●リプレイ本文
●ホルレー邸
エリーシャ・メロウ(eb4333)とエルシード・カペアドール(eb4395)、フレッド・イースタン(eb4181)が館を訪ねた時、領主モーガン・ホルレー男爵は、夫人と共に秋の日の午後をのんびりと過ごしていた。
恭しく頭を垂れる彼らに、夫人は刺繍の手を止め、
「遠慮せずにこちらへどうぞ。お客様は歓迎よ」
そう、にこやかに微笑みかけた。男爵は一瞥して頷くのみ。元々偏屈の気がある人物なのだと知っていなければ、嫌われているのかと思い悩んでしまいそうだ。その男爵が口を開いたのは、エリーシャが挨拶の中でサン・ベルデの名を出した時だった。
「そうか、あの折にな」
声音が幾分親しげになる。肩を並べて戦った訳ではなくとも、やはり同じ戦いを経験した親しみは大きいだろう。罪人相手の、身代金とも名誉とも無縁の戦いとなれば尚更のことだ。
「武辺者ゆえ産業の開発ではお役に立てませんが、獣の討伐ならば物の足しになりましょう」
「よろしく頼む」
は、と一礼した彼女に、夫人が溜息交じりに言葉をかけた。
「この人、マリエさんと仲違いしちゃったのよ。エリーシャさん、くれぐれもマリエさんに宜しく言っておいて下さいね」
「‥‥黙っていなさい」
はいはい、と夫人、口の前で指バッテン。再び刺繍を始めた。
「製紙工場の操業開始、お祝い申し上げます」
フレッドは祝いの言葉をかける事で、バツ悪げな男爵を救った。彼にしてみれば、方便でも何でもなく、祝いたかった事なのだが。思いの他立派だった工場に、懸命に働く人達。最良の形で操業に漕ぎ着けてくれた仲間には、足を向けて寝られそうにない。
と、ここでエルシードが、ひとつの話を持ちかけた。
「フオロを貿易で成り立たせるべく、商品となり得る品を探しています。高品質の紙は輸出品にも適している筈。いろいろと検討してみたく思いますので、是非ともサンプルとして、紙を何枚かお預け頂けないでしょうか」
これを聞いたホルレーの片眉が、ぴくりと上がった。
「それは、目溢しの代償に紙を献上せよという意味かね?」
思いもかけぬ反応に、エルシード少々狼狽。
「いえ、そういう話ではなく‥‥」
しまった、と彼女は心の中で突っ伏した。フオロとホルレーの関係は、あまり、というか、かなり宜しく無いのだ。紙は後々、金の卵ともなり得る物。フオロがその利益を奪う為に探りを入れてきたと勘繰られたとしても、仕方の無い事だろう。
「これは、双方に利益のある話なのです。ただ、今日は何の用意もして来ておりません。何れ改めて、ホルレー様にもご納得頂ける形でお話をさせて頂きます」
どんな話をしても、今は空手形。この場は引き下がる事にしたエルシード。
「何だか喉が渇いてしまったわ。皆さん、我が領地で採れたハーブのお茶はいかが?」
夫人が家人を呼び、支度をさせる。ホルレーもそれ以上拘る事はせず、話題は自然と、夫人が話し始めたよもやま話へと移って行った。
●現場報告
顔ぶれが揃うと、冒険者達はマリエと共に樹園へと足を運んだ。遠くからでも、水を汲み上げる仕掛けと整然とした木々の並びでそれと分かる。
「製紙、印刷、養蜂、シンブン。樹園まで。これだけの産業を興されるとはまりえ殿は素晴らしい技術者でいらっしゃるのですね」
エリーシャの褒め言葉に、マリエ照れ慌て。
「でもこの樹園にしても、みんなが提案してくれた事だから‥‥」
「周囲の協力を引き出す事も素養のうち。モーガン卿も期待しておられましたよ」
そ、そうですか? と屈託の無い様子に、エリーシャは安心した。
「そんな事より、村の人達にお話を聞かないと、ね?」
照れ隠しに歩を早める。遠くからでは分からなかったが、間近に来ると被害の様子がありありと見て取れた。マリエ達が姿を見せると、働いていた人々が一斉に集まって来た。陸奥勇人(ea3329)の狼、舞雷を見てぎょっとするが、恩義ある彼が大丈夫、と請合うのを聞いて一応は納得し、口々に被害の程を訴え始めた。
「待って下さい、皆さん順番にお願いしますっ」
