黒虎添翼/泣き鬼
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■ショートシナリオ
担当:紺一詠
対応レベル:10〜16lv
難易度:やや難
成功報酬:5 G 81 C
参加人数:8人
サポート参加人数:2人
冒険期間:08月02日〜08月07日
リプレイ公開日:2006年08月11日
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●オープニング
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川をわたり野を抜け山を分け入り――狼とて近付きたがらない寂しいところ、いつみかぎられたともしれぬ山奥の廃寺、そこをかりそめの宿にして、月の満ち欠けはもうひとめぐり以上した。このごろの私はなかなか熱がとれず、ごろごろしてばかりいる。ほんとうはこれくらい、どうってことない、かえって体を動かしたほうが具合のいいくらいだ。しかし、妹が許してくれやしない。寝なきゃ病気はなおらないといって、私の床払いをまったく聞き入れない。
そんなふうな憐憫も憂慮もいっさいがっさいムダだっていうのに。どんなに手を伸ばしても月のかけらを手に入れられないように、実らない努力だってこの世には大勢ある。――けれど、そんなことを正面から申し立てるのもイヤだったから、けっきょく私は妹の言うことを写しておとなしくする。布団の代わりの麻布をもって、濡れ縁だったとおぼしき場所で、蔓草の真似をしてのめる。花は付けられないけれども。西も東もなく這いずるのがせいっぱいの白い茎は、やがてそれも忘却して、うとうとしはじめる。
‥‥正午をすぎて出掛けた妹は、夕刻になって戻ってきた。そのとき私は薔薇色の残照に半身をかざして、黄色をかくした光と熱に体をじゅんぐりに染める遊びに躍起になっていたから、妹の顔をやさしくしかめさせた。
「姉さん、お土産。グーズベリーだよ、いっしょに食べよう。まだちょっと硬いかもしれないけど、きっとおいしいから」
「‥‥うん」
誘われるまま体を起こして妹の様子をたしかめると、グーズベリーだけでなく、真桑瓜まであった。それから、今日の夕食になるだろう、川魚の焼き物。おいしそうだな、と、思うのといっしょに、いつもの疑心が脳裏をかすめる。妹はこれらをどこで手に入れてきたのだろう。
私には、分かる。
きっと妹はよくないことをしている。この妹は昔から、善悪の境目をことさら軽視するところがあって、おかげで、まともな職につけたためしがない。もっとも人のことは言えない、それは私も同じだ。その日暮らしの知識と経験しかもたない、そして今はそれすらまともにできずにいる。妹が毎日どこかしらから持ち替える日々の糧にたより、生産に裏打ちされない消費ばかりを進める。
「‥‥それ、どうしたの?」
と、今日はべつに気になることがあった。妹の腰に見慣れぬ何かが佩かれている。指を差すと、妹は小器用にそれを片手でめぐらせる。
「これ? 拾った」
矢のようなもの――じゃない、ほんものの矢だ。矢羽根が多少秀麗なこしらえになっているように思えたけど、私はそれほど弓矢には詳しくないから、それがなにを意味するかまでは分からない。
「うっちゃってもいいんだけどさ。なんだか気になったから、持ってきた」
「そう」
私にはそんなものが大切だとは思えなかったから、それ以上、会話はつのらなかった。
けれども――‥‥。
気になる点があるとするなら、「どこ」でそれを「拾った」かだろう。私にはあるひとつの虞れがあった、それは「戦利品」ではないかという。勝者は敗者を好きにしていい、しかし、それは戦場の掟だ。私たちがいるのは戦場ではない。私たちは戦場を去ったのだ。
明日こそはたしかめなければならない。グーズベリーの酸味に醒まされた意識で、私はそれを強く誓った。
●
鬼が、出る。
鬼が寺院仏閣に攻め入り、根刮ぎ貨財や命数をうばってゆくという。あとはただひたすらな崩壊、芽生えものぞめぬほどの、絶望と
「それで、どんな鬼だ。豚鬼か、山鬼か?」
「人のかたちをしているそうです」
「人?」
旭日のごとく熾る金色のたてがみをふりまき、角をあざむく尖った耳、たった一人の彼女は冥府から借りてきたような烈火で白も黒も仮借なくあまさず焼き尽くしていったそうな。
――とまで聞かされれば、さすがに、黒虎部隊隊長・鈴鹿紅葉にだって気の付くところはある。
「‥‥それは、まことに鬼か?」
「おそらく、異国の者をひとまず『鬼』と言い表しているだけでしょう。それほど襲撃の痕跡が惨いというのもありますが」
「とすると、べつに黒虎部隊が出張る必要はないようだが」
「ですが、はじめに誰かが『鬼』と言いあらわしたせいで、地元のものたちはすっかり鬼の所行だと思いこんでおります。説伏し安堵させることも必要かと」
「‥‥ふむ」
