【海魔の影】惑幻の灯火

■ショートシナリオ


担当:姜飛葉

対応レベル:11〜lv

難易度:やや難

成功報酬:5

参加人数:6人

サポート参加人数:2人

冒険期間:01月02日〜01月07日

リプレイ公開日:2008年01月10日

●オープニング

●暗い昏い海原で
 暗い夜色に包まれた船の上、海路を測るため甲板に居た船員は、空を仰ぐと顔を顰めた。
 先ほどまで出ていた星と月がすっかり隠れてしまっている。
「これじゃおよその場所しかわからないじゃないか」
「霧が出てきたな‥‥珍しい」
 仲間の愚痴に、別の船乗りが周囲を見回し嘆息する。
 海は凪いではいない。
 予定通りの航路を進んでいれば、港までもう少しのはずだった。
 特に注意しなければならない暗礁や浅瀬は付近には無い。
 舵がしっかりしていれば大丈夫‥‥暫くこのまま進み、陸が近付き、風が変われば、視界の悪い場所から抜け出せるだろう――熟練の船乗りである彼らはそう判断し、船長に報告に行こうとした時だった。
 閉ざされた闇色の世界に、うすぼんやりと光るもの。
 船の道行きを示す灯かりだろうかと首を傾げる。
 もう港の傍まで来ていたのだろうか?
 己の感覚に違和感を感じ、仲間を振り返った時だった。
 暗い夜の海ばかりが広がる船縁の向こうに白い何かが、船乗りの視界に一瞬入った。
「女? バカな‥‥」
 もう1度目を凝らした船乗りに、仲間が耳をおさえ、どこか痛ましげた表情を浮かべ、うめくように呟く。
「‥‥‥‥歌が、聞こえる‥‥?」
「は? 今何て‥‥‥‥うおおっっ!?」
 もう1度訊ねる間など無く、次の瞬間船に大きな衝撃が走った。響く破壊音と砕ける波の音に船員達の声はかき消されてしまう。
 船内から幾人か飛び出してくる者もいたが、大きく揺れ続ける船上では、思うように動けず何も成す事が出来ないまま船は悲鳴を上げ続ける。
 どれ程の時間が経ったのだろう‥‥ほんの僅かな時間か、あるいはとても長い時間だったのか‥‥1人の船員が、浮かぶ木切れを捕まえて空を見上げた時には、冬の冷たい空が広がっていた。
「‥‥‥‥何が、あった?」
 その呟きに返事は無く。
 凍え強張った両腕は、既に感覚のほとんど無い身体を支えきれず、やがて彼すらも静かに夜の冷たく暗い海に飲まれていった。


