 オーストラリア訛りの「なんてこった!」が飛び出した。


 軍司郎が、こめかみからだくだくと流れる鮮血を拭いもせずに(拭わずとも強い雨が洗い流したし、拭う気にもならなかった)立ちはだかる前で、タクシーは派手にスピンし、電柱に激突した。白い大柄な男が、いろいろと喚きながら飛び出した。
「修理代のことは気にするな。これから死ぬ者には請求できん」
「しつこい野郎だな、おまえッ!」
 しかしこの男、派手に電柱に車を追突させたわりには元気だ。むち打ちのひとつもこさえていないらしい。
 ――その頑丈さもまた、神の賜物か? タウィルの血族よ。
 だが、実際に尋ねることもなく、軍司郎はサーベルをぴゅんと振りかざし、間合いを詰めていた。
 雨のカーテンが、軍司郎の腰元で一瞬切り裂かれた。

 しかし、時の神の血というものは、本当に厄介なものだった。
 軍司郎にとっては、忌まわしく、悪しきものであった。
 サーベルの白刃が今こそその首筋をとらえると思いきや、その大柄な身体は視界からすでに消えており、雨の飛沫さえ遥か彼方に吹き飛ばして、白い男は背後にまわっているのだ。
 しかし――白い男は、男に過ぎぬ。
 神ではなく、人間である。
「貴君はわたしを殺せるか」
 軍司郎の低い囁き声は、激しい雨音をも不思議と遮る。
「なに?」
 ゼファーが肩で息をしながら、咬みつくように問い返す。
「貴君が如何ほど長く時を止められるかは知らんが、わたしが持つ時間すべてを止めることは出来ようか? 生き延びたければ、神の真似事などするな。わたしの時間を止めるのではなく、わたしの生命の時間を絶て」
「……クレイジーだ、おまえ。日本語で……何だっけ……ああ、……狂ってやがる」
 白い男は、多くの男を殴り、蹴り、マットに沈めてきていたが、黒い運転手のように――殺しては、いなかったのである。
「その手ぬるさが、死を招くのだ」
「ヌルくて結構だよ! 俺は死にたくないし――殺したくねえや!」
 ふっ、
 雨の飛沫すら、消えた。
 気がつけば、ゼファー・タウィルは、影山軍司郎の眼前から消えていた。
 軍司郎は何も言わず、また焦らずに、懐から取り出した呼笛をくわえていた。

 ぴぃいいいいーッ、

 漆黒の笛の音色が、雨を切り裂いた。
 かあっ、と灰と黒の空間を光が照らす。光は、電柱にぶつかったきり消えていた、タクシーのヘッドライトであった。ヘッドライトは確かに、そのとき、まばたきをした。

 ぴいッ!

「冗談じゃねえぞ」
 ゼファーの脳裏に蘇るのは、『クリスティーン』。
「俺が好きなのは、ホラーなんかじゃねえ、K−1だ、くそったれ!」

 ボンネットがへこみ、ひしゃげたタクシーが、咆哮を上げながら(比喩ではない。ほんとうに吼えていた)逃げるゼファーを追った。
 あぎとのようにがぱりと開いたボンネット、
 滴り落ちるオイルは血潮か、
 時速80キロの勢いで体当たりをしようと迫るタクシー、
 そしてそのとき、
 時は止まった。


 ばしゃあ、と車道に倒れこんだのは軍司郎であった。
 鈍い痛みを感じるのと、咆哮を耳元で感じたのは同時であり、軍司郎は一瞬にして状況を把握した。あの邪神の親戚は、時をとめて、軍司郎を投げ飛ばしたのだ。タクシーの前に。
 タクシーがうろたえている、だが、止まれとは命令されていない――
 止まれ。命令だ。
 軍司郎が、半身を起こした体勢で、すうと手をかざしたのだった。
 タクシーは結局急には止まれず、またしてもスピンした。1台の車も通らない寂れた車道の真ん中で、後輪が浮き上がりそうなほどの急ブレーキを披露した。
 爆風にも似た風に軍司郎の軍帽が飛び、五芒星のしるしが雨にてらされて閃いた。が、軍司郎の黒手袋を嵌めた手は、軍帽が濡れた地面に落ちることを良しとせず――はっし、と受け止めたのだ。軍司郎の黒髪が濡れたのは一瞬だった。
「……!」
 しかし、軍司郎は、無感情な顔に厳しさを湛えた。
 数メートル向こう、降りしきる雨の中に突っ立っているゼファーが、折れたサーベルを投げ捨てたのだ。
「もう、よそうや。俺が何したっていうんだ」
「……」
 軍司郎は、すうと黒曜石の目を細めた。
「この世に生まれた」
 ゼファーの真紅の目が、ついと細められた。
「すでに大罪を犯しているのだ。貴君は生まれてはならなかったのだ」
「おいこら……おまえ、この野郎ッ、俺に――『Don't be』なんてぬかすのかッ!!」

 単純な男だ、とは思ったが――
 だからこそ油断は出来ないと、軍司郎はジリと軍靴を動かした。
 息を吸いこんで、

 ぴぃいいいいーッ、ぴッ!!

