【看板息子】奴をその気にさせろ
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■ショートシナリオ
担当:言の羽
対応レベル:フリーlv
難易度:普通
成功報酬:0 G 52 C
参加人数:7人
サポート参加人数:10人
冒険期間:03月20日〜03月25日
リプレイ公開日:2008年04月07日
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●オープニング
江戸の街の一角にあり、なかなかの繁盛を見せる甘味処『華誉』。
初代であった父の後を継ぐ二人の兄弟とその母親、そして弟子入りした青年に、青年の子分達。なんだかんだで大所帯の店だったりする。
同じ江戸の街中には、老舗呉服屋である『鈴乃屋』という店もあるのだが、その店では月道を通ってまで英国から商人の修行にやってきた娘が住み込みで働いている。誠実で、銀の髪と青い瞳が印象的な彼女に、『華誉』の次男と、弟子入りした青年が熱を上げるまで、そうそう時間はかからなかった。
だが前述の通り、娘の本国は英国。いずれは遠いその国に帰るのだと、次男は己の想いの行き先を自ら閉ざそうとした。幸いな事に、周囲はともかく娘本人は彼の想いに全く気づいていなかった。忘れよう、辛くともそれは今だけ――そんな時、苦しい胸のうちを抱える彼の前に現れたのが、月の精霊ブリッグルである。
切ない恋に反応してやってきた精霊は、次男に憑依し、日々、魔法でもって彼の脳裏に話しかけ続けた。
寝る事すらままならなくなった次男は目の焦点すら次第におぼつかなくなり、事情は知らずとも弟の変わりようを心配した兄によって、先日、ところてんの材料となる天草の採取場に、気分転換をしてこいと送り込まれた。魔物が現れているとの事で、冒険者に退治を依頼する、そのついでだった。
結果として魔物は退治された。次男はというと、冒険者達から言葉をかけられ、その涙の温かさに触れる事で、精霊だけでなく自身の想いに対しても、前向きに対処していくようになったのであった。
◆
でまあ、そっちはそれでいいとして。
今度は兄こと栄一郎が、頭を抱える事になっていた。
「母さん‥‥これで何人目だ?」
「そうだねぇ、八人目かしら。あら、末広がりでいいじゃないの! ここでバシッと一発決めちゃいなさいよっ」
毎日毎日、初見の女性が一人ずつ、客としてやってくる。角度的に暖簾の隙間から調理場が覗ける席に案内され、甘味を頼む。本来ならばその甘味を運ぶのは女主人か弟子入り青年の子分達であるのだが、その席に座った女性にだけはなぜか、栄一郎が持っていくようにと女主人が命じてくる。仕方なく言われたとおりにすると、女性はじっと栄一郎の顔を覗き込み、ともすれば甘味の皿を差し出した手にそっと触れてくる。
そっち方面にいかに無頓着な栄一郎であっても、これだけやられれば嫌でも察しがつく。
――簡易な見合いだ。
「まだまだ精進の足りない身なんだ。結婚するつもりはないよ」
「そうは言うけどね、いつまでも独り者じゃあ、私も安心して隠居できないだろう? 職人ってのはすぐに目の前のものにのめりこんじまうからね。支えてくれる人がいないと」
「それは‥‥」
父もまた、根っからの職人だった。その父を実際に支えていた母の言葉は、栄一郎の心にずしりと重く響く。
「勿論、今すぐに隠居したいってわけじゃないさ。けど、お前が修行するのと同じで、支える側にも心構えやらコツやらがいるんだよ。それを教えてやる為にも、なるべく早いほうがいいだろうっていう話なんだよ」
もっともな言い分なだけに、拒絶が難しい。何よりそんな母を安心させてやるには、誰かいい人を見つけるのが一番なのもわからなくはないが、夫婦となればこれから先、命の絶える時まで寄り添わなければならないのだ。自分だけでなく相手の為を思えばこそ、中途半端な気持ちでの婚姻であってはならない――と、栄一郎は考えるわけだ。