●水底からの招きを‥‥
「近隣の商業ギルドからの依頼だ」
 幾通もの紙の束をばさりと卓の上に置くと、受付係はその場にいる冒険者達に告げる。
 その声音も、表情も、ドレスタッドの冒険者ギルドの空白の間など感じさせなかった。
「近頃、この海域では天災という言葉では片付けられない程の異常が報告されている‥‥その中の1つを頼みたい」
 その異常現象や被害に纏わる諸処の対応に飛び回るため、ドレスタッド領主は領地を離れる事が出来ず、パリの国王への慶賀の挨拶すらままならない状態だ。
「ある航路を通る船に限られる話ではあるが、解決されなければその航路を使う事が出来ない事が問題だ。いつ他に飛び火するかわからん」
 天候が落ち着いている海も静かな夜にその航路を使う商船や漁船が、巻き込まれる事象なのだという。
「冬の海で船が沈み、海へ投げ出されて無事助けられた者など数えるほどだからな。彼らから聞いた証言を元に纏めると‥‥」
 ある者は、陸を示す誘導灯のようなものが見えたと言い。
 またある者は、物悲しげな女の声が聞こえたという。
 総じてそれらを見聞きする前に、船が霧か靄に包まれ、月も星も見えず方向や時間の感覚が覚束なくなるのだという。
 そして気付けば夜の海に投げ出され、船は沈んでおり‥‥まるで何事もなかったかのような静かな海にいるのだ――と。
 辛うじて命を繋ぎとめた生存者達が他の船により保護された場所は、彼らが進んでいたであろう航路から外れてしまっていた――という者も多い。浅瀬や暗礁などないはずの場所で座礁する、その理由‥‥。
 迷信深い船乗りたちなどは、海の魔物が棲みついたからだと恐れ、船を出す事を嫌がり、件の近海航路の値段は跳ね上がる一方だという。
「姿が見えず、対象がはっきりしない。が、事象が発生する条件はわかっている。難しい条件だとは思うが、航路の安全確保が今回の依頼だ」
 何を相手に、どう戦えば良いのかは冒険者の対応次第となる。
 航路の安全が確保されなければ、困るのは利用する民たちだ。
 今回の依頼で使用する船は、商業ギルドが融通してくれるという金に煩い相手が出す破格の条件に、それが如実に現れている。
「船の操舵人に関しては、船乗りたちが海に出る事を嫌がっているらしい‥‥交渉次第だな」
 船乗りたちの様子を思い出したのだろう、受付係は、ほんの僅か表情を曇らせた。
 操舵手が得られれば、冒険者達もそれだけ対応に専念できるのだが、必ず安全であるという信頼と命の確保の天秤具合は微妙らしい。
「今回無事依頼を果たせれば、その際の船の損傷については言及しない。逆に、果たせず船を失った時は、報酬は無しだ」

――誰か請け負う者は居ないか?

 受付係はぐるりと居並ぶ面々を見渡し、訊ねた。



●今回の参加者

 ea1661 ゼルス・ウィンディ(24歳・♂・志士・エルフ・フランク王国)
 eb3503 ネフィリム・フィルス(35歳・♀・神聖騎士・ジャイアント・イギリス王国)
 eb3529 フィーネ・オレアリス(25歳・♀・神聖騎士・ハーフエルフ・イギリス王国)
 eb5375 フォックス・ブリッド(34歳・♂・レンジャー・ハーフエルフ・イギリス王国)
 ec0129 アンドリー・フィルス(39歳・♂・パラディン・ジャイアント・イギリス王国)
 ec0196 テオフィロス・パライオロゴス(36歳・♂・エル・レオン・パラ・ビザンチン帝国)

