●リプレイ本文
生きていた頃の面影はない。
白く濁った目は、何も映しはしない。
山はどこにもいなかった。
●江戸帰郷路
その昔。
家にいた黒犬は、里見夏沙(ea2700)にとって大事な家族であった。ある時、犬は病に倒れ、夏沙は犬から引き離された。そして、再び生きた眼差しを見る事はなかった。
居てくれて有り難うと、感謝の言葉も告げていない。
深い後悔を残した別れを味わうと、人は臆病になる事がある。
同じ悲しみを背負いたくない一心で、わざと遠ざかろうとする。
「俺は、もう二度と犬は飼わねぇ。気紛れな猫の方が性にあってる」
志士は、そう言った後に片笑んだ。
苦い強がりである。
●三日前
江戸を離れた一行は、稲穂に囲まれた街道を急いでいた。真っ直ぐ平坦で見通しが良い。右前方に小さな村落が見えた。後ろに山並が棚引いている。
「あれが、私の村です」
時平は指さし、そう言った。
街道は村には交わらず、道を一つ右に折れなければならない。色褪せた朱塗りの鳥居を抱えた雑木林の手前に、その入口があった。
村が近づくにつれ、時平の顔に苦痛の色が増す。
「‥‥何故、こんな事に‥‥」
足の運びに落とした目。
貴藤緋狩(ea2319)と朱鷺宮朱緋(ea4530)は顔を見合わせると歩を緩め、憂いに沈む横顔を挟んだ。
「村人を怖がらせてるのも、あんたを悲しませてるのも、山の意志じゃない。俺達は冒険者として、死人憑きを倒す。だから、あんたは‥‥山の魂を解放してやろうな」
「時平様も哀しゅう御座いましょうが、山も同じ気持ちかと思います。一刻も早く、静かな眠りへと導きましょう」
時平は揺れる瞳をあげ、村を見つめた。
「ええ‥‥」
と、呟いたその声は震えている。
道は林の分岐にさしかかった。
そもそも何故、山は死人憑きとなってしまったのか。死に切れぬ未練を作った原因は、どこにあるのだろう。
(「時平殿が何か知っているかもしれぬが、今はまだ、問うべきではないか。落ち着いた頃に、聞いてみると致そう」)
滋藤柾鷹(ea0858)は時平の背から、近くなった山並へ目をやった。
鴉がやけに目立つ。村の上空を滑っては、ハラリと舞い降り、やがて飛び立ってゆく。彷徨う死肉と死臭を嗅ぎつけて、集まっているのかもしれない。
時平が息を飲み立ち止まった。真後ろにいた、霧生壱加(ea4063)が足止めを喰らう。
「時平さん?」
ただならぬ気配に紅月椛(ea4361)が振り返ると、時平の顔は真っ白であった。思い詰めた様子で、一点を凝視している。その視線は椛を飛び越え、背後の林に向けられていた。
赤い鳥居が目に入る。だが、それだけである。何もない。
椛が顔を戻すと、時平は村を見つめていた。
次の瞬間。
時平の足が地を蹴った。柾鷹と緋狩が押さえ込み、白鳥氷華(ea0257)が袖を掴む。燎狩都胡(ea4599)も夏沙も壁となって、時平の前に立ち塞がった。
「何をする気でござる」
「落ち着け! 時平殿」
「行かせてください! 山を‥‥山を早く‥‥!」
「早まるな!」
場は騒然と入り乱れた。
皆、必死になって、もがく時平を引き留める。
時平は泣いた。
真っ直ぐに伸ばした手は、友に遙か遠い。
●魂無き
鴉のいる場所に、死人憑きがいる。
壱加と椛は、空と仲間の合図を気にしつつ、大人が両手を広げると、向かい合った壁に指先が届いてしまうような狭い路地に、足止めの為の罠を張り始めた。
時平の家から遠く、戦いの音も極力遠ざける事ができる場所を選んだ。
「役に立てるなら、なんでも使って良いよ」
「ありがとう。壊したりしないから」
壱加は格子窓越しに村人との話を終えると、路地にあった水瓶に手をかけた。椛と二人、力を込める。なみなみと水を湛えた丸瓶は重い。
「私もお手伝いいたしましょう」
往来を気にしていた朱緋が、横笛を懐の合わせに戻して加わった。
戸板の調達には氷華が回った。どこかの家に立てかけてあっただろう。ボロ板を見つけてくると、それをテキパキと設置した。自分の仕事が済むと、直ぐに水瓶の移動を手伝う。
やや強引な運びに、水瓶がひっくり返りそうになった。これには椛が注意を促したほどだ。
