行尸走肉

■ショートシナリオ


担当:紺一詠

対応レベル:7〜11lv

難易度:普通

成功報酬:5

参加人数:8人

サポート参加人数:5人

冒険期間:06月12日〜06月17日

リプレイ公開日:2006年06月20日

●オープニング

 彼は、死んだ。
 まぎれもなく、死んだ。
 簡素な防具のすきまから五度貫かれ、横一直線に裂けた喉笛からとめどなく血汐を噴かせ、節々という節々をあらぬ方向に折れ曲がらせて、雪解けのぬかるみのようになって昏い川底へ沈み、そして死んだ。
 彼女はそれを夢で見た。
 あけぼのの晴れるほんのわずかな寸前、彼の人は立ち去るときとおなじ笑み、薄霞を背にして寝床をするりと立ち去る、立ち待ちの月のように音もなく。目醒めたときにはかすかに鉄錆、血の香が匂い立ち、けれど剃刀にも似た仮借ない隙間風がたったの一陣のうちにあまねく残渣を払い除けて、あとはただひたむきにひたすらな日常が、菜切り包丁とつぎはぎの着物と鋤と鍬と土と獣と、今日も雨戸越しに貧しい夜明けが白みゆく。
 それで、彼女は彼の死を悟った。
 不思議に、否む気持ちは兆さない。恨む気持ちも、憤る気持ちも。あべこべに心の機能が坂をくだるように目減りして、肉体の柩にのこされるのは、寡少。
 ――捜しに行こうとした。身内に相談すればきっと引き留められると分かっていたから、彼女はひとりで家を出た。
 発つまえに彼にあずけた柘植の櫛、彼はきっとそれを懐にしていたろう――だから、それを見つけようと思った。
 見つけ出さなきゃ、と、奥から湧き出ずる使命が、あった。

「このまえの戦乱な、まぁごっつようやったなぁ」
 愛宕山太郎坊という天狗がいる。
 だから、どういうわけでもないが。愛宕山に住む天狗で、名は太郎坊、それだけのこと。たまに人の姿に変えて都へ寄る。近頃はギルドが気に入りで、酒場ととりちがえてるのか徳利を自ら持ち込み、ちびりちびりとやる。
「で、許婚やったかな、を捜して、元戦場のあたりをうろうろしとる娘さんがおるんやけど。助けたってくれんかな」
 あのままやといつまでたっても帰りそうにないし、と。
「わい? わいは知らん」
 どうしてなら、彼は天狗だから、
「人間のことは人間で、やり」

 清滝川。
 いったいどうやればいいのだろう。
 はるかな荒れ野の葦を刈るようなもので、どこから手を付けていいかも判じかねる。‥‥いいや、そんなことを考えるからいけないのだろう。ためらっているひまなどないはず。彼女は渇するように、ただ続けるのみ。剥ぐ、刳る、拾う、落とす、抜く、さまざまな手仕事、針で布を縫うがごとくになにげなく、無数の骸に近付いては意気の連なるかぎりほどこして、またふいと離れる。
 また、屍。
 屍。
 夏と隔てをおいた無彩色の原に、どこまでも。
 もはや主観を包含せぬそれは、神に似せたように純粋な客体であるはずだのに、神ではないから瘴気に貶められ――あぁ、かなしい作動がはじまった。カタ、と無機をこする音をさせて、眼球の代わりに矢羽をはやした眼窩へ脱けたはずの血の気がわずかにさし、生前とそれだけはほとんど変容のない歯列は呼吸なき怨嗟をこぼす。
 屍は、そして、死人憑き。
 けれど、彼女はそれに気付かない。――ひたすらに捜索だけを、渇するように。

●今回の参加者

 ea1057 氷雨 鳳(37歳・♀・浪人・人間・ジャパン)
 ea4128 秀真 傳(38歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 ea4687 綾都 紗雪(23歳・♀・僧侶・人間・ジャパン)
 ea8428 雪守 明(29歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 eb0524 鷹神 紫由莉(38歳・♀・志士・人間・ジャパン)
 eb1529 御厨 雪乃(31歳・♀・浪人・人間・ジャパン)
 eb1963 蘇芳 正孝(26歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 eb3824 備前 響耶(38歳・♂・浪人・人間・ジャパン)