●サポート参加者

アレーナ・オレアリス(eb3532)/ シーナ・オレアリス(eb7143

●リプレイ本文

●久しき海の街
 新年を迎え、ドレスタットの港は活気に溢れ、賑わっていた。天の気配は乱れる様子無く晴れやかで、海を渡る風は港に集まる船達の航海を祝福するように駆け抜けていく。船出には絶好の日が続いており、常と変わらぬようにみえる港街の様子を、ネフィリム・フィルス(eb3503)は、その特徴的な瞳を細め、久しぶりに見つめていた。陽光を返し白金に輝く髪を風に遊ばせるままに港を見下ろすネフィリムの隣に立つフィーネ・オレアリス(eb3529)は、八卦衣の胸元をそっと押さえた。
「一刻も早く問題を解決して、航路の安全を確保をしなければいけませんね」
 改めて依頼を果たすことを誓うかの如きフィーネの呟きに、ネフィリムは片眉を上げる。
 以前のドレスタットを見知っていればネフィリムのように違和感に気付いただろう。
 賑わう声は上辺だけ‥‥その奥底に植えつけられた恐怖心を拭えずに居る船乗り達の様子。それは船乗り達だけでなく、海を糧に暮らす民達をじわじわと侵食している闇色の負の気配。そうでなければ、絶好の船出の機会に海へ繰り出す船がこれほど少ないわけが無い。彼らが請け負った今回の依頼以外にも冒険者ギルドには幾つかの依頼が並んでいた。
 この地を治める領主エイリークも新年の祝賀に都パリへ向かうことも出来ないほどに、海域近郊地域の魔物の被害が増えていたのだ。
「海の魔物達の活動の活発化‥‥。この出現頻度は、まるで何かのための贄でも集めているかのような‥‥。杞憂であれば、良いのですが‥‥」
 憂いの色を浮かべたゼルス・ウィンディ(ea1661)に、傍らにいるグリフォン・ガルーダの首を軽く叩きながらアンドリー・フィルス(ec0129)が重い雰囲気を払うように笑う。
「もし、『魔』が禍をもたらそうとしているのならば放っておけないし、罪なき人々が困窮しているのだからやはり放ってはおけないだろう」
 やる事は変わらん――と続けたアンドリーは、ネフィリムに似た瞳に港街を映し、ランスの柄を一撫でする。
「正体が何かはわからないが、全力で調査と倒すことをするのみだな」
 こちらは依頼を請けたこの期間に海上で世話になる、ゼルスのスモールシェルドラゴン・バルドスの甲羅を拳で軽く小突くテオフィロス・パライオロゴス(ec0196)の言葉だ。
 気負いも無く慄然と話すテオフィロス自身、つい先頃にドーバーを渡りイギリスからノルマンに着いたばかり。全ての海域が魔物達の魔手に囲われたわけではないのだ。
「敵の正体は不明ですが、仕掛けてくるタイミングは分かっていますから」
 淡く白い燐光纏う己が弓の表面を指先でなぞりながら、取れる方策はありますとフォックス・ブリッド(eb5375)は仲間達の言葉に頷いた。
「ホレ、あたしは海戦騎士だし、こういうときに役立たないと赤毛の兄ちゃんに悪ぃだろ」
 赤毛の兄ちゃんと親しげな響きで呼ばれた実年齢よりも若く見えるエイリークが、ネフィリムの言葉を聞いたらどう反応を返しただろうか。
 苦笑を浮かべるか、苦しい現状を打ち明けるか‥‥。彼を知る冒険者らには、豪快に笑い飛ばし「だったら気張って働いてくれよ!」と発破を掛けられそうな気がした。
「さて、行くとしようかね」
 気負うでもない笑みを浮かべたネフィリムの声を機に、魔物討伐の出航準備をするために冒険者らは動き始めた。


●海上の繰り手を求めて
 ゼルスとテオフィロスは、船乗り達の説得に来ていた。
 お世辞にも品が良いとは言えない船乗り達の溜まり場で、自分達を遠巻きに眺める彼らへまずテオフィロスが口を開く。
「これから俺達は、夜に船がその場所を通ろうとすると座礁する霧の海域へ行く。船はある。その船を動かす事の出来る者を求めている」
 途端に起こるざわめきは、海域への恐れとも、無謀への嘲笑ともとれるもの。
 何のために行くのかと揶揄交じりに問われれば、テオフィロスは揺らぎ無く「海域の魔物を討つ為だ」と答えた。
 船乗り達は迷信深い者達が多い‥‥ドレスタットの船乗りも例に漏れないのだろう、海の魔物は陸にいるものより遥かに怖いのだと言う。何より海は人の領域ではない。そこへ乗り込むなどと‥‥と、逞しい体躯を持つ荒くれた様子からは意外なほどの腰の引けた声があがる。
「俺自身、現実にキャメロットから船で着いたばかりだ。俺は実際に無事たどり着けた。一緒にいれば、大丈夫――」
 船を操舵することに掛けては、海でずっと生計を立てている船乗り達が随一であり、魔物を討伐するために冒険者――彼らが来たのだ。けれどざわめきは途切れず、テオフィロスの言葉を真面目に聞こうという姿勢の船乗りはいない。そんな周りの様子に今度はゼルスが言葉を紡ぐ。
「確かに、魔物は恐い存在です。私達、冒険者の力でも、勝てる保証はありません。けれど、皆さんの力添えがあれば道は開けると信じています。どうか、海の猛者たる船乗りの力を貸して下さい」
 手をとれば道が切り開けるはずだと示す彼らは、けれど決して――
「絶対勝つって言わないのかい?」
 テオフィロスの小柄な体躯を遠慮無しに見下ろしながらゼルスに問いかけたのは、40絡みの日に焼けた精悍な体躯の男だった。
「世界に絶対は有り得ません。ですから、魔物とて絶対に滅びない存在では、ありません」
 冷静な声で語られるゼルスの言葉に揺らぎは無く、船乗り達の視線に表情が変わる事も無い。
「最悪船が沈んでも、必ず陸までお連れします」
「そんな保障より、沈まないで済む保障を上乗せしてくれや」
 ケンブリッジ製の魔法のほうきを手に、はっきり請け負ったゼルスの肩を叩き、問いかけた船乗りはにやりと笑ってみせた。男がそう言葉を返し周囲を見回すと、ざわめきとは異なる声が上がり始めた。それらを聞いたゼルスとテオフィロスは互いの顔を見合わせ、笑み交わした。彼らが少ない人数で魔物を討伐するために必要な大前提、戦闘に専念するための助力を手に入れる事が出来た瞬間だった。


