『救う』〜新撰組五番隊【ひとくい】〜

■ショートシナリオ


担当:紺一詠

対応レベル:6〜10lv

難易度:難しい

成功報酬:2 G 48 C

参加人数:8人

サポート参加人数:3人

冒険期間:10月24日〜10月29日

リプレイ公開日:2005年11月01日

●オープニング

 やけに、あわただしい一日だ。

「あの‥‥。そちらのおはなしが聞こえてしまったのですが」
 依頼(「『遮る』〜新撰組五番隊【ひとくい】〜」参照)を終えて、鈴鹿紅葉が冒険者ギルドをあとにしてからのことである。請負を書面上だけでもしまいにして、ギルド手代、やれやれと一息ついていたときだ。
 ギルドの暖簾おしてくぐったというのに、しょんぼらと所在なげに立ちつくしていた彼女、そこそこ仕立てのよろしいお召しで肌をつつむ二十歳すぎの女性、ようやくことばを発したと思ったら、ひた、と黒目をうるませながらいっこくも抜き差しならない様子で問いつめる。
「五番隊が捕物をおこなうというのは、ほんとうでしょうか?」
 この言い分からして、鈴鹿のもたらした報せは、まだまったく市井に浸透していないようである。
 そりゃあ、そうだ。一斉捜査が街中の噂になってしまったら、ふつう、踏み込む前に逃げられる。あんなにさらりと云いのけたので、ついこちらも気を払わなかったが、どうやらけっこうな公文書並みの機密だったようだ。‥‥この場合、認めてしまうべきだろうか。ごまかすべきだろうか。まごついているうち、彼女、つかみばからんばかりに詰め寄り、
「おねがいします。弟を助けてください!」
 ――依頼だ。
「‥‥私、本日はほんとうのところこちらへは、弟の足抜けをおねがいにまいりました。しかし、説得などという生ぬるい方法では、もはや手遅れのようです」
 人斬り、が、京の町で横行している、というのは以前に触れたとおり。
 その人斬りのうち、「ひとくい」を名乗る、しかし、たいそうな口上のわりにはあまり力のない偽志士たちのあつまりがあった。ま、偽志士といってもさまざまで、強請や脅し目的の詐欺から、志士になりそこねた浪士たちのうさばらしまである。「ひとくい」はどちらかといえば、後者のほうであり、それに思想的なものまでからんできてるらしい――と、依頼人の知るのは、これくらいがせいぜいだった。
「弟が人斬りどもに感化されてしいまして、家を出たのが数日前。おそらくは彼らとともに、行動しているとおもわれます。‥‥しかしそれから、彼らが人を斬った、というはなしは聞いておりません。きっと京のどこかに潜んで、かだましき悪事をたくらんでいるのでございましょう。ですから、私、なんとか弟を捜してもらいたかったんですけれど」
 そのまえに立ち聴いてしまった、不穏の、さきぶれ。
「『ひとくい』に目を付けていたのは、五番隊でした。五番隊の向かう先に弟もいるのでしょう。おねがいします、弟をたすけていただけませんでしょうか? 身内びいきの勝手なおねがいだとの、自覚はあります。しかし、私は信じております。きっと、弟はまだ人を殺めてはいないはず。‥‥ですが、五番隊は弟をふくめた彼らを区別することなくあつかうでしょう。おねがいします。弟を、弟だけでも、たすけだしてくださいませんでしょうか?」

 ※

「まぁ、そういうことなら、協力しないでもないが‥‥。私の不首尾が、発端らしいからな」
 それで再びの鈴鹿紅葉による、此度の新撰組五番隊の襲撃のうちわけ。
 場所は、左京のいくらかさびれた平屋の小料理屋。東の一室で不健康にこもる、屈強だったりしなかったりする、人相のわるい男どもの数は合わせてやはり十人近く。しかし、五番隊は小料理屋の面々をすでに抱き込み、彼らを逃がさないよう、見晴らせているそうだ。つまり、店へ不用意にちかづけば、それだけで新撰組にけどられるおそれがある。
「‥‥『五番隊が近々踏み込む予定がある』という噂を街にばらまいて、やつらを逃がそうという策は、感心せんな」
 釘をさされる。
「無実のものを逃がすだけなら、目をつぶろう。だが、なんにせよ犯罪者は駆逐されるべきだと、私も思う。新撰組の行動が目にあまっても、それらが正義にもとづくものであるかぎり、邪魔だてする理由はない。多少、強引であってもな。‥‥そうだな。こういうふうに、考え方をあらためてみろ。その男、一時的にでも、人斬りのもとに身を寄せていたのだろ? 目に見えるかたちで恩を売っておけば、なにかしらの益がえられるかもしれんぞ」
 鈴鹿はこちらの依頼人ではないのだから、彼女の云うことを、遵守する必要はない。しかし、情報をもたらしてくれた義理もある。
 ――最善の方法はいったい‥‥それとも、最善なんてことをかんがえようとすること自体、贅沢なのかもしれなかった。

