●リプレイ本文
骨頂をきわめた高潮が落ちゆく、底辺との、そのはざま。青と灰との乱反射。紗綾に散り乱れる雨滴が、磯波の険にはかなく絶える。音は、ない。とどろく高潮の犬歯が雨脚のきしみをそっくり噛みくだく、蒼茫からせりあがる、百年働きどおしの心棒のがたつくような険悪。
「降ってきたな」
キサラ・ブレンファード(ea5796)がぼんやりと高層をふりあおげば、液状の天、霞む視界にさすらって――そんな霊感はたしかにあった。瀧だの雨だの、近頃、なにかと水に縁が多い、虫の知らせというヤツはときにいらぬ世話を焼きすぎる。伊能惣右衛門(eb1865)もキサラを真似て、どこか眩しそうに、ぎっしり詰め合う本曇りへ目を掛けるが、籾米のようなかたちの眼に憂いはあっても、いぶかりの気配は掃かれておらぬ。
「もう七月だというのに、冷えますなぁ‥‥」
「これがジャパンの夏のふつうってわけじゃねぇよな?」
クロウ・ブラックフェザー(ea2562)、瘧でもおかしたようにぶるぶると戦慄のわき出すのを両腕で結わえているけれども、クロウ、なかんずく寒がり屋というわけでもないし、郷里のイギリスの夏はこれよりずんと冷えることとて多い、だから尚更ジャパンの海にはわくわくと心跳ねる思いがあったのに――いや、むろん黒虎部隊の隊士としての果敢にあふれてここまで来たのも真実だけど――水をやりすぎた朝顔のようにぐったりして、柱があればもたれたい。
「小源太、寒くねぇか?」
と、忍犬ぎゅぅと引き寄せるけど、肌に粟を生ずるのはむろん毛皮のないほうで。小源太がぺろり、ぺろり、と、頬を舐め回すたび、汲めども尽きせぬ安堵の泉。
惣右衛門が依頼者にあたる集落で聞き出してきたところ、海坊主の出る前はだいたいこんなだという。
――それ、は岸辺に人を並べるといつのまにやらやってくる。雨の降り出して四半刻も経てば、ぬぅっと姿をあらわし、供物をつかんで去る。まともな交渉をもったことはないから、どこまで解釈できるものかは不明だが、呼びかけにふりかえるくらいはしていた。普段の刃が突っ切るかどうかは――はて、それは。武器といえば銛や釣り鉤の、寒村だ。天衝く槍へ蟷螂の斧で食い付くような、そこまでの豪傑はここいらにはおらなかったよう。
「水底にて分を守っておれば、化生とはいえこのような仕儀にはなりませぬでしょうに」
独言か或いは同情か。惣右衛門の、海坊主と村人と、どちらへ水先を向けたともしれぬしれぬ説法は、しかし、はなはだ相槌を買った。
ウィザード、魔法功者たるフィーナ・ウィンスレット(ea5556)には、ひたひたした繊維質のようなのがどこから来るか、なんとなく見当といえるのがある。
海坊主は、水の魔法をつかうという。――レインコントロールか。そのほうが効率のいい場合が多いだけで、魔法発動のきっかけは互いの姿を見かけたあとでなければいけない、というしきたりは別段ないのだ。
「考えますね」
とりたてて防具らしい防具をまとっていない彼女の身にも、汐の多い水気がどんどん沁みゆき、囲っておいた気怠さが追っ付け浮揚しかける。かててくわえて、こうして「そこ」へ立ち通してみて、初めて分かることもある。
荷だ。
この地形では、平地での戦闘のように包みをいいかげんに投げ出せば、洗いざらい波にもってかれてしまうだろう。だから、鳥獣らとおなじように――理瞳(eb2488)が猫のねこ――ややこしい――を依頼の村落へあずけたように、荷もそこへ置いておいたほうがよさそうだ。
「ユックリ遊ンデナサイ」
「あたしもそうしよう、喧嘩しちゃダメだよ?」
