鳥の賦【雉】

■ショートシナリオ


担当:紺野ふずき

対応レベル:1〜5lv

難易度:難しい

成功報酬:5

参加人数:8人

サポート参加人数:-人

冒険期間:07月07日〜07月14日

リプレイ公開日:2005年07月20日

●オープニング

 泣いている。
 声も立てずに、ただ、しとしとと雫を落とす。
 重く、暗い――この鉛色の空に等しく、色褪せた心が泣いているのだ。

 手を繋いで歩いた。
 大きくて暖かな温もりだった。

 追いかけては転んだ。
 その度に、汚れた膝を叩いてくれた顔は、いつも優しかった。

 もう――
 手を伸ばすことは許されない。

 届かない。

 届かない。

 色褪せ、くすみかけている。
 遠い日の想いが、泣いているのだ。


「裏切りものッ!」
 鞘を投げ捨てると同時に地を蹴った。手の震えが止まらない。幾度となく流してきたはずの、あの『朱』を見るのが怖いのだ。
「やめろ、雉(きじ)!」
「うるさいッ!」 
 ブン――
 力任せに振り回した切っ先が、虚しく空を斬る。青年は上体を引いて逃れると、ぬかるみを一つ飛び越えた。
 何故、襲ってこない。
 何故、そんなに哀しげな貌をする。
 戦う意志の見えぬ眼差しに、雉は苛立ちを募らせた。
「これは誰かの『命』か?」
 青年が言った。物憂げな声だった。雉は黙り込み、荒い息を吐きながら青年を睨み付けた。
 叩き付けるような雨音が、僅かな沈黙の隙間に入り込む。この荒天が人々の足を鈍らせているのだろう。森の向こうにある村からの行き来は途絶え、濡れそぼる街道には、二人以外に人気がなかった。
「‥‥命と、里の掟だ! 主や仲間を殺し、金を奪って行方を眩ました裏切り者を野放しにしておくほど、我らは甘くない!」
 刀を構え直した雉に、鴉は息衝く。
「大河様を殺したのは、弟御の継成様が放った刺客だ。以前より、排斥しようと言う動きがあったのは、お前も知っているだろう。アイツは――鶯は、大河様を護ろうとして死んだ。手をかけたのは、俺たちの仲間だ」
「仲間? 自分のことじゃないのか、鴉(からす)。奪った金で『ここ』へやってきたんだろう?」
「全ては大河様の意向。『一時、地を逃れ、機を見て仇をとれ』と、後事をして大河様は亡くなられた。その時に授かった路銀だ」
「嘘だ!」
 雨を散らして雉は吠えた。それまでに聞かされていた事実とはまるで違う鴉の言葉を、弾き返すように頭を振るう。
「俺と『長』は、継成様から大河様の仇を討てとの命を受け、月道を越えてきた。反逆者として、裏切り者として、あんたを生かしてはおくなと」
 だが、声に滲んだ動揺は隠せなかった。手もさきほどより大きく震えている。
 今まで、一度として鴉が嘘を付いたことがあっただろうか。その応えに頷く自分が見つからなかった。
「雉‥‥。鶯はお前のそう言う」
 吐き出しかけた言葉を飲んで、突然、鴉は押し黙った。目が昏さを増す。雉は何も言わずに、鴉の背後へと視線を移した。
「鬱陶しい雨だ。しかし、お前の子守歌程度にはなるだろう。鴉よ」
 鴉はすっと半身を引き、横顔を声に向けた。
 現れたのは、逞しい体躯の男だった。濡れて張り付いた鉛色の忍び装束が、盛り上がった肉の動きにあわせて収縮する。男は頭巾を取り、射抜くような目で鴉を見据えた。鴉は男がやってくることを予期していたのだろう。微塵にも驚いた様子を見せなかった。
「面汚しめ。生涯の服従を誓ったお前が、主を殺して逃げるとはな。継成様は嘆いておられる」
「萱葺(かやぶき)。いや、新しい名で呼ぼうか、『草根』。何故、寝返った? なにを与えられた? お前の素性は隠せても、その刀と太刀筋は隠せない。受け取れ、鶯の最後の言葉だ‥‥。『“屋根”の下に集い生きた。鳥は死んで自由になる。だが、止まり木に翼をもがれるとは――鳥たちに伝えてくれ。生あるうちに飛び発てと。俺はもう啼けん』」
 雉の目が泳いだ。彷徨い、そして萱葺へ向く。
「お前のことも心配していた、雉。素直すぎると」
 萱葺は鼻で笑い、鴉を睨み付けた。
「囀りはほどほどにしろ。雛鳥が迷う」
 二つの影が同時に走った。雨泥を跳ね上げ鴉が飛ぶ。萱葺は半回転して鴉の腹を蹴り上げた。ガッと鈍い音がして、雉の捨てた鞘が砕け散り、バラバラと落下する木片の後方に、鴉が遅れて着地した。
「同じ手は二度と使えんぞ」
 萱葺が走った。平行して鴉が追う。雉は鴉を挟むようにして、別の影が現れたことに気づいた。どくん、と胸が鳴った。刀を持つ手が震え、息がわななく。
 萱葺が鴉に肉薄した。大振りな刃が鴉の鼻先を掠める。雨が五感を鈍らせるのだ。飛び躱した鴉の背が、飛び込んできた影にぶつかった。
「啼きすぎる鳥はいらん」
 脇腹から突き出た鉛色を、鴉は見下ろした。背中に張り付いたもう一人の萱葺が嘲笑う。鴉は自ら刃を引き抜き、一つ二つと蹌踉めいて膝を折った。
「兄者ッ!」
 駆け寄ろうとした雉に、鴉は来るなと首を振った。そこに、母の面影が見えた。叩き打つような激しい雨音も聞こえない。耳の奥で鼓動が鳴く。視界が曇るのはこの雨のせいだ。自らが落とす、痛みのせいではない。
 次の瞬間、激しい爆音が轟いた。鴉も萱葺も煙に飲まれて見えなくなる。
 雉が再び目を開いた時、鴉の姿は消えていた。
「姑息な。追うぞ、雉」
 頬から流れる血を拭い、萱葺が言った。



