【姫路・番外】 咽び泣くのは誰の声か

■ショートシナリオ


担当:からた狐

対応レベル:1〜5lv

難易度:難しい

成功報酬:2 G 16 C

参加人数:6人

サポート参加人数:-人

冒険期間:07月13日〜07月24日

リプレイ公開日:2005年07月21日

●オープニング

――恨めしい
 体は朽ち果て無残に崩れ。それでも意識は残り、訴える。
――一枚
 なさねばならぬ事があった。それだけの為に、苦々しい思いをしながらも生き延び仕えてきたのに。
――‥‥七枚‥‥八枚‥‥
 十枚組の家宝の皿は、確かに自分が揃えた品。足りぬと告げられた時の衝撃は、真冬の外気よりなお身を凍らせた。
――‥‥‥‥九枚‥‥
 ただそれだけの為に消えた命。自分の負っていた物を思えばあまりにも無残に散りすぎた。
――‥‥一枚足りない‥‥
 嘆いても嘆いてももはや取り返しがつかない。無い命は還らない。ただそれだけが哀しく、恨めしかった。


「姉を助けてやってはくれないでしょうか」
 京都冒険者ギルドに訪れた女は、沈痛な面持ちでそう口を開く。
「私の名は花野。姉の名は菊と申します。姉妹と申しても、親はとうに無く、私は昔に家を出、遊女を生業として生きておりました。その為、姉とも最早無縁であると思い、今日までいましたが‥‥。あれでは、姉が哀れ過ぎます!!」
 言って泣き出す依頼人に、係員は大弱りで宥めすかせる。
「姉は、姫路の城で女中をしておりましたが‥‥、昨年末に不忠を為した咎で処罰をされました」
「不忠‥‥というと?」
 曖昧に係員が尋ねる。他藩の、それも都から何日も離れた場所で起きた話など噂でも滅多聞かない。
「城には先代の藩主たる池多さまの頃から家宝とされた十枚一組の皿が伝わっておりましたが、昨年末、姉がその皿を一枚割ったとされ‥‥。その事を責められ斬り捨てられた挙句、遺体も井戸に投げ込まれ、今だ墓すら無い状態なのです」
「ああ。そういう話もあったなぁ」
 聞いてようやく思い出す。知っていたのは姫路方面の依頼がたびたび舞い込み、そのついでに耳にしただけ。よって、あまり関心も無い。
 気の無い返事は結局他藩事だから。罪人をどう裁くかなどそこを治める藩主が決める事である。たかが皿とはいえ伴う価値を比べれば、女中一人の命など安いモノだ。同情はするが、だからといってそれ以上のモノでもない。
「で、どうしろと? その姉の墓を建てて欲しいとでも? 言っとくが、その姉の報復をというのは無茶だぜ」
 冷たい口調に少しひるんだ花野ではあったが、厳しい目で係員を見つめる。
「実は、姉の亡霊が出ると言うのです」
 城下町にある武家屋敷。その一軒で菊の咽び泣く声が響くのだと言う。
「その家の主は小幡弾四郎と言い、黒松鉄山の腹心とも言われる男です。実は皿を割った犯人が姉だと明言したのもこいつですし、逃げたという姉を捕まえ藩主の前に引き出し、切り捨てたのもこの男なのです」
 そして、井戸に放り込んだ。女が化けて出る気持ちも分かると言うもの。
 だが、それだけではないと花野は告げる。
「この男、前々から姉に邪恋を抱いており、事あるごとに言い寄っていたそうなのです。ですが、姉は他に思い人があったらしく決してなびかなかったとの事。その話を耳にしてより私はこの件を不審に思い、注意して事件の話を集めておりましたが‥‥。どうやら、姉はこの男の計略にかかり、殺されてしまったのです!」
