●リプレイ本文
涙ぐましい空の鱗片をはらみ、白い砂地に透き写された、近くて遠い斜影を、マイア・イヴレフ(eb5808)は異国の唄を低く詠じながら、ちょい、ちょい、と、浮き足だってめぐる。と、そのうしろ、三毛猫のアーニャ、見様見真似で付いていこうとするけれど、鋳物のようにぎらぎらする白砂にあしのうらを灼かれて、陸上の座礁、しかたがないので、にゃぉん、と、哀れっぽく鳴き出して主人を呼ばえば、にゃおん、にゃおん、と、三度めにようやく救助の、白い腕に巻き上げられた。
「アーニャにはムリよ。おとなしくしてなさい」
「夜星といっしょに涼んでたらいいよ。退屈せずにすむしね」
カヤ・ツヴァイナァーツ(eb0601)が教えた、ツヴァイのおる方向、青松の木陰、金目の黒い仔猫が幸福に午睡の深層をただよう。氷の柩にくくめられた石くれを枕にだらけきってるなかで、末ひろがりの髭ばかりがやたらと威勢よく張り出すのを、蜥蜴のちゃ丸がそれへ食い付きたそうに剣呑に目を光らせている――弱肉強食の箱庭。そりゃあ無聊だけはまぬがれるだろう、けど。
自らの分の使用済みアイスコフィンをかいこむ、ツヴァイ、ひやひやに隣接してごきげんだ。骨を見晴る食い違いの双眸は、白の上辺で鈍く跳ね返る光彩を取り入れ、水の花と咲きこぼれる。
「これが、海老天さんかぁ」
‥‥鯨だ。
ツヴァイのいいたいのは、夷三郎大明神、恵比寿さん、らしい。浜辺の在郷ではしばしば、魚群を沿岸のほうへ引き寄せる鯨や海豚をえびすと言い倣わすのを、どこかで聞き人聞きしてきたのだろう、「これも八百万の神様の一環なのかな? ジャパン人って本当に想像力豊かだよね」という感動は素直であったけれど、仕舞いに行き着いたのがとてつもなく違っているだけで。堀田小鉄(ea8968)が、あるわけのない猫耳をひくりとそよがせる。
「えいえいおー?」
もはや元々の片鱗すらとどめておらぬ。平生はあまり細部にこだわらぬ小鉄が、眉根をしっかりさせてきりっとしたつもり、教えてあげなきゃと務めにたぎる。鯨さんがイカ(如何)に鯨さんだったかお話することで、鯨さんは鯨さんの「生」をマッコウ(全う)することができるんじゃないかと思うのですー。マッコウといっても抹香じゃないんですよー?
「違いますですよー。これは鯨さんなのですー」
ねー、と、連れに支持を求むる。育ちすぎた巨大蛇のにょろすけくんはとても首を振ることができないから、驢馬のどんちゃんがその分くいくいとがんばって得心する。配剤の妙の三人組?