 水を利用して逃げるのは、鴉の癖だ。
 小川を下り、踏み荒らされた苔のある場所より半日を費やして、雉は、巨木の根元に横たわる鴉を見つけた。
 傍らに膝をついても、身動き一つしない。目を閉じ、不規則な呼吸に胸を上下させている。仰向けの顔は、死人のように白かった。
 あれから二日が経過し、鴉はかなり衰弱していた。もってあと数日だろう。手をかけずとも放っておけば死んでしまう。
 雉は唇を噛んだ。すでに戦意は失せている。萱葺には、事切れていたと報告するつもりであった。例え、それが虚偽であり、掟破りになろうと、ここで刀を抜く気にはなれなかった。
「だが、どうしたら良い? 納得させるのは無理だ‥‥」
 なにが、そして、誰が正しいのか。
 あの激しい雨の中、鴉から放たれた鶯の遺言を、雉は思い出していた。
 寝返ったのは萱葺だと、鴉は言った。それが本当なら、主を殺したのは萱葺と言うことになる。
 雉は前屈みになり、鴉の傷口を覗き込んだ。出血は止まっているが、装束も傷に近い草も黒ずんだ血で染まっている。
「薬も、金もない」
 雉は自らの憂いを漏らし、自嘲気味に嗤った。
 月道を越えて三日目の晩のことであった。寝苦しくて目覚めた雉は、夜気にあたろうと起きあがり、萱葺の荷に蹴躓いた。転がり出た小箱には、五十枚の金貨の束が二つ。目を覚ました萱葺は、慌てる素振りも見せずに言った。鴉を滅せば、お前の分は手に入ると。
「一時でも信じた俺が愚かだった。長は俺を連れて帰る気はない‥‥。兄者の次はきっと俺だ。いつも――いつも、兄者は正しかった。鶯も‥‥。全て、継成様につくための長の謀だったのか」
 ぽろりと、雉の頬を雫が伝う。
「兄者‥‥、俺の止まり木は兄者だった‥‥。兄者が消えたあと、俺は拠り所を失くしてしまった」
 父を追うように母が死に、二人は忍びの里へ預けられた。鳥の名を受けてからは、山を降りることも許されなかった。いつも優しい兄だけが、雉の心の支えだった。それを失いかけている。
「兄者、手をよこすから、もう少し堪えてくれ。俺は体勢を整えて、萱葺を討ちに戻る」
 雉はゆらりと立ち上がり、決意の浮かぶ目で鴉を見下ろした。
「愚弟だった‥‥。達者で、兄者――」
 微かに動いた兄の指先に、背を向けた弟が気づくことはなかった。