「ほぉ」
 軽い相槌を打つ係員に構わず、花野は話を続ける。
「あの日。皿を割った姉に、藩主に口利きをし、許しを得る見返りとして自分のモノになるよう迫っている小幡の姿を見た者がおりました。さらに詳しく調べれば‥‥、そもそも小幡が細工をして皿を割り、その罪を姉に擦り付けたようなのです。そうまでしても、姉が自分になびかないと知った小幡は‥‥姉を罪人として捕らえ‥‥処罰を‥‥」
「ひでぇな」
 感極まってぽろぽろと泣き出す花野の言葉に、さすがに係員も顔を顰める。
 可愛さあまってか、あるいは誰かに渡すぐらいならいっそと? どちらにせよ。傲慢で利己的な話だ。嫌われたのも無理は無い。
 だが、花野は勢いよく首を横に振った。
「ひどいのはそれだけでなく‥‥。処罰されてしばらくしてから姉の亡霊が小幡の屋敷に現れるようになったそうです。夜な夜な屋敷に現れては、井戸の傍で皿を数え、一枚足りぬと嘆き、小幡を責める‥‥。けれど、小幡はこれを喜んでいるのです!!」
「へ?」
 思わず間抜けな声を出して、係員がこける。
「二度と見られぬ姿を今一度目にする事が出来る。自分だけを思うてくれる。死してようやく我が元へ来た。自分の物になったのだと。姉は夜毎に小幡の元に現れては恨みを繰り返す。されどその恨みは小幡には届かず‥‥。こんな無慈悲な話はありましょうか」
 恨むべき相手をただ喜ばせるだけの道化。だのに、菊は亡者と成り果て、それだけに囚われてしまったか、夜毎に皿を数えてはただ恨みを繰り返すのみ。
 小幡を祟り殺してもまた迷惑な話ではあるが‥‥今のこの話も決して気分のいいモノではない。
「一度、話を耳にした僧侶が姉を供養しようと現れたそうです。けれど、小幡はこれを拒み、斬り捨てました。姉を恐れて暇を出した小間使いたちも、これ以上の噂が広まり姉を成仏させる者が現れないよう切り伏せられ。免れた者も処罰を恐れ、頑なに口を閉ざすだけ。さらに屋敷へ剛の者を集めて、不審に井戸へと近付く者があらば、力づくで追い払い‥‥。よって、この話を誰も口にしなくなり、屋敷に近付く者も無く、姉は‥‥今なお‥‥」
 唇をわななかせ、声にならぬ声を漏らす。その肩を叩こうと係員が手を伸ばした途端に、跳ね上げるように花野は頭を上げた。
「お願いします! 仇を取ってくれとは申しません。けれど‥‥せめて、姉が成仏するよう手を貸してもらえないでしょうか。これ以上あのような男の元に縛り付けられているなど、‥‥姉が不憫でなりません!」
「とは言ってもなぁ‥‥。藩主に訴えるというのは駄目か?」
 弱り果てて、係員は頭を掻く。ふと思いついた事を問うてみるが、
「証拠がありません。話をしてくれた方も証言はしないでしょうし、仮にしてくれても裏から始末される恐れもあります。黒松にしても、小幡を捨てる真似をするとは思えません!」
 花野は吐き捨てるようにそう告げる。それでさらに係員は頭を抱える。
 事情は承知したが。
 そも、家の主人に逆らって踏み込むのは、相手が一般人であっても無茶な話。おまけに、その主人がいろんな意味でまともじゃない。咎められて斬り捨てられても恐らく非はこちらに出るだろうし、話がこじれた挙句に下手に藩主に告げられようなら冒険者ギルドにまで類が及ぶかもしれない。
「やる事は幽霊退治と変わらんが‥‥。かなり面倒な話か?」
 低く呻きながらも。とりあえず係員は書類作成へと取り掛かっていた。