●霧の海域へ
 依頼人が用意してくれた船は、10人以上は余裕で乗れるものだった。万が一に備えてネフィリムが依頼人へ頼みこんだ品は、特に苦労も無く揃えてもらえている。船本体に何かあった時のための脱出用の小船、命綱に使える綱、海に投げ出された時の為の浮き袋を積み込み、更に操舵を請け負う船乗り達が乗り込んで問題無い規模の船。それ程の船が『壊れても構わないから、海路の安全を確保して欲しい』というのである。この依頼に掛ける気持ちの大きさが知れるというもの。
 また討伐に備えるため、アンドリーやフォックス、フィーネも生き残った船乗り達を探し、魔物に遭遇した時の状況を再度確認していた。生存者達の数は少なく、船乗り達の間では大きな話題になっていたため、生存者を見つける事に苦労は無かったのだが‥‥。暗い海で眼前に突きつけられた死の恐怖は拭いがたく、記憶の混乱や混濁から回復しておらず、さして有益と思われる新たな情報は得られなかった。
 ただ、霧が出てきたと思ってから、月光の導を失うまでの時間はとても短いものだった――らしい。それが感覚的なものか、実際のものなのかは、フォックス達に判断はつかなかったが、情報を集めるためだけに時間も掛けられず、出航用意が整い次第、彼らは海へと向かう事になった。
「アンドリーさん、お話していた品です。宜しくお願いしますね」
 アンドリーがフィーネに手渡されたのは、封をした卵大の壷が4つ。アンドリーは礼を述べ、アヴァロンの滴を受け取る。他に必要と思われる品は全て冒険者達が自分達の判断で揃えてある。依頼人から備えに足りたのは航海に必要と思われる船周りの品だけ。討伐戦に備えて武具を確認しながら、ネフィリムらは保存食で簡単な食事を済ませた。情報収集に気を捕らわれてか、保存食の持ち合わせが無い者もいたが、それは数を多く備えていた仲間のお陰で補う事が出来た。
 これまで得られている情報から、魔物が現れるのは件の海域を夜に通行した時だ。だが、昼間通れば間違いなく被害に遭わない保証も無く、彼らが進む航路近くを通る船影は無い。波の音以外聞こえない静かな海を進む船の上、問題の海域付近へ行くまでに少しでも体力を備えようと冒険者達は出航早々休養を取る事にする。アンドリーは、ガルーダを枕に瞳を閉じた。異変があれば獣の方が察知は早い。吹き付ける海風に体温を奪われぬよう毛皮の外套の前をしっかりとあわせ、傍らに弓を置きフォックスも目を閉じる。夕刻までの時間、冒険者らは思い思いの短い休息の時間へと入ったのだった。