マリエが制して、ようやく話が聞ける状態になった。
「熊に遭ったというのは?」
オルステッド・ブライオン(ea2449)が問い掛けると、ひとりの男が進み出た。
「この山を越えた向こう側、連なる山の谷間の辺りだ」
「また随分と奥だな。そんな所まで踏み込まなければいいだけじゃないのか?」
賽九龍(eb4639)の指摘に男は首を振った。
「今まで熊がガレ場からこっちに踏み込む事なんて無かった。食い物を探してか、それとも縄張りを追い出されたか‥‥」
「この山に入り込んでいる危険があるという訳か」
オルスデットに、男は頷く。こりゃあ山狩りかな、と九龍。
「後は野犬、狼か。一体どの辺りで出たんだ?」
勇人が促すと、今度は多くの者達が証言を始めた。話を纏めるに、野犬は樹園の近くに幾度も出没、狼は山の西側でニ、三度目撃されているとの事。そして、樹園の直接的な被害は、猪によるものと思われる。
「なるほど‥‥」
傷つけられた木々を見てフレッドが溜息をつく。この樹園には猪が特別好む餌は無いのだが、痕跡を辿ってみるに、どうやら水を飲みに来ている様だ。近くの湧き水が涸れる一方でこちらに溜池が出来たのだから、ごく自然な流れなのかも知れない。
「そのついでに、植わっている木で牙を研いだり身体を擦ったりしてしまうという訳か。迷惑な話だな」
だいたい分かった、と頷いた勇人は、時期が時期だからな‥‥と呟いた。オルステッドも頷く。冬を前にした今の季節は、動物達が積極的に餌の確保に動く時。
「採取だが、出来れば今は自重した方がいい。人死が出てからじゃ遅いからな」
「さしあさって、この樹園から奥には誰も入らない様にしてくれ」
勇人とオルステッドの指示に、それでは紙作りが滞ってしまうと皆が訴える。
「駄目だ。せめて熊の処置が終わるまでは我慢してくれ」
オルステッドに強く言われ、彼らは渋々従った。これも彼らを思えばこそである。勇人は早速、樹園に侵入対策を施す事にした。
「太めの木材で高さ60cm程度の頑丈な柵を組み、衝撃を受けると音を立てる鳴子も仕掛けておく‥‥という事でどうだろう」
「問題無いと思います。早速始めましょう」
フレッドの他に、入山禁止で仕事からあぶれてしまった人々も加わって、賑やかしい柵作りが始まった。常にこのくらい賑やかなら、きっと獣など近寄って来ないのだが。
「ちなみに番犬を飼ったりは出来ないのか?」
何気ない勇人の言葉に、村人達、ぽんと膝を打った。早速、何処からか貰えないか探してみるとの事だが、それはまた先の事だ。
「暫くは私達が番犬代わりを務めましょう。エド、お前もそろそろ猟犬として狩りの役に立ちなさい」
エリーシャの愛犬エドが、わん! と一声、尻尾を振る。
「ところで、近くに炭焼きをしている所はあるかしら?」
エルシードは村の者達に聞き、近くにあると分かると、出かけてしまった。
「それでは、こちらはお任せしますね」
マリエは後のことを皆に託し、アトリエに戻って行った。
●鉄
「鉄はなぜ変形するのか? 鉄の構造を一口で言うとジャングルジム。所々に格子がずれている場所がある。これが鉄が加工しやすい秘密である。鉄は力を加えて行くと、このズレの部分が移動して行き、僅かな力で姿を変える。
これはちょうど絨毯を動かすような物で、一人で引っ張ってびくともしない絨毯も、端にたわみを着け、たわみを動かして行くとちょっとの力で動かすことができる。
このズレを固定するために使われるのが炭素である。炭素を加えるとズレの部分の移動を防ぎ、変形しにくくする。炭素が少ないと加工しやすいが柔らかい。炭素が多いと堅くなるが加工し難く脆くなる。一般に利用される鉄の炭素含有量は0.02%〜2%のもので、鉄塊をハンマーで叩くと0.01%だと容易く凹み、2%だとひび割れて砕ける。刃物や歯車などはだいたい1%前後の炭素含有量を持つ‥‥」
まりえに授業ノートを読んで貰いながら、白銀麗(ea8147)は感心する。
「天界の錬金術って物凄く発達していますね」
