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『愛しい日々へ 』
久遠 栄la3338


 香りは唐突に、懐かしい記憶を呼び覚ます。
 風が運んできた微かな海の香りが、久遠 栄(la3338)の足を止めた。
 思わず今来た道を振り返る。
 ――そこで懐かしい顔が笑っているような気がして。
「ははっ、うん、どうもまだ慣れないな」
 癖の強い黒髪に手を突っ込むようにして、頭を掻く。
 多くの店が立ち並ぶ目抜き通りは、栄の記憶と同じようでいて、少し違うような気もする。
 その理由は分かっている。
 栄自身が自分の記憶とは違っているからだ。
 歩く速さ、身のこなし、周りの人の動きとの差。
 そういった僅かな記憶の違いが、街の様子まで変えて見せている。
「でも、慣れるしかないよな」
 自分に言い聞かせるように言葉に出して呟く。
 そしてまた歩き始めた。
 この違和感に慣れるために。あるいは、今ある「現実」に馴染むために。

 向かった先は、雑貨店だった。
 日常の様々な道具が所狭しと並んでいるこの店は、栄のお気に入りだ。
 高級でもなく、かといって安物という訳でもない価格帯の品々を見て回っていると、妙に落ち着くのだ。
 扉を開けると店長が顔をあげてこちらを見た。栄だとわかると、黙ったままで軽く会釈してくれる。
 派手に声をかけるわけでもなく、無視するわけでもない。
 この距離感も「店にいていいのだ」と感じられて、心地よかった。
 手前から順に棚を見ていくが、栄がじっくり見るのはいつも食器のコーナーだった。
 厚手のガラスのカップに、銀色のシンプルなスプーンやフォーク。小皿のようなスプーンレストに、ポーションカップ、ポットが冷めないように覆うカバー。
 喫茶店でのバイト歴が長いこともあって、ついそんな品が気になってしまうのだ。
 何度も来ているうちに見慣れた品を見るのも楽しいが、少し入れ替わっているものを見つけてちょっと嬉しくもなる。
 当然だが、誰かが何かを買って行けば、次の品が飾られるのだ。

 そんな風に、いつも通りに棚を眺めていた栄の足が、突然ぴたりと止まった。
 そうっと手を伸ばした先には、一客のコーヒーカップのセットがあった。
「これ……」
 それほど珍しくもないデザインの、白いカップ。
 コーヒーが冷めにくいように考えられた、厚みのあるカップ部分。
 指を入れるとしっくり馴染んでカップが安定する、さりげないのに考え抜かれた取っ手の形。
 スプーンを添えやすい大きさのプレート。
 コーヒー豆のイラストまでもが、栄がよく知っているものと同じだった。
 一瞬、足元がぐにゃりと崩れるような感覚に襲われる。
 何とか踏みとどまり、栄はそのカップを持ってレジに向かった。
「一客しかないんだけどいい?」
 店主が申し訳なさそうに尋ねる。バイト先で使うために、数が必要なこともあるからだ。
「あ、大丈夫です。自分用にと思って」
 栄は照れたような笑顔で、また頭を掻く。


 栄のバイト先は、今もやっぱり喫茶店だった。
 独特の空気とコーヒーの香りに包まれていると、昔のままで時が止まったように感じられる。
 休みで誰もいない店に戻ると、客席のテーブルの上に雑貨店の包みを置いた。
 座り心地の良い椅子に掛け、包みを開いて、自分のものになった白いコーヒーセットを手に取る。
「うわあ……なんだろうこれ、ほんとにすっごい馴染むんだけど」
 まるで、栄に巡り逢うために生まれてきたように思える一客だった。

 栄は丁寧に淹れたコーヒーを、買ってきたばかりのカップに注いでみる。
 かぐわしい香りの液体の黒色が、乳白色のカップによって引き立つ。
 スプーンでかき回すと、カップに当たって立てる涼やかな音が耳に心地よい。
 栄は記憶の中でも、こうしてコーヒーを淹れていた。
 店にはいつも仲間がいた。
 バカ話をして笑ったり、大怪我をして戻ってきたことを嘆いたり。
 辛いことがあっても、皆に話を聞いてもらっているうちに慰められ、また立ち上がることができた。
 ……そして、愛しい笑顔が傍にあった。
 コーヒーの香りを感じながら目を閉じると、自分がまだあの場所にいるようだ。
 雑談の声が、仲間の気配が、全身を包み込む。
 目を開けば、誰かが自分が眠っていたとからかい、自分も変な夢をみたのだと苦笑いを返す。
 そんな日常の、愛しい日々……。

 怖れ半分、期待半分で目を開く。
 当たり前だが、誰もいない喫茶店に自分だけが座っている。
 暫く辺りをゆっくりと見まわしていた栄の視線が、ゆっくりと自分の手元に戻っていく。
 この手。
 かつては多少、世界の役に立っただろうと自負していたはずの手。
 まるで初めて見るかのように、栄は握ったり開いたりしながら両手をじっと見つめる。
(また、最初からなんだな)
 過酷な世界で戦士として生きる苦しさを想う。
 けれど、それは皆の幸せのために必要なことだ。
(ま、大丈夫だろ。こっちでも仲間がいればやっていけるさ)
 仲間がいれば、自分は力を出せる。
 力が足りない時には、仲間が助けてくれる。

 何も失ってなどいない。
 全ては栄の中にある。
 この世界でもまた、新しい何かを見つけていけるだろう。
 今の栄はそれを知っている。だから、大丈夫。
 そしてまた何年か経った日に振り返れば、この世界での日々も愛しく思えるはずだ。
「うん、きっとそうなる。そうしていかないとな」
 残ったコーヒーを飲みほし、栄は立ち上がった。


 コーヒーカップのセットは、厨房の食器棚の隅に収まった。
 まるで誰かの代わりのように。あるいは昔の栄自身がそこにいるように。
 お客に出されることのない白いカップが、そっと寄り添うように栄を見守っている。
 もしもこの世界で生きているうちに、どうしても辛いことが起きたなら、あのカップにコーヒーを注いで。
 ゆっくりと香りに浸れば、「まだ大丈夫」ときっと思えるはずだ。

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

この度のご依頼、誠にありがとうございます。
新しい世界でのPC様を、おまかせでどのように書こうかと迷ったのですが。
ずっと日常をきちんと生きているイメージで描写させていただきました。
お気に召しましたら幸いです。
おまかせノベル -
樹シロカ クリエイターズルームへ
グロリアスドライヴ
2019年05月27日

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