本音をいえば、今はあまり京を離れたくはない。いつか受け取った書簡からも京の厳戒を高めたい、というのが鈴鹿の内心だ――まだ実行に移してはいない、というよりそれほどの偉力まではさすがに彼女にもない。ただ留意に気を削るしかない日々、それを憂いたものらが偶には京を離れろ、という意味でこの吹聴を持ち出してきたらしいことも察せられる。ならば乗ろう、たしかに日常とはまたちがった業務にたずさわるのもよかろう。
「次に襲撃の予想される寺社の目処はついているのか?」
「えぇ。目に付くとこから片端におそっているようですから、もう残りはすくないですし、目星は付きます」
規模からすればあまり大きくはない、三人ほどの仏者が寄り添って喜捨でどうにか糊をしのぐほどの、ささやかな聖域。本堂と鐘楼、そして庫裡。設備はどれもこれも馬小屋のようにつつましいが、信心が堅牢である明証に、それらは頑丈で清浄だ。といっても近辺の村落と比較してのことで、石造りの城郭からくらべればもちろん脆い。
「他になにか判明していることはあるか?」
「そうですねぇ‥‥。泣きじゃくっていたそうですよ、『鬼』は」
おぉん、おぉん、と。
竹藪が悪風になぶられるに似た慟哭をあげながら、しかし焼き討ちの冷たい目と手はゆるめず、一帯を灰燼へと変えていった、という。
「泣いていた? どうして」
「さぁ。‥‥そもそも寺だけを狙う理由も、いまだ分かっておりませんから」
「‥‥どうも気になるが」
ま、終わらせてしまえばどうにでもなる。
そして鈴鹿は冒険者ギルドへも談話を分けに向かった。この手の擁護は冒険者のほうが手馴れているだろう、と考えて。
●リプレイ本文
それはたしかに常々云われてきたことではあるが。
「黒虎部隊‥‥黒虎‥‥こっこ? こっこちゃん部隊?」
ウィルマ・ハートマン(ea8545)の戯れ言(といえるほど、一寸見には機嫌のよさそうなわけでもない)に、あぁ、鈴鹿紅葉はさっそくいじけだしたし、黒虎部隊隊士のクロウ・ブラックフェザー(ea2562)は訂正しようとしたところ「くろこ‥‥くっくどぅどるどぅーとなんとなく似てる‥‥」と、とてつもなく無自覚に、鈴鹿のねじけに拍車をかける。黒虎部隊隊長が冒険者らに熟視されるのもかまわず、のの字をつらねるのへ、キサラ・ブレンファード(ea5796)はふと至近の既視感。
今日はいとまのいかつい黒虎部隊隊士が、武道大会の決勝で負けたあと、こんなふうにしていたな、と(←してない)。してみると、これが黒虎部隊のしきたりか。この手の誤解や思い違いが解消するまでには、涓滴が岩をうがつまでの、恢々の日々がいるのだろう。
「こっこちゃんもかわいらしくて、好ましいですわ。‥‥鈴鹿さん、そろそろよろしいですか?」
「わたくしのほうもおたずねしたいことがあるのですが、御加減は平気でしょうか」
と、やはり黒虎部隊隊士の鷹神紫由莉(eb0524)や伊能惣右衛門(eb1865)に代わり代わり諭され、鈴鹿にもようやくゆとりのもどってきたらしい、機械的な空咳のあとしゃんとする。
「あぁ、動きながら話そうか」
「そのほうがよいですね」
刻限までが断じられたわけではないのだから、速やかな所業がのぞましい。御神楽澄華(ea6526)の切言は、ただしい。けれども道すがらの談判、どうしたって鼠がきりきりするように齷齪して、黒畑丈治(eb0160)の「兄がお世話になりました」という、彼の兄というのは鵺収拾のときの陰陽師・緑太郎のこと――だから真実は世話を焼いたというべきか――信心の賜物の、二十歳にしてはねびた骨相からの会釈も、ずいぶん慌ただしいものだ。
ひとり涼しいおもむきなのは理瞳(eb2488)、というより、礼儀をただす必要をさらさらかんじぬだけ。一行のしんがり、己の好きなような歩き振りでしゃくしゃくとついてゆく。そこからはもれなく何事もよく透徹に見える、今は先頭、惣右衛門が祭りの篠笛のようにうららかな調子で鈴鹿に話し掛ける。
「今までの襲撃でご存命の方はおられましょうや?」
「なくはないが‥‥会いに出掛けるのは、ちとややこしいぞ」
寺町の出来事というわけではないので、これからそこへ行ってまた目的の地へかえるわけになると、寸隙の雑事にしては大きすぎる。それに、目撃者のおぼえていることは少なかった。夕映えの梳きこむ金の髪、小鬢にそびえる柳の葉の耳殻。どちらもジャパンの村里にはよしみの少ない、目をとられてもしかたのないところだろう。
「鬼はエルフかハーフエルフのようですね」
鈴鹿もそれには異存はない。丈治としては――冒険者らの総意としては、それをもう一足すすめたい。
「寺に恨みを持つハーフエルフが火の魔法を使って攻撃し、血か炎を見て狂化しているのでは?」
「けど、なんでハーフエルフがジャパンの寺院なんか襲うんだ?」
たんに疑問をあきらかにするだけでも詰まらなかったので。クロウ、彼なりに頭をひねる。傷の手当てを求めて、断られでもしたか? 寺ってゆうと仏教だから‥‥ええと?