ジ・アースにもウィルにも、鉄の成分をそう言うレベルで調整できる技術がない。
「理屈は判るけど、わたしも作れと言われて作れないのよ」
さもあらん。簡単にできるようなら既にやっている。
「それでも、砂鉄が使えるなら、鉱石よりもずっといい鉄ができると思います」
「問題は炭よねー。備長炭っていう打ち合わせると金属音で鳴るような、極上の炭が必要よ」
「松炭じゃダメかな?」
物輪試(eb4163)の問いに、
「試した見たけど、直ぐ粉になるんで余り良くなかった」
「じゃあ石炭じゃだめですか?」
銀麗のプランも
「見つからない上に、石炭に含まれる硫黄が悪影響をあたえるわ。それに、僅かでもリンが含まれていると最悪。どんなに頑丈に作った鋼でも、リンが入っているととたんに脆く為っちゃうの。氷水程度の低い温度で、信じられないくらい壊れやすくなるわ」
天界では鋼で作った船があって、材料にリンが混じっていたために、氷山の海で沈没した船があると言う。
「タイタニックってもう100年以上前のはなしだけど‥‥」
「まりえさん? それで砂鉄らしい物って」
「砂金の選別に使っていた河の底にあるわ。パンニングで砂金と一緒に最後まで残る奴。多分砂金でしょう」
このため、砂鉄らしきものは砂金採りの廃棄物として取り分けられていた。
「あ‥‥」
磁石にうっすらと着く砂鉄。磁力が弱いせいか純度が低いせいか、大してくっ着かない。工業的に使用するには甚だ心許ない限りだ。また、充分な量が揃ったとしても精錬の技術蓄積がない。質の良い鋼を作る道のりは、随分と遠いものに見えた。
試作品の歯ブラシと格闘する試。色々試した結果、柄は木製の物が最も良かった。ワインと消し炭と塩。安価に手には入る物ではこの組み合わせが最良に思える。塩はチの国ククェス産の藻焼き塩の具合が良い。岩塩は今ひとつの感触だ。混ぜるハーブは個人の好みだが、ミントが清々しくて良い。
それはさておき。人の口に使えるブラシを養蜂に応用。まだ丁寧に扱わないと不可ないが、まずまずの出来映え。燻煙器も出入りの鍛冶に頼んだ試作品ができて来た。
「うん。鞴の具合が丁度いい。これなら使い物になるだろう」
●蜜蜂の冬支度
「だからな、寒さっつーのは沁み沁みと這い寄って来るもんなんだわ。気ぃつきゃ朝晩腰は痛いわ膝は軋むわ‥‥」
「そりゃコーセブさんの体の話でしょうに。そんなに辛いなら、俺らに任せてもらってもいいんですよ?」
ふふんと笑った若者達を、コーセブがくわっと威嚇する。フレッドの助言に従って話し合う彼らだが、そもそも確立した手法が無いのだから検討のし様が無い。シュタール・アイゼナッハ(ea9387)は間に挟まれて辟易顔だ。
まりえと共に様子を見に来た試、相変わらずの平行線に苦笑い。
「蜂に限らず、虫は温度に大きく左右される生き物ですから。冬越しを万全にするために、ぎりぎりまで蜂達に働いてもらおうと思うなら‥‥コーセブさんの指摘も的外れではないと思います」
まりえの同意を得て、コーセブがにっと笑った。
「じゃあ、具体的にどうするんですか」
不満げな顔をしながらも次に話を進めるのは、彼らとて養蜂を何とか育てたいと願っている証拠。
「勇人さんは巣箱を地面から離すのも効果があるんじゃないかと言っていたな。つまり、巣箱を乗っけられる台を作る、と」
試が地面に絵を書いて説明。簡単に出来る工夫だし、試してみる事にした。
「いっそ、無駄な巣板は外してしまったらどうかしら。そうすれば、自然と蜂が集まって、温度を保つ事が出来るでしょう?」
エルシードの提案に、それはいい、とシュタールが手を打った。
「だが、それでは無駄な空間が出来てしまうのう。小さい巣箱を新たに作るのは如何にも大変だし‥‥そうだ、外した巣板の代わりに仕切り板を入れて、ひとつの巣箱にふたつの群を入れるのはどうかのう」
「それは思いつきもしなかったわ。‥‥あ、でも、巣箱には出口がひとつしか無いでしょ? 出口を増やして大丈夫かしら。巣箱半分よりも大きい巣はそのままになってしまうし‥‥」