●今回の参加者

 ea2806 光月 羽澄(32歳・♀・忍者・人間・ジャパン)
 ea5819 鷹屋 千史(29歳・♀・浪人・人間・ジャパン)
 ea7398 エクリア・マリフェンス(22歳・♀・ウィザード・エルフ・イギリス王国)
 ea7483 ゲイリー・ノースブルック(64歳・♂・クレリック・シフール・イギリス王国)
 ea8065 天霧 那流(36歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 ea9589 ポーレット・モラン(30歳・♀・クレリック・シフール・イギリス王国)
 ea9784 パルシア・プリズム(27歳・♀・レンジャー・ハーフエルフ・イスパニア王国)
 eb2287 ソウェイル・オシラ(22歳・♂・ウィザード・エルフ・ロシア王国)

●リプレイ本文

●揺らぐ炎
 忍び同士の争いの末、光月羽澄(ea2806)の里は焼き討ちにあった。両親を亡くし、それでもまだ幸せだと思えたのは、友が傍にいてくれたからだ。いつも互いを気にかけ支えあった。
 もし、その存在が争いに巻き込まれ、死の淵に立たされているとしたら、自分は何をするだろう。
 泣きくれるのだろうか。
 それとも――

「風が出てきたな」
 夜半に入り、葉のざわめきが大きくなった。鷹屋千史(ea5819)の言葉につられ、天霧那流(ea8065)は夜空を仰ぐ。木々の間で瞬く光が、灰色の雲に遮られ視界から失せた。
「雨が来るかもしれないわね」
 羽澄が言った。
 まるで、先行きを暗示するかのような不穏な天気も、雉の気を惹くには至らない。物憂げに、ランタンの火を見つめている。
 死なないこと。
 無茶をしないこと。
 ギルドを出る時に立てた誓いを、忘れてはいないだろうか。
 羽澄も那流も、雉が捨て身で仇討ちに臨む気がしてならなかった。
「え? いま何ておっしゃったんですか?」
 エクリア・マリフェンス(ea7398)は、パルシア・プリズム(ea9784)の言った言葉の意味がわからなかった。
 頭上でうねる枝を見上げていて聞き取れなかったわけではなく、イギリス語を話せないパルシアが、ジャパン語を話したからだ。
 簡単な会話であれば、ほとんどの言語がわかるソウェイル・オシラ(eb2287)が間を繋いだ。
「明日に備えて、今日は早く休もうって」
 襲撃の時間や方法を話し合っていたせいか、夜も良い時間になっている。辺りが暗くなり始めてから、一度、油をつぎ足していることを思い出して、エクリアは頷いた。
「そうですね。雉さんのお話では、萱葺は、瞬時に分身の術を展開できるそうですし、いつどんなタイミングで敵が増えるかわかりません。睡眠を十分取って、万全な体勢で挑みましょう」
「賛成。性格も最悪のようだしね」
 どんなことをしかけてくるかわからない相手だ。油断はならないだろう。
「背中は雉に預けるわ」
 そう言った那流を、雉は信じられないと言う顔つきで見る。
「なに?」
「そんな‥‥、言われたことがない‥‥」
 雉の返事に、千史は苦笑した。
「頼りないことを言うのだな。全ては、雉の芝居に全てがかかっている。決して、騙りだと気づかれぬようにな。鴉のこと、気がかりだとは思うが、平静を保つように」
「‥‥鴉は――もう大丈夫だろう。長がいなくなれば、故郷へ戻れる」
 雉は重い口調で言った。
「じゃあ、雉さんも帰らないとね? ちゃんと、ご飯食べて頑張ろう?」
 ソウェイルの緊張感にかける穏やかな声音と台詞に、雉は僅かに目を細めた。
  
