【聖杯戦争】爪痕

■ショートシナリオ


担当:紺野ふずき

対応レベル:1〜5lv

難易度:普通

成功報酬:1 G 62 C

参加人数:8人

サポート参加人数:6人

冒険期間:08月14日〜08月19日

リプレイ公開日:2005年08月31日

●オープニング

 独房に入れられた。
 とは言え、朝晩の食事を与えられ、狭いがベッドもついている。鎖で繋がれることもない。少なくとも、この石壁に覆われた小さな部屋の中では、自由に動きまわることができた。
 敵兵として囚われた身だ。処分されても仕方がないと思っていた。現に主君メレアガンスは、捕縛後、処刑された。同じ末路を辿るのだと言う覚悟もできていた。しかし、そうはならなかった。雑居房に分けられた部下達も、みな不安そうではあるが元気だと言う。
 全ては、円卓の騎士であるロビン・ロクスリーの取り計らいであった。
 傘下に加わるか、否か。例え、後者を選んでも自由を約束されている。
 この戦が終われば、二度と剣を向けぬことを神に誓った上で解放すると言う、王の意向があったからだ。
 だが、トバイアス・シェパードは、迷っていた。
 このまま自由の身となることを選んで良いのだろうか。
「お呼び立てをして、申し訳ございません」
 オクスフォード騎士団、騎士小隊隊長と言う肩書きは、もはや何の意味もない。鎧も剣も取り上げられ、残っているのは騎士としての心だけであった。
 トバイアスは、やってきた騎士に恭しい一礼を添えた。ロビンであった。
「いや。今日こそは、良い知らせを聞かせて貰えるのかな?」
 彼は傍にいた牢番に扉を開けさせると、狭い室内に足を踏み入れた。
 ここは罪人の入る場所だと、何度、諫めても入ってくる。トバイアスは、もうこのことで言葉を発するのを止めた。諦めたのだ。彼が変わり者だと言うことは、戦場でスカウトを受けて以来、十二分にわかったし、扉についた小さな鉄格子を挟んで会話をするよりも、ずっと心が落ち着く気がしたからだ。
「‥‥色々と考えました。いえ――考えさせられました」
 トバイアスは深く息を吐き出し、ロビンを視線から外した。
「私は、オクスフォードの街と民を守ることを、誇りにしていました。そして、部下は主君に抗うべきではないとも」
 主の力が大きくなれば、騎士団の権威も増す。それを喜ぶ仲間もいた。トバイアス自身も気分が高揚し、戦に勝つことを考え、そして、懸命に動いた。誰に牙を向けているのかと言う罪の意識は、徐々に薄れて行った。
 さらけ出した本心に、ロビンは穏やかな面もちを崩さず頷いた。
「欲望に負けてしまうと人は盲目になり、見えていたものが見えなくなってしまう。キミだけに限ったことではないよ」
「しかし、民を泣かせることは、本意ではないんです。私は――その為に叙勲を受けたわけではありません。『公明正大』の前に野心など」
「必要ないとは言い切れない。それが人を大きくすることもある。現に、今のキミにはそれが必要だ。このまま終わらない為にも」
「ロビン卿‥‥」
 トバイアスは顔を上げ、ロビンを見た。僅かだが芽生えた帰従の心が、迷いを退ける。ついていけば、きっと退屈はしないだろう。自由になるよりも、それは魅力に思えた。
「‥‥指示をください。私『たち』に」
「待っていたよ」
 ロビンはそう言って、力強い手をトバイアスの肩にかけた。
「僕はこれから、キミの誇りとしたオクスフォードの街を解放しに行く。残存兵が、まだ多くの民を抱えて立て籠もっているからね。だが、キミに付いてこいと言うのは、さすがに酷だろう。知っている顔に、剣を向けることほど辛いことはない」
「‥‥すみません‥‥」
「謝ることはないさ。キミには僕の代わりに行って貰いたい場所がある。戦禍に巻き込まれ、壊滅状態となった町があるんだ。怪我をした者たちには手当が行き届かず、親を失い泣いている子を、慰め抱き締めてやる手も足りない。家は破壊され、至る所に骸と化したアンデッドが転がっている。食事さえまともに取れる状況ではないだろう。今一度、弱き者たちの力となってくれたまえ」
 戦とは、常に弱者が泣くものだ。人々は、体も心も疲れ果てている。町の建て直しに必要な物資を運び、一刻も早く活気を取り戻すために働くことで罪を償う。そして、現状を知ることで、今後の戒めともなるはずだ。
 トバイアスに異存はなかった。
「ただ、私たちだけでは、できることが限られています」
「それなら、うってつけの者を紹介しよう。誰かを救うことにかけては、彼らほど骨身を惜しまぬ者はいない」
 ロビンの手勢だろうか。
 問うたトバイアスに、ロビンは首を振って笑った。
「キミの心を揺らし、僕にキミとの会話を重ねるチャンスを与えてくれた、冒険者諸君だよ」