●今回の参加者

 eb1313 椿 蔵人(59歳・♂・浪人・ジャイアント・ジャパン)
 eb1967 綾峰 瑞穂(28歳・♂・陰陽師・人間・ジャパン)
 eb2041 須美 幸穂(28歳・♀・陰陽師・人間・ジャパン)
 eb2483 南雲 紫(39歳・♀・浪人・人間・ジャパン)
 eb2815 アマラ・ロスト(34歳・♀・ナイト・ハーフエルフ・イスパニア王国)
 eb2882 椿 為朝(28歳・♀・侍・人間・ジャパン)

●リプレイ本文

 なるべく時間を早めてと、急ぎ足で姫路に入る。
「そういえば最近この手の依頼ばかりですわね。夏だからでしょうか」
 今回の依頼内容を思い浮かべながら、須美幸穂(eb2041)が呟く。
 すすり泣く幽霊を成仏させる。依頼でなくとも夏の定番な話だ。今回少し違うのは、その幽霊を守る者がいる事だろう。いや、守ると言うよりは幽霊以上に執着を抱いた者がいる。それが依頼を少々厄介なモノにしていた。
「死んでまで何の未練があるのかねえ。どうやら未練があるって話だが‥‥、妹さんを堅気にしたいとか」
 悩んだ末に、椿蔵人(eb1313)がちらりと依頼人を見る。
 その依頼人、菊の妹である花野は、一瞬目を丸くしたが、すぐに首を横に振る。
「姉とはもう長く会っていませんでした。今の私がどうしてるかなど姉は知る由も無かったでしょう。それに‥‥姉はもっと大切な仕事を任されていたのですから、私に構う所ではなかったでしょう」
 何かを言い淀み、再度首を振る。
 蔵人は肩を竦めるが、何とも言わなかった。

「こちらで雇っていただけないでしょうか」
 菊がいるという小幡邸。そこに南雲紫(eb2483)が姿を現す。まずは女中として潜入しようと云う訳だ。
 予想した通り、女の姿は見えない。どころか人気がほとんど無い。小間使いがやめたと聞いたが、その後雇い直してはいないらしい。
 応対に出たのは柄の悪そうな男衆で上から下から嘗め回すように紫を見る。待ってろ、と言われる事しばし。別の男が姿を現す。
 身なりや周囲の男たちの態度からして、そいつが主人である小幡弾四郎だろう。
 年の頃は不明。聞く限りでは結構若かったはずだが、そうは見えない。落ち窪んだ目に痩せた頬、筋張った身体。その癖、妙に生気にぎらついた眼光をしており、瞬きもせずにぎょろりと紫を注視している。その異様さには、さすがの紫も身を引きそうになったが、必死に耐える。
(「病んでいる‥‥」)
 身体がではなく、心が。妄執に囚われ、それを良しとしているなど、ある意味、幽霊よりも恐ろしいかもしれない。
 とかく、丁重に礼を述べた後、弾四郎自身にもう一度、ここで働きたい旨を伝える。怪訝そうな顔をされたが、他の地方から来たのだと告げると、それで納得したらしい。
「いいだろう。しかし、裏の井戸には近寄るな」
 そう言いおくと、さっさと奥に引き篭もってしまった。
 潜入成功。そうほっとしたのもつかの間、
「へ、仲良くしようぜ。お姉さんよ」
 下卑た笑いをして男の一人が紫の尻に手を伸ばした。殴りかかりそうになるのもやはり寸前で堪える。
 顔を真っ赤にしている紫をどう思ったのか、男たちはニヤニヤと笑うとやはり奥へと消えていった。