まりえの言葉に、落胆するシュタール。だが、はたと気付く。
「なら、単に空いてしまった空間を仕切ればいいのではないかのう。空間が狭くなれば自然と蜂は密集するし、温度も保たれ易くなる」
あ、とまりえ。意外な盲点。これは冬だけでなく、巣の成長に合わせて使える機能かも知れない。
「後は、出入口自体も狭めた方がいいかのう?」
「それについては、ちょっと工夫を考えてみたのよ。出入口に、スライド式の蓋を付けるの。蜂の数に応じて蓋を少しずつ閉めて狭くすれば、中に寒気が吹き込むのを防げるでしょ? 一々詰め物で塞ぐ手間も省けるしね。早朝に霜が降りるようになったら、巣箱を藁で覆ってあげれば、それだけでかなり違うと思うわ」
どう? と、ちょっと高い視点から皆を見下ろすエルシード。そのアイデアに一同感心、褒められ有難がられて、彼女、満更でもない気分だ。
試は早速、仕切り板と台の製作に着手した。ひとつ出来上がったところで、使えるかどうか試してみる。煙を吹きかけながら巣箱を開け、巣板を外すと、確かに何枚かはほとんど空になっていた。
「さて、どのくらいの蜜があれば冬を越せるものかのう」
シュタールが見ているのは、蜂達がたっぷり蜜を貯め込んだ巣板の方。彼は後々の為、蜂の規模と蜜の量を、目視の大雑把な把握ではあるが、記録しておいた。
「でも、実際足りなくなった時に、打つ手なんかあるんですか?」
不思議そうに聞く人々に、
「なに、餌になるものを与えればいいのではないかのう」
と、シュタール。
「採取した蜜を一部は保存しておいて、いざという時は戻してやればいいでしょう」
エルシードは具体的に。餌を与えてまで蜂を養う、という考え方は、村の人達の頭には無かっただろう。
試は巣板を見回し、未練たらしく這い回っている蜂にはブラシでご退去願って、巣板全部を出入口側に詰めてから、仕切り板を入れた。スライド蓋の開け具合は、蜂達の様子を見ながら調整する事になるだろう。
外した巣板はゴミを除き、しっかりと乾燥させてから保管する。来春、これがあれば再び巣が賑わって来た時に、蜂達は再び巣を作る労力をかけなくて済むという訳だ。ただ、巣板にはかなりの確率で、巣を食い荒らす虫がついていた。
「燻し殺してしまおう」
「注意してな。熱を与え過ぎると巣の方も溶けてしまう」
試とシュタールでおっかなびっくり処置をして、別の虫がつかない様に風通しの良い場所にしまっておく。卵が残っている可能性もあり、こまめに確認した方が良さそうだ。
数々の処置の後、人々は確かに蜂に活力が戻ったと言っている。良い事だが、全ては冬を越せてこそ。
「それはそうとエルシードの姐さん、周りに蜂が寄って来ませんねぇ」
「やあ、だって姐さんからは何だか鼻を突く凄い臭いがもがが」
口を押さえられ、もがく村人。え、本当? と彼女、自分で自分を嗅いでみる。言われてみれば、そんな気も。
「ああ嫌だ、臭いが移ってしまったのね」
あからさまに落ち込んでいるのに、慰める人のひとりもいない。効果てきめんね、と彼女は乾いた笑いを浮かべた。
●獣の群を追い返せ
エルシードの臭いの原因は、炭焼きに協力を求めて作った木酢液だ。木から抽出されるこの汁を虫や獣が好まないのは、山火事を連想させるからだと言われている。
「半月くらいは効果があるみたいよ。簡単に作れるものだから、自分達で作って撒くといいわ」
その効果は確かなもので、樹園周辺に出没する獣の目撃は明らかに減った。柵も完成し、鳴子は今、九龍が金属の棒を結わえ付けている最中だ。揺すってみると、ガランガランと結構大きな音がする。防衛策は、これで一通り出揃った。
樹園の守りを万全にした上で、冒険者達は巡回の範囲を広げ、獣の動向を探る事に専念した。
「犬は小さな群が幾つか存在している様だ。恐らく狼と競合する状態になり、追い遣られている。樹園の近くに出没したのは、猪を追っての事だろう。決して安全な獲物ではないが、手を出さざるを得なかったのだと思う」
