【鎌倉藩】揺らぐ土台

■ショートシナリオ


担当:言の羽

対応レベル:11〜lv

難易度:やや難

成功報酬:8 G 76 C

参加人数:8人

サポート参加人数:3人

冒険期間:01月08日〜01月15日

リプレイ公開日:2008年01月22日

●オープニング

 周囲三方を山に囲まれ、残りの一方を海に囲まれている鎌倉は、それだけで既に「城」であると言える。
 だが藩主の住居としての城はない。城の中に城を作るのもつまらないし、現実的な面では財政的に余裕がないからだ。
 故に、藩主の住居はただの屋敷。規模もそこまで大きなものではない。もしかすると、江戸や京都に住まう大商人のほうが立派な屋敷に住んでいるかもしれない。
 だが鎌倉藩を治める細谷家の一人息子にして嫡男である細谷一康は、自分の生まれ育ったこの屋敷を愛していた。高い所からならば確かに見晴らしがよいだろうが、低い所に住んでいるからこそ見えるものもある。城に住んでいたとしたら、今のように民から身近な存在として慕ってもらえる事もなかっただろう。まあ人気の面で言えば、鶴岡八幡宮の神主には勝てないのだが。一康にはまだ、あそこまで民に混じって己をさらけ出す事は出来ない。
「‥‥どうした、一康」
 床に臥せる父の呼びかけで、一康は内側に向けていた思考をその父に向けた。
「いえ‥‥今年は、紅葉を見に行けなかったな、と」
 一康の父、つまりは鎌倉の現藩主であるが、体調の不良を訴えるようになってしばらく経つ。原因については、医者も首を左右に振るばかり。
 関所の警戒を強めるなど今年は色々あったから疲れているのかもしれない‥‥一康はそう言って、治世が滞ってはならぬと無理しようとする父を何度も宥めてきた。なるべく体を休めてもらおうと、可能なものは代わりを務めた。さすがに家臣への年始の挨拶は避けられなかったが、それについても手短に済ませ、すぐに床へ戻らせたくらいだ。
「行けばよかったではないか」
「それどころではありませんでしたから。それに、父上が臥せっておられるのに、どうして自分だけ楽しめましょう」
「そうか。優しい子だな、お前は」
 優しいのは父のほうこそだ、と一康は思う。
 物腰の柔らかい父。線の細い父。貧しく力の弱い鎌倉にあって尚、鶴岡の下に甘んじている‥‥そんな謗りを受けようとも、心中はどう荒れ、かすかな笑みを絶やさなかった。物足りないと感じる家臣もいるだろうが、親としてはとても尊敬できる存在だった。
「失礼、よろしいですかな」
 再び会話が切れたその瞬間を察してか、閉じてある襖の向こうから、入ってよいかと尋ねる者があった。
「おお、その声は‥‥かまわぬ、入ってよいぞ」
「はっ」
 すぅっ、と襖は開かれ、尋ねた者の姿も現れた。
「では父上、私はこれで」
「うむ。すまぬが、わしの体が治るまで引き続きよろしく頼むぞ」
「勿論です」
 現れたのは、この鎌倉藩の筆頭家老、向野靖春だった。
「申し訳ありませぬな、一康様。追い出すような形になってしまいまして」
「いえ、お気になさらず。どのみちそろそろ退出するつもりでしたから。雉谷を待たせていますので、失礼します」
 一礼すると、一康は足早に父の部屋を出た。