●今回の参加者

 ea3642 パステル・ブラウゼ(22歳・♀・バード・シフール・イギリス王国)
 ea5699 カルノ・ラッセル(27歳・♂・ウィザード・シフール・ノルマン王国)
 ea7398 エクリア・マリフェンス(22歳・♀・ウィザード・エルフ・イギリス王国)
 ea9679 イツキ・ロードナイト(34歳・♂・レンジャー・人間・イギリス王国)
 ea9740 イリーナ・リピンスキー(29歳・♀・ナイト・ハーフエルフ・ロシア王国)
 eb2257 パラーリア・ゲラー(29歳・♀・レンジャー・パラ・フランク王国)
 eb2745 リースフィア・エルスリード(24歳・♀・ナイト・人間・フランク王国)
 eb3318 ガン・ホー(57歳・♂・ナイト・ドワーフ・フランク王国)

●サポート参加者

滋藤 柾鷹(ea0858)/ アリシア・シャーウッド(ea2194)/ シーリー・コート(ea8058)/ ポーレット・モラン(ea9589)/ 野乃宮 美凪(eb1859)/ ソウェイル・オシラ(eb2287

●リプレイ本文

 勝利は栄光をもたらすと信じていた。だが、それは陽のあたる者だけが見る幻だった。
 戦火が去った今も、哀しみと苦痛に覆われた人々がいる。勝敗に左右されることはない。祝杯でさえ、家族や財を失った人々を酔わせることはできないのだ。
 騎士たちは自問自答を繰り返した。
 戦とはなにか。
 弱者の存在を忘れた己の、正義はどこにあるのかと――

●失意と迷走
 出立の時間である。
 救済物資を積んだ馬を引き巡らし、平服に身を包んだ騎士たちが歩き出した。その様子を硬い顔で見つめている若者に、リースフィア・エルスリード(eb2745)は声をかけた。
「あなたにお話があるとおっしゃっているのですが、少しよろしいですか?」
「ええ」
 トバイアスは頷き、リースフィアの傍らに佇むガン・ホー(eb3318)へ体ごと顔を向ける。
『騎士崩れのワシが言うのも何じゃがの』
 ガンは言った。だが、その会話はゲルマン語だ。トバイアスには通じない。リースフィアが意味を伝えると、騎士は小さく相槌を打った。
『主君のために戦い、困窮する民に手を差し伸べる。騎士として、貴殿の判断は何一つ間違ってはおらん。胸を張りなされ――と、言ってくれんかの』
「わかりました」
 リースフィアが話している間、トバイアスは神妙な顔つきで、その言葉に耳を傾けていた。
 反論はない。頷きもしない。ただ、戸惑いを隠さずに沈黙する。迷想の途中にいることが、会話を見守っていたイツキ・ロードナイト(ea9679)にも伝わった。
「力の使い方を誤れば、どんなことが起きるのか。もう判っているよね? これから向かう町が、その結果なんだ。大事なのはこの先どうするのか、何の為に、ふたたび剣を取るのか、だよ」
 イツキは一つ一つの言葉をゆっくりとした口調で、諭すように語った。
 敵であったはずのトバイアスたちの行いを、責める者はいない。みな、前へ進めと励ました。それが心苦しいのだろう。トバイアスは冒険者から目を外し、覇気をなくした部下の背を見つめた。
「‥‥今は、現実を見定めたい。そして、進むべき道を得て帰れたらと思います」
「うん。一緒に頑張ろう」
 硬い表情を崩さないトバイアスの肩を、イツキはポンと叩いた。