●今回の参加者

 ea0352 御影 涼(34歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 ea2751 高槻 笙(36歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 ea6130 渡部 不知火(42歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 ea8502 大空 北斗(26歳・♂・侍・人間・ジャパン)
 eb0487 七枷 伏姫(26歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 eb0524 鷹神 紫由莉(38歳・♀・志士・人間・ジャパン)
 eb0601 カヤ・ツヴァイナァーツ(29歳・♂・ウィザード・ハーフエルフ・ビザンチン帝国)
 eb1865 伊能 惣右衛門(67歳・♂・僧侶・人間・ジャパン)

●サポート参加者

天螺月 律吏(ea0085)/ 片桐 弥助(eb1516)/ 伊庭 馨(eb1565

●リプレイ本文

「自分の身内だけは足抜けさせたい‥‥。ひじょーに分かりやすい肉親の情ってヤツだよねぇ」
 いっそ、はじからはじまでお目をあつめてみたいやら。カヤ・ツヴァイナァーツ(eb0601)のひとくさりは、いやに朗々、柱をぬってゆく。
 人斬りが東のほうにいるという店の、おもて、気安く飲み食いできる場所。ツヴァイは天螺月律吏と向かい合い、明るいうちから差しつ差されつやっていた。諷言を律吏がたしなめても、ツヴァイ、これっぽっちもくじけやしない。
「べっつにー? 僕はそれがいいとも悪いとも云ってないよ」
 ツヴァイ、ささくれた居酒なのは体裁のせいだ。ハーフエルフの浮きたつ見目形をごまかそうと、京染めの振り袖に被衣(かづき)といった、女物らしき身だしなみ。己が決めたものではある。
 が、なんせ「カヤはジャパンだと女性の名前だから」という理由で、愛称「ツヴァイ」を他人に迫るツヴァイである。おもしろくない心持ち、止められない。いちおうここへは、当日当夜のための偵察に来ているはずが、悪酒のとっくりを城壁でもくむように積み上げてると、入り口の暖簾がふたつに割られて、どこかで見たようなすこし場違いな(他人のこたいえないが)少年がおつかいでもするかのように、ぎこちない足並みで。
 あぁ、知ってる。たしか、おなじ夜の、黒虎部隊の依頼をうけていたはずの忍者くん。
「僕には気づいてないみたい。じゃ、僕の風采も、なかなかさまになってるのかな?」
 ちょっとした悪ふざけ、はたと思いつき。ツヴァイは片手、虻追うようにひらひらさせて、店員を呼びつけた。
「僕たちの飲み代、あの子につけておいて」
 お財布もなんとかなったことだし(ちなみに、振り袖は大空北斗(ea8502)にまわすことを、勝手に決めてある。さぞ似合うだろう)、さぁ呑むぞ、と意気をあげるツヴァイ。十本めを空にしたところで、あらたに暖簾がぬぅっとひろげられる。
 渡部不知火(ea6130)、れきとしておなじ依頼をうけていた御同胞。
 不知火はさすがに、ツヴァイをみとめたよう。しかし目を合わせるか合わせないかの紙一重におよがして、彼は居敷をぬくめることもなく、まるでなじみであるかのように向こうへつかつかと進み、
「ねぇん。おねがいしたいことが、あるのだけど」
 私ひとりだけど、座敷へとおしてくれないかしらん。
 襟足を指先で、蝶の羽でもつまむかのごとき作法で、かるくもちあげながら。姫の仕草をたもっていても、不知火、ほんとは、雲を衝くは言い過ぎとしても巨漢というのは大げさにあたらず、そういう男だ。
 もちろん、店のものは怪訝な顔をした。このさきは誰も入れてはならぬ、と、厳令くだされた開かずの人斬り部屋。
 だが、不知火は笑いにひずませた口はそのままにして、
「いいじゃない。ねぇ。少しくらいなら礼銭だって用意するし、なんなら‥‥見廻組にでも云っちゃおうかしら」
 さすがに、この一言は、脅しの効きめがあったらしい。店のものはとうとう不知火をさしまねく。はいはい、と、沓履きころばせながら、奥に過ぎようとして、不知火はぺろりと舌なめずり。
「さぁてこれからが本番よねん‥‥ったく、面倒かけさせやがって。わがまま坊ちゃんの面ぁ、おがんでくっか」

