●リプレイ本文
●ホルレー邸
陸奥勇人(ea3329)と白銀麗(ea8147)の訪問を、夫人は大変に喜んだ。
「新たに産業を興すとの話を聞き、過程の一端を実地にて学ばせて頂きたく参上しました」
恭しく頭を垂れる勇人に、夫人も礼の形を取った。
「歓迎します。聞けば『あの』ルーケイの統治に取り組んでいらっしゃるとか。大変なお役目、頭が下がります。何かの参考になれば幸いですわ」
勇人の贈った香水『花霞』の香りを楽しみながら、屈託の無い笑顔を見せる。お気に召して頂けたなら幸いです、と勇人。夫人の言葉に嫌味や含みは感じられない。年齢は確実に自分よりも上の筈だが、穏やかで何処か無邪気なところのある女性、と彼は見た。とにもかくにも、今はあまりに後ろ盾も伝手も少ない彼ら。こうして顔を繋いでおく事は、決して無駄にはならないだろう。
「今日は、お願いがあって参りました」
進み出たのは、銀麗。
「実は、紙を作る時に使う麻や木綿が不足しているのです。奥方様を始めとした貴婦人の皆様は、これらを使った服を沢山お持ちなのではありませんか。麻などの栽培が軌道に乗るまでの間、もう着ない服や布を譲っていただけたらと思うのですが、いかがでしょうか」
あらあらそれは大変、と夫人。
「分かりました。これも新たな産業の為ですもの、諸方で呼びかけてみましょう。ただ、古着は商品として流通しているものですから、善意の提供には限界がある筈です。逆に、いくらか出せば譲っても良いという者は何処にでもいるでしょう。すぐに栽培の目処が立つなら問題ありませんが、そうでないなら考えておいた方が良いかも知れませんね」
お骨折りに感謝致します、と頭を下げた銀麗に、夫人が微笑む。
「適度に人を使うのは良い事ですわ。いかに優れた才を持つ方でも、ひとりで出来る事は知れていますものね」
ころころと笑い、そしてすっと顔を近付ける。
「次は養蜂をするというお話ですけど、どんな事を考えているのかしら?」
もう、聞きたくて聞きたくて仕方が無いらしい。何となく、男爵がマリエを抜擢したのはこの夫人の意向あっての事なのでは、と思えて来た銀麗である。
●養蜂談義
さて、その養蜂だが。
「トックが教えてくれた養蜂家の家は‥‥と」
「ふむ、このすぐ先のようだな」
賽九龍(eb4639)が広げたのは、トックに描いてもらった地図。それを指し示しながら、シュタール・アイゼナッハ(ea9387)が確認する。村の集落からは少々離れた小山の裾野にある古い家の軒先には、砕いた蜂の巣が無造作に置かれていた。ここの住人が蜂を扱っているのは、間違いが無い様だ。
まりえが呼びかけると、おおう、と間延びした返事を返し、小柄な中年男が姿を現した。名をコーセブというこの御仁、村人の話では普段あまり人と交流しない生活を送っているとの事で、突然の団体訪問に驚いた様子ではあったが、まあまあ入るがええ、と一同を招き入れてくれた。特段人嫌いという訳でも無い様子で、一安心。
「実は私達、養蜂を始めようと思ってるんです」
マリエの言葉を、シュターナルが継いだ。
「しかし、わしらは素人。ここでの養蜂の行い方などなど、お教え願えれば有り難いのだがのぅ。わしが元いた世界では、丸木をくり貫いて巣箱を作るという話を聞いた事がある。新婚さんは1ヶ月蜂蜜を飲むとか、色々と風習もあって、蜂蜜は非常に好まれる‥‥あーいやいや、脱線した」
「今後も継続して管理していく必要があるので、できれば直接現地まで来て、今後も関わってくれると有り難い。もちろん報酬は支払うつもりだ」
アリオス・エルスリード(ea0439)は話しながら、相手のきょとんとした顔に当惑していた。何かとても、嫌な予感がする。
「ところで巣箱らしきものが見当たらぬ様だが、何処か別の場所にあるのかのぅ?」
聞いたシュターナルに、男は「何だそれは?」と答えた。