 何故、菊は亡霊となって出てきたのか。成仏する意思はあるのか。
 姫路に来た夜。いつもの如く出てきた菊に向かい、幸穂がこっそりと、しかし直接テレパシーで語りかける。
 だが、伝わってくるのはただただ嘆き。小幡への恨みも勿論あろうが、それ以上に詫びや苦しみに満ちていた。幾ら問いかけようとそれ以上の何も話そうとしない。
「駄目みたいね。そんなに自我がある訳ではないみたい」
 明けて昼中。冒険者たちは一旦集まり、集めた情報を交換していた。接触して見た結果に、紫がまず落胆の声を上げる。
 菊が現れるや、弾四郎は上機嫌で酒を用意させた。嘆き訴える亡霊を前に酒を楽しむなどまさしく酔狂でしかない。周囲にいる警備の侍たちも薄気味悪そうにしている中を、弾四郎は嬉々として菊の嘆く様を見物している。
 距離としてもわずかなもので、もし祟り殺す気があるなら当にそうしているだろうに、菊にはその気配さえない。
「連れ出すってのも無理みたいだな」
 蔵人が小幡邸に入る事は実はそんなに難しい事ではなかった。紫の手引きもあったし、何より警備が少ない。ただ一箇所を覗いては。
 菊の出る井戸の周辺だけは警備が固い。亡霊の出る夜は勿論、昼である今も、常に何人かが井戸を見張る始末。こっそりと近寄る事は難しいし、肝心の菊がそれでは、接触した所で危険なだけだ。
「そういえば。小五郎さまに申し訳がたたない、とか言ってたといいますか、考えてたのですが‥‥誰でしょう?」
 幸穂が聞いた断片的な言葉に、椿為朝(eb2882)が眉根を潜めた。それは、彼女が聞いた菊の思い人の名だった。
「黒松小五郎。現藩主・黒松鉄山の息子‥‥でした」
 過去形で告げると、為朝は軽く息を落とす。
「前藩主である池多の姫様と恋仲で、ゆくゆくは夫婦に、とまで言われていたそうです。身分違いという事もあって、完全に菊の片思いだったようです」
「なら、会うのは難しいな」
 困ったように天を仰いだ蔵人だが、為朝は俯き、さらに言葉を紡ぐ。
「藩主・池多輝豊が亡くなってすぐぐらいに。家臣の一人が突然乱心し、池多の跡継ぎやその姫君、忠臣に至るまでを次々と惨殺するという事件が起きたそうで。‥‥その乱心した家臣というのが黒松小五郎だったそうです」
 為朝は花野に菊の事を話してくれた者を尋ね、そこから思い人を聞きだそうとした。しかし、予想に反していたく口が重く、なかなか話そうとしない。それを何とか宥め賺せて教えてもらったのが、つまりそういう事だった。
 聞いた中には当時城に勤めていた者もいた。危ないからと避難させられ、事態の瞬間は見ていない。が、その後、片付けなどやらに現場を踏みこむ事となり、周囲に散った血の跡やら刃物跡やらは目にしている。床板も天井も、まるで真白き城が真紅に染まったような悪夢を覚えた程。物事の凄惨を物語り、その相手は震えた。
 その小五郎も、最後は自ら命を立ったという。
 結局その一件で池多の家は死に絶え。息子の不始末があったとはいえ、他に適任も無く鉄山が藩主の座に着いた。
「すでに亡くなってるなら、言葉をかける事は無理ですね‥‥」
 落ち込む為朝に。アマラ・ロスト(eb2815)が気にしないで、と語りかける。
「諭して成仏が確かに一番いいのだろうけど。所詮、霊は人とは違う。むしろ人の形をした魔物何だし。強硬な手を使っても‥‥仕方ないよね」
 人の口には戸は立てられぬ。菊の亡霊が出ると云う話は実しやかに噂になっており、すでに怪事も起きている‥‥らしい。なので、アマラとしては特に何もする事は無く、これからの予定に専念するだけですんだ。
 重藤弓の弦を指で弾く。
 その手ごたえに頷くと同時、皆が仕方ないかというような顔をしていた。


