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『白南風線路(しろはえせんろ) 』
柚品・弧月1582)&蒼月・支倉(1653)
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草むらでは、夜の名残を惜しむようにコロコロとコオロギが鳴いている。
朝露に濡れた緑はみずみずしく、薄く靄の立ち込めた景色は昼の暑さを予感させて青々としていた。
青嵐が茂った木立を吹きぬけると、虫たちの鳴き声も風に掻き消されるように小さくなる。ジジ、とどこかでセミが鳴く。もっと日が昇れば、この駅は蝉の大合唱に包まれるのだろう。都会では聴くことの出来ない贅沢な騒音だ。
そういえば、もう長いこと虫の鳴き声なんて聞いてない。
無人のホームい貼られた色あせたポスターを遠く眺めて、蒼月支倉(あおつき・はせくら)は欠伸を噛み殺した。
夏と聞いて思い出すのは、熱気の籠もった体育館と、足元でキュッと音を立てるバスケットシューズ。板張りの床を揺らすドリブルの音。
その時、体育館の外では蝉が鳴いていただろうかと思い出してみても、記憶はおぼろげではっきりしない。
そう考えると、随分遠くまで来てしまった。
客どころか駅員すら居ない無人のホームのベンチで足を伸ばし、支倉は空を仰いだ。傍らで同じように色褪せたベンチに腰掛けた柚品弧月(ゆしな・こげつ)が、夏の朝風の狭間に沈んでいった会話もそのままに、手の中でキャラメルサイコロを弄んでいる。
そのサイコロが転がれば、またその目が示すままに次の目的地へと向かうのだ。二人の間で「今度はここへ行ってみよう」などという中途半端な提案はなされない。「ん」とおもむろにサイコロを取り出し、やはり機械的にサイコロを振る。ころころと転がっていく賽の目を、肩を並べて何度も二人で追いかけた。出た目だけが目的地を決める、宛てのない旅だった。
一体俺はどこまで来て、この先にあるはずの旅の終着点まではあとどれくらいあるのだろうか。考えてみても、賽の目任せの旅路に終着駅などあるわけもない。それでも夏が終わるまでに旅は終わるだろうし、次の練習試合がはじまるまでに支倉は家に帰れるだろう。
ただ、夏の暑さに道のりは白く霞んで、だからたった数日だと予想される行程がひどく長いものに感じられるのだ。
ゆっくりと流れていく雲を見上げながら、支倉はこの旅の始点に考えを巡らせる。
はじまりは夏の暑さもピークの二日前だった。
くたくたになるまでシゴかれた練習の帰り道、予約も前触れもなく支倉の前に現れた弧月は、「では行こうか」と当然のような顔をして彼を促した。
こんな移動ばかりで憔悴する旅だとわかっていたなら、あの時断れば良かったのだ。「俺は行きませんよ」とハッキリ言って、何が何でも家に帰って汗を洗い流し、ベッドにダイブしておけばよかった。そうしたら長時間夜間バスに揺られて夜を明かすことも、無人のホームで弧月と二人、遠い家を思いながら朝を迎えることもなかったはずである。
とりとめもなく考えることはすべてが後の祭りで、あの場にもう一度戻れたとしても、やっぱり弧月の誘いを断れない自分を支倉は知っている。だから諦めて電車に揺られ、バスに揺られ、陽炎揺らめく道を歩いて、今は街灯すらも古臭い夜明けの駅で夜を明かし、始発電車を待っているのだ。
いつの間にかコオロギはなきやんでいた。
ホームの隅のほうでアスファルトを照らしていた日差しが、今はもう彼らの座るベンチの足元にまで伸びてきている。
「師匠またサイコロ振るんですか」
うんともふんともつかない生返事で、俯き加減に弧月はサイコロに視線を落とす。黒い髪がさらりと落ちて、夜の闇を残したような彼の髪がその横顔に翳を落とした。
カタカタと薄いボール紙の中てキャラメルが音を立てている。節ばった男の手の中で、彼らの行く先を握るサイコロはひどく小さく見えた。
朝一番の電車を拾い、目指す駅についたらあのサイコロはまたカラカラとアスファルトの道路を、乾いた道を、タイル張りの駅の構内を転がるだろう。
サイコロ任せの旅には、観光どころか腰を落ち着けて休む暇もない。
宿泊施設に泊まることすらなく、移動時間がそのまま彼らの睡眠時間である。普段規則正しい生活をしている支倉にはこれが堪えた。たかが二日の不摂生だというのに、身体は隅々まで重い。
サイコロは気まぐれだから、支倉の一振りで都心に一歩近づいても、弧月が賽を投げればたちまち畑と田圃が延々と連なる名前も知らない土地へと旅が始まる。
雲が風に流されていくのと変わらないんだと、支倉は青い空に浮かんだ綿雲を見て考えた。
夏の日差しを吸い込んだような白南風に乗って、支倉と弧月は流されていく。
「ねーぇ、師匠」
太陽の白い光に輝き始めた雲を見て、夜は完全に明けたのだと悟る。
「こんな旅って楽しいですか?」
弧月が返事をするより先に、朝風がベンチに腰をかけた二人の髪をなびかせる。さわさわと駅にまで枝を伸ばした大木が葉擦れの音を立てた。
しばらく間を置いて、うん、と答えが返ってくる。声は低く涼やかに、自然の音ばかりのこの風景に溶け込んでいく。
ちりんとどこかの家で風鈴が鳴った。ホームは小山のように生い茂った木々に囲まれて、家なんてものは一つとて見えなかったから、それは案外空耳だったのかもしれない。