●惑幻の灯火の掲げ手
 すっかり日も暮れ、船の上には夜空が広がっていたが、船の上はネフィリムの指示でたくさんの灯りが用意されているため、星の光が霞むほど明るかった。
「‥‥そろそろ例の場所だ。本当に大丈夫なんだろうなぁ?」
 舵を取る手が微かに震えているのが見えた。それでも船は惑う事無く、真っ直ぐに『例の場所』を目指し進み続けているところは流石熟練の船乗りだった。ゼルスとテオフィロスの説得が実を結び、船乗り達が力を貸してくれた事で、モンスターへの対処だけを考えれば済む事になったのは冒険者にとって大きな利点である。
「『大丈夫』にするために俺達は来たんだ。魔物は任せてくれ。だから船は、頼む」
 テオフィロスが革鎧の具合を確認しながら、はっきりと請け負う。1度決めた事はやり通してみせる‥‥剣の柄を握りしめ、舵を受け持つ船乗りの男にそう頼んだ。
 そんな会話の最中、先程まで良く晴れていた空に掛かる月の影が、何の前兆もなく霞む。
 異変に真っ先に気付いたのは甲板で霧に備えていたゼルスだった。
 次いで目の良いフィーネも気付き、船員に出航前に打ち合わせていた仕掛けを頼む。ぶつりと綱が切られ重く派手な水音と共に錨が沈み、進んでいた船が急に止まる。船が傾かず上手くその場に停泊できたのは、舵を取る船員の腕の良さ。彼らに操舵を頼む事が出来た事に感謝し、ゼルスは仲間に現状を伝え、月を見上げる。不自然な速さで船の周囲に満ちてゆく霧に隠され、月と星達が姿を消していき、瞬く間にその姿が霞み消え始めると、辺りを照らすものが船上に置かれた幾つもの灯りだけになる。
 航行を手伝っていた船乗り達が不安げに辺りを見回す。霧が立ち込めればすぐに魔物が来ると聞いていたフィーネはそんな彼らを直ちに舵近くの場所へ集め、惜しむ事無く結界を張った。アンドリーがオーラエリベイションを己に付与し終え、次いで船乗りらを守る算段に入ったフィーネへ与える。
「霧が満ちるのが早いな‥‥」
 テオフィロス、フォックスとアンドリーが闘気魔法を施し終えると一面灰暗い不思議な闇に包まれていた。船首にいたならば、船尾どころか船の半ばまでの距離にいる仲間も見えなくなりかねない。ガルーダの鞍にランタンを括り付け、霧の外へ出ることを試みアンドリーは船から発つ。
 小さく零すネフィリムは、ニュートラルマジックを試み失敗したらしい。元より成功すれば御の字程度に思っていたが、敵の魔力が強いらしい事を改めて確かめ、肩を竦めて見せた。
 甲板で燃える灯りが靄に包まれ淡い光しか放たぬ中で、ゼルスが頼む陽のエレメンタラーフェアリーのレルムが照らす魔法の灯りだけが煌々と光を放つ。
 船上で恐れるものの1つが火であり、燃え広がりにくく消えやすい油を糧に燃え続ける炎は、ともすればあっけなく消されてしまう。多くのデメリットを抱えつつ、それでもなお甲板に多くの数の篝火を置く事で危険と隣り合わせの暗闇の世界から辛うじて人の世界を維持できていたのもまた実情だった。
 それらの灯りの下で、一人の船乗りがひっと息を呑む。
 彼が海の上に見つけたのは一人の女。
 彫刻のように冷たい美貌を誇る女だった。