「た、大変です。菊と申す亡霊が街中で‥‥」
 慌てふためいて小幡の家に町娘が飛び込んできた。無礼、と口を開く前に、菊と言う名を聞いて弾四郎が目を見開く。
「それは本当か!? 何故、菊が‥‥。えぇい、何人か着いて参れ! 他の者は井戸を固めよ!!」
 言うが早いか、屋敷を飛び出していく。
(「小幡さまは来て欲しくなかったですけど」)
 その後ろ姿を見送り、町娘――に扮した幸穂は内心軽く舌打ちする。
 とはいえ、行ってしまったものは仕方ないし、半数以上を連れて出たのでそれはそれで仕事がしやすくなる。
 街へと飛び出した弾四郎たちは菊の姿を見る。連れの侍たちが驚く中、弾四郎だけが強く唇を噛む。
「何奴だ! 菊に似ているが、そうではあるまい。私の菊はもっと美しい!!」
 これも一種愛の深さか。
 街中の菊の正体は幸穂のファンタズムである。間近で見た紫や蔵人の助言もあって、良く似た人物像に仕上がっているが彼の目はごまかせなかったようだ。
 激昂して菊の亡霊に切りかかる弾四郎。だが、幻影である以上触れる事など無い。闇雲に刀を振り回したとて一向に変化は無い。
 物陰からそれを見ていた幸穂。彼女の力量ではファンタズムの効果時間は短い。やがて幻影が揺らぎ薄れいくのを見計らい、テレパシーで語りかける。
『さようなら、小幡さま』
「い、今頭の中に声が!!」
「馬鹿者が!! 菊の声はもっと美しい!!」
 慌てる侍たちを叱咤すると、弾四郎は思案気に周囲を見渡し、
「――菊!!」 
 やがて、はっと目を見開くと、急ぎ屋敷へと取って返して行った。

――‥‥一枚
 かしゃりと皿を動かす音がする。
――二枚‥‥
 恨みがましい声で、女は皿を数えていく。
「ちっ、やっぱり出やがるか‥‥」
 井戸の傍では侍が悪態をつく。忌々しげに亡霊を見るのは、やはりこの状況を歓迎していないからだ。そんなのはあの弾四郎だけで十分。
――三枚‥‥ 四枚‥‥
 恨むべき相手が今ここにはいないのに、それも気付けないのか、ただ淡々と菊は皿を数える。それはいつもと変わらぬ光景ながら‥‥そうであるが故に侍たちは苛立たしげに亡霊を見遣り、
――‥‥八枚 ‥‥九ま
 最後の皿を手にした途端、菊に異変が起きた。菊の肩に穴が開いたのだ。
 陽炎が揺らめくようにしてそれは消えた。が、響いた弦の音と何より地に刺さった矢は、何が起きたのかを語る。
「襲撃か!」
 言う間に、二矢が飛んだ。それも菊を射抜く。察した侍の一人が声を上げるとオーラシールドを掲げる。それで続く矢は阻まれ、アマラは顔を顰める。
「あそこだ!!」
(「見つかったか」) 
 侍の一人がしっかりと自分を指しているのを見て、アマラは即座にその場から移動する。雨でも降っていればもう少し姿を隠せたかもと悔しく思うが、こればかりは仕方ない。もとより、さほど期待もしていない。
 事前に周囲を見て回った結果、空家が多かった。それは当然というべきか。文字通りの幽霊屋敷が傍にあっては、さしもの武者でも薄気味悪い。おかげで勝手にお宅にお邪魔して、矢を打つ場所は十二分に検分できた。
「もう一人いるぞ! 向こうの屋根の上だ!!」
 その声を聴きながら、為朝は思いっきり弓を引き絞る。射程ぎりぎりの所から、矢を放った。
「何をしているか、不埒者どもが! えぇい、菊を守れ!!」
 そこへ、弾四郎が帰ってきた。侍たちに激を飛ばすと、曲者を追い払うよう指示する。
 警備の者も数が揃い、曲者二人を捕らえに走り出る。それを見ると、二人は慌てる事無く逃走にかかる。
 その意識が、アマラと為朝に向いた隙に、紫は隠し持っていた短刀・月露を引き抜くと菊へと素早く斬りつける。
「貴女がここにいてもあいつを喜ばせるだけよ」 
 これが人ならば返り血などで到底ごまかしきれなかったろう。だが、菊は人でない。感触も何も無い刀を引き抜くと、鞘に入れ再び隠す。
 アマラの矢にも、為朝の矢にも、共にオーラパワーがかけてあった。これはアンデッドにはさらに威力を発揮する。それを菊は避けるでも無くすでに何発も喰らっていた。そして、紫の短刀もただの刃物でない。
 ゆらりと、菊の姿が揺らいだ。そのまま、揺らめき散ろうとしている体を菊は驚いた表情のままで静止している。
「小五郎さんはもういない。妹さんは元気でやってる。だから‥‥」
 成仏してくれないか?
 物陰に隠れていた蔵人がそう告げる。
『遺言‥‥』
「え?」
 菊がはかない声を紡ぎ、蔵人は思わず乗り出しかけた身をとっさに留める。弾四郎たちの意識が為朝たちに向いているとはいえ、今、見つかれば間違いなく命が危うい。
『遺言だった‥‥。池多さまを守れと‥‥ あの 方  が 最  期 に‥‥ わ た   く に ‥ ‥ 』
「菊ーーーーっ!!」
 だから。と、小さく紡いだ言葉は、弾四郎の声に掻き消えた。
 異変に気付いた彼が悪鬼の形相で菊へと駆け寄り、手を伸ばす。だが、その手が届く前に、
 菊の手から皿が滑り落ちると、地に付く前に霧散する。
 ゆっくりと菊が倒れる。否、崩れる。人としての姿は薄れ、塵となり大気に溶ける。
――小五郎さま‥‥
 全てが消えさる一瞬前。笑う様な泣く様な不可思議な表情を浮かべ、菊はただ愛しい人の名を告げていた。