「華国の暗黒寺院が侵攻をはかろうと、当面の障害となりうるジャパンの寺院を壊滅させるために、手先のハーフエルフを送り込んで」
「違ウデショウ」
「‥‥俺も、そう思う」
瞳がもうすこし弄言家かつ行動家ならば「頭ヲ冷ヤシマスカ?」と酖毒を注す――言の葉の針ではなく、蛇を吸わせた爪の先から――ところなのだろうが、詮ずる所、彼女は沈黙をまもる。が、それが穏やかな同調ではなく、関心のなさを象徴するだけの茨の敷布で、クロウはますますおちつかないやましさに、わぁっと沸騰して先走りしたくなるような――セブンリーグブーツの先行・急行にさぞや貢献するだろう。走る若者のせつない背を見やり、紫由莉、おおらかに恣意をつむぐ。
「この国にいる魔法を使うハーフエルフは、たいてい冒険者ギルドに所属していると思ってましたわ」
「そのとおりだ」
時にならずものの会合あつかいを受ける冒険者ギルドだけども、その反面、最低限の身分保障、「国外輸出できぬほどの犯罪者ではない」程度は請け合ってくれるのだ。とりわけ京都ギルドの場合、陰陽寮を江戸のそれより公的な意味合いがいくぶん高い。となると――‥‥。
見解へは容易に行き着く。前以てあつらえられた決勝点へみちびかれるように。紫由莉、ことりと首をかしげる。耳朶の真裏から、ゆるやかに波打つほつれがみ、しどけなく降り乱れる。
「ギルドにも顔向けのできない咎人の可能性があると?」
「あぁ」
では、彼等の共通の憶測はますますかたい――‥‥、
「まとめると、五条軍の手下のハーフエルフ術者が落ち武者になったというのがありそうな線か」
と口にしたのは、キサラだ。が、当人よりなお如実な呼応をしてみせたのが、ウィルマ、ニィと唇を剣呑の弧線に釣り上げる。
――擾乱の移り香。薄氷の散光。闇夜に棒一本の綱渡り。
なんともはや香ばしいものだ。呼吸と発声が巧みにくすぐられる。くす、くす、と、
「‥‥退治でいいのか? 単独犯でないかもしれないし、アレの残党なら他にいるかもしれない」
「それは‥‥」
キサラの反芻に、鈴鹿はとまどったような間をつくる。
「任せよう。好きにしてくれていい。ただ、」
束の間、切って、
「ムリはしないでくれ」
「承知いたしました。『鬼』の調伏、承ります」
黒虎部隊隊士にあらずの身柄なれど、泰平ねがう所志は軌を一にするのでなれば。
――火焔の乱調に溺れるものは、火の志士たる自分が、見極めましょう。
肝胆は、秘匿する。澄華の鳩尾がいつもずしりとありそうなのは、羽織をぴちりと詰めるふくよかな乳房のせいばかりでなく、その奥底に始終、使命と向上をたくわえるからだろうか。
零細の、魚籃のような、仏刹である。ところどころのきれいに刈り込んだ茂みと申し訳程度の霊木、三径らしき明き間が道へいきなりひらける。
先回りしたクロウが掘り進めていた隠れ所へ、玉座をあたりまえにする王侯のごとき物腰で、ウィルマ、割り込む。クロウはなにやら抗しかけたが、あ、とも、う、ともつかぬうちに、ウィルマはすでに、狩猟罠を置いたり、羽織っていた外套をもしものときの雨傘代わりにひろげたりしている。
「見晴らしは悪くない。が、それはそれで向こうからもこちらが見えるということでな。夜に来られると少々面倒だが‥‥」
火の魔法使いということは、ウィルマの猟師の直覚を上回って、インフラビジョンで領域をおぎなう可能性もありうる――と、火の志士、澄華が云っていた。もっとも鬼の襲撃は夕のはじめごろ、昼と夜の利点・欠点の入り交じる頃合いを好むというから、そこまでの心配はないかもしれない。と、ようやくウィルマ、クロウに気がついた。
「どうした木偶の坊、なにをぼぅっと突っ立ってる」
「‥‥べつに」