 溜息が絶えない。
 カルノ・ラッセル(ea5699)が、驢馬の背に落ち着いてから、僅かな時しか経っていない。だが、パステル・ブラウゼ(ea3642)が見た限りでは、ほぼ数十秒ごとに深く息を吐き出していた。
 心の内を明かしたがらないカルノらしく、理由を語ろうとはしなかったが、出立の準備を手伝ったシーリーにも憂いを見抜かれ、激励と共に額をはじかれていた。
「前回のこと、気にしてるの?」
 パステルはその光景を目撃した上で、カルノに問いかけた。
「いえ‥‥、気にしていると言うほどでは」
 カルノは首を振り、微苦笑する。明言はしない。だが、それがなによりの肯定とも取れた。
 二人は、トバイアス軍を捕虜として連れ帰った記憶を、共有していた。もし、彼らを引き込むことに成功していたら、すでに『同志』と呼べたであろう。
 カルノは再び、眼差しを遠くした。
「でも、まるっきり失敗したわけじゃないよね。だって、彼らはちゃんと歩き始めたし」
「‥‥そうですね」
 言葉少なに言って、カルノは頷く。
 前方で揺れるトバイアスの背を、やけに遠く感じていた。

●壊れた町
 実際に目にする町の惨状は酷いものだった。
 焼け焦げた家があり、倒れた骸に閉塞された路地もある。
 人々は教会の中で寄り添うように身を潜め、大人は憔悴し、子供は泣くか、ぐずっていた。
 救援を呼ぼうにも、みな怖くて外に出ることができなかったと、神父は声を震わせた。
「もう大丈夫ですよ。食べ物も薬も持ってきましたから」
 よほど嬉しかったのだろう。神父は目に涙をためて、エクリア・マリフェンス(ea7398)の手を握りしめる。
「神父さん、泣くのは町を生き返らせてからだよ? 仕事はたくさんあるんだから」
 パラーリア・ゲラー(eb2257)が、子供をあやすように優しい口調で言った。神父は頷き、指先で涙を拭う。
「私にも、お手伝いできることはありますか?」
「作業を無駄なく進めるために、被害状況を詳しく教えていただきたいのですが」
 エクリアの問いに神父は首を巡らし、教会の中を見渡した。
 哀しげに見た視線の先に、膝を抱えて泣いている子供がいる。
「町の中の様子は、御覧いただけたでしょうか」
「どこもひどい状態だった」
 話に加わったイリーナ・リピンスキー(ea9740)に顔を向け、神父は声を落とす。
「あそこで泣いている子は、親を亡くしました。子を亡くした親もいます。逃げ遅れた隣人を助けるため、命を落とした者も。みな、町のどこかで倒れているはずですが、五体が揃っているかどうか‥‥」
 イリーナはタロンに仕える騎士である。白の教会に足を踏み入れることに、抵抗がないとは言えなかったが、そうは言っていられない状態だ。
「死者の弔いも行おう。心配しないでいただきたい」
 冒険者たちの相談では、亡骸の一掃に火を用いる予定だった。だが、ジーザスの教えには、死者を火で弔う習慣はない。この方法には、トバイアスが同意を示さなかった。時間と人出はかかるが、死者はやはり土の下へ帰すべきだろう。人員を多く割くことで、話は決まっていた。
「トバイアスさん達の中に、手当の得意な人はいる?」
 イツキは重い荷物を足下におろし、うっすらと滲んだ額の汗を拭った。トバイアスは頷き、数人の部下を呼び寄せる。
「ポーションの数は限られておりますし、復興の要となる方々に、先に使っていただいた方が良いでしょうね」
 エクリアの見事な機転に、神父は感嘆の声をあげた。
「慣れた方と言うのは心強いですね。町の中はこんな状態ですので、なんのおもてなしもできませんが、宿は拠点として、皆さんでご自由にお使いください」
 それが精一杯の気遣いである。パステルは礼を告げたあと、気持ちだけで十分だと、その申し出を断った。
「私たちなら大丈夫。テントを持ってきたから。ベッドは家へ戻れない人や、怪我人に回してあげて」
 人々の顔に、うっすらと赤身が差す。助けが来たのだと言う実感が湧いてきたのだろう。
 教会の入口であがった小さな笑い声に、ガンは目を向けた。
 自らが運び入れた荷物の重さに、カルノが潰されている。それを見た子供達が笑ったのだ。
『さぁ、そろそろ始めるぞ! ワシらがここにいられる時間は限られておる。町を蘇らせるためには、みなの力も必要じゃ!』
 熱く語ったドワーフに、人々の視線が集まる。ガンは力強く頷いた後、リースフィアを振り返った。
「訳すのですね」
「かたじけないのう」
 今度は、トバイアスの顔に微笑が浮かんだ。
 騎士たちの手による積み荷下ろしの作業が始まった。イリーナは比較的元気な女たちに、ほどいた荷物の分配を呼びかける。空腹の子供たちが集まり、直ぐに輪ができた。
 トバイアスはカルノに歩み寄ると、重しとなっている荷を持ち上げた。
「どんな出であろうと、王がこの国を護り、まとめている事実にかわりはないと言ったのは、貴方でしたね」
「ええ。そして、願わくば。このまま同志となる道を選んでいただきたく思っていることも、付け加えさせてください」
 起きあがり、服についた塵を叩く。
 カルノの想いに、トバイアスは目元を緩めた。
「過ちを払拭するほど、認められなければなりません」
「ではまず、子供たちから始めませんか。彼らを連れて、森を散歩しようかと思っているのです。狩りが得意で、子供の好きな方に同行をお願いしたいのですが」
「わかりました。早速、手配いたしましょう」
 ようやく胸のつかえが取れた気がした。
 微笑むカルノの肩を誰かが叩く。振り返ると、パステルが笑っていた。