便乗、空漸司影華(ea4183)も、凛華を放す。気随な二匹は互いを意識しあいながら、猫族の本能を全うせんと、どこだかの板屋をめざしていった。
話を元へと戻す。――ところがフィーナは、いざというときのためのソルフの実、すべて行李に詰めておいた。これでは自在に掻い出せぬ、しかたがないので隠しにいちおう一つだけをしのばせたが、一つだけという制限は彼女の心に雨によく似た気圧の質量、ずしりと被い被られる心持ち。フィーナしみじみ、これは別を思い遣って、長い長い嘆息。まだまだ仔猫のマーチンもねこらといっしょにしてしまったが、仲良くやっているだろうか? 少々人見知りなところのある彼女は、あるかどうかも分からぬ猫見知りを案じていた。
「平気であろう」
とは李飛(ea4331)、といってもそれはフィーナらに呈する気慰みではなく、むしろ彼自身を叱咤する圧倒にちかい。他の冒険者らが銘々岩礁の物陰にひそみ海上を窺う中、彼はただひとり、碇のようにいかめしい体躯をぐるぐると綱でもやい、荒磯のとっぱなにどっかと臥せっている。そのかたわらにキサラの獲ってきたばかりの兎が温かい血を裾に引きながら、玉砂利のように積み上げられる。それらはざっと見、しとど濡れてしょんぼらしているようでもあったが、周縁を圧する生命の威容はさほどついえたふうもなく、蒸気へ転じながらぎらぎらしていた。
「‥‥生贄ラシクナイデスネ」
蛇ノ毒デモ射シテオケバヨカッタデスネ、と、瞳、開け放しの金茶の裏側、人知れず思索にふける、ナンナラ今カラデモ、と、右の鉤爪、ためしに飛沫へついっとすべらせたところへ――‥‥、
「来たよ!」
影華の教唆が、矢羽根のよう、先鋭に走る。
心を見抜くがごとく、影華の、精彩を帯びてひらめく活眼は、水平のあなたの心許りの円を目端にとらえていた。のっぺらぼうのようだった影法師がのろのろと育ち、弩級の目鼻立ちへと実るのを、影華、息を詰め、つぶさに見張る。
「なんとか‥‥戦いやすい場所に引き寄せないと」
まだ、遠い。まだ、もうすこし。まだ‥‥辛抱だ。
頼んだよ? 汀線、文字通りの、海と陸と、生きると死ぬと――そういうところで身一つに遺される飛へ、内懐においてのみ呼びかける。影華の佩く、霞の刀の銀の肌で、雨は微塵の霞とけぶる。
裸樹となったこころで硬く目を綴じているから、近辺の具象はつかめない。が、打ち寄せる獣脂のような気色は栗色の素膚をうがち、臓腑を焦がし、脊柱を灼く――野性と経験が拒め、と哮り、したがう飛が爆ぜた寸時、海坊主は彼のまぎわに凶器の上腕を突き落とす。それを身一つで逃れれば、しどけなく縄がほどけて、流れる、その真中に堆石のように途方を打ち捨て、突っ立つ、飛。
「妖怪風情が‥‥この俺が退治してくれるわ!」
海坊主が了解したかどうかは定かではなかったが意義は通じたようで、食への強欲が獰猛な殺意に塗られたのを、天井よりもはるかな位置でぬらぬらと照る瞳で、知る。思うどおりの二度めの打擲を、半身をねじって振り切る――上っ面を線とながれる肉厚の疾風――このまま逃げられぬこともない、だが、確実とも言い切れぬ。
飛は退避の慣性をそのままに、陸上をたくみに逸散する。波をはたき、虚空をのぞみ、飛沫を割って漂着する。しかし、新たな地に新たな安寧はなく、先ほどと大して変容のみられぬ殴打を寸手で避ける、ことさら飾り気ばかりを先立たせた武道を爪痕とのこし、飛はまた跳躍する。渡り鳥のように、ひら、ひらり。だが、所詮鳥でない飛にとっては着地をえりぬけるほど足掛かりとなる場は多くなく、最後の到達の手前、紙一重にはやく海坊主の痛打が其の場をさらおうと――できなかった。
ぴ、いん、と、張る打々、連続する、