●サポート参加者

高槻 笙(ea2751)/ ニライ・カナイ(ea2775)/ ヒサメ・アルナイル(ea9855)/ 伊庭 馨(eb1565)/ 理 瞳(eb2488

●リプレイ本文


「太郎坊殿。急ぎ、娘を最後に見た辺りまで案内願えるか」
「あ、これ一杯空けてから」
 佩いたばかりの霊刀「ホムラ」へ、おぼえず利き手を添える雪守明(ea8428)。十字の青筋、ひくりと脈動する。
 さしむかいにやっても勝ち目はないのだと――端珍しくもわずかな狡知の出所は「ホムラ」、これを預けていった理瞳が「赤銅なんてすぐ折れそう」と言っていた、触れなば落ちんのぴかぴかの上物、おしゃかにするわけにもいかない。だから、抑えろ、と、自己を説きはするが、けぶる敵意がおつくりの理知をうらぎっている。
 若草よりやわらかい髪をゆるく波打たし、鷹神紫由莉(eb0524)、くすりと唇からおもはゆいのをこぼす。
「あいかわらずですね」
「そう変わらんって、だいたいがもう百年以上生きとるんに」
「そったら長いこと生きとるだがや」
 ふわぁ、と、生欠伸そっくりの感心を吐き出す。御厨雪乃(eb1529)がきょとんとしながらも当人へ向けてはきはきと物思いを口にするのに反比例するように、備前響耶(eb3824)は室内の小陰、刀に砥石をあてながら、黒猫のように目も心もひそめる隙間に垣間見る。あれが天狗というのか、と、明に似た感慨を、だが彼女よりはずいぶんと冷めた観察で。今は人になっているから、大通りの賑やかしとそう大差ないが。そういうところが雪乃の興味をまた引くのか、あっけらかんとした自称。
「うちは御厨雪乃だよ。ちょいと足掻いとるだけの只の人じゃが宜しゅうに」
 にかりと、稲の穂がさざめくように笑いかけると、太郎坊も似たような口元になった。
 依頼の当てとなる娘の特徴、あたらしく見かけたときの居場所、等を太郎坊から聞き込み、綾都紗雪(ea4687)が備忘を録ったあとで、ふたたび紫由莉が口を挟み、
「出来ましたら上空からその娘さんの居る場所を見定めて、私達にお教え頂きたいのですが」
「ええよ。連絡は? オーラでも打っ放すか?」
 まぁ、遠目からでも明快だろう。そうしてください、と、紫由莉が善く善く礼を返し、紗雪もまた折り目正しく頭を下げる。蘇芳正孝(eb1963)は、横目で見るともなしに彼らを見やる。
 ――‥‥思いの外、親切なものだな。
「自分のことは自分でやり」というのだから、ずっと放任かと思っていたが。
 正孝にとっては、拾った小鳥をおしまいまで面倒をみるのは義務で責任で道理だが、彼がそうなのかまで知るところでない。冒険者らの疑問をわりといちいちとりあげるのは情け深くもみえるが、気まぐれなのかもしれぬ。とりあえず敵意はないだろう、と、正孝の信じられるのは、まるで書面を読み下すような、そこにあるだけの事実なのだ。
 太郎坊、たとえば明の、何に向けたのでもないぼやきにも、律儀に応答する。
「しっかし、連中が起き上がンのァ判ってンのに、なんで放っとくかね」
「そりゃ生きてるもんも同じやろ?」
 敗残兵や騒動に便乗した賊。おとなしく後退もできず、そのまま土匪へと身をやつしたもののなんと多いこと。秀真傳(ea4128)、青い眼ほどに涼しく「あのあたりにもいるかもしれんな」とささやく、かつての火線は轟くのをやめたとはいえ、残り火はいまだ神楽灰のごときほとぼり、冷や水でも注ごうものなら、眼を覆うほどに舞い上がるだろう。
 ニライ・カナイやヒサメ・アルナイルの口も借り、十両ほどをあずけ、戦場での弔いや骸からの情報収拾の依頼をを頼んだが、ギルドは、考えておく、とだけ返した。傳、考えるだけで充足するでないぞ、と、よく切れる言質の薄刃をのこすと、あとはさっさと当面の依頼に返る。
「斯様な場に一人は危険極まりない。一刻も早う娘御を探し出さねばの」
「‥‥生きても死んでも、地獄だな」
 明、白鞘に収めたままのホムラをぞんざいに振れば、切れる空気にほんの一筋、光る線が喪失する。