 ◆

 検分事項の増加により忙しない関所であったが、自分達が鎌倉を護っているという思いが強いのか、役人達の誰もが生き生きと仕事に邁進している。
 一康は満足気に頷くと、乗っている馬の手綱を操り、踵を返させた。一康の教育係である雉谷長重も後に続く。
「父上の病状、どう見ます?」
 帰路の山中、馬にゆっくりと歩かせながら、一康はぽつりと呟いた。
「何か、気にかかる事がおありですか」
 長重は一康の表情に渋いものが浮かんでいるのを見て取り、後方から真横へと馬を寄せる。
「‥‥父上のお体は特に丈夫というわけではありません。ですが、病弱というわけでもありません。それなのに、ただの一度も急変がなく、じわじわと悪化している様子も見受けられないまま、これほど長く床に伏せっているとなると‥‥」
「‥‥‥‥‥‥毒、と?」
 周囲には誰の姿も見えないが、声は潜めておくに限る。長重が思いついた単語を互いのみ聞き取れる程度の囁きで述べると、一康は頷く代わりに殊更時間をかけて瞬きをした。
「月道の向こうから持ち込まれた毒であれば、医者が首を捻るのも合点がいきますしね。毒を投与する量と頻度を調節して、即座に命を奪う事なく、一定の状態を保たせているのかもしれません。生かさず殺さず、父上を人形に仕立てる為に」
「人形」
「ええ。人形です。傀儡と言い換えたほうがわかりやすいでしょうか。弱小とはいえこの鎌倉もひとつの藩――いえ、弱小だからこそ不甲斐ないと感じ、今のような守りの姿勢から攻めへ転じていきたいと考える者がいたとしたら」
 半隠居状態となり正常な判断力を欠いた藩主の名代として力を握り、鎌倉を意のままに操ろうとしている可能性がある‥‥そのように一康は考えていた。
 となれば、藩主の代わりを務められる人物が怪しいという事になる。今の鎌倉でその位置にあるのは二人。嫡男である一康、そして、筆頭家老である向野。
「‥‥向野殿をお疑いですか」
「彼は父上の信頼も厚く、能力も高い。けれど、厳しいゆえに煙たがる者が多いのも事実です。‥‥父上が倒れて以降は足繁く通っているのに加えて、関所を現在の状態へするのに一番反対したのも彼です」
 父の部屋を退出する際にすれ違った向野の姿を、一康は思い出す。父よりも両手ほど多く年を重ねている向野の髪には、ぽつぽつと白髪が混じり始めていた。だがつり上がった目に宿る眼光は鋭く一康を射抜いてきた。
 口元ばかりが笑みの形に整えられていて、目の奥まで笑っているような彼を一康は一度たりとて見た事がない。
「毒についても人形についても、可能性の話です。‥‥が、一度調べてみるのもいいでしょう。何も出てこなければそれで良し。万が一にでも埃が出てくるようならば、早急に手を打たなければ」
「しかし向野殿をお調べになられた事がお父上の知るところとなれば、若様とて!」
「危険を冒さねば手に入らないものもあります」
 なるべく隠密裏に事を運ぶ必要はありますが、と付け加えて、一康は深く息を吐く。
「私はまだ年若く、経験も浅い。ありがたい事に皆から慕われてはいますが、それだけでは不十分なのです。家臣が間違った道を進もうとするのならば、それを正すのも主たる者の務めであると、私は思うのです」
 一度抱いた疑いは、放っておいても晴れはしない。疑いを抱いている者に全幅の信頼を寄せる事はできない。
 願わくば、疑いがただの考えすぎで終わる事を。――青く澄み渡る冬の空を見上げて祈る、一康だった。

●今回の参加者

 ea0443 瀬戸 喪(26歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 ea2831 超 美人(30歳・♀・志士・人間・ジャパン)
 ea2832 マクファーソン・パトリシア(24歳・♀・ウィザード・エルフ・フランク王国)
 ea7767 虎魔 慶牙(30歳・♂・ナイト・人間・ジャパン)
 eb0833 黒崎 流(38歳・♂・侍・人間・ジャパン)
 eb5401 天堂 蒼紫(30歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 eb5402 加賀美 祐基(30歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 ec1064 設楽 兵兵衛(39歳・♂・忍者・人間・ジャパン)