●再起の力
「踏んだよ!」
「踏んでない!」
「じゃあ、どっちか聞いてみようよ」
 町の一角で歓声がわく。パラーリアと子供達の声だ。みな、影踏みを楽しんでいた。
「今は、踏んでなかったかなー?」
 パラーリアの一声に、子供達は一喜一憂した。釣られて笑うパラーリアの視界の端で、ひょいと覗いた顔がある。二人の若者だ。通りを隔てた横道から、こちらを見ては何事かを話している。パラーリアは子供達に遊んでいるようにと一言告げて、立ち上がった。
「どうしたの?」
「いや、ここは通らずに迂回しようかと話していたんだ」
 彼らは遺体回収にあたっている、騎士たちだった。後ろには、シーツで覆った戸板を引いた馬が控えている。
「う、うーん、そうだね。できれば、見せない方が良いかも」
 怪我をしないようにと瓦礫を取り除き、子供達に遊び場所を作ったのは、パラーリアだ。笑顔が戻りかけているところである。騎士たちもそれを察して気遣ったようだ。
「それでは、迂回しよう」
 頷き合って、今きた道へと馬首を巡らした。
「おねーちゃん、まだー?」
 子供達が呼んでいる。
「今、行くよー」
 パラーリアは駆け足で戻っていった。

 言葉の壁は大きい。
 だが、技術と言うものは言葉ではなく、目で見て覚えるものだ。
 家屋の修繕に必要な道具から農具、調理器具にいたるまで、錆び付き壊れた金属が、ガンの目の前に集められた。
『説明するより、やった方が早いじゃろ』
 ガンは子供達を補佐に据え、仕事に取りかかる。腕前などは期待していない。作業が遅れる原因となっても良い。肝心なのは、自分たちが町の復興に携わっているのだと言う意識であった。
 だから、ガンは気長に構え、通じないながらも穏やかな口調で、鍛冶の仕方を教えてゆく。

 穴を掘り、そして、また埋める。
 華奢なリースフィアでなくても、その仕事は重労働だ。土を盛る騎士たちの顔には、汗が滴っていた。トバイアスも寡黙なまま、作業に当たっている。
 ガラン、と音がしてリースフィアは振り返った。
 一人の騎士が、不満ありげな顔でスコップを投げ捨てたのだ。
「どうした」
 トバイアスの問いに、騎士はふてくされた顔を向けた。
「何故、我々がこんなことを?」
 呆れたように息を吐く。トバイアスが開こうとした口を、リースフィアが遮った。
「臭いはきついし、汚いし、こんなことをするのは、誰だって嫌です。でも、私たちがやらなかったら、誰がやるのですか? 力なき者のために尽くせずに、騎士と言えますか? 敗者ゆえの苦役と考えているのなら、やめてくださって結構です」
 騎士はリースフィアに睨みをきかせ、舌打ちした。渋々、スコップを拾い上げたが、その動作は緩慢で遅い。
 トバイアスは、リースフィアにだけ聞こえるように言った。
「あれは貴族の出で、隊の誰よりも気位が高い。もしかしたら、離れてゆくかもしれません」
「そうですか。でも、あの態度は、騎士の教えに背く振る舞いです」
「ええ‥‥」
 本当に――
 自分にも思い当たることがあったのだろう。顔をあげたリースフィアの前で、トバイアスは苦痛を滲ませた。