得物の食い残し、死骸、抜け落ちた毛や糞。そんな痕跡から分かる事は随分ある。オルステッドは、食い散らかされた鹿の子供に注目した。
「これなんだが‥‥多分、狩ったのは狼。食ったのは熊だ」
横取りされたってことか、と勇人が肩を竦めた。どうやら、随分と悪知恵が回る熊らしい。と、彼の狼、舞雷が耳を立てた。エリーシャのエドが、じっと一点を見詰めて動かない。一瞬顔を出して消えたのは、紛れも無く狼。
「エド、追い込んで!」
エリーシャの声に応えたエドが、矢の様に疾走する。激しく吠え立て、力では勝る狼達の行動を制約する。狼の進路には、エリーシャがいた。先頭を走る獰猛な一頭は、牙を剥き出し飛び掛ったが、長槍の一突きで貫き、横に振るって投げ捨てた。そこにオルステッド、勇人、そして舞雷まで躍り込んだのだから堪らない。頭目と見える一頭が傷を負うと、狼達は完全に逃げ腰になった。
「舞雷、ちょいと連中に睨みを利かせてやれ。この先には立ち入るなってな」
頭目は足を引き摺りながら逃走する。もはや、頭の座は守れないかもしれない。群は弱体化し、当面は大人しくなるだろう。
「もっと本格的に狩らなくていいのか?」
「それをするには準備不測だ。追い詰めれば奴らとて死に物狂いになる。それに、自然の生物を狩り過ぎてろくな事は無い」
オルステッドの考えに、九龍がふむ、と頬を掻く。九龍には、ここは自然の力が強すぎて、ちょっと不安になるくらいなのだが。
彼らが熊に遭遇したのは、その翌日。狼の痕跡をたどっている最中の事だった。音の効果の実験とばかりに、ショートソードをパリーイングダガーでガンガン叩きながら歩いていた九龍。
「あ」
異様な気配に振り向いた彼は、野兎をぶらさげた熊と目が合ってしまったのだ。餌に夢中になっていたのか、大きな音が却って逃げ場所を誤らせたのか、それは分からない。
困り果てた九龍は、振り上げたままの剣を、がん! と一発打ち鳴らした。これを挑発と受け取ったか、熊は咆哮と共に突進して来た。
「あちゃ! あちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃ! ほあちゃ!!」
ショートソードを振りながら、熊の強烈な爪を擦り抜け、正確無比のカウンター!
「‥‥あれ?」
の、筈だったのだが、気が付くと吹っ飛んでいた。捕まらなかったのは幸運だったが、無論そんな事を考えている余裕は無い。
「九龍殿、出血はしていません気を確かに!」
エリーシャとオルステッドが間に割り込み、振り回される爪を避けながら牽制する。ブレードホイップが余程煩わしかったのか、熊は癇癪を起こし身体を震わせ、圧し掛かる様にして迫って来た。
「人を襲った以上、この場で倒す! 恨むなよ!」
横手から駆け込んだ勇人はボォルケイドハンマーを握り締め、裂帛の気合と共に叩き込んだ。背中を強かに打たれ、血反吐を吐いて喘いだ熊は、振り返り様に爪の一撃を浴びせかけようとした。が。
「ほぁー、ほあちゃ!」
その熊の腱を、九龍の剣が断ち切った。腰砕けになった頭を、赤い鉄塊が押し潰す。動かなくなった熊の骸を前に、彼らは暫し、身構えたままで様子を伺っていた。またすぐに動き出しそうな気がしたのだ。ちなみに、兎は野犬から奪われたものだった様だ。
幸い九龍の怪我は大した事は無く、本人もすぐにいつもの調子を取り戻した。
「そういやカラス避けにカラスの死骸を吊るすってのがあったな。この死骸を吊るしておいたら、もう熊が寄って来ないなんてこと、ないかな。むしろ、狼が寄って来るか?」
少しだけサングラスを下ろし、物言わぬ好敵手を見詰める九龍。
「それはどうか分からないが、この肉の塊をいつまでも身近に置いておくのは辛いだろう」
オルステッドの静かな突っ込みの世界を、九龍は想像してみる。のどかな樹園に、ぶらさげられた熊の死骸。だんだん腐って崩れて臭って虫湧いて‥‥
「‥‥辛いな、確かに」
エリーシャが、呆れた様に首を振り、苦笑した。
