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『「お勉強の時間」 』
矢塚・朱羽2058)&直井・晴佳(2101)


 朱羽の部屋に客が来ること自体、考えられないことだった。そのことはどこの誰よりも朱羽自身が一番よく知っている。客が来ないというのは言い過ぎかもしれない。ごくまれにテレビの集金係やセールスマンがこの部屋を訪れるのもまた事実だからだ。彼らは朱羽の応答を確認する否や、絶妙のタイミングで用件を流れるように話し始める。相手は歴戦のプロだ。そう簡単にはへこたれない……
 しかし、朱羽は相手にすべてを言わせる前に拒絶する。一言発したら、その後は一切取り合わない。外でどれだけわめこうが、ドアを強く叩こうが、彼は二度とドアの前に立つことはない。だいたいこういう時、朱羽は部屋の端にあるソファーに座り、自分の飼い猫であり愛猫である茶虎を胸に抱き、外の様子を気にせず遊び始める。極端な話、朱羽よりも茶虎の方が玄関で起こっている出来事に敏感かもしれないのだ。物音に誘われて玄関に向かおうとする茶虎の喉をいじくり始める朱羽……そのうち茶虎は目を細め悦に浸り始め、すっかり外の様子など忘れてしまうのだ。これが朱羽の日常であり、当たり前の風景だった。家の中にはひとりと一匹。それしか考えられなかった。


 玄関のドアに意思があるなら、嘆息しながらこう話すだろう。「私はきっと、主人にしか触ってもらえないんじゃないですかね」と……



 しかし、今日は違う。玄関の向こうに客がいる。扉は機嫌よさそうに軽快な音をリズムよく奏でている……扉の内側では朱羽が呆然と立ち尽くしていた。客の顔はわかっている。同い年の直井晴佳だ。今日の昼休み、学校で晴佳とこんなやり取りがあった。


 『なぁ朱羽……一週間後のテストのために勉強したいから、勉強の仕方を教えてくれよ〜。』

 『勉強の、仕方? 晴佳お前、まさかこの一週間で勉強の基本から教えろっていうんじゃないだろうな?』

 『自分でど〜う分析しても、今回は全教科危ないんだ。だからこうやって素直に頭を下げて、朱羽にお願いしてるんじゃないか。な、日頃の恩を忘れたわけじゃないだろ?』

 『言ってることが無茶苦茶だぞ、お前……って、ここまで聞いて見捨てるのも夢見が悪い。放課後にでも教えてやるよ。』

 『よっし決まり! じゃ、家で勉強の準備だけして朱羽の家に行くからな〜。おっと、早くしないと弁当売り切れるっ!』

 『おい、俺の家は……って、話を聞けよ晴佳……おい……ったく。』


 その結果がこれである。晴佳は日の暮れた街を自転車で駆け抜け、なぜか知っていた朱羽の家のドアが開くのを待っている。彼はこの場所で人に顔を見せたことがなく、どんな顔をすればいいのか戸惑っていた。いつもは聞こえない雑音も、今日ばかりはしっかり聞こえる。


 「お〜〜〜いっ、朱羽帰ってるんだろ? お前の名前、ちゃんと書いてあるじゃん。早く開けてくれよ〜〜〜! 勉強しようぜ〜〜〜!」


 勉強したいと言い出したのは、晴佳本人だ。それを『勉強しよう』とは何事だ……いつもなら晴佳に鋭いツッコミを見舞う朱羽だが、今はそれどころではない。自分が自分でないような感覚を、なぜか今味わっている朱羽。しかし、このドアを開けないことには始まらない。このまま放っておけば、晴佳が何をしでかすかわからない。玄関に立て掛けてある弓のように立ち尽くす主人の姿を、茶虎が後ろから不思議そうな顔をして見つめていた。


 『キィィィィ……………ッ』


 ドアは嬉しそうに軋みを上げる……いつもと同じ顔で自分を迎えた晴佳は一声「よっ」と挨拶し、右手を額に当てて敬礼する。彼は屈託のない笑顔を見せながらいつもの調子で挨拶をしたが、朱羽は少し戸惑った。普段から風景としか見ていない場所で晴佳を見ると、なぜか妙な気分になってしまう。何気なしに晴佳と同じポーズを取ろうとする朱羽。それが柄にないポーズであることに彼は気づけない……だが、今日の客はそれすらも確認しないせっかちだった。晴佳はドアを無理やり開くと玄関の中に入り、すぐに靴を脱いで部屋の中に入ろうとするではないか。これでは挨拶どころではない。晴佳は目の前に立ち塞がる朱羽を見上げて言う。