 時は止まらなかったはずだった。
 軍司郎が見たのは、ゼファーの商売道具を捕らえた白刃だ。
 折られたサーベルの刃が、しゅリんと哭きながら飛んできた。瀕死の重症を負いながらも、軍司郎の命令に忠実に従ったのだ。ナイキの薄いウインドブレーカーを着たきりのゼファーの腕に――
 白刃が、ずぶりと突き刺さり――
 だが、その拳も、時も、止まらなかった。
 顎をとらえられて、軍司郎は倒れた。
 己が立てる水飛沫を見た。
 ――その意気や良し。その魂、大戦中に在っても良かったな。
 先ほど言い渡した『Don't be』を忘れていたわけではなかったが、確かにそうも思ったのだ。


 軍司郎は雨が止んだのかと思った。
 そこは、耳が痛くなるほどの完全な静寂に包まれていたのだ。
 血液のせせらぎの音、止むことのない鼓動の音すらも、聞こえてきそうな静寂があった――
 否。
 聞こえる、聞こえてくる、
 ひゅるるるるるぅりゅるる、
 この世のものではない笛の音が。
 だが、この空間に満ちているのは、絶対的な静寂。
 軍司郎は顔を上げ、黒い軍帽のひさしの陰に在る目で、しかと見てしまった。見てはならないものだった。
 小柄な人間じみたものが、すっぽりと頭から(頭にあたるものがあればの話だが)ヴェールをかぶり、そこに佇んでいた。
 そしてその傍らに立つ、何もかもが黒い男。
 影山軍司郎もまた黒い男だが、この黒い男には及びもつかぬ。男は目、唇、爪までもが、夜の闇よりも黒い黒であるがゆえに。
 ヴェールをかぶったものの影が、ふつふつと虹色に泡立ち、それにより、笑い声を表そうとしている。黒い男が黒い唇を、にいいと歪めた。
 ――まったく、つまらん夢だ。
 軍司郎は、眉をひそめた。
 ――もう、何度も見た。もう充分だ。言われずとも判っている。わたしは貴様らの駒なのだ。わたしが踏む地は、碁盤なのだろう。
 ふつふつと、ヴェールの影が泡立った。
 軍司郎は伸びる影から一歩慎重に退いて、再び、眉をひそめた。
「……成る程な。駒が唯一つの局などあるものか。駒はわたしだけではない。しかもその駒は、己が駒であることを知らない――いや、認めようとしていない、そうだな」
 そうして、彼は、名を呼んだ。


 屋根を打ちつける雨の音に、夢は破られた。
 軍司郎はゆっくりと目を開けた。
 ずぶ濡れではあったが、寒さは感じなかった。
 彼はボンネットがひどいことになっているタクシーの中に入れられていて――タクシーはエンジンがかかっており、エアコンが最高温度に設定されていて、雨音に負けじとばかりにごうごうと温風を吐いているのだった。
「頑丈なタクシーだな。大統領専用車か? こんな状態でエンジンかかるなんてよ」
 隣で声が上がった。
 右腕に黒い布を巻きつけたゼファーが、呆れたように言っている。……どうやらその黒い布は、サーベルに貫かれた傷からの出血をおさえているものであるようだが、それ以前に、……軍司郎の外套の切れ端だ。
 軍司郎は身体を起こした。見た夢のせいか、プロのフックによるものか、視界はぐらぐらと揺らめいた。
 だが――こめかみの傷は、やはり、外套の切れ端によって手当てがされていたのだ。
「何故助けた」
 陰鬱な声で、軍司郎は尋ねた。
「領収書が要るんだよ」
 むっつりと、ゼファーは答えた。
「ふむ」
 ゼファーの家は、遥か彼方とは言わないまでも、少し遠い。
「案ずるな。後日、貴君の自宅か所属鍛錬所に郵送しておく」
「本当かよ」
「嘘はつかん」
「本当だな」
「くどい」
「送ったら、くたばれ」
 ばたん。
 一瞬、雨の音が大きくなり、タクシーが軽くバウンドした。110kgの荷物が、急になくなったからだ。


 雨が上がり、時が過ぎて、影山軍司郎は嘘をつかなかった。
 ゼファー・タウィルの所属ジムに、領収書が届いた。
 ……タクシーの修理代、新しい外套代の請求書とともに。
「……あの野郎、マジで次はパイルバンカーだ」




 <GONG ! GONG ! GONG !>
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東京怪談
2003年11月25日

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