●リプレイ本文
そこにはまるで、竜が唸るかの如き風が吹き荒んでいる。
長年の水の流れの浸食が、複雑に入り組んだ地形を作り出し、そこを吹き過ぎる風は、不規則な方向性と緩急を付与され、谷を潜り抜ける際に吼え猛るのだ。
――近寄るな、とでも言うように。
荒涼とした風景だが、依頼人であるイドゥン・パシエは、まるで魅入られたようにその光景を見詰めていた。
そこに、彼女にとっての救いの全てがあるかのような、熱っぽい瞳。
「ふう。酷い目に遭いましたよ」
宙に浮く箒から飛び降りたのは、ウォルター・バイエルライン(ea9344)だった。
「大丈夫でしたか? 横風にあおられて落ちそうになられた時は、流石に肝が冷えました」
気遣わしげに言ったのは、ステファ・ノティス(ea2940)。
「空飛べるって言っても、箒だもん。あたいが偵察して来た方が良かったかなぁ」
岩の出っ張りにちょこんと腰を下ろしたまま、ハーリー・エンジュ(ea8117)がそう呟く。
「いや、これだけ風が強いと、体重の軽いハーリーさんは、風に流されて危険だよ」
そう忠告したのはパトゥーシャ・ジルフィアード(eb5528)。
「なあ、峡谷の中って、どうなってたんだ?」
と尋ねたのはクンネソヤ(eb5005)。
「思った以上に複雑ですね。峡谷の中心に行く程、幅の広い川が流れているのですが、水量が多い場所程、オーガの数も多くなるようです」
とても全部は薙ぎ倒せませんよ、とウォルターは首を振る。
「ふむ。しかし、目的の中央台地は、名前の通りこの峡谷の中央にあるはずだから‥‥」
ジュネイ・ラングフォルド(ea9480)は考え込む。どうやら、完全にオーガを避けるルートというのは存在しないようだ。
「しょうがないよね。最低限の戦いで済ますルートを慎重に選択すべきだね」
なるべく消耗は避けるべき、とウィルフレッド・オゥコナー(eb5324)。
「崖を上り下りする途中に襲われたら目も当てられんからな。崖下に追い詰められてもマズい」
この辺りは特に気を付けるべきだな、とシャルウィード・ハミルトン(eb5413)。こういう地形である以上、この種の危険は常に付き纏うのだが。
「‥‥ですが、安全な場所があるにはあるのです」
ウォルターの一言に、一同が彼を注視した。
「どこだ?」
「峡谷の、谷底じゃなくて山‥‥台地の上の部分です。恐らく、オーガは体が大き過ぎて、崖を上り下りし辛いのでしょう。いるのは軒並み、谷底です」
‥‥なるほど、と呟きが漏れる。
「野営は、台地の上ですれば、オーガに襲われる可能性はぐっと減る、よね?」
頷いたのはウィルフレッド。
「その代わり、オーガが登って来れないように、崖を上り下りしたらロープや縄梯子は全部ちゃんと回収すべきだな」
面倒だがしょうがない、とシャルウィードが溜息をつく。
「怖い、ですか?」
いざ峡谷の谷底に向けて下りる段になり、やや顔色の青褪めたイドゥンに向かって、ステファが尋ねる。
「ううん、大丈夫。覚悟はしてたから」
礼を口にしつつ、イドゥンは微笑んだ。
「私は‥‥ドラゴンに、会うんだ」
まるでうわ言のように呟くと、彼女はロープを頼りに崖下に下りて行った。
谷風を切り裂くように、獣に似た吼え声と、金属がぶつかり合う音が響いた。
横薙ぎに振るわれたクンネソヤの鋭い刃が、オーガの脇腹を切り裂いた。血飛沫と、ますます獣じみた絶叫。
彼の相棒、狼のクンネニシの牙が足の肉を引き千切り、オーガの巨体が傾ぐ。