頭が固いのか。ただの馬鹿なのか。誠実が過ぎるのかもしれない。しかし、これが栄一郎という人である。
「母さんの言い分は理解した」
「じゃあっ」
「‥‥だが、見合いは気が進まない。母さんの探してくる人に文句があるわけじゃないが、俺が与えられたもので満足する性分ではない事、母さんなら知っているだろう?」
冷静な自己分析をする息子に、そんな息子をよく見てきた母は、折れるしかなかった。
◆
といっても、転んでもただでは起きないのが母である。母は強いのだ。
「興味の薄いあの子に、女の子の良さを、これでもかっっっ!!! ‥‥ってくらいに、教えてあげてちょうだい」
聞きようによっては危険な言葉を依頼の内容として、ギルドで力込めて語れるくらいには。
●リプレイ本文
●準備
「ここ最近、色恋ばかりに関わっているように気がいたします。やはり春故でしょうか」
湯呑みを両手で持ち、のほほんと語るラン・ウノハナ(ea1022)だったが、そんな生ぬるい状況ではなかった。
「親方! 贅沢言いすぎっすよ!」
「そうです、俺達みたいに自分から行ってもダメな奴がいるのに比べたら!」
「それはお前達の問題であって、俺とは関係ないだろう。いいから離せ」
弟子入りした康太についてきた子分達。その中でも女性にあまり縁のない数人が、調理場で生地を練る栄一郎に食い下がっている。
今は開店前の仕込みの時間だ。忙しない時間帯であるが、そこは見知った仲。客席の隅で茶をすするくらいは許される。むしろ、リノルディア・カインハーツ(eb0862)とランが並んでいる分には、可愛いものを好む女主人が喜んでくれる。その向かいには桐沢相馬(ea5171)が渋い顔つきで座っているが、華誉の面々は慣れたもので気にしていない。
「話を聞いた限りでは、結婚に全く興味がないという事ではないようですね」
「ランもそう思いましたわ。恋愛にも、決して興味がないようには見えないのです」
リノルディアの言葉にランが応えると、相馬はちらりと暖簾の向こうに視線を送る。まだそこはかとなく騒がしい。
「あくまでも修行優先、なのでしょうが‥‥外に出なければ良い出会いも無いと思います」
「確かに出会いがない事にはどうしようもない。まずは交際相手ではなく、話し相手という感じで、異なる価値観を持った相手と会話するように仕向けよう。相性がよければ変化していくだろう」
「意識を変えるのは難儀やも知れませんが、やるだけやりますのよ!」
体の小さなランの作る握りこぶしは、やはり小さい。だがその決意は大きい。押して駄目なら引いてみろ、と言い出した相馬は何か思いついているようで、口角を持ち上げた。リノルディアは相馬の思いつきに心当たりがあるようだった。
●開店
今回の依頼の目的は、栄一郎が結婚したくなるように仕向ける事。
その先に立つ目標を、アウレリア・リュジィス(eb0573)は「女性の魅力を伝える事」であるとした。ではどうすればこの目標を達成できるのかと考えた彼女が思いついたのは、栄一郎の好みのタイプや結婚相手に望むのは何なのかを尋ねてみる事だった。栄一郎が女性を魅力的だと感じるポイントを掴もうというのだ。この案に乗ったのがシルフィリア・ユピオーク(eb3525)であるわけだが――
「大和撫子」
あまりにもあっさりきっぱりと回答されたので、二人は一瞬、唖然としてしまった。
「じゃあ、あそこの――」
シルフィリアが示したのは、件の調理場の見える席。この日も一人の女性(通算十人目)が座っており、じっと栄一郎を観察していた。
栄一郎のほうもそれには感づいていて、頬の肉が引きつっている。弟の勇二郎に聞いてみれば、堪忍袋の緒が切れる前兆だと教えてくれるだろう。ただし、母親に対して緒を切らすわけにもいかないから、必死で我慢しているようだ。