熊は狩られ、犬や狼も蹴散らされたと知って、人々は大いに喜んだ。
「樹園に入り込む獣も現れていません。柵と木酢液のおかげですね」
フレッドの報告に、冒険者一同も一安心だ。
「でも、他にどんなのがいるかも知れないからな。念のため、何か音のするものを身につけておいた方がいいぞ。ああ、でも鳴らし過ぎは駄目だぞ」
熊パンチの青痣を見せられて、皆、素直にこの助言に従った。痛い思いをしたのも、無駄ではなかったという事だろうか。
思うのですが、とエリーシャが提案する。
「木々に縄を巻くなどして目印を付け、山へ入るルートと採取の範囲を定められませんか? ここまでと決めて採取をしていれば、『そこまで行かねば人間に遭遇しない』と動物の側でも次第に理解し、ある程度互いに不可侵を守れるようになる‥‥。素人考えでしょうか」
「人にも獣にも、その時々の都合というものがあるからな。ただ、こんな事もあったことだし、目の届く範囲に絞っておくのがいいかも知れんな。差し当たり、山の南面、東側6割くらいを目安にしとくか?」
いやそれでは、だがしかし、と話し合いを始める村人達。後は、彼らの判断だ。
●甘味砂漠をはるばると
山に入った者達が獣と戦っていた頃、加藤瑠璃(eb4288)も手強い敵を前にして、じわり額に滲む汗を拭っていた。
「うう、完璧に煮詰め過ぎだわ‥‥」
デロデロな物体がこびり付いたお鍋を前に、肩を落とす彼女。のんきにお料理タイムという訳ではない。甘味を求める人々の切実な声に応えるべく、水飴作りに挑んでいるのだ。ただし、ちょっとばかり腕前の点で難があった。
「か、竈がいけないのよ、私の世界ではコンロで一発着火、火加減も自由自在だから」
本当に!? と驚くトックの素直な視線が痛い。では竈は私に任せて下さい、と申し出たトックの好意を、彼女は素直に受ける事にした。
さて、水飴はアトランティスにおいても良く知られた食物だが、他の甘味同様やはり高価で、砂糖などに比べれば親しみ深いとはいえ、庶民に容易く手の届くものではない。トックも、自分で作ったことは無いという。
「デンプンと酵素と一定の温度さえあれば出来上がる筈。頑張って必ず成功させましょうね」
進んで参戦したマリエも、随分気合いが入っている。酵素は、麦芽から得る事にした。水に浸し、濡らした布に包んで藁を被せておいた大麦は、幸いにも6割方芽を出した。これを乾燥させ、すり潰しておく。
「デンプンは、小麦と豆で試してみようと思うの」
瑠璃は小麦粉に水を掛け、力いっぱい捏ねまわす。どすんばたんと繰り返し、腰のある生地に育ったところで、暫くの間寝かせに入る。一方マリエは、豆に挑戦。ウィルでよく食べられている平たいお豆は、デンプン質の多いタイプだ。これをすり潰し、キメの細かい布に包んで、水の中で揉んだり擦ったり。散々に格闘した後、暫く置いておくと、白い沈殿物が底に溜まる。これがデンプンだ。上澄みを捨て、水を加え、上澄みを捨て‥‥これを何度も繰り返し、純度の高いデンプンを得る
。小麦の方は、寝かせ終わった生地を水の中で揉み洗う。後に残るのはもちもちのグルテン。で、必要なのは苦労して作ったグルテンではなく、生地を洗った水の方。底には、やはりデンプンが溜まっているという寸法。
「‥‥なんだかもう疲れちゃった」
「何言ってるのまりえ! 甘味の道が険しいなんて、分かりきってた事でしょう!」
本当は自分もクタクタなのだが、言い出した手前、死んでも弱音なんか吐けない瑠璃なのだ。
「ここからが難関よ、お願いねトック」
トックはデンプンを水に溶かし、湯煎にかける。透明な糊の様になったそれに麦芽粉を投入するのだが、その温度が微妙なのだ。マリエはこれを『卵の黄身が固まらないギリギリの温度』という表現でトックに理解させた。彼は炭の熾りを調整しながら、とろとろと熱を加える。麦芽粉を加え、温度を保ったまま一昼夜。便利な魔法瓶などここには無いから、感覚で調整するしか無い。3人で竈の前に陣取っての、寝ずの番となった。