飛来したジュネイの棘の鞭で顔面の肉を削がれ、オーガはとうとう、たたらを踏んで倒れた。
が。
もう一匹は、まだ殆ど無傷だ。
倒れた仲間に目もくれず、手にした巨大な金属棒を振り上げ――
いきなり、空間が赤く輝いた。
突如現れた炎を纏う鳥が、一直線にオーガに突っ込んで行ったのだ。
「行っけー! ファイヤーバード!」
ハーリーの纏う炎の轟音とぶち当たった熱量に耐え切れず、オーガが悲鳴を上げて身をよじった。火が燃え移ったぼろ布を慌てて叩き消す。
瞬時に踏み込んだウォルターの小太刀二刀流が、腕の下の太い血管を切り裂き、噴水のように血をぶちまけさせた。
激痛に逆上したオーガが凄い勢いで金属棒を振るったその下を、褐色と金の影が潜り抜けた。
唸りを上げるシャルウィードのフレイルが、オーガの横面をまともに捕らえ、頭蓋を歪める。
狙い澄ましたパトゥーシャの矢が、オーガの首の付け根を貫いた。
絶叫が迸り、巨大な金属棒が滅茶苦茶に振り回される。
が、間を置かず、詠唱を終えたウィルフレッドの雷撃が一直線に走り。
声すら上げず、オーガはその動きを完全に停止させた。
「皆さん、ありがと。ごめん、あんまり役に立たなくて‥‥」
ちょっと決まり悪そうに、イドゥンが言った。
「そんな事ないよ。最初に威嚇の矢で牽制してくれたでしょ?」
十分役に立ってるよ、とパトゥーシャ。
「しっかし、谷底に下りた早々いきなりだもんな。中心部はどうなってるんだろうな‥‥」
流石にちょっとげんなりした様子でクンネソヤが呟く。
「それより、早く場所を移動した方がいいな。騒ぎを聞きつけられたかも知れん」
シャルウィードが鋭い目を周囲に投げかけ、一同を促した。
元は川床だったであろう谷底を渡り、一行は壁のように幅広い断崖をよじ登った。
飛行出来るハーリーが崖の上の突起部に縄梯子と命綱を繋ぐ。
身軽なクンネソヤが先に登って上で待機、命綱を支えて順繰りにメンバーを登らせた。殿(しんがり)はシャルウィードが努め、襲撃を警戒する。
風で縄梯子があおられ、思わず悲鳴も上がったが、何とか全員登り切った。
台地の頂上部分に登ると、素晴らしい展望が広がる。
緊張の連続である峡谷の冒険にあって、思わず心休まる一瞬だ。雄大な風景を望むと、死の危険すらもどこかに遠のいて行くように思える。
が、しかし。
‥‥どんなに美しくても、ここは気を抜ける場所では、ない。
「‥‥この後、一度下に下りて、西側の台地に登り、そこを伝って、中央台地のすぐ下へ抜けるのが、最も危険の少ないルートかと思います」
ウォルターが地面に大まかな地図を描いて説明する。
「しかし、中央台地の周囲はぐるっと水に囲まれていますので、渡れそうな場所は限られます。徒歩で行けるのは‥‥南西側の、この細い部分でしょうか」
本流に流れ込む支流の一つであろう細い川を、棒の先で指し示す。
「オーガは? ぱっと見、どのくらいいそうだ?」
シャルウィードの問いに、ウォルターは一瞬考え込んだ。
「‥‥数としては、大きな本流の側の比ではない程ですね。しかし‥‥」
無論、それが「安全」だという事を示す訳ではないのは、誰もが分かる話ではあるが。
結局、その日は台地伝いに西側へ回り、更に中央寄りの台地の頂上に野営する事になった。
ロープは勿論、縄梯子を多めに持って来たお陰で、崖の上り下りの際に転落する危険は格段に減った。しかし、それでもここがオーガの巣である事に変わりは無い。
頂上に着いても、夜営地周辺にロープに木切れを組み合わせて繋いだものを巡らせ、数時間置きに交代で見張りを立て、気を抜かないようにする。