●サポート参加者

キシュト・カノン(eb1061)/ 楼 焔(eb1276)/ 木下 茜(eb5817

●リプレイ本文


 冒険者として同じ依頼を受けた八人だったが、特につるむ事もなく思い思いの立場を装って関所を抜けようとしていた。
「仕事が忙しくて、まだ初詣ができていなくてな。どうせ詣でるなら鶴岡八幡宮と思ったのだ」
 愛馬を供にしているのは超美人(ea2831)。旅装束姿の彼女は一見してそれとわかる武器は携えておらず、理由もこの時期に合うもの。同じく初詣に来る者が多い事から、狭い山道では馬から下りていくようにと言われただけで済んだ。
「絵描きとしての武者修行中でさ。描きがいのありそうないい景色、知らないか?」
 加賀美祐基(eb5402)はこれ見よがしに画材を抱えて、役人に質問を投げかけた。
「いい景色か。鎌倉は野山と海に囲まれ、自然に恵まれている。鶴岡と大仏という見所ある建造物もある。数日の滞在では描ききれなかろう」
 自分の故郷に好意を抱く相手を無碍に扱う者はそういない。祐基の明るい雰囲気に飲まれたまま、役人は彼に手を振った。

「冒険者か」
「さすがに依頼内容はお話できませんが」
 瀬戸喪(ea0443)は冒険者ギルド発行の書状を役人に見せていた。といっても簡単な変装はしてある。
 役人は少し疑問を抱いたようだったが、書状自体は本物であるし、依頼によっては素性を隠さなければならない事もあるとは知っていたから、渋々ながらも道を開けた。
(「相手の油断を誘うためには、女装が一番いいんですけどね」)
 鎌倉の役人にはあまりよい印象がないという冒険者としてよりも、女性の姿をしていたなら、美人の時のようにもっとすんなりと通してくれたかもしれない。だがそれでは武器が持ちこめない。喪は万が一への対処を優先したのだ。
 そんな喪の横を、黒崎流(eb0833)と天堂蒼紫(eb5401)も同じようにして通っていく。どちらも書状を見せるのみで、特に詰問される事もなかった。

 もう一人、変装をしている者がいた。設楽兵兵衛(ec1064)。顔や頭の皮が突っ張るほど髪を前髪ごとかきあげて後ろで無理やり縛り、その上、声も変えている。装飾品や雑貨等を詰め込んだ荷を背負い、彼が扮しているのは商人だった。
「いやぁ、一旗上げようと田舎から刀一本で江戸に出たものの、ヘボが災いして泣かず飛ばずでしてね」
 兵兵衛に猫背の癖があるのを平身低頭と勘違いした役人は、哀れむような視線を彼に投げかけた。
「しかし腰の物はさすがに残してあるのだな」
「いいえ、ホラこの通り質の種ですよ。腰が寂しいので十手下げてるのは最後の見栄‥‥ですかねぇ」
 鞘から抜かれた刀は、いわゆる竹光。刃を持たない偽の刀だ。それほどまでに貧しいのかと、ますます哀れみの色は濃くなった。
「そんなこんなで商人に鞍替えです。どうです、旦那様。関所勤めも大変でしょう。仕事に追われて奥方に寂しい思いをさせてるのでは?」
「む‥‥実は言う通りでな。関所勤めの役は順に回ってくるのだが、一度順番が来るとしばらく家には帰れん。妻は機嫌が悪くなるし、まだ幼い子供に忘れられはしないかと、ひやひやしているよ」
「大変ですねぇ」
 今の役人の言葉を胸にとどめ、兵兵衛は更なる行動に出る。
「そういう時は贈り物。単純ですが効きますよ。このかんざしなどいかがですか、値はこんなもんで」
 立てられた指の数に、役人は目を見開いた。
「おや、お高い? これだけの値はする品なのですよ」
「だが金を使いすぎても妻の雷が」
「ならば色をつけましょう。‥‥その代わりに有用な情報でもないですかね。こっちで仕入れて江戸で高く売れる物とか、最近の流行とか、関所ならではの話とか」
 譲っているように見せかけて、元より狙いは情報。柔和な笑みの裏に本心を隠しつつ、「どうします?」と兵兵衛は悩む役人を焦らせる。
 やがて、気になっている事はある、と役人は声を落とした。荷車に沢山の荷を乗せた一行が、無傷のまま鎌倉方面へ抜けていく事が度々あるのだという。盗賊とて襲うには準備が要るだろうし、見逃していたり気づかなかったりしている商隊がいてもおかしくはないのだが‥‥
「無傷なのはひときわ荷の多い隊ばかりのように思えてな。改めを厳しくしようかと協議しているところだ」
 荷が多いという事は、盗賊にとっても利が多い獲物のはず。ただの偶然が度重なっているだけなのか。
「貴重なお話ありがとうございます。ではお約束どおり、この値に」
「先程の半値ではないか。これで妻も機嫌を直すだろう。――今の話、私から聞いたというのは内密にな」
「勿論です」
 代金と品物とを交換すると、兵兵衛は次なる商売の場を求め、関をくぐった。