ったく、俺のまわりの女ってこんなのばっかかよ。しかし、クロウ、けっきょくは何も言えない。「小源太、男同士向こうで気楽にしようぜ」と向かったさきでは、新たな基地へ手を付けるか付けないか、のところ。出し抜けに、がすり、と、うしろあたまにまぎれようもない痛み――すわ敵襲か――拾い上げる。
鎖分銅。クロウ、放物の根へ、首をねじあげれば、瞳、首吊りの縄のよう、こぬれへ気侭にひっからまって潜まっていた。
「な、なにっ?」
「‥‥呼子笛ヲ忘レタノデ」
ではどうして下方に連絡を入れようかと考えあぐねた末の、苦肉の策だ。ちっとも苦肉でないようにみえるのは、さかしまの愛嬌というやつか。この位置ならただの呼びかけでも、じゅうぶん声音は通じるように思えるのだが。
「つまり俺はここで、凶器をぶつけられるのを覚悟して、隠れてろと?」
「ハイ」
――もしかすると、今日の俺は、本気で女難の相なのかもしれない。今日にかぎったことではないが。「鬼」は女性だというし、ここは寺だし、お払いでもしてもらおっか。その坊主らは避難させたし、惣右衛門と紫由莉が協力して、用心に用心をかさねて火消しのために水と灰とも備えた。
あとは、待つ、のみ。水の底の石のように、螺旋を巻いて獲物を窺う鳶のように。
やはり日の入りだった。万有の灯影が這うように、長く、長く、稀釈されないまま引き伸ばされる。魔樹の林のごとく数をそろえて倒立するなかに、墨をこぼしたように、またひとつ。
瞳の例の物騒な符牒に醒まされて、クロウ、ウィルマが矢を放ったあとのさきをとり、薬味をすりつぶした小袋を付属した矢を射撃した。命中すれば、吟唱を必須とする魔法の遣い手にとっては、きっと無力となったろう。が、そのいっしゅんの食い違いはとりかえしようのない。
鬼が、飛ぶ。――高速を、増す、神速の詠唱で。
舞いをも欺く、綺羅をも擬する。精霊の飼い慣らす猛禽じみて、迅急、そして壮麗、紅の振り袖の裳裾を流すような、ファイアーバード。ほぅ、と、キサラ、彼女の赤い髪によく似てぎらぎらするのを、なぜか無心に惚けて見やった。
「‥‥逃亡につかうかと思っていたが、そうか、あれは元々は空爆の呪文か」
「おい!」
「クロウが射落とせばいいと思ってたのだが‥‥できないのか?」
「できねぇよ。こっちにまっすぐ向かってくならまだしも、あんな不意打ちで、それもあんなにはしこく行かれちゃ」
「読みを誤りました‥‥」
てっきり露払いは火球――ファイアーボム――で攻め入るとばかり、澄華は見ていたのだ。いや、それがまちがいだったとはいいきれない。二の次、屋根に降り立った鬼は、ファイアーバードの猛攻も不足だったらしく、子どもが駄々をこねるように、閃火を叩き付ける。安手の棟瓦はがらがら、賽の河原の石塔のくじけるように、雪崩落ちる。エリーヌ・フレイアが未来視したとおりの絶景。それを鬼は後追いし――‥‥、
「中?」
‥‥余人は払ってある。ただ、惣右衛門、それに丈治までがいるのだ。いくらたったひとりを相手といえど、今こうして数人の冒険者らのやりすごした賊を相手に、どこまで立ち回れるか。
が、そのとき、紫由莉には彼等の安否を気遣うより、臓腑をくべる奇怪な疑心のほうが勝った。
単純な崩壊が目当てなら、建築に這入り込む必然性はすくない。だのに、鬼ははじめからそこを狙っていたかというように、こじあけた抜け穴からするりと身をおどらせた。
「鬼の狙いは寺院の全体ではなく、内部のなにかにあったのでしょうか?」
なにげなく口にしてみて――そのとおりな気がした。澄華がマイア・イヴレフに尋ねたかぎり、鬼が洛内で事を構えた気配はない――いや、鈴鹿のはなしと合わせると、むしろ慎重に繁華街を避けたふしがある。骨髄に入る怨みが、そこまでのしゃあしゃあした計画に沿うだろうか?