「大丈夫? そのままじゃ寒いでしょ?」
「ありがと。あたい、非力だから寝袋とかを持つと飛べなくなっちゃうんだよね〜」
見張りで体の冷えたハーリーが、ステファの寝袋に潜り込ませてもらう微笑ましい一幕もあり。
やがて峡谷に再び朝日が昇った。
「‥‥友達にムーンドラゴンの事、調べてもらったんだけど」
中央台地を間近に望む、西側の台地の一角で、パトゥーシャがふと呟いた。
「ムーンドラゴンって、月夜の晩に飛ぶんだね。特に満月の晩に」
だから、ムーンドラゴンなんだろうけど。
彼女の言葉に、ふと首を傾げたのはウィルフレッドだ。
「そうか。夜しか姿を見せないのだね、普通は」
「ひょっとして、ここが巣だって訳ではなくて、たまたま満月の晩に立ち寄るだけ、なのかな‥‥」
依頼人のイドゥンには聞かせたくない様子で、パトゥーシャは続けた。
彼女は現在、クンネソヤ、シャルウィードと共に、周辺の偵察と食料になりそうなものを探しに出ているが。
「そう言えば‥‥今、月は‥‥」
太陽の傾き始めた空に、まだ月は姿を現さないが。
もしかして、ムーンドラゴンは満月の晩に中央台地に立ち寄るのだろうか。
「満月は‥‥?」
「もう少し先、だね‥‥」
途中、二度程オーガの襲撃があり、シャルウィードが手傷を負いながらも撃退。
その傷自体は、ステファのリカバーですぐに回復した。
いよいよ、一際中天にそそり立つ中央台地目前。
申し訳程度の小川の煌きが見え始めた、その矢先。
「やっぱり。ただでは通してくれそうの無い人がいるんだよねえ」
ブレスセンサーで周囲をウィルフレッドが微かに眉を顰めた。
「オーガだろ? どうせ」
事も無げに、シャルウィードはそう言った。今程程度の傷を負う程度では、被害の内にも入らない、と言いたげだ。
「‥‥なんだか‥‥ちょっと体が大きいような」
ウィルフレッドは引っ掛かる。
もしや、種類の違うオーガなのか?
「しかし、それを突破しないと前に進めないのだろう?」
そうである以上、突破するしかないな、とジュネイ。
「一体だけ? 大丈夫でしょ、こっちは八人‥‥あ、イドゥンさんも入れれば九人なんだし」
またファイヤーバードで撹乱したげるよ、とハーリー。
「陽も傾いて来たぜ。行くなら早めに行かないと、おいらたちが不利にならないか?」
暗くなれば、他のオーガだって来るかも知れないし、とクンネソヤ。翻ってこちらは、夜目が利く者は限られている。
しかし。
最早、引き返す、という訳にもいかない。
夜の早い峡谷最深部で、冒険者たちは決断した。
きらきら光る小さな川を、石伝いに渡り終え、中央台地の真下に来た時、それは姿を現した。
今までのオーガと違い、大きな槍を持った、心なしか今までのより更に逞しい印象のあるオーガ。
まるで道を阻むように、それは崖の真下に陣取っていた。
「こりゃー、今までの雑魚とは違いますよって感じだな」
何だか嬉しげに、シャルウィードが言った。フレイルを構える。
「この戦いが本番‥‥のようですね」
静かに、ウォルターが小太刀を鞘から引き抜いた。
オーガの戦鬼が、吼えた。
戦いが、始まった。
クンネソヤが前進し、オーガ戦士の脚の腱を狙う。
同時に前進したクンネニシがふくらはぎに牙を突き立て、深い噛み傷を負わせた。
仰け反ったオーガ戦士に、絶妙の角度でクンネソヤが小刀を振るった、のだが。
唸りを上げて振るわれた槍が、クンネソヤの胸に突き刺さった。凄い勢いで、彼は弾き飛ばされ崖下に叩き付けられる。