 御影涼(ea0352)と高槻笙(ea2751)は、新撰組五番隊組長、野口健司へ会談をしにむかった。念のために、七枷伏姫(eb0487)が五番隊の伍長である渡辺百合に約束をとりつけに行ってくれていたはずなのだが、彼女が帰るを待たずとも、なぜか野口は冒険者とあっさりと面会した。
 冒険者が五番隊へ請求したことは、おおよそ二点。
※くだんの小料理屋への入店許可
※捕り物の際、限定一名への手出しの無用
 条件は、
※『ひとくい』における、内部情報の提供の用意
※捕り物の邪魔はしない。場合によっては協力も惜しまない。
「‥‥よく分かりました」
「では」
「すべて、おことわりしましょう」
 ぴしゃり、と、突き放す物言いにかさねられる、野口の指示。
「おおきな誤解があるようです。あなた方はたしかに、何もご存じないかもしれませんが、どうして私たちもおなじくそうだと思われるのですか?」
 少なくとも新撰組五番隊は、こうやって「ひとくい」を自力で追いつめることに成功したし、以前に冒険者の協力も得てひとりをつかまえている。独自の情報源を確保している、とみなしたほうがかえって自然だろう。
「しかし」
 が、笙は食い下がる。冒険者らが承知であるほど、現に、捕り物に関する情報はもれているではないか。気はすすまなかったが、新撰組の不始末を追求する、強請じみた手段へと糸口を変えようと云いさして、しかし、笙は息を呑んだ。鼠をとらえた猫のごとくほそい笑みが、野口の口元に一条、ある。
 ――‥‥野口だ。捕り物の噂を、黒虎部隊にながしたのは。彼ははじめから、「ひとくい」より「黒虎部隊」に重きをおき、この大仕事を釣餌に利用するつもりだった。それに気づいていたなら、はじめから方法も違ってきたであろうに。
 やられた。
 組んだ上腿においたこぶしが、泣き出す子どもの我慢強さでぶれだすのを、他人のよう、冷ややかに笙はながめた。それでも、礼儀をくずさず紳士的にことをすすめられる己は、すこしきらいになれそうだった。ここで泣きじゃくれば事態が好転するわけがないことは知っていても、ぬるま湯のような安定をつづけようとする、無意識と常識をうらんだ。
「‥‥俺もあなたも損はしない、と思ったのだが」
「『冒険者』ともあろうお人が、弱気なことを。『損はあるが、得のほうが多い』ぐらい、おっしゃってくださいよ」
 有益をもちかければ、たしかに野口はうごいたかもしれない。が、立脚がちがえば視点もうつる。冒険者らの利がそのまま他人の利でもあるようにとりちがえたところで、この交渉が成功するわけはなかった。
 けれども、涼は最後まで、野口から目をそらさなかった。それはかたくなな矜恃でもあったし、野口の人間性への純粋な興味もあった。涼のあけぼのにちかい色の明眸に、ちろちろと炎が踊っている。なにかを焼き尽くすこともなく、それはただ、人を救えぬ明るみを、しんしんたたえている。