「マリエさんの研究の為にも、ご助力願え‥‥ええ?!」
アヤメ・アイリス(eb4440)が下げかけていた頭を跳ね上げる。
「あ、あの、ではコーセブさんがしている養蜂というのは、どの様な?」
「どのような、っつわれてもな。だいたいどの辺にどのくらいの蜜源があって、どのくらいの蜂がおるかは把握しとるでよ。巣の出来具合いを見ておいて、たっぷり蜜が溜まった頃を見計らってそれをとって、蜜絞ったり蜜蝋取ったりな」
養蜂は養蜂でも、それはいわゆる近代養蜂とは一線を画するものだった。
「まりえさん、お話が違いますっ」
「え‥‥だって、トックがそう言うから‥‥」
ひそひそと揉めるアヤメとマリエ。トックにとっては、これが養蜂。他のものなど想像もつかないのだから仕方が無い。ぽかーん、と聞いていた九龍、口が開きっぱなしになっているのに気が付いて慌てて閉じた。
「それでは、蜂や巣を扱う際の注意点など教えて頂ければ」
深螺藤咲(ea8218)が機転を利かせた。マリエ達が言う進んだ養蜂を知らずとも、彼が蜂を扱い慣れている事に変わりは無いのだ。
「そうさなぁ。蜂の巣に近寄れば、当然わんさか蜂が湧いて出る。けんど、煙で燻してやれば、逃げるか動きを鈍らせるか‥‥山火事と間違って慌てとるいうが、本当のところは分からんがけども。とにかく、ほとんど襲っては来んようになる。まあ、今は丁度、巣の蜂をせっせと増やして行く時期だで。新しい女王蜂が育って、大きな巣の巣分けが始まる時期でもあるでよ。盛んに飛び回ってはおっても、自分の事で忙しいで、実はあまり人を襲わんのだけんどね」
へえ、と一同感心。伊達に養蜂家を名乗ってはいない。
「蜂が元気に働くのに、大切な条件は何でしょう?」
アヤメの問いに、そうさな、とコーゼブ。
「そりゃあ、何より蜜を取る場所がある事だわなぁ。ああ、木がいくらあっても蜜を出さない木は当然蜜源にはならん。乾いた場所、じめじめした場所は病気を起こしやすいで、普通そういうところに蜂は巣をつくらんな。あとはそう、何年か越しのばあさん女王よりも、若い女王の巣の方が勢いがあるでよ。若い方がええのは虫も人間も同じっつーことかのう」
ひゃっひゃっひゃ、と笑う彼につられて笑いかけた男性陣は、女性陣の発する冷気に気付いて、慌てて無表情を装った。
「そうか。なら、巣箱はマリエ達の知識を頼りに作るしか無いかな」
アトリエに戻って来た皆の話を聞き、ふむ、と勇人。
「私達の世界で使われていた養蜂の巣箱っていうのはね‥‥」
まりえと九龍、木下秀之(eb4316)とアヤメが互いに確認し合いながら、どうやら正しそうな方向に話を纏めて行く。
「構造としては、複数枚の板枠‥‥巣板と呼びますけど、これを並行に入れられるようにした箱、という感じになります。箱の正面下寄りに蜜蜂が出入りする入り口を。巣板を出し入れする為に上は片手で持ち上げられる蓋をつけます。巣板は確か六角形が薄くプリントされた蝋の板で、そこに蜂が巣を作る‥‥でしたっけ?」
「板の上に、基礎となる六角形を蝋でプリントしたシートを被せるんだったと思います。蜂達はその上に自分で作った蝋を重ねて行って、部屋を作るんですよね」
マリエの返答に、アヤメが考え込む。
「うーん‥‥いっそ、実際の蜂の巣を薄くスライスしてくっつけてみましょうか。もしくは金網を蝋に浸して代用‥‥六角形の金網があるといいんですけど‥‥」
「まあ、とにかく試してみるしか無いだろう。あたって砕けろだよ」
秀之の一言で、両方やってみる事に。さて、どちらかが成功するのか、はたまたどちらも失敗してしまうのか。それは神のみぞ知る。そこに丁度頃合も良く、アッシュ・クライン(ea3102)とトックが材料となる板を抱えて現れた。一先ず皆して、巣箱作りに取り掛かる。
トンテンカントンテンカン‥‥ゴッ!