●曇天
「済んだようじゃな」
 翌日――
 ゲイリー・ノースブルック(ea7483)と、ポーレット・モラン(ea9589)が、周辺の偵察を終えて戻ると、雉の支度は整っていた。
 兄を討ったと虚言を吐いても、萱葺が信じなければ意味がない。ゲイリーは、獣の血で装束を汚すよう提案しておいたのだ。
「上出来じゃ。良いか、雉よ。もう一度、段取りを説明するぞ。兄の末期を話し、愚痴を吐き出せ。それが無理ならば、疲れたと告げ早めに休むのじゃ。寝ている主に手をかけようとしたら」
「アタシちゃんが、皆に合図するわ〜」
 ゲイリーの言葉を、ポーレットが継ぐ。
「狼に襲われているところを助けられ、奴隷になったと言うことにして同行〜。ジャパン語はわからないフリをするわね〜」
 ポーレットは髪を乱し、ボロボロの聖骸布をまとっていた。聖職者として、良心の呵責を感じたのだろう。この変装のあと、ポーレットは神に赦しを乞うための祈りを捧げている。
「‥‥ごめん」
 それを見ていた雉が、低い声で呟いた。
「良いのよぉ〜。これも、雉ちゃんとお兄さんを助けるためだものぉ〜。『ご飯も食べたし』、頑張って行きましょう〜」
 そう言ってポーレットは、雉の背中を叩く。
 風は収まったが、雲行きはますます怪しくなっていた。
 パルシアは、大気に水の匂いを感じると言った。それが出立の言葉となった。
「忘れてないわよね?」
 まだ乾ききっていない頬の血を、雉は手の甲に擦りつける。
 見上げる那流の目は厳しかった。
「絶対に一緒に帰るわよ。じゃないと、鴉に会わせる顔がないもの」
 力強い雉の頷きを、那流は見た。

●猜疑
 小屋へ戻った雉に、萱葺の言葉はなかった。威圧的な態度で雉を呼び寄せ、固い拳をいきなり雉の顔面に叩き付けた。
「助けた、だと? 血縁の血に濡れて狂ったのか。まだ、片の付かないうちに、足手纏いを連れ歩くなど許さんぞ」
 構えの無かった雉は、吹っ飛ばされて尻餅をついた。鼻と口元を覆った手の間から、血が流れだしている。駆け寄ったポーレットは、胸のクロスを握りかけた。雉は首を振り、魔法は使うなと目配せする。
『暴力反対よっ!』
 キッと睨み付けたポーレットに、萱葺の侮蔑の目が落ちた。
「寝ろ。明朝一番に、真偽を確かめに向かう。お前はそこで、コイツを始末しろ。報告が虚偽だった場合は、雉――貴様を殺すぞ」
 雉は目を伏せた。握りしめた拳が震えている。ポーレットにはそれが、怖さではなく怒りのためだとわかった。
 その晩、雉はゲイリーの策通りほとんど口を利かず、早々に横になった。
 横たわるポーレットの耳に、終始、水音が聞こえる。裏の木立を抜けた先の谷底に、川が流れているからだ。
 やがて小屋の中から音が消えた。薄目をあけたポーレットは、腕を組み壁にもたれかかって眠る萱葺の姿を確認した。
 ポーレットが窓の外に向かって手を挙げると、茂みから空に向かって一つの影が飛び立った。
 屋根の上で微かな羽音が聞こえ、ゲイリーの顔が破れ目から覗く。
 萱葺は寝ていなかった。懐を探っているのが、ポーレットには見えた。
「ゲイリー伯父ちゃま!」
 ハッとしたゲイリーが顔を引っ込めると同時に、ポーレットは萱葺に向かって体当たりした。萱葺は手裏剣を取り落とし、舌打ちする。振り回した腕に吹き飛ばされ、ポーレットは壁に叩き付けられた。
 起きあがろうとするポーレットを庇うように、雉が萱葺の前に立ちはだかる。
「やはり、騙りか。娘――貴様、昼にこの辺りを嗅ぎまわっていたな」
 小屋の周囲で草がざわめいている。
 萱葺が雉を睨んだ。
「何人だ? 裏切りは血筋のようだな、雉よ」
「先に裏切ったのは、あんただ」
 萱葺の唇が僅かに動いた。
「分身の術よ!」
 ポーレットの声にはじかれ、雉は転がっていた荷物をかっさらい床を蹴った。だが、もう一人の萱葺は、すでに戸口に現れていた。
「荷を下ろせ。まだ、用は済んでいない」
 ポーレットの眼前に雉の背がある。雉は荷を、部屋の隅に放り投げた。
「それで良い。お前は『素直さ』が取り柄だからな」
 ザ、と萱葺の背中で草が鳴いた。