 皆からやや遅れて到着したのはマクファーソン・パトリシア(ea2832)だ。鎌倉についての情報を冒険者ギルドから聞いておこうとした為に時間をくったのだが、さしたる成果は上げられなかった。
 地域性はともかく歴史や現状といった事柄は、ギルドに尋ねたとしても上辺しかわからない。仮に深い内情を知っている者がギルド内にいたとしても、何の伝手もなく正面から行って教えてもらえるわけがない。
「やっぱり、藩の細かい事は中々聞けそうに無いわね。だったら他の事を徹底的に調べて‥‥」
 呟きながら考え事をしていたら、あと一歩で関所破りになってしまうところだった。

 そして最後に現れた虎魔慶牙(ea7767)。その長身と体躯でただでさえ目立つというのに、訓練された馬に乗り、商隊と縛り上げた男ひとりを連れていた。
「こいつは例の街道に出た盗賊だ、引き渡すぜ」
 馬から下りるなり、彼は駆け寄ってきた役人に向けて縛られた男の背を押した。
「例の街道。となると、頭領が女の?」
「そういや命令出してたのは女だったか」
 あっけらかんと言ってのける慶牙の肩で、愛猫が相槌を打つ代わりに短く鳴いた。
「ではあの一味を倒したというのか」
「いや、さすがに人と荷を守りながら一人で潰すってぇのは無理だ。矢も飛んできたし、すばしっこくてな。とりあえず今回は、そいつだけ捕まえたってわけよ」
 他の役人もやってきて、盗賊の男を引っ立て、商人達を事情聴取の為と屋内に連れていく。
「あなたも冒険者か。依頼で?」
「半分観光みたいなもんだけどなぁ。土産に葱も買わないといけないしな」
「葱が土産になるのか? だがそれだったら、江の島あたりで最近いい葱が出てきたと聞くぞ」
「じゃあちょっくら行ってみようかねぇ。礼と言っちゃぁナンだが、これ、仕事がはけた後にでも飲んでくれ」
 娯楽の少ない関所勤めではただのどぶろくも平時以上に喜ばれる。冒険者には珍しい、気配りのできる男と判断されたようで、慶牙は役人から温かい見送りを受けた。
 ――しかし‥‥あの一味、先日も二人捕まって隠れ家も見つかったというのに、もう動けるほどに回復したのか。
 ――早すぎる。裏に力のある奴がついているのかもしれないな。
 背中で交わされる小声の会話に、耳を傾けながら。