「っつ! くそー、こんな事ならもっと木工仕事の鍛錬もしておくんだった」
打ち付けた指を吹きながら、とほほと嘆く九龍。
「ちょくちょく移動させるものなのなら、運び易い様に取っ手をつけておいてはどうかのぅ。上が開閉するなら、横手にでも」
シュタールのこの提案はすぐに実行。金具をつけて紐をかけ、2人して運べる様に工夫をした。
巣箱作りに使う釘を運びながら、ケミカ・アクティオ(eb3653)はムフフと笑う。
「蜂を捕まえる、ね〜。蜂蜜がいっぱい使えるようになったら、甘い物が安くいっぱい食べられるようになるわけね! 天界ってワンダフル! でりーしゃす! 今回もがんばっちゃうわよ〜っ!」
くるんと回転した拍子に釘が散乱、下の方で秀之の悲鳴が聞こえたが、空想の中でお菓子に溺れていたケミカにはまるで聞こえていなかった。
そんな賑やかな声の傍らで、アッシュと藤咲は燻しの実験。工作で出た木屑を集め、火を付けたアッシュ。ある程度火が大きくなったところでボロきれを放り込むと、藤咲は用意した円筒形の道具を火の上に被せ、暫し待った。蓋を開けると、真っ白な煙がもうもうと噴出した。
「いけそうですね」
頷き合うアッシュと藤咲。
「いけてないと困りますよー。その仕掛け、随分高くついたんですから」
ちょっと渋い表情のトックさんだ。
「そういえば、樹園予定地の蜂って、どのくらいいるんですか?」
聞いたアヤメに、トックはそうですねぇ、と小首を傾げた。
「直接見た訳ではないですけど、至る所に飛んでるらしくて。取り合えず狭い範囲に大きな巣が20やそこらはあるだろうって話でした」
数にすると、どのくらいになるのだろう? 想像して、背中に怖気が走った。
巣箱を作り終えると、襲われ難いという白い服を用意した。帽子にネットをつけて視界と安全を確保する工夫もする。これで準備万端、彼らは樹園へと向かう。蜂蜜取るどー! と何処かのリアクション芸人の様に叫ぶ秀之に、皆が笑った。
●蜜蜂捕獲大作戦
ぶんぶんと羽音を響かせながら飛び交う蜂達。話には聞いていても、こうして見ると一層の圧迫感がある。アヤメがちょっと後ずさりした。
「ハチミツはおいしいですけど、蜜蜂はちょっと苦手です‥‥」
帽子を深く被り直す彼女。
「袖口を閉じておかないと入って来るかもしれないぞ。まあ苦手なら捕まえるのは俺達に任せとけ」
秀之がアヤメの服の袖口を縛る。なかなかどうして、気の利く奴だ。
「アトランティスの地で大好きな植物達を栽培が出来ると思ってたのに、蜂がうらめしぃですよ。早く蜜蜂には巣箱へお引っ越しをしてもらいましょう」
拳を握り締めて、うん、と頷くソフィア・ファーリーフ(ea3972)である。一方で、溜息をついているのはアリオスだ。
「この前の依頼じゃちょっと酷い目に遭ったから、荒事の絡まなそうな依頼を受けようと思ってこれを選んだんだよな。何でこうなったかな」
腕組みをし、首を捻る。
「ぼやくなぼやくな。必要なら危険を冒す事も厭わないのが冒険者だろう」
にっと男臭い笑みを浮かべ、『まるごとばがんくん』を着込む勇人。まあとにかく始めるか、と、アリオスも『まるごとクマさん』を着込んで進み出た。ずいずいと進む2つの着ぐるみに、一斉に蜂達が反応した。襲い来る蜂達‥‥は、大半がくまに張り付いた。幸い分厚い着ぐるみのおかげでダメージは無いが、あっというまに蜂団子だ。おかげで、随分と蜂密度が薄まった。
「大丈夫‥‥なのか?」
問い掛けるアッシュに、頷いて見せるくま。
「ちゃんす! さあシヴァっち、この匂いを探すの! 甘いお菓子とインサツの為にがんばろー!」