二、矢、
「そこまでだぜ!」
クロウのふるわす弓弦は、清んだ残響を雨中に投げる。それとはずいぶん離れた位置で、キサラ、ずいぶんつまらなさげに重藤弓――ジャパンの将たるをあかし弓箭――をずいぶんと退屈げに、くるりと引き回す。
「しかたがないといえば、しかたがないが‥‥。もうすこし引き付けたかったな」
同感デス、と、瞳、これは心中のみ。執心よりはいくばくか海側ににじる戦線――打ッテオクベキデシタネ、との意思は秘める。やちだもめざす雪虫のように、ぱらぱらと、それぞれから身を乗り出す冒険者ら。なかでいっとう一心に駆けるは、影華、影は名よりもなお鮮やか、赤い流線をひるがえし、技はいっそう鮮麗たる。
「やあぁっ!」
輝閃衝――突進が基幹の得意の大技は、段差がほとんどの地理ではもちえない。ならば、と、右の長差し、左の短物、活殺自在に撫でる、払う、斬る。
「空漸司流暗殺剣‥‥閃空斬!」
体ごとの重みを浴びる剣は、ずぶりと水以外をしぶかせる。
「いいぞ!」
剣のみだす亀裂を縫って、クロウの第二矢、ひょぅと海坊主へ撃ち込まれる。
が、
「‥‥あれ?」
それは人ならばたしかに急所たりうる眉間へ、たぐられるようにして撃たれる。だが、先刻の遮二無二の一射とどうも、なにも変わらないようなのだ、海坊主はなんともびくつかない、たしかにありったけの技巧を乗せたというのに。クロウの焦躁はじき、フィーナへ伝染する。
「もしかして」
フィーナは集う風をたちまち織りあげる、刃と成すのを前方へと影華のうしろから押し出す、魔の凶器は務めを果たさんと、のぼせて海坊主へ組み付いた。――しかし。弱められた気味もない、まして抗されもせず、だのに、フィーナの虚ろの鎌は、海坊主の赤肌にさほどの切れ味もなく、まるで悪童の戯れ書きのように、稚拙な一条を引くにとどまった。
「‥‥クロウさん。それ、魔法の防御が厚いと意味がないのじゃありませんでした?」
そんなのありかよっ――と、クロウは嘆くが、それを小耳にはさむキサラの鉄面皮が、にぃ、と、上方へ吊り上がる。
「おもしろい」
灌木を相手どるよりよっぽどやりがいがある。キサラ、十二神刀元重――聖性を彫刻する刀へ持ち替える。
「正直、雨に弓矢じゃたるくてな‥‥。力不足かもしれんが、やれるだけやらせてもらおう。伊能のじいさん、どうだ?」
「さすがに大きなお方は、意地が張って、なかなか上手くいきませぬ」
「じゃあ、時間を稼いでくるよ!」
キサラは、飛ばぬ。獣を追う際は、地面に踵をするりと這わせるその要領で、攻撃をのけるのへ忙しい海坊主へ近付いた。
瞳は、飛ぶ。躍る。影華のかっと振り下ろす一撃の頂点すらをしのいで翅虫がごとく、上へ、上へ、羽根とはばたくのは銀色のかだましい爪牙。そして、左の分銅は滑空の支点。影華の剣筋と繰り替えながら。
冒険者らの狭間をふさぐ連撃のまえ、海坊主は呪文をつむぐいとまも足りず、駄々をこねるようにひたすら小手を打ち振る程度だ。遅い、武道の創造をのぞむ飛にとってはあまりに愚鈍の吶喊、しかしそれを無邪気とあらわすには、彼は戦いを知りすぎている。――その一撃ですら、ときに致命となりうることを、知るよりも先回って悟る。
薬水を喉に押し込み、彼は重ねて海坊主の背後へまわった。交わしそこねて合点した、命と引き替えの肉弾は勇猛ではなく無謀、ならば、全力をここに籠めるのみ。
「我が奥義を食らうがよい‥‥」
十二形意拳・寅の奥義、
爆虎掌、
猛虎のさかるような気合いをはみ、牙と化した空拳を、手近なところへたたき付ける。ぐぅ、と、海坊主が低く唸るが、まだ軽い。が、その、霹靂を擬する声音に猜疑がやどった。目玉だけをぎょろりとめぐらせてようやく辿る――惣右衛門の手首からじゃらりと枝垂れる数珠の一連。