慌てて駆け寄ったステファが、魔法を発動させる。
「聖なる癒しよ、リカバー!」
衝撃と出血で朦朧としていたクンネソヤの目に生気が戻る。
「くそ、おいらを舐めるなよっ!」
珍しく怒りを露わに、彼は戦線に駆け戻った。
「ほらよッ!」
オーガ戦士が振りかぶった拍子に、シャルウィードのフレイルがカウンターで振るわれた。
ごぉおん! と肩口に鉄球が命中し、オーガ戦士が揺らぐ。
「ハッ!」
鋭い気合と共に、打ち振られた小太刀が、腕を切り裂く。
ほぼ同時に、変則的な軌道で飛来したジュネイの棘鞭が、オーガ戦士の上腕の肉を抉った。
が、相手はまだまだ動く。
前進したオーガ戦士を迎え撃ったのは、二つの弓から放たれた矢だ。
イドゥンの矢を目くらましに、パトゥーシャの矢が首に突き刺さる。
オーガが身をよじった。
「みんな離れて!」
鋭い叫びと同時に、ウィルフレッドの手から放たれた雷撃が、オーガの全身から火花を飛び散らせる。
オーガが槍を突き出し、最も手近なウォルターを串刺しにしようとした、その時。
真紅の刃のような翼が、オーガ戦士にぶち当たった。
暗くなり始めた川面に、紅蓮の炎が揺らめき、オーガ戦士も流石に動揺させた。
まるで燕のように自由自在に飛び交う炎の翼は、そのスピードと火力でオーガを翻弄する。
炎の翼を避けた拍子に、巧みな角度でジュネイの棘鞭が右腕に絡み付き、動きを封じた。
「早くッ!」
鞭ごと引き摺られながらも、ジュネイが叫ぶ。
空を裂くシャルウィードの鉄球が、オーガの巨大な頭をかち割る。
ぶんぶん振られる腕を掻い潜り、仲間の背後から忍び寄ったクンネソヤが、一気にオーガの体を駆け上った。
情け容赦なく振り下ろされた小刀マキリが、その頚動脈を引き裂く。
大量の血を撒き散らし。
オーガの戦士は地響きと共に、命果てた。
「‥‥何も、無い‥‥そんな」
暗くなり始めた崖を、大急ぎで登り詰めた冒険者とイドゥンは、月が頭上に輝く頃、ようやく頂上に辿り着いた。
荒涼として、潅木と硬い草がささやかに風になびくそこは、およそムーンドラゴンどころか、大きな生き物の気配すら無い。
「そう簡単にゃ、いかねぇよな‥‥やっぱり」
ぽつりと、シャルウィードが呟く。
残念と言うより、いささか納得いかないかのような表情。
「ねえ、また‥‥」
一緒に探そう、と、パトゥーシャは言おうとしたのだろう。
だが、それより先に、イドゥンは弾かれたように走り出し、何かを拾い上げた。
「それ、何かの‥‥鱗? 何だろうね?」
思わずウィルフレッドが口にしたのも道理。
人の掌ほどの、淡い金色をした硬質なものは、依頼人の掌で、月光そのもののような輝きを放っていた。
中天には、大きな月。
まるで何者かの顔のように、じっと地上の冒険者たちに光を差し向け‥‥
谷全体に響き渡るかのような吼え声が、夜の静寂を破った。
頭上を、巨大な翼の影が通り過ぎた。
ああ、と呻いたのは誰だったのか。
満月の光そのものを集めたかのような淡い黄金に輝くその巨躯は、紛れもなく自らの翼で飛翔していた。
満月には少し欠ける黄金の光を背負い、その竜は、ほんの一瞬、金色に輝く何かを拾い上げたその少女に目を落とした‥‥ような気がした。
悠然と、翼を翻し。
ムーンドラゴンは峡谷の遥か彼方、まるで月を追うかのように姿を消した。
「それは‥‥ムーンドラゴンの、鱗‥‥?」
パトゥーシャが、そっとイドゥンに語りかけた。
「確証は、無い、けど、でも」
イドゥンは、その鱗を抱き締める。
「いたんだ。私は‥‥ムーンドラゴンに‥‥会えた!」