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『春むかし 』
矢野 古代jb1679


 開けた窓から、柔らかな風と共に花の香りが流れてくる。
 春の訪れを伝えるその花は、果たしてどこで咲き誇っているやら。
 遠く遠く何処までも香る、沈丁花。


「……ああ。そう言えば、もうそんな季節なのか」
 講義室で転寝をしていた矢野 古代は、ゆっくりと身を起こし無精ひげの伸びる顎をさする。
 いつの間にか退屈な講義は終わり、誰か一人くらい起こしてくれても良かろうに、古代は一人取り残されていた。
 急ぐ依頼を取っているでなし、放課となった今はもう、のんびりとしていてなんら支障はないけれど。
(もう少し休んでから、帰るか……)
 乱雑に切りそろえた黒髪へ指を差し込み、ぼんやり考える。ここまで寝入ったということは、少し疲れているのかもしれない。
 窓の外からは、花の香りと笑い声。
 若者たちが青春を謳歌している声が聞こえてくる。
(だからか)
 懐かしい夢を見ていた気がする。
 春は近く、柔らかくなり始めた空気はあまやかで。
 何処かほろ苦い、思い出を想起させた。
 夢を見たのは、きっとそのせい。


 春は、様々な思い出が交差する季節。
 ひとつ、ふたつ、年を経るたびに増え、褪せれども消えることはない。




「矢野くん、レポート出した?」
 朝一番に、小さな手が古代の肩を叩く。
 彼女は見目が良いというわけではないが、笑った顔がとても綺麗で。耳触りのいい声をしていた。
「古代ー、こっち貸すからソレ写させてくれ」
「写すのはだめだろうよ、高校生じゃないんだから」
「いっつもそうだよねー」
 彼女がくすくすと笑い、後ろからゆっくりと声をかけてきた若者に振り返る。
 特段、格好いいというわけではないのだが、纏う空気が柔らかな、一緒にいて心地いい青年だ。
「お、沈丁花」
 青年が、古代の先へと視線を伸ばす。
「ああ、いい匂いがすると思ったの。もうすぐ、春なのね」
 女性が、耳に掛かる髪をかき上げては目を細めた。

 二人が、古代を通して同じ方向を見つめる。
 ずっとずっと遠くに咲く花へ、気持を向ける。

「桜の花も良いけどさ。こいつが咲き始めると春だわーって思うんだよな。ほら、徹夜してる時とか」
「えー? 私は計画的に行動してるから、徹夜で追い込まれるようなことはしてないからわからないなぁ」
 青年の言葉へ、彼女が冷やかすように笑うから、つい古代は言葉を挟む。
「はは。こないだ貸したDVD、貫徹で10本観たんじゃなかった?」
「矢野くんっ、シーッ!!」
 笑った顔は綺麗だが、慌てる顔は可愛いと思った。
「え、なにソレ」
「俺特選究極ホラーセット」
「女一人で? マジで? 色んな意味でスゲー」
「隣で、いつでも抱き付けるように居てやるぜっていうのに断るんだよな」
「矢野くん!!!」

 彼女と共有する趣味の話が楽しかった。
 青年を交えて、その輪が広がってゆくことが楽しかった。
 楽しい時期は、きっとずっと続くのだろうと、青臭いことを考えていた。
 そんな時が、あった。




 春が近づき、夕暮れもぐっと緩やかに。しかし、空気の冷え込みは急激に。
 古代はゆっくりと立ち上がり、窓を閉める。
 講義室には、沈丁花の香りがおぼろげに取り残された。

(良い奴には良縁が来ると言うが……実際、そうだったんだろうな)
 大学の同窓である二人は、古代にとって大切な。『良い友人』だった。
 その友人二人が、良縁で結ばれて。
 それはとても、嬉しいことだったのに…… そこでようやく、古代は自身の気持ちに気づいた。
 笑うしかない。
 一緒に笑ってほしい友人には、しかし聞かせられない胸の内で。
 甘く苦い感情は、花の香りが来るたびに顔を覗かせては沈んでゆく。

 褪せれども消えることはない、青い思い出。

「……帰るか」
 ぽつり呟き、荷物を手にした際に、入れっぱなしにしていた封筒が顔を覗かせる。
「…………」
 既に、目は通している。
 どう返事しようかと、心の整理ができないままだった。

 二人の間に、子供が生まれたこと。
 いつか、遊びに来てほしいということ。

 柔らかな文字で綴られた、優しい文章。
 学生の頃から変わらない。
 そのことが、古代の心のどこかを締め付けた。
 もう、10年以上も経つというのに。


 窓の外。青春を謳歌する若者たちの声が、ガラス越しにも聞こえる。
 何をやっても楽しかった年頃。
 その中に、古代の娘や友人たちの姿も、きっとあるのだろう。
 巻き戻しのできない時間を、全力で駆け抜けているのだろう。
「……まあ、うん。偶には、良いかな」
 戻りたいわけじゃない。
 ただ……、向き合うのも悪くない、そう思った。
 娘にも、学園の友人にも言わないで。
 少しだけ、昔の思い出話をしよう。


 夕日の差し込む窓辺の席へ座り直し、古代は荷物からレポートパッドを取り出す。
 色気もそっけもないが、それくらいでいいだろう。
 気心の知れた、友人たちなのだ。
 ペンを執る古代の口元には、自然と優しい笑みが浮かんでいた。




 春は、様々な思い出が交差する季節。
 風が。香りが。色が。
 記憶と結びつき、奥底へ沈めたものを引き上げてくる。

 甘いばかりじゃない。
 苦いばかりじゃない。

 今の自分を作り上げる為に、どれもがきっと必然だった。
 戻ることは適わなくても、そっと振り返ることは許されるだろう。
 前を向き、そんな気持ちに浸る季節。




【春むかし 了】


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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【jb1679 / 矢野 古代 / 男 / 35歳 / インフィルトレイター】

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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ご依頼ありがとうございました。
過去の恋情へ想いを馳せるエピソード。お届けいたします。
い、いろいろと盛り込んでしまいましたが。
楽しんでいただけましたら幸いです。
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佐嶋 ちよみ クリエイターズルームへ
エリュシオン
2014年04月18日

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