翌朝。
「‥‥どう?」
「うん、ほら、ちゃんと糖化してるわ!」
瑠璃とマリエ、小躍りしながらハイタッチ。良かったですねーと微笑むトックの目の下には、くっきり隈が出来ていた。この液体を漉してから、湧き出す灰汁と戦いつつくつくつと煮詰め、粘りが出てきたところで更に弱火で煮詰めると、ようやく完成。
「減りましたね、随分と」
「それは言わないで、悲しくなるから」
鍋に山盛りの小麦と豆を用意して作ったのに、山のような薪を用意したのに、出来上がったのは底に5ミリ足らずといったところ。しかもこの手間。安くならない訳である。材料費だけでも相当な散財だった。
「甘い」
「甘いね」
麦と豆の水飴は、それぞれに風味があってほのかに甘くて、ほっと息をつく様な味だった。尤も‥‥甘味としては砂糖に遙かに及ばない。
「トック、あなたも‥‥」
言いかけた瑠璃は口を噤んで、奥に毛布を取りに行った。疲れて眠る彼を起こさぬ様に気を遣いながら、マリエは水飴を容器に移し、火の始末を済ませて台所を出た。
外ではフレッドとシュタールが、間もなく使う事になる蜂小屋を点検している。
「どうやら、雪対策は問題無い様ですね」
「近隣の者達も手伝ったらしいからのう。どうすれば潰されずに済むかは万事承知という事かの」
屋根には傾斜がついており、例え積もっても重みが増せば滑り落ちる工夫がされている。むしろ屋根から落ちた雪を速やかに退ける方法を考えねば、と彼らは意見の一致を見た。上白糖の様な雪が舞い始めるまで、まだ暫しの時がある。
仕事を終えたエルシードは、コーセブに商談を持ちかけていた。
「蜂蜜はまだ残っているかしら? ウィルカップ用に確保しておきたいのだけど」
コーセブは、彼女を保存蔵に案内した。ひんやりとしたその部屋に、皮の封をされた壷が並んでいる。そのひとつを、コーセブが開けて見せた。中には黄金色の蜂蜜。
「1つなら分けられるが、安くはないわ。そうさな、30Gでどうよ」
「た、高い! 負けなさいよ」
「こりゃあ貴重な試作品だでな。かけた予算は少しでも回収するようにとトックにも言われとるし。だいたい巷じゃ──」
「30はいくらなんでも欲張りすぎでしょ。この量なら精々20までしか出せないわ」
「ふむ、じゃあそれでええ」
なんだか填められた気もするが、言ってしまったものは仕方なし。
「まあいいわ、これだけあれば使いではあるし、保存も利くものだし‥‥」
彼女が甘受した懐の痛みによって、幾許かの人々がまた、貴重な甘味にありつけるのだ。
●アトランティス新聞創刊号
地球人達を呼び集めたケミカ・アクティオ(eb3653)はコホンと咳払いをした。
「第一回編集会議を始めたいと思います。シンブンを作るにあたり、まず基本を押さえておかないと。という訳で、チキュウのシンブンがどんなものかを教えてほしいの」
ケミカの要望に、マリエ、瑠璃、試に九龍の説明は。
「えーっとね、まず、このくらいの大きさなの」
マリエが指で示すのを、ふむふむと頷きながらメモるケミカ。
「各地で起こった色んな出来事を、小さな字でたくさん詰め込んでるわ。特に大きな出来事には、当事者や現場の写真も載せるわね」
「シャシン? 本物ソックリの絵が一瞬で出来るの? うー、それって画家が失業しちゃわない?」
しないしないと笑う瑠璃。
「字の大きさや形を変えて注目を集めたり、文章に見出しをつけたり、情報が詰め込まれてる分、自然と頭に入る様にする工夫がされてるな」
「心のオアシス、4コマ漫画を忘れちゃ駄目だ。4枚の絵で笑いを作り出す高度な芸なんだ。他に、風刺画ってのもあるな。これは1枚の絵で社会に影響を与える偉い人や事件の事を皮肉ったり笑ったり。そうする事で事の本質を暴き出すんだ‥‥と昔偉い先生が言っていた」
「‥‥それってシバリクビになったりしない?」
「地球ではならない。あ、いや、なる国もあるな」
九龍の話に、ケミカはメモの横に、取り扱い注意、と書き加えた。