 町から出た子供達は、初めこそおどおどとしていたものの、徐々に狩りや薬草採取と言った作業に没頭していった。
「これ、食べられる?」
「大丈夫ですよ。帰ったら、早速、調理していただきましょうね」
 頬を紅潮させて喜ぶ子供達に、エクリアは微笑する。手元の籠には木の実や薬草など、かなりの量を収穫できた。
「これでどうかなぁ」
 森の奥から現れたイツキの手には、まるまると太ったウサギが提げられていた。鹿を吊した大木を担いだ弓兵が、あとに続く。
 カルノが獣の気配を辿り、イツキたちが弓を射った。その成果は上々であった。
「すごーい! これ、お兄さんたちが獲ったの?」
「ここにいる弓師の皆さんは、腕がとても良いのですよ」
 駆け寄る子供達の頭を撫で、カルノが微笑む。
「今日の夕食は盛大に行きましょう。お腹を満たせば、それだけで幸せな気持ちになれますから」
 大騒ぎする子供達に揉まれながら、イツキも弓兵も照れくさそうな顔を見合わせた。

●廻る世界
『春の来ない冬は無く、明けぬ夜もない。今日もまた日は昇る――』
 ポロンポロリと弦を鳴らし、パステルは歌い続ける。その声は心を揺らし、疲労していた町民たちを立ち上がらせた。怪我のない者は作業に加わり、他人を労る余裕さえできた。
 荒んでいた教会の中の空気が、浄化されてゆくようだった。
「熱いので、気をつけて」
 イリーナは配給に追われた。制服の袖が落ちてくるたびに、まくりなおす。
 暖かい湯気の立つ皿を受け取った老人から、幾度も頭を下げられた。切なさや戸惑いを感じるほどの深い感謝だった。
 食事のない者がいないかどうかを確認するイリーナの目が、泣きやまぬ赤子に吸い寄せられた。
 パステルも気になっていたのか、歌を止め、籠に近づいた。
 赤子は、両親を亡くしていた。泣き疲れては眠り、起きてはまた泣く。空腹が満たされても、心まで満たされることはない。その腕は温もりを求めて彷徨った。
 二人は、顔を見合わせた。ガンやトバイアスたちも集まってくる。
「母が恋しいのだな」
 イリーナは、真っ赤な顔で号泣する赤子を抱き上げた。
「子守歌を歌うね」
 パステルが赤子のために歌を奏でる。
 やがて、すやすやと子は寝息を立て始めた。
 戦がなければ、親を失うこともなかっただろう。この先に続く道は、辛いものとなるに違いない。
 イリーナは胸の子の頬を一撫でした。
「トバイアス殿。この無垢な笑顔を護り抜くのは、騎士の役目ではないか?」
 ぎこちない腕にそっと赤子を手渡す。トバイアスの一挙一動を、部下である騎士たちはじっと見守った。
 トバイアスは子を見下ろし、ポツリと呟いた。
「今頃、オクスフォードの人々も、泣いているのでしょうね‥‥」
「オクスフォードだけじゃなかろう。戦に巻き込まれ、大切なものを失った人々は、みな泣いておる」
 ガンはそれ以上、言葉を接がなかった。
 長い沈黙の末、トバイアスは部下たちへ顔を向けた。
「‥‥ロクスリー卿の指揮下に降ることを、不服とする者はいないか。去りたい者は牢に戻り、指示を待て。もう二度と王に抗わぬと神誓すれば、自由になれる」
 騎士たちは身じろぎもせず、立ちつくしていた。ただ一人を覗いては。
 踵を返す騎士を見送り、リースフィアが言った。
「やっぱり、駄目でしたね」
「この惨状を見て、過ちに気づかぬ者は必要ありません」
 トバイアスは静かに頷き、他の反応を待った。
「隊長についていきます」
 一人の発言を皮切りに、次々に声があがる。トバイアスは安堵したように破顔した。
「攻めるためではなく、護るための剣に戻そう。応えなければ。必要としてくれる人々の為にも」
「良かった。帰りは仲間として、キャメロットへ戻れますね」
 差し出したシフールの手を、騎士はしっかりと握りしめた。