 菊が消滅した後の、弾四郎の荒れ具合は恐ろしい限りであった。
 侍たちが全員で諌めにかかり、その為、蔵人がその場から無事に逃げ出せたのは幸運であったし、紫が即座に屋敷を去る事を口にしても誰も不思議とは思わなかった。
「ありがとう、ございます」
 事の顛末を聞き終えた花野は、号泣して頭を下げる。
 結局力技で菊を解放した事にしこりを持つ冒険者もいたが、花野にしてみればあの男の元から解放してくれたというだけでもありがたい事であった。
「奴らに対して皆様の数は少なく。正直、無理だと諦めておりました」
 花野はただただ感謝に頭を下げていたが、その一言に冒険者は苦笑するしかなかった。
 街中の幽霊騒ぎ――幸穂の幻影なのだが――は、小幡と侍が亡霊を追い払ったと吹聴した為、菊に関する追及は街中の方からも弾四郎たちからの方も無い。ただ、小幡の名がさも英雄のように広まったのは、やや納得いかないモノもあったが。
 そして、同じ夜小幡邸を襲い、警備の侍たちを殺傷したという賊の手配が出ている。弾四郎が暴れた際の尻拭いをこれ幸いと押し付けられたのだ。違うと名乗り出る訳にもいかないのはつらい所だが、これも仕方あるまい。幸い、まだギルドはおろか冒険者ら自身にも繋がる段階ではない。これ以上の長居は無用とばかりに早々と姫路から立ち去る事にする。
 何度も何度も頭を下げる花野とは姫路で別れ、冒険者らは京へと帰還する。
「来世では、迷わないように」
 姫路を出る際に、紫が振り返り黙祷をささげる。短い祈りを横で見ていた蔵人だが、
「しかし、菊の最期の言葉は何だったのだろうな」
 ふとその事を思い出す。
 恐らくはそれが菊の心残りだったのだろうが、今一つ不明瞭な内容でもある。あるいは幽霊となり記憶も混濁していたのかもしれない。
 彼女が何を思っていたか。その答えを出せる者は、今は、無い。