「えぇ、鯨さんですね。ですから、そろそろ、きちんと依頼をすませてしまいませんか」
でないと、日暮れまでに終わりませんよ。高槻笙(ea2751)に話し掛けられるずっと以前から、和泉琴音(eb0059)は村から借りてきた手車に手ずから骨を積み上げている。藍月花(ea8904)がここにおらぬのはべつだん怠業ではなく、菩提寺のほうで作業をつづけているから。見るからに立派な侍風情の香山宗光(eb1599)がひたむきに琴音を助力するのは、和尚が念仏をさらうようにあたりまえの風光だからいいとして、ほんとうのところよくはないが、藤城伊織(ea3880)までもがやにまじめくさって精進しているのまで見せつけられれば、ツヴァイ、すさまじくあくどいような真似をしてるような気になり、だるげに、はーい、とうなずいて、は、みる。
「はーい。ティリック、僕の分までがんばって」
「うん、ですっ。力仕事はどんっとおまかせなんですよっ」
あくどいのは、もしかすると、気のせいじゃあなくて‥‥。あまり「はーい」ではない推奨を、ティリック・ティルクル、疑いもなしで受け入れた。そして半刻ののち、切りのいいところまで積み上がった荷台を、琴音、みとめる。これ以上嵩張らせるのは、むずかしい。
「一度ではむずかしいようですね」
馬持ちが多かったから、牽引するための力点はいろいろと数をそろえてある。しかし貨車のほうが村にはひとつきりしかなかった、今にもがらがらといってしまいそうに、ひよわな、けれども村にとってはとうとい資財。下手に負荷を乗せたくはない。
「じゃ、骨のほう、つぶしちゃう?」
グラビティーキャノンで、どーんっと。
それなら造作ではないというのか、日裏にひきこもったツヴァイが、のそりと這いずる。氷枕、氷を包んだ袋ではなくって、氷そのものをかかえてくるのをむろん忘れはしない。
「擂りつぶして粉にすれば、いい肥料になるよ。骨粉っていうんだっけ」
「ふむ、無駄を省くのも供養のひとつではござるな」
工匠の気性らしく、木を削ればかんなくずまで、木をくべれば灰の一片まで使い切るのが、宗光の流儀にあたる。それもけして悪いことではない――草も獣も口にすれば血肉となり其を生かし、骸となれば水へ土へ自然へ還り、輪廻の旅路、終わりなき螺旋の上昇をつむぐ、琴音、半ばの諧調へ耳を澄ますように目を閉じる。しかしこれは村の流儀、ここにたどりついたのも何かの縁、なるべく今までの作法どおりにしてやりたい、と、次に桔梗色の瞳をひらいて琴音は考える。
「ともかく一度お寺にあげてからにしませんか? 住職様の御意見もあるでしょうから」
「うん、そうだね」
ツヴァイはさほどこだわらなかった。笙、精舎のあるという方角をはるかに眺めすかし、次いでこちらの足元へ目を替える。青いほどに漆黒の明眸が、きらきらと波のまにまに漁船が見え隠れするのをとらえて、今年は豊漁だというから、陸の家族を喜ばせる土産がさぞかし沢山うずたかくなっているのだろう。
「歩きましょう。そんなに遠くもありませんから、たいしたことはありませんよ」
それに、
「酒浸りの藤城には良い運動にもなりますし」
「なんだよ。今は、呑んでねぇつの。あとでめいっぱい呑むんだからな、安い酒でくちくなるような下手な算段うつもんかよ」
と、あまり胸を張れるでない時相の使い方をしながら、伊織が笙を小突くのを、笙、蝶を休ませるように肘で止める。
「あぁ、申し訳ありません。煙草漬け、を付けるのを忘れておりました」
「それも、今日はまだ、呑んでねぇって」
骨はまだまだ量を残している。骨組みはいまださほど崩れておらず、どこか鍾乳石の神妙を浮かばせる伽藍へ、もう動かぬかつての命脈へ、小鉄はそばへ寄る。骨はさらりと乾いている。絹が涙をなぐさめるように、かたい骨は小鉄のやわらかい心にうまくそぐう。海には鯨の卵塔所といわれるところがあるといつか聞いた‥‥鯨さん、もしかしてそこへ行きたかったんですかー? こつん、と、熱をはかるように額をぶつけるが、骨はただ無言の骨であるままだ。