「少し見習ったらどうだ」
 千史は音もなく鋼を抜き放った。
 振り返った萱葺の顔に、嘲笑が浮かぶ。
「それが良いわね」
 ゆらゆらと揺れながら立ち上る赤い炎を、那流は刀身と自身にまとっている。萱葺は対峙する冒険者たちに鼻を鳴らした。
「貴様らに俺が斬れるのか?」
「斬るわ。己の野心の為に主を殺し、兄弟の絆を傷つけた。そんな暴挙を許してはおけない」
 羽澄が言った。
 萱葺は動かない。不気味なほど静かで、そして、黒い笑みを浮かべている。なにかが起きそうだと、千史が思った刹那、小屋の中で雉が吠えた。
「萱葺ぃッ!」
 ガリ、と木を引っ掻くような音がした。萱葺の姿がみなの前から消え失せる。
「無理はしない約束じゃない!」
 言うが早いか那流は走っていた。

●混戦
『駄目です! ブレスセンサーでは、本体と分身の区別がつきません』
「えッ? どうして?」
『近い場所に、気配が集中しすぎています』
 全容を見渡せる木陰に潜んだエクリアは、呼吸探査の結果を、ソウェイルの傍にあった大岩を通して知らせた。
「そんな‥‥。どうしよう‥‥」
 しげみに隠れて様子を窺うソウェイルの表情が、めまぐるしく変わるのを知っているのは、この大岩だけだ。
『機を見て、攻撃に切り替えます』
 岩の表面から聞こえていたエクリアの声は、そこで途絶えた。
 空を仰ぐ。ソウェイルにも感じられるほど、雨の匂いが近くなっていた。
 
●谷へ
「萱葺ぃッ!」
 雉は萱葺に攻撃をしかけた。満身の力をこめて振り下ろした刀は、萱葺の左に反れ、壁に深い溝を作る。
 萱葺は、一人に戻っていた。戸口に迫る足音を聞きつけ、崩れた壁の間へ身を滑らせる。抜け出た途端、肩を縄ひょうに斬りつけられた。
『ここにいるとは思わなかったみたいね』
 延びたロープを手繰り寄せ、パルシアが言った。皆との挟撃を狙って、隠れていたのだ。
『逃げられませんよ』
 逃げ道を探して泳いでいた萱葺の目が、茂みの中で止まる。