 そして、伏姫。渡辺とは、さびれた水茶屋で、おちあった。虫がわきそうな環境に、伏姫はもぞもぞと腰をふるわしながら、もちかける。
「野口殿に会わせてくれるだけでいいのでござる。さすれば、きっと貴殿も手柄をたてられ」
「その考え方が通用するのは、冒険者ギルドだけですね」
 渡辺は、つづけた。手柄を約束する、と伏姫は云ったが、その内容に魅力がない、と。
 武士道をおもんじる新撰組でたっとばれるものは、個よりも和である。渡辺はある理由のために、わざわざ今回の捕り物からはずされているのだ。その渡辺が、たずさわるべきでない仕事で功績をあげたとして、上司がいい感情をもつわけがない。
 二の句を継ごうとした伏姫だが、道徳や倫理といった、王をもたぬ玉座のごとく、うつくしくはあるがそれだけではなんの力ももたない言葉が、あたまのなかでふらふら迷走する。それを見計らっていたように、渡辺はあざけりで伏姫の混乱をそっとつつんで、
「でも、私は野口じゃないから、場合によってはお力をお貸ししましょう」
 ××××、で、どうです?
 渡辺の提示した見積もりは、いっしゅん、伏姫の思考をまったく停止させた。それほどのとんでもない条件、そして意外性のある利害。
「考えてみるでござる」
 首に紐でもくくりつけられたように、息絶え絶えになりながら伏姫は応じるけれども、行く手をふさがれた予感は、すでに、あった。

 地層をなぞるふうに杖をつき、旅装束はゆるめの着崩れ、額には潮気のない水滴をつぶつぶと、白髪の伊能惣右衛門(eb1865)がそうしていると、歴戦の駿馬の成れの果てのようでもある。まじめくさった顔つきでかれにしたがう鷹神紫由莉(eb0524)は、孫娘というには艶やかすぎるから、お妾か年をとってからの後添いさんだろうか。では、北斗は、ほんとうに惣右衛門が病気になっているのではないかと、ときどき真剣に心配してしまう北斗は、丁稚の小僧さん‥‥・? にしてはおとなしすぎるけど。
 と、家族にしてもご隠居の一向にしてもなにかちぐはぐな、けれどもまぁ、互いへの思いやりはほんとうそうにみえる彼ら。陽は高い。焦ることはないと、ゆるゆるとすすむ‥‥。が、その足は、めざす小料理屋のまえで棒でもわたされたように、いっせいに止まった。
 そろってぽかりと口を開け、あっけらかんと見上げる。

『臨時休業』

 敗戦の白旗のごとく、秋風にぬかれてはためく、張り紙。

 交渉が決裂した時点で、五番隊からなんらかの横やりが入れられるであろうことは、こころしておくべきだった。あれは野口にしてみれば、冒険者からの宣戦布告に他ならなかったのだから。捕り物の最中に営業をつづけさせることさえ、不自然だのに。
「ど、どうしましょう」
 店はひらいているはず。思いこみをくじかれて、北斗はおろおろと惣右衛門にはなしかける。病身の惣右衛門をきづかうふりで皆で店へはいる、というはじめの作戦は、もう役に立たない。あいてる店は隣にもその隣にもいくらでもあるのだから、そっちをたずねなかったわけをいぶかしまれてしまいだろう。
 不知火が人斬りのなかへ潜入しているはずなのだが――あれっきり連絡がないから、おそらく成功したのだろう――彼と連絡をとる手段はなにも用意していなかった。あったとしても、この大人数を秘密裏に招き入れる手段など、存在するわけが‥‥。
「あ、あの‥‥」
 伏姫、しかし、縫い止められた時刻を、挙手でつきうごかす。
「――でよければ、なんとかなるで思うでござるが」
 渡辺の提案を、披露する。むろん反発がさきにたったが、もはやそれしか残されていないのも、たしかである。
 ことがはじまっていないうちからの、敗北感。がんじがらめの、蜘蛛の糸。どうしようもないやりきれなさにしばられながら、けれども、冒険者たちには、切り立った崖をゆく前進以外の道はすでにのこされていない。‥‥彼らは最後の手段でもって、店の中へと入っていった。

 二十五日の夜が、来た。月のない。日増しの冷却へ小言をいいたげな星空が、水面のように揺れている。
 闇をかがってうごめく、彼ら。新撰組五番隊。小料理屋に斬り込んだ彼らは、しかし、彼らを先導する野口の動きが、突如、止められる。庭の石のかげで惣右衛門が、数珠をかかげて、緊縛の呪を。
「あい、すあみませぬ。もう、少々お待ちいただけますか。こちらのお話が、まだすんでおりませぬので」
「どうして、ここにっ?!」
「そちらの伍長が、お通ししてくれましたよ」