くんくん、と差し出された蜂蜜付きの布切れを嗅いだ柴犬のシヴァっちは、ててて、と駆け出す。それを追うケミカ。
そうする内にばがんが最初の巣を発見し、皆に合図を送る。駆けつけたアッシュと藤咲が手早く火を起こし、もうもうたる煙を吹きつけた。飛び回っていた蜂達は逃げ散り、巣の中の蜂も出てこなくなる。ついでにくまの救出も。蜂地獄にかわり煙地獄に苦しむくまを横目に、秀之は機嫌良く口笛を吹きながら、蜂達の様子を確認。
「よし、外すぞ」
落とした巣を、ばがんとくまで受け止める。安全なところまで運ばれて来たその巣を、シュタールが小柄を使って解体する。壊した巣の中で蠢く、一際大きな虫。ぶよぶよと腹が大きく膨れている。ばがんが摘み上げようとするが、着ぐるみの手ではちと無理が。
「これが女王蜂か、気持ち悪いな」
秀之が慎重に摘んで巣箱に移す。天然の巣板の上で縮こまっている働き蜂達は刷毛で落として、シュタールは蜜蝋の蓋を切り取った。中に詰まった蜂蜜が、とろりと溢れ出して来る。美味そうだが、今は賞味している暇は無い。巣箱の板を引っ張り出し、急ぎ巣礎を作る作業を始める。
「いくら着ぐるみがあるからって、あんなに蜂だらけになって大丈夫な訳が無いじゃないですか。さあ、強情言わずにはやく脱いでください」
応急セットを手にしたアヤメに迫られて、くまが追い詰められていた。
頻りに吠えるシヴァっち。追いついたケミカが、呪文の詠唱を始めた。
「武道会荒らしのケミカ、惨状の氷棺使いの実力を見せてあげるわけよ!」
ケミカの体がきらきらと光る。直後、バキっと巣が凍りついた。ぼとりと落ちる巣を、すかさず九龍が受け止める。お願いね〜と巣を任せ、次なる巣を探すシヴァっちとケミカ。巣を抱え、駆け戻る九龍。
「これも特訓だ〜! うおぉ〜、ほぅ! ほぅ!ほぅ! ほぅ! ほわちゃ!!」
刺されない様にと蜂をかわし続け‥‥ているつもりなのだがけっこう纏わりつかれている。暴れない方がいいのでは、と皆思うのだが、そこはそれ、鍛錬に口出しは禁物だ。と、彼の肩に張り付いていたペットの蜥蜴が、煙にまかれてふらふら飛んでいた蜂をパクリとくわえた。
「あ、こら、パク、それは餌じゃない! 刺されるぞ!」
くわーと口を開き、蜂を落とす。言ってる側から刺されたらしい。やれやれ、と首を振る九龍のオデコに張り付いた蜂が、これまたぷすりと一刺し。
「う、くぬぅ、不覚っ!」
うん、まあ死にはしない。精進、精進。
どんどん巣を確保し、巣箱に移して行く彼らだが、いつも巣が手の届く範囲にあるとは限らない。そんな時はソフィアの出番だった。プラントコントロールの魔法により彼女の意のままとなった蔓草が、高所の巣をも引き摺り下ろす。蜂達の必死の抵抗も、ただ蔓を傷つけるだけ。瞬く間に、辺り一帯の巣を取り尽くしてしまったのだった。
「モンスターと戦う時とは、別の緊張を致しますわ」
ふう、と息をつく藤咲。用意した20の巣箱は、あっという間に女王蜂と働き蜂で満杯になった。ちゃんと定着してくれるかどうかは、経過を見なければ何とも言えないところだが。
蜂騒動は、相当数をマリエ達が引き取った事もあって、間もなく解消された。樹園の整備が再開され、どんどん形が整って行く。それを眺めていた秀之に、ソフィアが声をかけた。
「随分と熱心に見ているんですね」
「魔法でも使ってどんどん育てたりするのかと思いきや、普通に肥料をやったり、やり過ぎなんじゃないかと気を揉んでみたり、あんまし変わんねーのな」
里村では春蒔きの麦の成長を皆が気にかけ、この時期に出征を命じられた領主に同情している。何も特別な力を振るわずとも、ごく当たり前の知識でもって、普通に役立つ事も出来るかな、などと、考えていたところである。