「焦っては、なりません。急いでいる時こそ、慎重に、ならなければ」
氷華はキッと椛を見た。
「山が恨まれ疎まれる事は、依頼人にとって深い傷となる。鴉が鳴く度に、死人憑きとなった山を嘆き悲しんでいるのだ。それを1分1秒でも早く止めたい」
声は冷静であったが、その瞳から落ちる雫を椛は見た。壱加も朱緋も顔を見合わせる。誰も咎めはしていないのに、氷華は慌ててそれを拭った。
「汗が目に入っただけだ」
朱緋は苦笑して、瓶を押す手に力を込める。
「山と時平様の為に急ぎましょう」
危険を知らせる合図は聞こえない。
戸板と水瓶を使って袋小路を作るだけの、簡単な仕掛けではあったが、人間には簡単に飛び越えられるものも、死人憑きの山には難しいだろう。
四人は罠を張り終えた。
「時平さん」
俯いていた時平は、都胡の声に顔を上げた。両の手を組み合わせ、白くなるほどしっかりと握りしめている。
「あのね? 辛いこと聞くから。ごめんなさい。時平さんは、山ちゃんの最後、見届けたげる? 死んじゃったこには、何の罪もなくても、死人憑きになっちゃったから‥‥時平さんには辛いことするん‥‥」
「私はここで待っています。それに、全て承知の上で、皆さんに来ていただきましたから‥‥」
時平は寂しげに笑う。都胡はそれをじっと見守った。
「‥‥時平さんが望むなら、終わるまで寝てても良いよ? みゃあこが術をかけてあげるから」
耳を傾けていた体勢から、時平は天井を仰いだ。
「そうして貰おうかな‥‥」
溜息にも似た、言葉が漏れる。
「うん。それじゃあ、夏沙さん。みゃあこ達も皆のところに行こう」
草鞋を履き、戸の外へ出る都胡。夏沙は、もたれかかっていた柱から身を離すと、時平の元へ歩み寄った。
「道中に、あんたから聞いた山との思い出話は、木簡に記した」
そう言って手を差し伸べる。時平の手がそれにきつく重なった。
「直ぐに済むから待っててね‥‥」
都胡は夏沙が外に出ると、少しだけ開いた戸の内側に腕を伸ばした。眠りの香が放たれる。
「少し騒がしくなるが、終わるまで絶対に外へは出ぬよう」
「わかった。早いところ、『アレ』をどうにかしてくれ」
柾鷹は木戸を挟んで、村人に冒険者が来たことを告げて歩いた。皆、怯えながらも、どこかホッとしたようだ。
鴉は相変わらず、頭上を飛び交っている。
柾鷹の直ぐ上にも一羽、スーイと黒い鳥がやってきた。
異様な気配がした。
柾鷹は覇気を集めて刀に乗せ、自らもそれを纏った。
草履と、何かを引きずるような二つの足音がした。
「柾鷹様」
背後からやってきた朱緋を振り返りもせず、柾鷹は前方を睨み付ける。
「‥‥そのまま。拙者の後ろに」
鴉がまた一羽、屋根にとまった。
「‥‥わかりました。罠は整っています」
生者の匂いに引きつけられたのか。
辻の左方に、赤い毛がちらりと見えた。
「村を見渡せる場所があればな‥‥」
罠はもう張り終えたのだろうか。
山のいる場所は、鴉で見当がつく。戦う準備は整っているのだが、皆がちりぢりでは連携が取れない。
緋狩はまとめた息を吐き出すと、腕を腰にあてがった。
と、突然、静けさをつんざいて、笛の音が響く。
「始まったか!」
緋狩は言うが早いか駆けだしていた。
柾鷹と朱緋が対峙した相手は、地獄絵図から抜け出したような恐ろしい姿をしていた。
舌はダラリと垂れ下がり、白濁した目は焦点があっていない。側頭部の毛が血で固まり逆立っていた。微かな腐敗臭が鼻をつく。腹には無惨な爪痕があった。深く抉られ、掻き裂かれている。零れた臓物のほとんどは、地面を引きずるうちに失ってしまったのだろう。紐のような物が僅かに下がるだけであった。
「これに近寄ったのでござるか」
「‥‥生前の山を知っていたからでしょう」
食われた幼子は二つであった。分別がつかなかったのだろう。
あまりの姿に、柾鷹と朱緋の眉根が寄った。
「山! こっち!」
駆けつけた壱加は割茶碗を手に、山の名を呼んだ。
山は壱加を振り返った。だが、それは恐らく死人憑きの本能だろう。何も映らない目が、壱加を追いかける。
壱加は山を罠へと誘導した。
山の歩みは遅かった。右前足が折れていたからだ。
「ひどいな‥‥」