だがその人は女主人が連れてきたのではない。シルフィリアの知人、明王院未楡である。
「彼女は違うだろう。どちらかといえば母性のかたまりだ」
そうとは知らない栄一郎は、これまたはっきりと返事をした。大和撫子と母性。似ているように思えるのだが、彼の中では明確に線引きされているらしい。
「今まで会った中で、冒険者含めて、好みのタイプに分類出来る人はいませんでしたか? 尊敬できる人とか」
追いすがるアウレリア。すると、栄一郎の動きがぴたりと止まった。そしてそのまま暫し押し黙った後、
「‥‥好みの人柄と、実際に惹かれる人柄というのは、違うよな」
ぽろっ、と、意味深な発言をした。
「ちなみに尊敬しているのは亡き父だ。そこを探っても何も出てこない。残念だったな」
言うだけ言って、裏口に訪ねてきた問屋のところへ行ってしまった。
残されたアウレリアとシルフィリアは、思わず顔を見合わせる。
「難しくないですか!? 今の発言からすると、大和撫子な方を連れてきても栄一郎さんの琴線に触れるかどうかはわからないみたいですよ」
「心惹かれた冒険者がいたって事なのかねぇ‥‥。仮にそうだとしても、恋愛感情にまでは育たなかったようだけど」
うんうん唸る二人。そこへ、客から注文を受けたランがふよふよと飛んできて、困ったように眉根を寄せた。
「やはり一刀両断されてしまいましたか」
栄一郎という人間の理解は、ランのほうが二人よりも上であるようだ。
「兄貴は一筋縄じゃいかねぇぜ。ほら、持ってってくれ」
しかしそんなランも、団子の乗った皿を持った勇二郎が近づいてくると目の色が変わった。皿をシルフィリアの眼前に突き出す彼の一挙一動に、どことなく、はらはらとしている。いまだ精霊に憑依され続けている勇二郎が気になって仕方ないのだろう。
「そういえばさ、甘さ控えめだったり、逆にすごく甘いお菓子って作らないのかい?」
「は?」
団子を目にしたシルフィリアが言うと、勇二郎は意味を理解できなかったらしく、素っ頓狂な声を上げた。
「ほら、味の好みって人それぞれだろ? 選べたらいいんじゃないかなって思ったんだよ。味の調節は難しいんだろうけど」
個人ごとに異なる上に、その個人の中でも体調や気分によって日ごとに異なる。それが味覚というものだ。
菓子作りをそういった方向で考えた事はなかったと顎に手を添えた勇二郎は、相談してみると彼女に答えた。
●大店の娘
「大変よいお味でした」
華誉が寒天を卸している大店の娘、清音は、匙を机上に置くと眼前の栄一郎に微笑みかけた。
彼女が食したのは、栄一郎がリノルディアの助言を参考に作った、夏に向けた新作菓子である。四角い深皿にところてんを敷き詰め、その上に紫陽花を模した餡玉を乗せたものだ。
初めて会った頃に比べて随分と大人びたものだ、と相馬は心中で呟いた。二年の月日が経ち、少女は立派な女性へと成長していた。これならば当初の思惑通りに栄一郎のよい話し相手となってくれるだろう、と彼は、栄一郎を挟んで自分と反対側にいるリノルディアに目配せした。リノルディアも小さく頷き返すと、栄一郎に話しかけた。
「西洋菓子の技法も取り入れれば、より美味しい物ができるかもしれないと思うのですが」
「正直なところ、興味はある。だが今はただでさえ修行中の身、手を広げるのは――」
「似て非なるものに触れる事で、気づく事もあるかもしれませんよ?」
渋る栄一郎とは対照的に、清音のほうは興味を持ったようだ。
相馬の思惑通りだった。栄一郎と清音には菓子という共通項がある。その点において互いに認め合っている二人だからこそ、相手から自分とは異なる意見を発されても素直に耳を傾ける事ができる。
(「悪くはない」)