 「ほら朱羽、ちょっとどいて。早く入れてくれよ、待ったんだぞ俺ぇ〜。」

 「う、うん、ああ……そうだなってお前……!」


 朱羽がわずかに身体を横に向け、彼を迎え入れる道を作った瞬間、晴佳はそこをするりと抜けてさっさと部屋へと入った。そしてテーブルの前でどっかりとあぐらを掻くと、かばんの中に入れていた勉強道具を豪快にぶちまける。本人はもう勉強する気まんまんだった。ひとり気合いを入れる不真面目な友人の後ろ姿を見て、朱羽はわずかに微笑んだ。



 勉強する気だけはまんまんだった晴佳だったが、肝心の教科書は忘れるわ、朱羽に努力のかけらとして見せようと思っていたノートまで忘れるわでスタートからこけていた。やる気が空回りしている晴佳に文句を言いながらも、自分の教科書やふだん使っているルーズリーフを貸したりと世話を焼く朱羽。自分で用意したシャーペンを口の上に乗せながら、テスト範囲のページをめくり始める晴佳……その時、テーブルにシャーペンが落ちる。その直後、晴佳が感動の雄叫びを上げる。


 「すっげ〜〜〜! 教科書にびっちり赤ペンで書きこみがしてあ」

 「その辺のテクニックは、次のテストのために活かしてくれ。さ、もうテスト一週間前なんだし、少しでも点数が取れそうな教科を特化して勉強するぞ。」


 その言葉を聞いて、晴佳は自分の右に座る朱羽に向かって、嬉しそうにある教科書を見せつける。


 「朱羽、それって……数学だろ!」

 「バカ、日本史だ! 社会は単語とその背景を覚えるだけですぐ点に繋がるんだ。家で勉強に行き詰まったら、社会ばっかりしてろ。」

 「へぇ〜。そうなんだ〜、わかったよ朱羽……」


 朱羽が差し出した日本史の教科書をまざまざと見つめる晴佳。その目の前でパラパラと本がめくられていく……朱羽がテスト範囲の場所を探して開いていた。その時、背後で何かを感じたのか晴佳が首を後ろに向ける。彼が感じたのは、なんと茶虎の気配だった。茶虎は身体いっぱいで威嚇のポーズを見せる。両足をピーンと張り、毛を逆立てて晴佳を睨む。


 「お、おい……お前落ち着けよ……ほら、俺は人間なの。ご主人様と仲いいよ。ほらほら〜、この通り!」

 「晴佳、お前な……」

 『フシャ〜〜〜〜〜〜〜ッ! フ〜〜〜〜〜〜ッ!!』


 茶虎に朱羽と肩を組んでいる映像を見せ、なんとかスキンシップを図ろうとする晴佳。しかし、茶虎は依然としてお怒りの様子だった。晴佳はピースをしたり朱羽に顔を近づけたりして努力するも、状況の進展はまったくなかった。黙って晴佳の好きにさせていた朱羽だったが、晴佳の腕を丁寧にはがすと静かに立ち上がり、茶虎の方へと歩き出した。その瞬間、主人に気を遣ったのか警戒を解き、朱羽の接近に身をよじらせる……そんな茶虎を抱き上げると、朱羽はいつものように喉をさすり始める。


 「しょうがないな、茶虎。晴佳は犬で、お前は猫だからな。威嚇してもしょうがないよな。」

 『グルグル……フニャン。』

 「犬じゃない、俺は狼!!」


 茶虎は晴佳がわずかに放つ狼の匂いを察知して、あのような行動に出たらしい。それを知った晴佳は、朱羽の膝でさっきとは打って変わってだらしない姿を見せる茶虎に向かって低く唸り始めた……そう、彼は悪ふざけで威嚇を始めたのだ。獣人の能力をわずかに見せる晴佳。


