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『グラビアアイドル松本太一』
松本・太一8504

 自慢するような事ではないが、借金はない。どこからも金を借りていない。
「あの……何か、人違いをなさっておられるのでは……」
 控え目に、松本太一(8504)は問いかけてみた。
 男たちは答えず、無言で太一をエレベーターへと押し込める。
 真っ当な勤め人とは思えない、剣呑な風体の男たちであった。
 太一は思い返してみる。
 借金は無論、うっかり誰かの連帯保証人になってしまった覚えもない。
 にもかかわらず太一は会社の帰り道、この男たちに拉致された。
 物のように車で運ばれ、エレベーターに乗せられ、そのエレベーターが9階で止まった。
 マンション、と思われる瀟洒な建物。
 その9階の一角が、屋内プールであった。
 グラビアアイドルの撮影にでも使われそうな場所である。
 松本太一などという貧相な熟年サラリーマン48歳とは、およそ縁のない場所である。
 こういう時、よく助けてくれる女性が、今日は何故か大人しい。
 太一は、心の中から問いかけてみた。
(あ、貴女が大人しくしている……と、いう事は……)
『つまりは、そういう事よ』
 太一にしか聞こえぬ声で、彼女は答えた。
『しばらくは成り行きに身を任せなさい。本当に危なくなったら助けてあげる……と言うか、貴方なら自力でどうにか出来るでしょうに』
(夜宵の魔女の能力は全て、貴女の力ですよ……)
 男の1人が、太一をプールに突き落とした。
 水中に没した瞬間、太一は、ふわりとしたものが広がるのを感じた。
 太一自身の、頭髪だった。尋常ではなく伸びている。
 その黒髪が、水中でゆらりと身体を撫でる。魅惑的な女体の凹凸が、それで認識出来た。
 50歳近い男のみすぼらしい肉体が、瑞々しく若返り、引き締まり、膨らむべき部分を膨らませながら、若鮎の如く躍動する。
 胸が重い、と太一は感じた。その重い膨らみが、しかし軽やかに水圧を押しのけて揺れる。
 衣服は消え失せていた。代わりに貝殻が2枚、胸に貼り付いている。
 豊麗な胸の膨らみが、貝殻の水着を振りちぎってしまいそうなほどに揺れて、水飛沫を跳ね飛ばす。
 水面を粉砕しながら、太一は水上に跳ねていた。
 水を蹴散らす下半身では、尻と太股のふっくらとした曲線が、そのまま尾鰭へと至っている。魚体化、であった。
 空中に躍る人魚姫の肢体に、男たちが一斉にスマートフォンを向ける。
「こいつぁ極上の逸品だぜ、おい!」
「配信しました。さっそく競りが始まってます!」
「いきなり億が付きました! 1億5千、2億3千、7千……3億突破!」
「粘れ、これなら5億までいける!」
 そんな騒ぎを聞き流しながら、太一は水中に落下し、水面に顔を出し、呟いた。
「世の中、いろんな需要があるのは……まあ知ってました」
 夜宵の魔女を経て、人魚姫に変わる。まあ、よくある事だ。
「私、5億円で売れるみたいですね。まあ私なんか買って、何に使うのかは知りませんけど」
『いろんな需要、という事よ』
 そのような需要に応える商売を、している者たちがいる。
 特に珍しい事ではないが、ここ最近、失踪や行方不明が相次いでいた。
 全て、男性である。例えば松本太一のような、一般市民の見本とも言えるような人々が大半だ。
「そういう人たちを……今の私みたいなものに作り変えて、売り捌く商売。てっきり夜会関係の方々が関わっているものと思ってましたけど」
 これまでの事を、太一は軽く思い返してみた。
「何と言いますか……人間の女性じゃ駄目、っていう男の人、大勢いるのは知ってますけど。でも億単位のお金が飛び交う市場、いつの間にか形成されていたんですねえ」
『市場の拡大に貢献してきたのは貴女よ』
「今まで撮られた、あんな映像こんな映像……出回っちゃってますか、そうですか」
 太一は苦笑した。
「……元が男じゃなきゃ駄目、なんて人たちまで出て来ちゃったんですね」
『男の方が警戒心が無くて調達し易いんでしょ。拉致された時の貴方みたいにね』
「確かに、ぼーっと歩いていたのは私ですけど」
『……まあ、それだけじゃないわね。貧相で冴えない松本太一みたいな男が、美少女に変わる。可愛い人魚姫やアルラウネに変わっちゃう。そこにね、大金を注ぎ込むくらいに熱狂してる連中が一定数いるって事よ。気持ちはわからなくもないわ』
「そういう人たち相手の商売は……夜会関係の方々が、独占しているはずです」
 男たちによる撮影と動画配信が続いているので、何となくポーズも取ってみた。濡れた黒髪を少し物憂げに掻き上げながら、さりげなく胸を強調して見せる。本当に、さり気なくだ。あまり露骨ではいけない。
「あの人たちはね、こんな雑な仕事はしませんよ」
『……雑にね、プールに放り込まれただけで人魚姫に変わっちゃう貴女も、ちょっと適応し過ぎという気はするけど』
「……何かこのプール、そういう雰囲気なんですよ。こういう場所に、48歳の貧相な男なんていちゃいけません」
 太一は、男たちに視線と言葉を投げた。
「貴方たちも、です。ここにいてもいいのはね、水着の似合う可愛い女の子だけなんですよ。私がそれに該当するかどうかはともかく……悪い事をする男の人は、ダメです」
 太一は、言っただけだ。情報改変の力を、用いたわけではない。
 だが男たちは1人残らず、消え失せていた。まるで最初からいなかったかのようにだ。
『……動いたわね、あいつら』
「え……じゃあ、もう終わり? って事ですか?」
 太一は、疑問を口にした。
「それは確かに、わざと捕まるようには頼まれましたけど……アジトとか売買ルートとか調べるために。それ全部、もう済んじゃったんですか?」
『当然。だってあの連中、この場で競売なんか始めちゃったのよ?』
 撮影、配信、そして競売。それに使われたスマートフォンが、プールサイドに散乱している。
『貴女に1億とか3億とか値段付けた連中も今頃、どんな目に遭っている事やら』
「なるほどね……ネットオークションにサイバーゴーストか何か送り込んで、参加者・関係者ことごとく特定して呪い殺す。そのくらいのことは朝飯前な方々ですもんね」
 競売が始まった時点で、太一のこの度の仕事は完了、という事だ。
「今、消えちゃった人たちは……」
『忘れなさい』
「……そうします」
 ゆったりと、太一は泳いだ。
「ああ……それにしても、このプール凄くいいです。何かね、グラビアアイドルにでもなった気分って思ってたら、いつの間にか人魚に変わってました」
『……変身し易くなっちゃってるのね、貴女』
「憂慮すべき事態だと思います。元はと言えば貴女のせいですけどね」
 着信音が複数、響き渡った。
 散乱したスマートフォンが、様々な動画を再生させている。
 この場にいた男たち、だけではない。世界各地で人魚姫に値段を付けていた者、全員が様々な目に遭っていた。
 皆もはや未来永劫、このように閲覧注意動画となって電子の海を彷徨い続けるしかないのだ。
「かわいそう……だけど仕方ありません。力になって、あげられないです」
 水中から上体を現し、プールサイドに肘をついたまま、太一は言った。
「貴方たちはね、夜会の方々の縄張りを荒らしちゃったんですから……」


東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2020年02月14日

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