そう、悪くはない。栄一郎が清音を女性として見ているかどうかはまた別の話であるという事を抜きにすれば。
●女主人
手の空く時間帯には、女主人への聞き込みが行われた。
「その清音さんという方ではダメなんですか?」
卓を布巾で拭きながらのアウレリアの問いに、女主人は首を振る。
「二人の気持ちを横に置いて考えたとしても、まずないわね。あちらさんは婿をとって店を継がなければならないだろうから。職人である栄一郎はそもそも眼中にないはずよ」
高価な品も扱う大店と小さな甘味処とでは格が違う。そしてどちらも後継者を必要としている。その後継者同士が結ばれる事はまずないだろう。逢莉笛舞からの報告で清音にはまだいい人がいないと聞き、それなりに期待していたアウレリアだったが、不発に終わってしまった。
「『御子息を結婚させたいなら、家から放り出せ』というのが、私の祖国での格言です」
卓上の入れ物に爪楊枝を補給しに来た晃塁郁(ec4371)も、この会話に参加する。
「お金に不自由せず家事も人任せならば、結婚の必然性を感じる訳もありませんからね」
「それはつまり、一度外に出してみればいいという事? だったら、あの子はもう経験済みよ。よその職人さんのところで修行してきたんだもの」
だがこちらも不発に終わる。女主人は詳しくは言わないが、早くに大黒柱を亡くしたこの一家ではお金に不自由することが多かったし、両親ともが店に出ていた為に栄一郎は幼い頃から家事をこなしてきている。弟である勇二郎の面倒も見てきた。
「‥‥あの子はね、苦労してないんじゃないの。苦労しすぎなのよ。いつだって。だから、早く支えてくれる人をもらってほしいのに」
ため息をつく女主人。よくできすぎる息子を心配する、母親の顔だ。
「だから、なんじゃないかな」
親が子を心配するのは、自然の摂理としても当然の事。しかしアウレリアはそこに危なっかしいものが感じられてならなかった。
「もし栄一郎さんが相手を決めたら、その相手にかなり負担かける事になっちゃうよね。栄一郎さんは優しいから、それを引け目に感じて、相手を決めるのを躊躇ってるのかも」
親の情は時として、子以外の存在をないがしろにしかねない。本人にそのつもりがなかったとしても、だ。
女主人は目から鱗が落ちたような顔でアウレリアをまじまじと見つめた後、そうかもしれないわね、と窓の外の景色へと視線を動かした。
「急ぐ気持ちも分からなくはありませんけど、少々行き過ぎな気もします」
努めて冷静にしているリノルディアからも意見が飛んでくる。
「ここはやはり年長者として急がず腰を据え、女将さんと先代店主さんの馴初め等をお聞かせすればより効果があるかと思います」
急がず焦らずで行くべきだと主張する彼女に、アウレリアも同意した。その上で、新たな提案がなされる。
「周囲で誰か幸せなカップルを見せて、ああ良いな、と思って貰うのはどうかな。まずは周囲からって事で、康太さんの部下さん達に可愛い彼女を紹介するの」
調理場も静かになって丁度よいのではなかろうか。女主人は目から鱗、本日二回目。右の拳で左の手のひらを叩くと、頭の中で早速幾人かの女性を見繕ったようで、楽しそうに鼻歌を歌いながら出かけていった。
「‥‥もしかして、もともと男女を引き合わせる事が趣味なのかな」
戸から顔を覗かせて見送る者達は、アウレリアの言葉に我知らず頷いていた。
●栄一郎
「甘さの案について勇二郎から聞いた。試してみよう」
別の日。ランと分担して店内の作業に精を出していたシルフィリアを呼び止めて、栄一郎がこう言った。
シルフィリアは表情を輝かせたものの、栄一郎の言葉はそこで終わりではなかった。
「今日はこのまま店の手伝いをしていてくれ。家のほうは気にしなくていい」
疲れた体を引きずって帰宅した時に真心の篭った食事やふかふかの寝床が用意されていれば嬉しかろうと、シルフィリアは女主人から鍵を借り、営業時間中から下がらせてもらい、一家の自宅に赴いてそれらの準備を行なっていた。