 渡辺は、入店の手引きぐらいはとりはからってもよい、と云った。
 代償はやすくない。依頼の報酬のほぼ全額だった。冒険者の大義名分である、ゆゆしき「報酬」をだ。そうしてよるべなく骨抜きにした依頼を、成功させてみせろ、と云った。

 そういうことだから、「厠にたったすきに、依頼人の弟を人斬りからきりはなす」などという悠長な作戦は、もはやえらんでおれなかった。七人もの他人が、店員と人斬り以外はいないはずの店にいきなりあらわれただけでもおかしなことだし、渡辺は店へと冒険者たちをまねきはしたが、彼らのために待機の部屋を用意するなど、そこまでのお人好しではなかった。
 どや、どや、どや、と、ほとんど押しかけだ。そして、こんな状況下での説得が功を奏するよしもなく、彼らは新撰組にさきまわって、捕り物の口火をきるはめになった。涼が片桐弥助とのつなぎをとっていてくれたおかげで、五番隊の正確な来襲の時刻が予想できただけでも、めっけものだ。
「あぁ、もうっ。人がせっかく、かたくなな少年の心をほどきかけてたってのに!」
「申し訳ありません。私もこんなにせっかちなまねは、ほんとうは好みませんけれど」
「おこっちまったことは、しゃあねぇ。とことん、やるだけだ」
 不知火の、真一直線におとす霞の銘の日本刀が、派手な騒擾をひきおこして、手近なおちょこが粉にくだける。
 ――‥‥が、惣右衛門がそうして新撰組を足止めしたとしても、彼らの人数の多さのまえでは、焼け石に水をかけるていどの時間稼ぎだった。数の多さといえば、人斬りのほうもそうだ。総合の実力ではむしろ冒険者らのほうが上ではあったが、早期に決着をつけるにはあまりに多い数、それにくわわった新撰組、ここで見分けのつきやすいものといえば、新撰組の浅黄のだんだらぐらいで、冒険者らと人斬りをみわける術などないに等しい。カヤですら、コンフュージョンの巻物を誰に使うべきか、見定められなかった。
 だから。
 きっとそれは起こるべくして、起こったのだろう。
「はやく、こちらにいらっしゃい」
 紫由莉は依頼人の弟を、外へ連れ出そうとし、手を伸ばす。‥‥彼に人と人との血しぶく醜い様を見せつけて諭したかったが、己まで巻き込まれかねない今の状況をおもえば、そんな余裕はない。逃がすだけで、せいいっぱいだ。
 だがそれよりはやく、新撰組の隊士の斬りつける一太刀が、彼の背なへ真っ赤な一文字を焼き付けた。
「あぁっ」
 人が。
 人が、今、深く傷つけられた。肉体が分割し、骨格が露出する。動脈が寸断し、静脈が決壊した。
 北斗のはてしない悲嘆が、絶叫となってほとばしり、野口をふりむかせる。状況を把握した彼は、言葉を無情に投げつける。
「‥‥しらけますね。死に損ないの身柄など、欲しくありません。持って行きなさい」
 すでに彼は、あたらしい戦闘へむかっている。気まぐれとはいえ、情状にはちがいない、今を逃せば次こそ己が斬られかねない。が、笙は足をとめて、どうしても吐かねばならぬことがあった。
「ひとつ尋ねわすれておりましたが‥‥。伊庭馨という男に聴いたのですけどね。先日、遭遇した悪魔が『ひとくい』という単語を口走っていたそうです」
「悪魔? 知りませんよ、そんなもの。私はいそがしい」
 そうして、また殺戮と傷害に帰還する野口の表情からは、もうなにも読み取れなかった。

 冒険者らにとって、この結果は、まったく誇れるものではない。はじめの見込みの甘さに、自分たちを不利へ追い込んだ。予定していた作戦の、半分も実行できる按配にもちこめなかった。連れ出した救助対象は瀕死で、無報酬。
 刻一刻と生を失う人身を、北斗は抱きすくめる。冷たくも、硬度を増す肉体。どこまでも近くなる死に、そそけだつ。
「あの、はやく、行かないと‥‥彼のお姉さんに‥‥」
 その後、彼が助かったかどうかの連絡は、冒険者ギルドにはとどいていない。むろん、冒険者らは『ひとくい』に関する情報など、手に入れられようもなかった。