 豊かで艶やかな黒髪は結われる事無く垂らされていて、彼女の白い肌を飾る。月明かりも無く、黒に塗りつぶされた海の上で、女自身が淡く輝いているかのように見えた。
 女が佇むそこは、海の上。
 人の領域ではないその場所にいる女が、人間であるはずが無い。無いのだが、魅入らずにはいられない程の美しい女の姿に、船乗り達は声も無く、食い入るように見つめている。その視線を追うようにフィーネが見た先で、笑うように歪められた女の真っ赤な唇。何かを囁くように開かれた口には、鋭い牙が並んでいた。
「どうして止まるの? すぐそこに素敵な場所があるのに!」
 女が叫ぶように放った言葉と共に、船体に横合いから衝撃が走り、船は大きく揺らいだ。
 船員達の惑うような叫びと共に幾つかの篝火が倒れ消える。
 理性を繋ぐか細い糸にも似た灯りが減る事で上がる叫びに眉を顰めながら、フォックスは船の揺らぎに矢を手放さぬようバックパックを手繰る。暗く不確かだった手元に不意に光が差し込み彼が顔を上げると、暗い海に惚と光が浮かぶ。その傍らにも船首のほうに居る女とは違う白い女がいた。
 彼らの間にある距離は、手をのばしたとて届くはずが無い距離。けれど厭う事無く差し伸べられ揺れる白い手‥‥招く女。その手には灯りに似た光を持っていた。消えてしまった篝火――人が持ちえる明かりとは異なる光。
 揺れる船体に、片手に握る弓は手放さず、残るもう片方の手で柱に捕まり体勢を整えようとしたフォックスの目に、女が姿を翻す様が映る。不思議と煌く銀の髪が海へ消えると、船体を叩くように跳ねる大きな魚の尾が現れる。
 矢を掴み放てば、それを厭うように尾びれは海へと消える。だが、再び左右から揺すられるように船体に衝撃が走った。
「ちっ、一体幾ついるのさね?!」
 船は、霧が漂う場に留まっている。座礁海域に導かれている事は無いはずだ。それにも関らず揺れる船に、縁にしがみ付いたネフィリムは舌打ちを零した。
 長大な鎌槍を持て余す事無く握り振るい、船に張り付かれぬよう槍撃を放てば、示し合わせたように逆側から船がバランスを突き崩される。
 彼らが目にした、海上を、船を叩くように現れる魚の尾びれ‥‥マーメイドに良く似た伝承の姿。そしてマーメイドでは有り得ない凶暴性とそれを誇示するかのような鋭い牙は――
「(セイレーンか!)」
 テオフィロスの声は、ゼルスにより掛けられたサイレンスにより届かなかったが、同時に幾人もが複数方向で女達の姿を確認する。
 ゼルスのブレスセンサーに応えた反応は、全部で3体。
「しかも‥‥」
 シーナ・オレアリスに伝え聞いたセイレーンよりも攻撃的で、強い。
 ホーリーフィールドで張りめぐらされた聖なる結界の中で、フィーネの表情が曇る。襲撃に備え先手で張られた結界は、もう長くは無い。張り直す猶予を敵が与えてくれるだろうか‥‥。文字通り、海の上の泡のような守りの中で、船員達を仰ぐ。否、自分は彼らを、仲間を守り、全員で生きて帰るためにここに来たのだ。閉鎖された空間である事を除いても尚、退く事などあり得ない。その身に炎の紋様を刻む剣を握り締める手が熱い‥‥迷いを振り払うように、揺れる船上でフィーネは神への聖句を謳い始めた。