妻を娶れば毎日こういう風にしてもらえるのだと伝えたかったのだろう。男心に響く事をすればわかってもらえると、本人は下心を持っていないつもりだったが――
「ははっ、わかってねぇなお前。打算なく、って考えが既に打算大アリなんだよ」
「そこ! 茶々入れてる暇があったら洗い物でもしてなっ」
にやにやとほくそえむ康太に、痛いところを突かれてしまった。その康太も、栄一郎に拳で小突かれたが。
「自分の人生とご家族の今後に責任がもてるなら、周りの目や言葉より貴方の心に耳を傾けて、結論を出してみてはいかがでしょう?」
「出した結論が、母に言った言葉なんだが?」
荷物持ちとして栄一郎の買い物に付き合う塁郁だったが、彼女の言葉は軽くあしらわれてしまった。女主人だけでなく冒険者達からも色々と言われ、いい加減に嫌気がさしている様子だ。言葉の端々に棘がある。
「ラン。勇二郎ではなく俺のところにいるくらいだ、お前も何か聞きたい事があるんだろう?」
「はっ、はい、ではどんな雰囲気の女性が好ましいのかなどをっ」
傍らを飛ぶランが片っ端からぶつけてくる質問も、栄一郎にとってはとうに聞き飽きたものばかり。疲労感は嘆息となって表れた。
事ここに至るまで小鳥遊郭之丞(eb9508)が何をしていたかというと、客席の端で日々、茶をすするのみだった。正確には頃合をうかがっていたのだが、それを知るよしもない栄一郎は、他の者と異なり何もしてこない彼女が不思議だった。
夕方。客のはけた店内に残る彼女に、栄一郎は声をかけた。
「甘味は嫌いか」
「いや‥‥私は守れなかった誓いを果たすまで甘味断ちをしている身でな」
そうか、と応えるにとどめて郭之丞の向かいに座る。何か言いたそうにしているのが見てとれたようだ。
さほど経たずして、郭之丞は静かに語り始めた。
「歩む道は違えど、未熟ゆえに身を固められないという栄一郎殿の気持ちはわかる。だが、腕が上がれば更に高みを目指したくはならぬか?」
「‥‥なるだろうな。成長を望まなくなった時が後退の始まりではないかとさえ思う」
「ならばいつまで続ければよいのだ? そうして続いていく道に、終わりなどあるのだろうか」
栄一郎に尋ねるという形をとってはいるが、その実、自問である。郭之丞自身が抱える類似の問題に対しての。
終わりがないのであれば、身を固める時とは自分自身に妥協を許した時に他ならないのではないか。だが妥協は自分の望むところではない。では身を固めてはならないのか。しかし既婚者であろうと道を歩み続ける者はいる。
――頭の固い者ゆえの、真正直な悩みだった。
「目的の為、道を極めようとひたすら精進に身を費やす日々。思うように腕が上がらず、自分のしている事に疑問を感じた時、挫けそうになった時。誰かに悩みを吐露したい、支えてほしいと願った事は無いか?」
どんな道にも、伸び悩む時というものはある。壁が現れるのだ。それは往々にして頑丈で、道を歩む者の前に高く高くそびえ立つ。乗り越えるには、辛く苦しい思いをしなければならない。立ち止まらざるを得ず、進んでいた時には見えなかった、否、意図して見ないようにしていたものも、視界に入ってくるようになってしまう。
「行き詰まれば不安を抱く。不安を抱けば壁は更に高くなり、ますます不安になる。迷いを持ったまま進めるほど、道というものは甘くはない」
「そうだ、だから私は――いや、これは私自身の弱音に過ぎぬな。栄一郎殿に問うは筋違い、忘れてもらおう」
どこからか吹いてきた風に我を取り戻したのか、郭之丞は左右に首を振ると、立ち上がった。そのまま、頭を冷やしてくると店の外へ出て行く。
「‥‥皆、同じだな」
閉ざされた戸の向こうへと消えた背中に何を感じたのか。栄一郎がぽつりと呟いた。