 清滝の界隈は、心労をなだめるための貴族の葎の宿も多いと聞く。傳、蓮華(はすはな)の名を与えられた馬を止めれば、見るより先に神経へ刺す草いきれにしばしたじろいだ。ゆらゆらと敢え無い陽炎のごとしの、水気をふくむ渡り風に吹き払われる。傳、それの教える方向へ、響耶とともに。清流。
「下流だ」
 と、響耶は、
「どこかに流迷って、岩や石を乱しているかもしれん」
 天狗の前よりは口状、ひとしお、すらすらとなる。むろんアレは彼の架した戦乱ではなかったが、人の、浮き世の衆生の都合だということはそれを考えると、あれこれ探る気持ちにはとてもではないがなれなかった。傳、そうじゃな、と、短くうなずくと、歌人の真似事のような漂泊の歩み。錦とも紬ともつかぬ、絵にも写せぬ美しさの真中へ分け入って。
 女性のことは女性だから――と講じたわけでもないのだろうが、氷雨鳳(ea1057)は、紗雪、雪乃といっしょに行った。ぽくり、ぽくり、と、馬での通い路。世間並みの駒といっても鳳の鋼は成熟いちじるしく、植物だけとはおもえぬ本能的なざわめきにも動じる気配はない。が、とりわけ堪能ともいえぬ手綱さばきでは、大きめの障害を透かすたび鳳自身がくりとかしいで、熟れた胸元が時折ふるえるのが気になるけれども、それは堪えるとしよう。馬上の高みから異国の騎士がごとく雄々しく見回した。
 草の影に、
 木の根に、
 苔の石に、
 てんでん不揃いに、張りなくぐたりと、たゆむのだけが共通の。夏至を間近にいっそう進行する腐敗が、それらから肉を洗い、人らしさをこそげおとす。虫の子は不気味に映える白い列で、穿たれた常夜の陥穽へ、いざって還る。
 空の遠くで、伊庭馨の放った鷹の万草が数え歌を吟じるようにゆぅるりと輪をなぞるのを見上げれば、夢見におしえられた寓話のようになつかしく思えた。
「‥‥死人憑きらしきのは見当たりませんね」
 韋駄天の草履で迅速おぎなってなお、軛のごとくぴんとみなぎる背筋を止めぬ紗雪が、一度足を止め、ぽつんと石を打つようになげいた。それはむろん悪いことではないのだろう、仏道の側面としても――不死者へと墜落する、六道の循環にすら無下にされる空恐ろしさは、紗雪の想像だにおよばぬ。じゃあ、こうしてただの屍と化した、空を見る眼窩なく、祈りを請う口唇なく、靄のごとく野辺に体裁を晒されるのを祝えるかといえば――‥‥。
 高槻笙がブレスセンサーで人型の息の緒見つからぬのをみとめるまにまに、紗雪、つと手を合わせる。誦経は濡れそぼち、淡い色調を満たせば、朽廃を羽毛よりもかろやかなところへ昇華する。紗雪が泣くように笑みをにじませると、馨、笙、無言でこうべをふる。けれど、膠で張り付いたように紗雪の容貌はそのままだ。
 ところへ――‥‥。
 あけぼらけにあやかったような桜色が、禁足地をしめす線条のごとく、ふいにたなびく。ばらばらになっていた冒険者らも、ほぼ同時に眼をつけた。
「あぁ、やっぱ空から見るのが早いわな」
 根比べではないのはてんから分かっていたが、しかし、無性に許し難い。明、些末はふりきるように駆け出す。彼女とは別の遠くでも、正孝、似たような思いを胸にいっしゅんかすめるのを遮二無二片付けたあと、湿地じみた土をべしゃべしゃ跳ね上げながら光輝の源泉へ向かった。
「オデット、あの光線を追ってほしいのだけれども‥‥ムリみたいね」
 紫由莉のオデット、形こそそこらの農馬とあまり違わぬが、実は皮膜を足裏に縫い付ける水の精、は、その本性に逆らっていささか気が小さい。闘気の彷徨を攻撃の烽火と見たか、飼い主によく似た青い眼をすがるようにじっと留め置くだけのをそのままにして、紫由莉もまたそちらへ、白地の裾を蓮のはなびらがごとくひるがえす。
 響耶の勘があたったらしい。探し人は葦の代わりに骸を織り込む川岸で、奥歯をすりだす曝首に腰をぬかしてしゃがみこんでいる。頭蓋は生への威嚇を続けるが、それ以上にじろることもできぬので、彼女はほっと息を返す、そのうしろ、隙を突かんと、首のない胴から腕らしきのが蔓薔薇のように伸びるのも気付かず――‥‥。
 けれど、がちり、と、二叉の金属がそれをはばんだ。
 響耶の押し込む、刺叉。修羅に用いるには少々重すぎるそれを背嚢とともにいったん放り、響耶はより彼の性分に近いものに手を染める。
「刃向かう力もないもののへ刃を向けるのはためらわれるが――‥‥」
 が、そうすることこそ「救い」なのだな、と、強がるような擬態もとらず、響耶は再生を遂げたばかりの打ち物を、動体のあいだにひたすら刻む。それは刀を慈しむときよりずっと無慈悲に、梃子をねじるような反射的に。
 還れ。
 京の警らにささげる骨身を賭ける力量でもなかった。黒影刃を尽くすまでもなく、響耶が水を断つがごとく刀をそよがすたびに、関節よりずっと細かい切れ端となり、返り血めいた流動体が響耶の裾をまだらに汚した。
「ふむ‥‥いちいち相手どるのは億劫じゃな」
 が、この数を、霞の刀のなせる早鐘でもっても、つぶさに手に掛けるのは悟った傳、風籟の御業に切り替える。伸び盛りの草原のくりぬきをつらぬく、雷剣はきざはしを彫るようにして澄んだ道をつくり、冒険者らは三々五々とそこへ集った――ほんとうに知らせるだけだったのだな、と、正孝の言い腐すように、むろん天狗はそこにいない。
「よ。その斬り傷。久しいか? 殺しきれてやれなくて、悪かったな」
 けれど、待ち合わせは、おしまいだよ。
 明、膂力で吊り上げる、血よりも赤い剣は三日月の弧のいやはしで、不明瞭な黒塊を生きる手前に砕いた。