「おぉ、やっと不動明王さまのお許しがでましたか‥‥」
「さぁね。じいさんの本気じゃないのか?」
駆け上がった岩のてっぺんから、白を黒に、天を地に、清濁を一新する八相。キサラ、海坊主の首筋めがけて破裂する。
偽りのような晴天だった。からりと夏らしく縹色が広がるかと思いきや、西、水面からほのぼのたちあがる茄子紺がゆらめく――知らぬまに夕闇がすぐそこまで忍び寄っていた。クロウ、それまでの剣劇も忘れて風情にほぅっと目を留める。
「へぇ。きれいだな」
――俺はあれを守れたかな、と、己に問う。黒虎部隊って京の平和を守るのが任務で、あれ、でも京って海ないじゃん。まぁ、たしかに。出張がないことはないが、海はより其の筋にゆずったほうが確実で、少なくとも山育ちの彼がじきじき指名されることはあんまりないかもしれない。
「‥‥ま、いいや」
きれいだし。
それだけで割り切れないのも事実だけども。フィーナ、つくづくと悔いる。彼女とて古式ゆかしい煙景に心蕩かすのは嫌いではない、が、そこにはだかる闇色の阻害。
「逃げられちゃいましたね」
海坊主は彼等の想定よりはるかに重厚であり、一撃の必殺よりは手数を重んじた打ち合いでは、息の根を止めるまで、あべこべに手間を要した。クロウ、急いでマジカルエプタイトの経文で吃水を引き下げてはみたが、海坊主、素の地肌がまったくいけないというわけではないのだ。しりぞく海坊主へすがるほどの気力も、冒険者らにももはやなく。それと分かるほどの痛打は食らわせられたらしいが――黒々と墨をあざむき海底をたなびくあれが血ならば――鱶が白い腹をみせて、あとに残る。これらはやがて、海の返るのとともに退いてゆくのだろうけど。小源太が今にも跳びかかりたがっているのを、どうどう、もういいんだ、と、クロウは手なずける。
「すみませぬなぁ‥‥。わたくしがもっと頑丈に縛り上げればよろしかったのでしょうが」
おなじ坊主といえど、なかなか通じませぬでなぁ。飄々とおどけた語調ではあるのだが心底悔やんでいるらしい惣右衛門に、キサラはゆるりとかぶりをふる。
「‥‥あれだ。年寄りの冷や水を浴びせるなという奴だ」
大いにまちがっているはずなのだが、何故かしら、生粋のジャパン人である惣右衛門、目を細めて、冷や水ですか、そうですなぁ今日は芯まで冷えました、などと、応じ、其の場は惣右衛門の白首のごとくまるくおさまるのである。しかし、これでからっきし終わったわけではない。
「迎エニ行キマショウカ」
「何を」
「ねこデス」
「あ、ほんとだ。あたしも、」
「では、俺はここで見張りを続ける」
どうしてだか、やたらに、きぱ、と、言い切る飛を、影華は怪訝に見やる。
「そんなの、いいって。もし海坊主が戻ってきたとしても、疲れてたら戦えないでしょ。村で一休みさせてもらおうよ」
それは影華の優しさだったのだ、おそらくは。飛の顔色が海より冷たい青になったのを、遠慮深いんだからなぁ、と力尽くで村へと引っ提げる。飛が首のもげるいきおいでかたくなに断りをつづける理由など考えず、実力行使をおこなう、それはたしかに優しさだった。またたきを知らない瞳が、ぱちくり、と一度きりまぶたを開閉する。拍手の代償――彼女はすでに了承していたから、これから気付ける番外の畏怖のため。
飛は猫や仔猫が大の苦手、で、
ぎゃああ、と、海坊主の苦悶すらかなわぬ阿鼻叫喚が、夕闇のにじむ海中をつんざいた。
その後、海坊主の影がふたたびこの海岸にさすことはなかったという。