「そっちは? 蜜源になりそうな場所は見つかったか?」
「今だと、一番の蜜源は畑の草花かしら」
畑はだいたい、3つに分けて使われている。栽培季節の違う作物を育てる場所が2つ、そして休ませる場所がひとつ。それをローテーションで回しているのだ。休耕中の畑には、家畜の餌となる草花が植えられている。それが今まさに花を開いて、実に長閑な風景を生み出している。
「ただ、このホルレー領は、本当に平地が少ないんですよね。見て回ると実感できます。山の木々も針葉樹が多くて‥‥これは蜜を取れませんよね。実はあまり養蜂には向いていないのかも知れません」
そりゃ困ったな、と秀之。呟いて後、暫し沈黙。
「帰ろう。皆で話し合えば、いい考えのひとつも浮かぶだろう。トックに仕込んだ樽を預かってもらわなきゃならないしな」
?? と自分を見遣るソフィアに、秀之はにっと笑って見せた。
●紙の改良と筆記具の考案
蜂捕獲組が出払って少々寂しいアトリエだが、残った者も遊んでいる訳ではない。
「これは‥‥また、盛大に来ましたね」
「そうね、今度は仕舞う場所に頭を悩ませる事になりそう」
トックと銀麗の目の前に、山と積まれた古着があった。夫人、随分と頑張ってくれたらしい。大半、使用人の衣類と思われ草臥れ切っているが、むしろその方が素材には適するというもの。
「分類から始めましょうか」
銀麗の言葉に、そうですね、と頷くトック。取り合えず、暫くの間は麻や木綿に困る事はなさそうだ。
柳麗娟(ea9378)の実験は、ようやく佳境を迎えていた。滲みを防ぐ為の添加剤として膠の代わりに松脂を使うという彼女のアイデアを基にして、まりえが松脂の溶解液作りに挑戦する。
「なんだか、だんだん使うものが難しくて危ないものになって行きますよね」
おっかなびっくりなまりえ。それを慎重にパルプに加え、混合するのだ。定着剤として明礬を加え、後はいつもと同じ行程を。
「落ち着かないのね、麗娟さん」
銀麗にからかわれる程、水切りを待つ彼女はそわそわしていた。そして、完成。
「‥‥白さの点では旧作。滑らかさではこちら、といったところでしょうか」
それが、彼女が下した結論だ。こわばりの少ない、扱い易そうな紙。
「私がしようとしている印刷‥‥同じものをいくつも作るというような用途には、もしかしたらこちらの紙が向いているかも知れませんね。この紙の素直さには、色々と利用価値がありそうです」
マリエは喜んでくれるのだが、麗娟の気分は複雑だ。何と言っても、画材としては旧作の方がずっと面白そうだったのだから。
スニア・ロランド(ea5929)は、地球人から話に聞いた『えんぴつ』を作れないものかと試行錯誤している。
「えんぴつには『いろえんぴつ』というものがあり、それは顔料と蝋と糊で出来ていると聞きました。それならば何とか作れそうな気がします‥‥」
絵画用の顔料はさして労せず手に入った。蜜蝋と混ぜ、穀物を練って作った糊と合わせて棒状にし、天日干しにすること数日。
「‥‥か、固まらない‥‥」
パキッとした芯になってくれず、紙に押し付ければボロボロと崩れてしまう。しかも、悲しい程に発色がよろしく無い。まりえもこの製法については知らないらしく、一緒になって悩むしかない。結局、今回の期間中に、満足な品は出来上がらなかった。
「でも、どうして鉛筆に興味を持ったの?」
聞かれたスニアは、こう答えた。
「私は学者ではなく戦働きが求められる騎士ですから、マリエさんの理想は正直よく分かりません。ただ、過酷な環境で素早く筆記できる道具があれば、余程高価でない限り常備しておきたい。情報の記録と伝達の速度向上は、戦の規模が大きくなるほど効果が大きいと思いますから」