 「俺は狼だぁぞぉ……ウグゥゥゥ……ウグググゥゥ……」

 『にゃ〜〜〜〜〜おん〜〜〜〜〜♪』

 「グゥゥゥ……グルルルルゥゥ………!」

 『グルグルグル……ニャン……』

 「ゥゥゥゥ……ううううう、ああっ。ダメだ、今度は相手にしてもらえねぇ……ガックリ。」


 朱羽の戯れに心を奪われている茶虎に何をしても無駄だと知った晴佳は、ふたりに顔を背けテーブルに頭をつける。そして勉強もしていないうちから困ったことを言い出した。


 「ああ、腹から声出したら……腹減っちゃった……」

 「お前な、まだ何にも勉強してないぞ。そんなんでホントに大丈夫なのか?」

 「だって〜、俺ん家さ、この時間からメシ食うんだもん……エサ欲しい、エサ。朱羽、腹減った。なんかエサくれよ〜。」

 「お前、ここを誰の家だと思ってるんだ! 少しは遠慮……というか、少しも遠慮してないな。できないの間違いかもしれないが。仕方がない、昨日の残りを使ってカツ丼でも作ってやるか。」

 「ラッキー! やっぱりなんでも言ってみるもんだな、さすがは朱羽っ!」

 「た・だ・し、今開いてる日本史の教科書を何度も読むんだ。ついでに赤ラインの場所を必死で覚えろ。それだけで10点は違うからな……よし、茶虎は晴佳よりも先にご飯だな。」


 朱羽は茶虎を抱いたまま、台所へと向かう……それを確認した晴佳は教科書をちゃんと手に持って約束通りしっかりと読み始める。しかし手に持った教科書が逆だということに気づき、えへへと笑いながら舌を出しながらそれをひっくり返す晴佳。該当のページの先頭から音読する晴佳を見守りながら、朱羽は茶虎愛用の皿にレトルトのキャットフードを盛り付け始めた。


 読めない漢字を飛ばしながらも、晴佳は教科書の文章に没頭していく。熱中し始めたからか、彼は黙って勉強していた。その時、晴佳の鼻がピクピクと動き始める……その鋭い嗅覚は温めたカツに卵がからんだ匂いや茶虎が食べているエサの匂いを感じ取っていた。晴佳の頭の中でだんだんと食欲が膨らみ始めた。
 完全に集中力を失った晴佳は、朱羽の監視がないのをいいことに部屋をチェックし始めた。きれいに畳まれているパジャマやテレビのリモコンを意味もなく電車の社章のように指差し確認する晴佳。その時偶然、彼はある写真立てを指差した……その写真には美しい女性が写っていた。年は自分たちと同じくらいだろうか……晴佳は学校でこの女性を見たことがない。彼は朱羽に怒られるのを覚悟で質問する。


 「なぁ〜〜〜、この写真の女の子、誰〜?」


 後は盛り付ける作業だけになっていた朱羽がふと手を止める。さまざまな思いが晴佳の窺い知らぬところで走馬灯のように流れていく……人には言えない気持ちや悲しい想い。しかし、彼は作業の手を止めることはなかった。朱羽は凛とした声を心がけて、一言だけ発した。



 「妹……だ。」

 「ふ〜〜〜〜〜〜〜ん。朱羽、なんだか寂しそうだな。」



 晴佳の声が近くで聞こえたのに反応した朱羽。声の方を見ると、なんとすぐ側まで晴佳が近づいているではないか。朱羽が感じた一瞬は、晴佳にとっては長い時間だったようだ。晴佳はわざとニヤリと笑い、いやらしい表情を作って話しかけた。


 「俺が、トクベツになぐさめてやろうかぁ〜?」

 「気色悪い声で胸が悪くなるようなことを言うな。ほ〜らエサだ、カツ丼だ。素直にしないと茶虎に食わせるぞ?」

 「おっとっと、そりゃないよ朱羽〜。マジメに食いますよ、マジメに。その後もマジメに勉強しますよ、マジメに!」


 いつもの調子に戻った朱羽を見て、晴佳は安心した。彼は『あんまり勉強はできなくても、誰かを助けたりすることはがんばればいくらでもできるんだな』と思った。朱羽には悪いと思ったが、晴佳にとってそれが今日一番の収穫だった。上機嫌の晴佳は、一気にカツ丼を口に流し入れる。あんまりにも早い食べ方に落ち着けと声をかける朱羽。食事を終えた茶虎が遠目でそれを見て、目を見開いていた……


 テスト勉強と称した楽しい時間は、なかなか終わりそうにないようだ……


PCシチュエーションノベル(ツイン) -
市川智彦 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年11月07日

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