「すごいわね」
 マクファーソンは嘆息した。首をほぼ真上に向けた状態で。視線の先には大仏の顔がある。
「鎌倉へは初めてですか?」
 箒を手にした幼い小僧が彼女に話しかける。すっかり観光客と思っているようだ。
「ええ、最近鎌倉の魅力に惹かれて、色々と知りたくなったものですから。そうだ、鎌倉で一番偉い人は誰ですか?」
「一番は当然藩主様でしょう」
「それじゃあ二番目はどんな人ですか?」
「二番? 藩主様のご嫡男か、筆頭家老の方かと‥‥」
「その人達とお話された事は?」
「ご嫡男は滅多に来られないものの、私に気づけばお声をかけてくださいますが、よく来られる向野様はその暇もないほどお忙しいご様子で‥‥って、そんな事までお知りになってどうするんです」
「筆頭家老は向野様というんですか」
 立て続けの質問は小僧に不信感を抱かせ、小僧は彼女の本心を伺うようにじっと見詰めてくる。
 これ以上は無理だと判断した彼女は、礼だけ述べてその場を後にした。

 向野邸そばの茶屋に座っていた美人は、情報として先に受け取っていた人相とほぼ重なる男達を目にし、立ち上がった。向野の二人の息子だ。
 つかず離れずさりげなさを装って、彼女は二人の後をつけていく。
 程なくして、二人は大通りから横に逸れた。人通りが減る。それでも彼女は尾行を続け、また角を曲がり――見失った。
「気づかれたっ!?」
 美人は尾行の為の技術を持ち合わせていない。もし息子達が尾行を警戒していたとしたら、とっくに気づかれていた可能性もある。手近な建物を片っ端から覗いていくわけにも行かず、しばらくその付近への注意を怠らないようにするしかなかった。
 一方、足音や気配を忍ばせる事で尾行を成功させた者もいる。喪は向野の屋敷から出てきた若い女中を追い‥‥八百屋に到着していた。
「量も多いし、最終的には配達するんだけどな。実際に物を見てから決めたいらしい。奥方のご意向なんだとさ」
 お屋敷の方でもわざわざ買いに来るんですね、と喪が何となく心に思った事を述べたところ、店主からはこんな風に返ってきた。
「奥方、厳しいの?」
「自他に厳しいって話だ。少しでも帰りが遅いと叱られるから、こういう世間話もできないんだと」
 おまけするから買ってくれという店主を適当にあしらうと、喪はまた元の場所に戻り、別の家人が出てくるのを待つ事にした。
 数日経つと、美人にも色々とわかってきた。慣れない街での尾行は自分には難しい事、娘は外にほとんど出ないという事、等々。世間話から始めて商店街及び向野の家の下働き達の人気者となった喪とは別に、繁華街を廻ってみたものの、彼女の予想に反し突然金遣いが荒くなったという事はなく、むしろその逆。財布の紐の固さで有名だった。
 そして別々の酒場で情報を収集している慶牙と蒼紫も、狙う情報にはなかなかたどり着けずにいた。