「‥‥僕、もうすこしここにいてもいいですかー?」
「僕も、僕も。夜星がすぴすぴ寝ちゃってるし」
「私も‥‥。皆さんが運んでいるうちに、できるだけばらしておきます。そのほうが能率もいいでしょうしね」
とはマイア、口では合理性をたてるふうにきいてはいたが、形をとどめるうちに、記憶に刻んでおきたかったのだ。たとい骨であろうと鯨を見るのは珍しかったが、それだけではなくって、水底で全身を勇壮な律動にうねらせていたであろう時代を思い浮かべながら、先のようにもうすこしぐるりをたどってゆきたかった。地の精霊と約した身であるとはいえ、水と、水の恩愛を忘れたわけにあらず。
「では、おねがいしましょう」
それでは居所を移させていただきます。
崩しはじめにそうしたように、笙は骨の山に頭を下げる。琴音はゆったりと、伊織はいくらかあたふたと、宗光ははるか昔からの友人の旅立ちへ立ち会うように、しっかと開いた脚から、拝礼をささげた。
月花の臨時の工場は、その、鯨廻向のしきたりをもつ寺院の内庭であった。がらがら、と、時ならぬ遠鳴りにむけて見わたせば、思ったとおり、笙たちだ。車を押したり引いたりして――待ちきれず、月花は道具をあずけ、彼等のもとへ馳せる。
「骨はこれだけですか?」
「いえ。まだまだ、たんとあります。まにあいますか?」
「任せてください。ちゃあんとどうにかしてみせます」
「金物のほうは、欠けたりしておらぬでござろうか」
宗光としては、まずまっさきに気になるのがそのあたりだ。鯨一頭を入れる柩をつくるとなると、工具のほうにだって相当な負担がかかるだろう。宗光の生業は刀鍛冶であったけれども、それが木や菜やをぶったぎる民具であっても、区別であるような性根ではない。が、月花だってそこは、腕にきちんとおぼえのある大工だ。仕事用具をいいかげんにいためるような分には手を染めぬ。
「でも、すっかり終わったら、そのあとで手入れをおねがいしてもよろしいですか?」
「まかせるでござる。初めよりもなめらかにしたててみせるでござるよ」
はからずも笙が先程触れたように、刻限はかぎりがあるのだ。おしゃべりはほどよくそこまでにして、笙たちが二度海岸へもどってゆくのを、己の髄の髄までしゃんとさせて送り出した。点が海の青に溶けこむところまで、見送りした。
「さぁて、私もしっかりやっちゃいましょっと」
ただかたちを作るだけじゃ寂しいから、と、鯨の似姿を柩のおもてに彫り込む目論見まであるのだ、うかうかとはしておられぬ。――けれど、ここで仕事をしどおしの月花は骨の全容を見知する折がまったくなかった。月花の故国、華仙教大国は名のように大きくって、大きすぎるから、内陸の人間にとっては碧海の時事など月道の彼方よりずっと万里の出来事だったりもするのだ。いちおうエリーヌ・フレイアから鯨のあらましは聞いてきたけれども――‥‥、
『真っ黒で物凄く大きくて時々潮を吹くの。口も大きくてね。たくさん吸い込んで吹くのよ。跳ねると物凄い波が立つのよ』
鯰のすさまじく大きくなった「ような」もので、髭がなく、背から潮を噴く――とは、海流じゃなくって、噴水? いったいどんな化け物だ、それは。
「‥‥供養に大事なのは心ですよね」
いっそ饒舌なくらい独語が増えてはいるが、けして狂化云々ではない。背筋を海のものではない冷たい雫がはらはらしたが、これも狂化云々ではない。鎚を打ち込む仕草に自棄っぱちが見え隠れするのも、だから、狂化云々ではないのだった。
物知りの小鉄はきっと、月花にしたがっていたほうがよかったのだろう。しかし実際には、やはり日陰のツヴァイやマイアや、なんといっても熱心な聴講生である彼の手飼いをあいてに、鯨の講話を進めていた。
「鯨さんはずぅっと水の中にいるからお魚さんみたいですけど、お魚さんじゃなくって、僕たちや牛さんや馬さんのお仲間なんですよー」