「好きなだけ食べてええだよ」
 ただの保存食だけではない。抹茶味に小豆味、たいした御馳走だ。おまけに、けれど黄雀だけは勘弁してくんろ、と、雪乃が茶目っ気たっぷりに付け加えると、彼女は油をさしたばかりのようにぎこちなく笑み、雪乃の肩に係留する鷹の黄雀、いさかうように双翼を大げさに鳴らした。 
 雪乃、時ならぬ腹拵えをしつらえるあいまにも、てきぱきと小気味よい手順で道返の石を置いたから、しばし死人憑きが彼らを見付けて寄ってくることはないと思える、あったとしも先んじられるだろう。
 紗雪、水を勧めようとしたが、それは行動に移すまえにとりやめた。ピュアリファイで浄める水の清冽なのはたしかめるまでもないが、死人の浸かったのを見てしまったあとでは、精神的な拒否が先に立つ。それに、彼女、保存食のはじを囓るのがせいぜいで、渇きの自律まではとりもどせていないらしい。それと悟った雪乃、ぷぅ、と、ほおずきのような頬をふくらます。
「見っかる前にのびちまったら元も子もねぇべさ。それに、おめぇさの許婚っちゅーのんも共倒れなんて望んでなかよ」
 そのときまでは、正孝からどこか弁明めいて、頼まれて守りにきた、とだけ教えられていなかった彼女、許嫁、の一言にびくっと全身で怯えを作る。逆に、雪乃、力が抜けた。
「あぁ‥‥んだ。だいたいの勝手は知っとるべ」
 だから、雪乃、あとは聞き手に回る。言葉にかたちを換えてやるしかない心痛を受け止められるよう、ぴしりと足をなおして背筋もそうする。一粒の涙ものがさぬよう、自分が大層な秤になった心持ちがした。
 太郎坊、彼女を観察しながら端倪したことの大部分を、そのまま冒険者に伝えていたが、太郎坊は彼女が許嫁を捜しているらしい、とまでしか知らなかった。「ちと尋ねたいのじゃが」だから、率直に、傳、問う。
「おぬしの許嫁はどちらの軍に所属しておったのじゃ? 五条の軍か?」
「分かりません‥‥たぶん、そうじゃないかと思いますけど」
「たぶん?」
「あの人はなにも云ってくれなかったから、もう少しだけいい世の中になるかもしれないって、それだけしか」
 そんなものいらなかったのに、と、彼女、何も見ずにつぶやく。
 いい世の中なんて、知らない。このままであればそれでよかったのに、しかしそれは砂の城をはぐくむようなものだったろうか、祈りに組み合わせる手のひらからすりぬけて。
 五条に与したのは、なにも生え抜きの英雄ばかりではない。冒険者らが属した神皇軍も、五条の宮が命運をたくした軍勢にしろ、命脈を支えたのは名もなき兵士であったのだろう。そのなかには旗頭の信念すら理解せず、曖昧な理想に沈んでいったのもいたのだろう。だから彼女には、恨みもそねみもなかった。あるのは、北海の人魚が歌い上げるような、悲しみだけだ。
「‥‥辛いのぅ」
 憎悪の行き場も見付けられぬのは。
 だから、歌に耳を閉ざすため、彼女は人形になる。せめて、とりもどしたい、という幸せの残滓が、彼女に貧しい動をあました。傳がいくら魔法を行使しても、それは灼けない、歌はとぎれない。
 ふと、鳳が口火を切る。
「貴女の許婚は死んだ」
 ――水底の月のように薄弱ながらも、満月の明るみのように粛々たる、事実。
「私もこの戦に参戦したひとりだ。宿願を同じにしたものがひとり、またひとりといなくなっていく。それでも私は止まるわけにはいかなかった」
 はぁ、と、腹式で息の根をさらいながら、うつむけた顔を上げる。走馬燈のように戦乱の絵巻がくるめく、鳳の眼球を上側にたぐると、誠の一字にうがたれた鉢金が、覇気のたりぬ陽光を帯びて、鈍く黒ずみ、照り返す。
「悲しんではいられなかった‥‥ただただ目の前の敵を屠り、生きて帰りたかった。許婚もきっと、そうであったろう」
 だから。
 ――あなたも、いっしょに、生きて、ゆこう。
「いっしょに捜しますわ。‥‥オデット、彼女を乗せて」
 主人恋しさに一足も二足もおくれてたどりついた水馬の鐙を、紫由莉、愛しげにさする。水馬はひひん、と、忠馬を模していなないた。