「‥‥霧と魔法で視界と方向感覚を奪い、暗礁へ誘い出して沈めていたか」
 眼下に濁る空間を見下ろし、アンドリーは一人ごちた。停船する船を包むように広がる霧は自然のものではあり得ない。
 敵の空間に捕らわれぬよう距離を置けば、敵の姿も霧に紛れてしまう。人の手による操舵下から離れた船は、惑い進むことは無いはずだった。
「いくぞ、ガルーダ!」
 主の声に応じるようにグリフォンが高く啼く。
 瞬く間に降下し、霧の中へと彼らは身を投じた。

 ホーリーフィールドの中、船員達の傍を離れず、協力を申し出てくれた彼らを守る約定を果たしていたフィーネの放った聖なる力が、海の女の一人を打つ。美貌に不似合いなうめき声を上げ、水中に潜った女をバルドスは逃がさず尾に喰らい付き、海上へ引き上げる。勢いのまま中空へ放られた女の白い腹に赤い華が幾つも咲いた。僅かな隙も逃さず、フォックスの矢が幾つも射抜いたのだ。受身を取ることも出来ずに海面へ向かい落ちていく女を、海上から追うバルドスの背にあったテオフィロスが、違わず闘気を込めた長大な直刀で狙い過たず叩き斬るように切り裂く。
 魅了を警戒し、サイレンスを付与され。あるいは無いよりはましと取った対策の耳栓に、声が通らない事があっても、前もって定めておいた身振り手振りでの合図によって、簡単な意思疎通ならば図るに不足は無く。
 守りと攻め‥‥其々に己が力を果たすべき場所を定め、明確に『討つ』意思を持ってこの場所に来た冒険者達にとって、霧の海域の魔物は叶わぬ敵では無かったのだ。
 高さを力へと変え、通常の武器が通じない魔物と戦う騎士にむけて作られた鉄の槍を闘気の魔法で包み、船乗り達を惑わせてきた灯り目掛けアンドリーは打ち下ろす。船乗り達を惹きつける甘い声音は、今はただ耳に痛いだけの悲鳴しか奏でない。痛みを船へ向けようとすればネフィリムの鎌槍が猛然とした勢いでつき下ろされ、その身を穿つ。3人の海の女はもはやぼろぼろだった。冒険者達の繋がりを断つように牙を向けても、彼らは十二分に供え持った魔法薬でその身を癒し、あるいはフィーネの祈りがその身を包む。空を翔る存在は一人ではなく、何より彼女達にとっての武器であった声は、白き神の守りに遮られ、あるいは他の魔力によって冒険者らに届かない――届いてもそう時間を空けずに支配下から逃れられてしまっていた。やがて誘う声よりも、そうではない声の方が増えてくる。傷んだ船体にこれ以上は寄せ付けぬようネフィリムの鎌槍が突き下ろされ、フォックスの矢が追いかける。それを厭い船底の方へと潜っていく女の姿にゼルスがバルドスを呼ばえば、主の声に従いその尾に喰らいつき、先と同様もう一人の女も海上へと力任せに引き上げた。
 銀の髪から海水をしとどに滴らせながら、テオフィロスは裂帛の気合を込めてその名の通り巨大な剣で海水を跳ね上げるように女の胸から腹までを割く。だがその尾びれで痛烈な一撃を返されたテオフィロスはバルドスから落ちるように海へ投げ出された。どろりとした血で白い肌を染め上げ喚いたセイレーンの一人は、けれどそれがゼルスに通じぬ事を知る――彼の手のひらから放たれた真空の刃は誤たず、テオフィロスが与えた傷の上から更に女を切り裂く。
「例え行く先が暗闇に遮られていようと、その中から光の差す道を切り開く。それが、私達の仕事です!」
 冷静な表情の下、魔物を断じるため放たれた風の刃の如く、女を両断する宣言。海へ沈み還る仲間の姿に慄き、背を翻そうとした残る二人を許さずアンドリーのランスが貫き、フィーネのホーリーが神の炎で悪しき身を焼く。
 バルドスの背に再び捕まり海面へと浮かび上がったテオフィロスは、グリフォンの背から差し出された中空に留まる仲間の手を見ることで、戦闘の終わりを知る。
 命綱にとその身に巻いた腰の縄を切り、割れた鏡と倒れた灯りを始末しようと船べりを離れたネフィリムがふと見上げれば、不自然なまでの霧は晴れ、静々と冬の月と星たちが晴れた空を彩っていた。


●霧の晴れた海で‥‥
 ばしゃりと暗い夜の海に水音が跳ねる。
 襤褸と果てた船は、重い身を引きずる様に海を進んでいく。
 その姿を見つめていた何かは、口の端を引き上げる――愉快でたまらないという風に。
 冬空に掛かる月の光がそれを照らす前に、音の主は深い海の底へと戻っていった。

「バルドス?」
 首をもたげたスモールシェルドラゴンの様子に気付いたゼルスが問うも、彼方を振り仰いだ彼らの目にはただ凪いだ静かな夜の海が広がっているばかりだった。