うんと言った弧月の答えが、相槌なのかそれとも質問に対する肯定だったのか、口を噤んで支倉は考える。そうしているうちにも時間はゆったりと流れていったので、次に言葉を発するまでには妙な空白が出来た。
「せっかく旅をするんなら、もっとゆっくりしましょうよ」
都会の喧騒を離れてからこっち、二日ばかりの旅程を振り返って出るのはため息ばかりである。名前すら聞いたことのない土地にたどり着いても、支倉はその地のことを何も知らない。行くべきところもわからずに、まるで異人になったような、奇妙な疎外感ばかりが募った。
とはいえ、辿り着いた途端に次の目的地は賽の目によって決められていて、実質その土地に留まるのは移動と移動の合間の数十分から数時間だけだったのだが。
バスを待つ時間、電車を待つ時間。時には人の流れを、別の時には闇に暗く沈んだ町を、木々を、眺めて過ごす。支倉にとっては、何もすることのない待ち時間だ。
何度も地面に転がされて、すっかりくたびれたサイコロを弧月は大きな手の中に包み込んだ。
「ガイドブックに載っている場所になら」
緩く握られた手の中には、サイコロの白い面が覘いて見える。
「写真を見て、説明を読んだだけでも行った気になれる」
「そりゃそうだけどさ。でも実際行ってみるのと、本で見るのとは違うでしょ」
実際に行ってみてはじめて、そこに吹く風や、その空気やそこに注ぐ日の光を感じることができるのだ。写真で見て本で読んだだけでは、そんなことは感じ取れない。やっぱりみやげとか、歴史とかがある観光地って悪くないと思うんだけどなと、支倉は口を尖らせた。
口元に笑みを刷いて弧月はサイコロを握る。抗議するように、不恰好に角が汚れたサイコロはコロコロと鳴る。
「歴史は、何もガイドブックや教科書に載っているものだけが全てではないだろう」
考古学などと、今の時流からはかなり外れた分野を学んでいる弧月は、教え子に諭すように支倉に向かってやや口調を和らげた。
「この駅を作るために、ここが人で溢れていた時代もあったはずだ。その必要を感じた誰かが居たんだろう。それよりもっと昔には、戦に敗れた落ち武者が迷い込んできたかもしれない。獲物を追って迷い込んだ石器時代の人々が、獣道を切り開いたかもしれない」
掌を広げて、そこに載ったサイコロに弧月は目を落とした。おもむろにそれを指の間に挟むと、指で器用に蓋を開く。中からは半透明の紙に包まれたキャラメルが二つ、転がり出た。
「そう考えるから、俺は楽しい」
キャラメルの片方の袋を剥いて、弧月はそれを口に入れる。
弧月の言うことを理解するのに少しの時間を要したので、支倉はキャラメルのせいで膨らんだ弧月の頬から視線を逸らし、緑と青空の境界を仰いだ。
「お前には、まだわからないかも知れないな」
「いやぁ。……わかる、ような気はする」
つまり、弧月には余裕があるのだ。
夏の日差しを透かして輝く草木を愛で、虫の声に目を細め、何百年も何千年も前の暮らしに思いを巡らせる。
こうしてあてどない旅を続けても、多くのものに目を向け、感受する姿勢を保っていられる。ともすれば日々に忙殺されて失いがちな何かを、今みたいな時間は補ってくれるのだ。
言われて初めてそれに気づいた自分に、少しだけ照れた。
「師匠ぅ」
「何だ」
「去年も師匠、セミの声とか、聞きましたか」
意図を測るように首を傾げて支倉を見やり、ゆっくりと弧月は空を見上げた。
「聞いた」
思い出すように、目を閉じる。
「空の中心に届きそうなほどの入道雲だった。セミのせいで、人の声も聞き取れないほどだったよ」
じゃあ俺は去年、師匠が聞いたセミの音を聞きそびれたのだと考えると、なんだか不公平な気までしてくる。
手を上げて弧月がキャラメルを差し出すので、支倉は掌に載ったそれを黙って拾い、口に放り込んだ。
「楽しいか?」
今度は、弧月が支倉に聞いた。
コロコロと口の中でキャラメルを転がしながら、ほんの少しだけ顎を引いて、支倉は頷く。
「……うん」
甘くぼやけた味が口の中に解けて広がる。
「案外、悪くない、かもしれない」
口の中で広がっていくほろ甘さも、どこまでも広がる空の青さも。
眼前に広がる緑の際限ない葉の重なりや森じゅうに唱和するセミの鳴き声。それらに初めて鮮やかな色がついた気がする。
木々の間を緑の匂いをいっぱい含んで駆け抜けていく南風を、きっと俺はこれからたまに思い出すんだろう。爽やかな緑と、幹の深い茶色のコントラストを眺めながら、支倉はぼんやり考えた。
ビルとアスファルトの合間に灰色に沈んだ日常から、支倉を連れ出した弧月は、鉄を通して伝わってくるわずかな振動に、線路の果てに目を向けた。
「……始発列車が来たようだ」

言葉どおりコトコトと、夏の暑さに詰まった線路を、列車がやってくる音がする。
徐々にそれは大きくなり、やがて白く霞んだ一対の線の先に、電車の四角いシルエットが見え始めた。



-「白南風線路」-

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東京怪談
2003年08月11日

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