その証拠に鯨さんの皮には鱗がありませんのですー。骨だから、今日はちょっと分かりづらいですけれども。たまぁに水面でぷかりと潮を吐いて深呼吸して、きゅーきゅーと、赤ちゃんみたいに懐かしい声で鳴いたりしますー。
「そんで、鯨さんにはハクジラさんとヒゲクジラさんがいますー。僕たちみたいにお口に歯があるのがハクジラさんで、ざわざわ髭があるのが、ヒゲクジラさん」
ヒゲクジラさんのほうが長生きらしいんですよー。そんで、ヒゲクジラさんのおひげは楽器の弓になったりしますー。華国の胡弓がそうですー。家の手伝いを終えてきた村の子らが、おもしろそうに様子を見に来たのもあいまって(それは巨大蛇へ興味でもあったかもしれない)、笙らが戻ってくるころにはちょっとした青空授業という添景。
「こんにちは、私たちのほうのおてつだいもしてもらえますか」
マイアが(というより、マイアひとりが)労してくれたので、次の積み込みにはずいぶん手間入らずになりそうだ。今度こそ、仏前に供える花を摘むいとまも、墓を洗う真水を汲むいとまもできるだろう。手向けの花は、禊萩、鬼灯、桔梗に浜木綿‥‥琴音は舞うような仕振りで一本、一本、子供たちといっしょにたおってゆく。地の精霊に潔癖をたてた身だからと、マイアはその場を遠慮した。うすく紗のようにけぶる香りのなかで、琴音の、ときどき見返り、濡れぬ袖をそよがす立ち姿は、浜木綿が花弁を流しす風情によく似ている。
――‥‥水。そういえば喉が渇きましたね、と、竹筒にあつらえておいた冷水を流し込もうとする笙だが、ふと隣をかえりみれば、
「伊織さん、その手のひょうたんはどうしました。とっときの酒を呑むまで、辛抱するのではありませんでしたか?」
「うるさいこというな、ケチ。これは食前酒」
どこで聞きかじったのか、西洋の常套まで持ち出して、伊織はおしめりを正当づける。食前酒というのはあくまで食前に喫するのであって、酒の前の酒はただのがぶ飲みというのでは――‥‥。伊織、そんなツッコミを聞き流すかのように、がぶりともう一口ゆく。
さて、そうして行き帰りをしているうち、月花の柩もできあがったわけだが――‥‥ある意味で鯨よりよっぽど珍奇な浮き彫りをみせられた笙としては、努めて冷静、努めて優しい声音で、こう指摘せずにはおられなかった。
「‥‥これはおそらく鯱(しゃちほこ)というのではありませんでしょうか」
「ち、違うんですか?」
「いいえ」
笙は手びさしをかたどりながら、凍れるほどに真っ青な空を仰ぐ。ところどころふわつく白は、綿をちぎったような、鯨雲。
もしかしたらあの鯨は生身をそぎおとして、心を遠大な水の精霊と移したのやもしれぬ。‥‥ほんとうにほんとうの、もしかしたら、御伽のような例え話であるけれども。薄皮一枚へだてた水鏡の国で悠然と遊泳をたのしみながら、現世の遺産の都合が付けられるのをながめているのやもしれぬ。そう思うと、骨を納める手付きにも、いちだんと慈しみが増すのである。
柩におさめて夕刻までかかってしまった。鯨の御膳はどうやら夕食を兼ねることとなりそうだ。申し合わせたとおり月花の道具をつくろいながら、宗光、ふと指を止めれば、漣の上がり下がりを擬して琴音の横笛が耳をすずめる、そのあいだに、野太い歓喜。
「これこれ。待ってたんだよな、弔い酒!」
「待ってなかったじゃないですか」
「ありゃあ、通夜」
‥‥昼間に呑んで、通夜?
という自然な疑問は潮風の雑音にかきまぜて、琴音の差し入れの天護酒が、伊織の喉の奥を光らせる。笙は諦めたように肩をすくめて、鯨肉を盛った皿に箸をさす。月花が舌鼓を打ちながら懸命に教わったばかりの調理法を復唱する向こうで、マイアはひとり、昼間とおなじように浜辺をさすらう。ひとりの分業のときに少しだけ切り離した骨を砂のしとねにうずめて。いつになるかは分からないけど、きっと私もそこへいく。いずれ、会いましょう。
昼に吸われた日光が、夕は濃い草いきれと変じ、こらえきれぬためいきのようにそうっと吐き出される。それにつつまれながら、うとうとする小鉄は安らかに、在りし日の鯨の背に遊ぶ夢を見た。