「なるほどー。それを重ねて束ねて、毎日売ってるの!? 信じられない!」
ケミカさん、はー、と溜息。
「マーカスランドのボビーも色々言ってたわ。『ガリ版、版木、凸版印刷』まだまだ始まったばっかりなのよね!」
きらきらと目を輝かせるケミカに、マリエもなんだか嬉しそう。
「さすがに、何枚重ねにもなったのは無理だと思う。作るのも配るのも大変だし、何より読む人が慣れてないから」
「壁新聞みたいなのは?」
試が一言。かべ? と首を捻る彼女に、マリエが説明。
「配るんじゃなくて、張り出して見て貰うのね。まりえ、そっちにする? それともやっぱり配る?」
暫く悩んでいたマリエだが、はたとある事に思い至った。
「そうか。字が読めない人も多いんだから、読める人と一緒にいてもらわないと駄目なのよね。そうなると、人が集まるところに張り出させてもらった方がいいかも知れない」
と、いう訳で、ケミカ編集長のもと、アトランティス新聞創刊号が製作される事になった。形式はというと。
───────────────────────────────────────
・張り出す事を前提に、片面のみのインサツ。
・一番上に題字大きく『アトランティス新聞』
・大きく目立つ絵で躍動感溢れるゴーレムサッカー(ゴーレムの巨大さを表す為に人間を同じ枠に入れる)
・見出し『王都にてゴーレムサッカー始まる!』
・複数の絵でサッカーの様子。ゴーレムと人間の大きさ対比図。
・大き目の字で簡単な文で試合の説明『騎士の力比べ激しく華麗に』
・GCRの記事も同様に。
・4コママンガ『ばがん君』。強そうだけど蜂の巣を落として追い回されるバガン君。
───────────────────────────────────────
「この、ばがん君って‥‥」
「あ、分かった? この間の九龍君がモデルよ」
なかなか面白く出来てるでしょ? と屈託の無い笑顔で言われ、九龍、はは、と空笑い。まさか身を呈して世間様に楽しい一時を提供する事になろうとは。
「うん、絵が多くて分かり易いし、題材もいいと思うわ。これで行きましょう」
オーナーまりえのGOサインも出て、ようやくアトランティス新聞発行の運びとなった。とはいっても、皆それぞれの仕事で忙しかったので、主戦力はケミカとマリエのみ。しかも各所に配された絵はケミカでなければ描けないのだから大変だ。ケミカが下絵を描いている間に、マリエは先に見出しを削る。
「最初の印刷物は、これといって反応が返っては来なかったでしょ? サカイさんが見つけてくれたくらいで‥‥正直がっかりしたんだけど、思えば字の読めない人達に適当に配布したんだものね。今度こそ、たくさんの人が読んでくれるといいね」
「もちろんよまりえ! じゃあ、絵を入れて行くからね」
日が暮れても彼女達は作業を続け、薄ぼんやりとした灯りの下、ガリガリと鉄筆を走らせる音は深夜まで続いた。用意した紙50枚に印刷を終えたのは早朝のこと。マリエは試し刷りの一枚を持って館に出向き、男爵の許可を得た。アトランティス新聞の配布が許される事となったのだ。
「お疲れ様。大変だったのう」
シュタールの労いにも、ふたりして突っ伏したまま、ぺろっと片手を上げたのみ。
「はい、差し入れよ」
水飴の甘い香りに、一転、がばっと起き上がる。瑠璃からの水飴補給を受けて、ようやくふたりは復活した。皆して近隣の酒場、宿、商店などを回り、主に頼み込んで張らせてもらった。どんな反応が返って来るかは、暫く立たないと分からない。
「あなただけずるい! 私も新聞、見たかったのに‥‥」
ホルレー夫人が出かけている間に事が運んでしまい、彼女は大層悔しがったとか。
「想像していたよりは面白く出来ていたよ。ただ、巷の出来事を面白おかしく聞きたいなら酒場の詩人か、どさ回りの行商人の方が遥かに盛り上げてくれる。結局はすぐに飽きられるだろう」
印刷するなら、もっと学術的に価値のある本などを写して欲しいと考えているホルレーだ。勿論、彼の見立てが正しいかどうかも、まだ分からない。