「わ!」
 ソウェイルは、萱葺の顔に憎悪のこもる笑みが浮かぶのを見て逃げ出した
「お前も仲間か!」
 走り出すソウェイルを、萱葺は追う。
 突如、皆の前を閃光が走った。エクリアの放った稲妻だ。萱葺は直撃を受け横転したが、直ぐに立ち上がりソウェイルを追った。
「来ちゃダメーッ!」
 夜の森は視界が利かない。ソウェイルは何度も木の根に躓いた。
「ソウェイルちゃん、こっちよ〜! 誘導するからついてきて!」
 耳の横に舞い降りたポーレットが言った。
 水音を目指す。木立を抜ければ谷だ。
 ソウェイルは後ろを振り返った。萱葺は一定の距離を保ってついてきている。
 やがて、頭上を覆っていた枝が失せ、曇天の空が広がった。水音が耳につく。谷についたのだ。ソウェイルは切り立った崖に近づいた。
「飛び込むか、俺に従うか。選べ」
 黒く開いた大地の亀裂を背に、ソウェイルは声を振り返った。萱葺は憎々しげに笑っていた。
「もしかして、俺を人質にして逃げるために、ここまでわざと泳がせたの?」
「気付いたことを褒めてやろう」
 萱葺が鼻を鳴らす。
「‥‥なっちゃんも言ってたけど、性格悪いよね」
 歩み寄る萱葺に合わせ、ソウェイルは後ずさった。
「戦には策が必要だ。覚えておけ、小僧」
「なら、これはどうかしら〜」
 ポーレットは、萱葺の視界を忙しなく飛び回った。それを振り払おうとした一瞬の隙をついて、ソウェイルは萱葺の脇を抜ける。追いついた雉と冒険者たちが、二人を取り囲んだ。
「野心に溺れた哀れな男よ! 外道に落ちた者の末路に、光はいらぬ!」
 ゲイリーが黒い光で萱葺を包む。
「報いと言うものを思い知るが良い」
 視野を奪われた萱葺に、千史と羽澄が切り込んだ。間髪おかず、パルシアが縄ひょうを放つ。那流は軌道を変えながら、萱葺に無数の薄い太刀筋を残した。
 反撃の刃はかなり大振りだった。飛び退いた那流の腕を掠め、鮮血が袖に咲いた。雉は那流の背後から傍らに踊り出で、萱葺を睨み付けた。
 萱葺は肩で息をし、崖を背に立ちつくしている。
「雉」
 谷へ――
 那流の唇の動きを見て、雉が頷いた。
 二人は同時に、黒い塊と化した萱葺の懐に飛び込んだ。
 体ごと預けた二本の刃が、深く萱葺の胸を貫く。
 背を丸めて喀血した萱葺の手から、刀が滑り落ちた。切っ先がトッと地面に突き刺さり、やけに緩やかに倒れて行く。
「‥‥俺を、倒してどこへ行く‥‥。もう里へは、戻れんぞ」
 刀を引き抜くと、萱葺は力無く後ずさった。崖まであと数歩。
「あんたがいなくなれば、鳥は自由になれる」
「‥‥自由になどなれん。お前は任務をしくじった」
 黒霧に包まれた萱葺の表情は伺えない。
 だが、ゲイリーは嫌な予感がして叫んだ。
「那流! そやつから離れるんじゃ!」
 那流はすかさず後方へ飛び退いたが、黒い塊から伸びた腕は、雉の胴をしっかりと抱え込んだ。
「!」
「『死をさらすことなかれ』――掟を思い出させてやろう」
 二つの影がもつれあい、グラリと傾いた。
「雉!」
「雉さん!」
 もがく雉に伸ばした、千史と羽澄の指先が宙を掴む。
 飛びつき覗き込んだ崖下から、重い塊が水を打つような音が上がった。
「ポーレット!」
「わかってるわよ、伯父ちゃま!」
 急降下する羽を見つめ、エクリアが首をふる。
「いったいなぜこんなことに‥‥」
「萱葺を甘く見過ぎたのよ! 雉の動きには注意していたのに」
 崖のへりを掴んだ手に力を込め、那流はギュッと目を閉じた。
 あの傷を負って落ちた萱葺は、助からないだろう。仇討ちは遂げたのだ。だが、雉が巻き込まれてしまった。
 立ちすくむ千史の唇から後悔が漏れる。
「ここへ連れてくるべきではなかったのか?」
「でも、それじゃ雉さんの気が済まないよ」
 雉が現れるのを期待して、ソウェイルは必至に水面を見つめた。だが、顔はおろか、布の一枚もあがってこない。
『パルシアさん、なにか見える?』
『‥‥いや‥‥』
 谷底を流れる黒いうねりに目をこらしたあと、パルシアは首を振った。
「鴉さんになんて言ったら良いの‥‥?」
 呟く羽澄の頬に、ポツリと水が落ちる。
 雨だ。一つから二つ、二つから無数へ。大地にシミが出来てゆく。
 舞い戻ったゲイリーの眼差しは暗かった。
「みつからん」
「そんな‥‥」
 愕然とするエクリアの横を通り過ぎ、ポーレットは崖の先端に跪いた。十字を切って手を合わせ、厚い雲の立ちこめる空を見上げる。
「セーラ様‥‥。異国の魂にも、貴女の手を差し伸べてあげてください。そして、どうか――」
 もう一人の、生を、祈る。
 聖女の赤い睫毛に、雨が宿った。