純然たる必要からの欲求。そうか、そうだね、とマリエは何度も頷いた。
●蜂からの贈り物
巣箱の中の蜂達は、とりあえずせっせと働いてくれている。ちゃんと中に巣を築いてくれるかどうかは、もう暫く様子を見て見る必要があるのだが。
「うー、せっかくの蜂蜜にゴミがいっぱい混じっちゃってるじゃない! やり直しを要求するわ!」
ケミカさんはご機嫌ななめ。まあ何せ素人のやる事だから仕方が無い。
「蜂蜜を売り物にするなら、遠心分離機が必要ね。それから‥‥」
マリエは巣の中から、白濁した液体を手に取った。
「このローヤルゼリーを与えられえて育った幼虫は、女王蜂に育つの。凄く栄養豊富で美容にも効果絶大。あ、これも忘れちゃ駄目だね。プロポリス。正確には蜂が作るんじゃなくて、蜂が樹木から集めてくる樹脂なの。だから成分は育てる場所によって変わってしまうんだけど、強い抗菌力をもっていて、病気の治療なんかにも使われるのよ。‥‥て感じで貴族の奥様にでも高く売れないかしら」
なかなかちゃっかりしている。
「蝋は上手く取れそう?」
声をかけられ、勇人はああ、と短く答えた。彼は、ばらした巣を湯煎にして溶かし、ゴミだけを取り除くという方法を取ったが、これは概ね成功している。
「しかし、意外に量が取れないものだな。蜜蝋もまとまった量を採ろうと思うなら、本格的に養蜂をする必要がありそうだ」
これを仕舞ったらお手伝いします、と銀麗の紙を運んでいた麗娟が言った瞬間、風が紙を浚って行った。鍋の横で勇人の仕事を見学していたケミカさんは、舞い飛ぶ紙をはっしと掴み‥‥そのまま引き摺られた。
「あ、あわわわ──」
咄嗟に掴んだソフィアのおかげで、ケミカは釜茹での危機を脱したのだった。ああ、でも紙が‥‥と振り向いた彼女は、蝋を吸って半透明になった紙に魅せられた。
「なんだか透き通って綺麗かも。これ固まったら、何かに使えないかしら」
「ああ、何て偶然!? こうして蝋を染ませた紙を蝋紙って言うの。ガリ版っていう多分最も簡単な印刷をするのに必要な道具になるのよ」
「印刷って、書写するのとはまた違う訳ですよね?」
ケミカを握ったまま聞くソフィアに、マリエが答えた。
「蝋紙を鉄筆などで削ったものが、原版になるんです。その上に直接インクを乗せると、蝋の染み込んだ部分はインクを弾き、削られた部分には染み込んで、下に紙を置いてあれば、そこに刻んだとおりの内容が複写されるんです。もっとも手軽な印刷の一種ですね」
うっとりと語るまりえを、ソフィアとケミカが見上げている。
「まりえ殿、この様なもので如何でしょう」
麗娟が差し出したのは、印刷に用いるインクである。黒の顔料を見つけられなかったので、これは前回墨用に集められた油灰を使い、蜜蝋を主剤としてヒマシ油および亜麻仁油で溶いたものだ。粘りがあり過ぎて筆記には向かないが、インクが流れず留まり続けなければならないという説明を聞いた上での、彼女の判断である。
「うん、凄くいい感じよ。ありがとう!」
満面の笑みで受け入れられ、麗娟、面目躍如といったところだ。
「ああもう、何処から手をつけようかな、迷うなぁ。ケミカちゃんどうしよう、目標が早くも達成されちゃうかも」
凄いね、やったね! と一緒に喜んでいたケミカだが、ふとひっかかる事が。
「‥‥ところでまりえ、私は多分まりえの3倍は生きてると思うんだけど、ケミカちゃんはどうなのよ」
苦笑するケミカに、ぽかんとするマリエ。
「え、ええっ!?」
その日から呼び方が『ケミカさん』になって、ケミカでいいって言うのに、と彼女をまたまた苦笑させる事になるのだが、それは余談。