 だが、禍を呼ぶ黄昏となっても、櫛の行方は杳として知れなかった。戦場は広大だし、あれから日数もだいぶんたった。もしかすると、目端のきく戦泥棒が持って行ったのかもしれぬ。しかし、一日を超えた日数を歩き通しの彼女は存外に達者な足取りで雪乃を呼ばい、櫛をさしだした。
「これ、食事のお礼です」
 これも――櫛だ。彼女が求めていたのは柘植だが、それは鼈甲だ。売ればそこそこの値になるが、けれど、彼女はいらないと云った。
「もう、いらないんです」
 別のものをもらったから。
「水神様のお救いもいりませんのね」
「ええ」
 紫由莉の洒落にも、嘘のない笑み。
 ――鳳に目配せすると、くるりと背を向ける彼女は、すでに人形の無力ではない。
 ふと、響耶が首をあげる。それに併せて正孝も同一の仕草をとると、堆積するような夕焼けに翼の影が映される。
 ――ずっと、見ていたのだろうか。
 鳳が笛から切ない谺をひきだすと、礫のような天狗の影は、紗雪が川に流した笹舟を付けるように、ゆるゆるとたよりない軌道で、しかしたしかに飛翔した。舟は流れる――天狗を越して、行き着く先が果実の実るおだやかな土地であるよう、紗雪はいつまでも合掌する。