到着した緋狩が、思わず絶句して立ち止まる。夏沙と都胡が、緋狩に追いついた。皆、山を見て言葉を無くす。
「時平さん、寝かせてきて良かった」
「いつまでも、んな辛気臭ぇ事、だらだらやってる場合じゃねぇだろ。早く終わらせて帰ろうぜ」
言葉とは逆の悲壮な表情。夏沙は木簡を手に走り出す。
罠を仕掛けた路地に駆け込み、壱加は戸板を飛び越えた。
一歩、遅れてやってきた山は、横道に入る手前で立ち止まった。一瞬だが、壱加を見失ったようだ。
だが、ここまで連れてくれば、時平の家も遠い。
抜刀する。幾つかの太刀筋が光った。
かわす術を知らない死人憑きの体が、どさりと地面にくずおれる。
夏沙は片膝をつき、山を見下ろした。
もう、唸る事しかできない。木簡を体の上に添え、額を、背を強く撫でた。時平と握手を交わして来た手で。
山の体がくすぶり出す。炎が舞い上がった。
(「迷うな、真っ直ぐ逝け。時平の思いを抱いて。優しい山の記憶のままに」)
内の呟きを外に出す事はない。
朱緋がそっと手を合わせた。
鴉が飛び立ち、炎はやがて煙となる。
「山が生きた証は、ここに入れておくからね‥‥」
壱加は、抜け落ちた牙を一つ拾い上げ、それを小さな袋に納めた。
●想い出のすまう処
幼子の命を奪った以上、村の中に山を眠らせる事は出来なかった。
時平は、鳥居の脇に山を帰した。
子犬の山と出逢った場所であった。
あの時、時平が見ていたのは、小さな山の姿であったのかもしれない。
不本意であろうその別れを気遣い、椛は言葉を尽くす。
「子供を襲ったのは、死人憑き。時平殿の山では、ありません。時平殿と暮らしていた山が、本当の山なのです。時平殿に責められては、山も悲しいでしょう」
あれから、夏沙は口を利かなくなった。今も、輪の最後列で目を反らし気味に黙り込んでいる。
声をかけない方が良い事もある。
「死人憑きになるほどの無念があったんだな」
緋狩は見て見ぬふりをした。
「きっと、こんな姿になっても、ご主人の元に帰りたかったんだろう」
盛った土の上に置かれた割れ茶碗に目を落とし、氷華が言う。
遠い寒国を思う。そして、ある人の姿を。
(「私もかくありたいものだ」)
死してなお、主人の傍に居られる山が、氷華は羨ましかった。
朱緋の準える浄化の経が、澄んだ声に乗る。
皆、同じ気持ちで祈りを捧げた。
「そうだ‥‥これを‥‥」
花を手向ける柾鷹と都胡を見ていた壱加は、思い出したように小さな巾着を差し出した。
「お守りなの‥‥。いつも、山と一緒にいられるように‥‥」
裁縫の苦戦が残る指先を見下ろす時平に、壱加は苦笑を浮かべる。牙一つ。時平はぎゅっとそれを胸に抱きしめた。
「山の魂は輪廻転生の輪に御座います。何時の日か必ず、新たな命を受け、時平様の元へ帰ってくると信じましょう」
割れ茶碗に、柄杓の水を注ぎ入れる。
たった一言呟いた時平の言葉に、夏沙は目を細めた。
「‥‥お帰り‥‥山」
別離でも、叱咤遺恨でも無いそれが、友に向けた最後の言葉であった。
●残痕
「山の傷を、見ましたか‥‥?」
椛の視界は、柾鷹の広い背中で埋まっていた。裏山の野道は狭く、人が一人通ればいっぱいになる。
先を行く柾鷹は頷きながら、暗い森の奥へ目をやった。あまり人が立ち入らないのか、裏山は荒れた感じが漂っていた。
「大きな掻き傷でござった。あれは恐らく‥‥」
時平の話では、山は時折、この場所に訪れていたと言う。死に至るまでの深手を負うとすれば、この裏山しかないだろう。
柾鷹が探しているのは、山の腹を抉った『爪』の持ち主であった。
「‥‥あれは何だ?」
氷華が樹木の一つを指さした。大きなブナの木だ。
柾鷹が手を伸ばして届く位置に、山の腹に見たものと同じ傷がついていた。
「やはり、『熊』――」
氷華の手が柄に伸びた。
「どうする。行くのか?」
「皆を、呼んで来ましょう」
柾鷹の目が厳しさを増した。氷華と椛は、その表情から強敵だと言うことを知る。
「行きずりで倒せる相手ではござらん。熊が近くまで下りてきた事を、村人に伝えておかねばなるまい。新たな犠牲が出なければ良いが‥‥」
確認の取れた事を良しとし、三人は爪痕に背を向ける。
鴉が鳴いた。