「それで、どうするんだ? 見てこないでいいのか?」
野っぱらに逃げ切られたならまだしも、狭窄の室内では射手に役目は回ってこないとばかり、ウィルマがのったりと(むろん平時の彼女とくらべれば、だが)意見する。澄華は蜜蜂の飛び出すように、太刀を背負う全身を爆ぜた。
「むろん!」
先手をとられたとはいえ――取り囲むなら、これは絶好の機会だ。冒険者らは失点を埋め合わせるべく直向きにそちらへなだれる、だから、ひとりぐらいが欠けてあっても、それは些細な抜けにしか思われなかった。
瞳が、いまだ木から降りておらぬ。樹上の、閉じ込みを忘れた金茶の視野は、冒険者らの駆けた行方をはるかに越し、建物の裏手に回っていた。
鬼はハーフエルフだった、対峙すればよく分かる。赤くはない目で狂おしそうに、からっぽの室内で地団駄を踏む。当てが外れたというふうですな――惣右衛門は焦躁に猛る鬼を、そんなふうに、見た。
「なにかお探しですか?」
「まんとら!」
マントラとは西洋でならわす、スクロール。
「‥‥成る程」
了承した。
あまりに遣り様が荒いので、くらまされた。これはしごく横着な掻っ払いだったのだ。精霊文学碑の心得のあるウィザードならば、戦術をひろげるスクロールはどうにかして欲しかろう。が、いくら仏閣といえどスクロールを常備する拠点は少ない、かくてだんだんと狼藉は延び、今ここに至った。
「マントラならたしかにこちらにございましたな。しかし、もう余所に運び出しました」
紫由莉は物品の無事のためにそうしたのだろう、が、それは結果的に鬼の目処を断った。どうやら堪え性の足りぬ鬼らしく、かっと目を明るめる、はしにきらりとこぼれる雫。丈治は惣右衛門をふさぐように、立ち詰める。
「私も、鬼のように強くなりたいとは思いますが、鬼のような非道は許せません」
まして、それが私利私欲のためとなれば。
他人を屠ってまで益しようとするならば。――鬼であろうと、なかろうと、知らない。知ることが、できない。
金属の双拳を丈治、胸の前に握る。コアギュレイトは惣右衛門のほうが達者、ならば彼はその時間稼ぎに努めるべきか。どうやら即詠の心得があるようだが、他の冒険者らの追い付くまで時間をかせげれば、と。武道を籠める。
だが、冒険者らはやってくる手前に、建物の裏口から、ふらり、と。
人の姿を見せたのは予測よりずっと少なく、瞳、それから、彼等のハーフエルフの――日本刀をかかげた戦士?
「ソノ人結構ヤリマスヨ」
瞳がたるそうに片手をふらりと落とし、が、杏仁のまなこは再戦を賭して燃え付く。
何もかもが瞳の有利であったはずだ。樹上からの鳥瞰で先手を打った、隠身の勾玉で気色を消した。が、辛うじての累卵の風情ではあったが、彼女は瞳の遊撃を防いでみせた。そして、まっしぐらにこちらへ駆け込んだ。あいだをおかずに、表の冒険者らも、流れる。が、建物の崩落をきづかった彼等には押し入る手はなく、遠回りがほんのすこしの後れとなる。
――こちらが本命だったのか。泣かない、鬼が。
「妹を――アガトを返してください」
息をつく、鬼。
「そうして、けして、追わないでください。でなけりゃ、あなたがたが逃がしたものを壊します」
たしかに、冒険者らはここより、人を、物を、遠ざけた。が、それを包み隠すまでの注意は払っていなかった。それを泣かない鬼は検分するゆとりまで持ち合わせていたらしい。
キサラは舌打ちをすると、銀の短刀をころばせた――向かったってかまやしないようにも思えるが、義理立てからすれば、そうはゆくまい。
「‥‥本当に、申し訳ないとは思っております。でも行くよ、アガト」
泣かない鬼が、泣く鬼の手を引く。
鬼らは――夜に、消えた。