 とある呉服屋では、ここ二、三日で居着いた流れの絵描きが評判になっていた。
「これが私? 綺麗過ぎないかしら」
「俺の目にはそう見えてるんだ。お姉さん、綺麗だよ」
 祐基が笑うと、似顔絵を描いてもらった女性だけでなく、覗き込んでいた他の女性までが頬を朱に染めて喜んでいた。
 この店の客に取り入るという目的の為には、店主に大金を握らせ、甘い言葉を囁くのも仕方のない事。自分で考えて実行しているとはいえ、吐き気を覚える。
 だがそのかいあって、彼は向野邸への侵入を果たした。取り入った女性の一人が、向野の娘付きの者だったのだ。
「母に気づかれると大変だから、手早くお願いしますね」
 言いつけで外に出られない娘は、まだ十四だという。向野がやや年取ってからようやく生まれた娘とくれば、余程大事にされているのだろう。
「関を通ってきたのなら、藩主様のご嫡男を見かけませんでした? よく見回っているそうなのですが‥‥わたしね、あの方の妻になるのだと父からいつも聞かされていますの」
 父と藩主はそのつもりだが、肝心の嫡男にまだ妻を娶るつもりがないようだと、彼女は苦笑した。
「藩主様がお元気になられたら、この話も進むのかしらね」
 完成した絵を見た彼女は、いたく気に入ったようだった。美しい方を描けただけでと祐基が報酬を断ると、何かあれば自分の力の及ぶ範囲で便宜を図ると約束してくれた。
 また、とある道端に占い師が出没すると噂になった。
「手相の修行をしているのですが、宜しければ見せていただけますか?」
 大抵の女性は優しげな青年に微笑みかけられれば素直に手を差し出す。流は数日かけて見当をつけた女性の手を、丹念に眺めるふりをした。
「ご立派な方のお役に立って居られるのでは?」
「お偉い方のお屋敷に勤めさせていただいているわ」
「あなた自身は優しくてしっかりしている方ですね。お仕事にも誇りを持っていらっしゃる。けれど大変そうだ」
「ええ、その通りよ! 奥様が大変厳しい方で――」
 既知の情報を占いで得たかのように振る舞い、女性から警戒心を奪う。女性の瞳は見る見るうちに輝き、普段はなかなか言えない愚痴を零し始めた。
「わかります。けれど今は我慢の時。近いうちによい方と出会い、あなたは幸福な家庭で暮らしていけるでしょう。‥‥ですが、ただ一つ、気になる事が」
 文字通りの台所事情を把握したところで、流は核心をつく事にした。眉をひそめ、深刻そうな顔を作る。
「あなたのお仕えしている家に、何か悪い相が見えるのです」
 すっかり流の言葉を信じきっている女性は、仕事を失うのは困る、とすぐさまどう対処すればよいのかと聞いてきた。
「恐らく、ここ半年ほどではないかと思いますが‥‥お屋敷に出入りするようになった方に心当たりはないですか?」
 雇い主の事情を話す事には躊躇したものの、その家の為だからと聞き出してみれば、条件に合う人は確かにいるとの事。しかもその人の来訪時には人払いされ、主と共に長々と語り合っているのだとか。
「尼僧様なので、心の持ちようなどをご相談されているのだと思いますが‥‥」
「師匠にも相談してみるので心配しなくても大丈夫。これは付き合って頂いたお礼です」
 よくなるように対処すると言いながらまた微笑んで、女性に鼈甲の櫛を握らせた。

「浪人、天堂寺総司朗と申します」
 偽の名乗りを上げる蒼紫の前には、向野靖春その人がいた。酒場で向野の家臣と思われる者に声をかけた結果だ。
「他藩の情報を売りたいそうだな」
「ええ。新田、金山、長尾、畠山、比企、秩父丹党、他各国の戦術、城内見取り図等、高く買って頂きたく」
 左右と背後には向野の側近も控える中、冷静を保つ努力を欠かさず、交渉を始める。
「何故私に売ろうと思った」
「伊達や新田などに売っても面白くありませんゆえ」
「‥‥幾らだ」
「情報一つにつき、金五十。破格の値段と思いますが?」
 乗ってきた。蒼紫はそう判断してふっかけたのだが、そうではなかった。
 向野が片手を挙げると、背後の側近が蒼紫を捕まえた。
「なっ!?」
「複数に取り入ろうとする輩にろくな奴はおらぬ。無傷で返してもらえるだけありがたく思え」
 ここは向野の屋敷。こちらは独りなのに相手の本陣で逆らうのはうまくない。心中で舌打ちしつつも蒼紫は大人しく屋敷から放り出された。

 海岸沿いで店を出していた男から干物を受け取るマクファーソン。向野について男に尋ねるも、家老だという事くらいしか知らないしこんな所にくるはずもないと一蹴される。
 聞き覚えのある声がして振り向くと、葱を買い付けている慶牙がいた。情報屋の存在は知れど、会う事はかなわなかった。
 鶴岡では兵兵衛が高価な御守を買い付けさせられている頃の事だった。