●リプレイ本文
●相談
周辺の農地からは少々外れた、山裾の一軒家。遠くからでも一見して分かるそれが、錬金術師・須藤まりえに与えられた研究所だ。古ぼけてはいるがなかなかどうして立派なもの。広々とした敷地にしっかりとした建物と使い勝手の良さそうな納屋、澄んだ水を湛えた井戸もあった。
「これだけ隣家と離れていれば、どれだけ音を出しても異臭を出しても大丈夫そうだな。思いっきり色んな事が出来るってもんだ」
湧き起こる気合いにぐっと拳を握る木下秀之(eb4316)。音はともかく異臭はご勘弁願いたいですね、とソフィア・ファーリーフ(ea3972)は苦笑い。と、そんな話をしているところに、トックがひょっこり顔を出した。
「冒険者の方々ですね! ささ、お入り下さい、遠路はるばるお疲れ様です! 主を今お呼び致し──」
振り向いたところに、重そうな椅子を抱えたマリエがヨタヨタと現れた。
「ねえトック、この大袈裟な椅子どうしよう‥‥あっ、皆さんようこそ──わわっ!」
どずんばたん。豪快に引っくり返った。慌てて駆け寄る冒険者達。腰を摩りながら、よろしくお願いしますね、と照れ笑いのマリエを助け起こしながら、ふきだしそうになるのを堪えつつ、よろしくね、と御紅蘭(eb4294)も挨拶を。
「私はケミカ・アクティオ。シフールのウィザードよ。ケミカって呼んでね!」
元気よく挨拶したケミカ・アクティオ(eb3653)。目をまん丸に見開いて自分を見詰めるマリエに、ケミカ、少々後ずさり。
「‥‥もしかしてシフールを見るのは初めて?」
「遠くからしか見たことなくて‥‥本当に翅で飛んでるんだね〜」
目をきらきらさせながら寄って来て、つんつんとつつく。んー、まあいいや、好きなだけつっついといてーと、ケミカ、されるがまま。
「研究テーマを、紙作りからシフールの生態調査に変えますか?」
はっと我に返り、慌てて起き上がったマリエ。その様子に微笑みながら合掌し、頭を下げたのは、華国の僧侶、白銀麗(ea8147)だ。
「アトランティスには仏の教えを伝えに来たのですがすが、なかなか面白い事をなさっていますね。同じ錬金術師として興味を持ちましたよ」
私はね私はね、とケミカも進み出て。
「私は画家が生業なわけよ。でも画材ってとっても高いわけ。紙が安くたくさん手に入るようになるならとっても嬉しいわけよ! だから多少持ち出しになっても協力しちゃうわよっ」
「未知の世界の技術を垣間見られるなんて、アトランティスならではですよね」
ソフィアは、にこやかに微笑みながら。
「紙が出来たら、まりえさんはどんな事をしたいのかしら? 気になりますね。‥‥恋文かしら?」
へ? と振り向いたまりえさん、ぼふ、と赤面。
「ち、ちがうわよう、そんなんじゃないわよう!」
わたわた否定。どっと起こる笑い声を聞きながら、トックはハーブティの用意など。
振舞われたお茶を頂きながら、マリエと冒険者達は早速打ち合わせを始めた。
「紙といえば我が故国の歴史が作り上げた物だが、さすがに詳しい作り方までは‥‥」
中国系の賽九龍(eb4639)が腕組みをして考え込む。
「私の故郷でも古来より紙を作り続けてきました。元々は繭を解す過程で生じる細かな屑から作られるものだったといいますが、後に、麻のボロや魚網を木灰汁で煮て水でさらし、細かくバラバラに砕いて漉く、という手法が考案されました。私も戯れに作ってみたことがありますわ」
銀麗が知識の一端を披露する。
「ただし、ボロといってもそう確保できるものではありませんし、やはりある程度高価にはなってしまいますね。木から紙を作り出すというのは、とても斬新な発想です。地球ではどうやって木から繊維を得ているのですか?」
興味深々に聞く銀麗。うーん、と蘭が唸った。
「そういうことは、小学校の夏休みの自由研究でやったぐらいよね。おまけにほぼ親に手伝ってもらってだから、うろ覚えなのよね」
苦笑する彼女。
「あたしの認識ではたしか‥‥植物の皮を剥いで、それを煮て、叩いて、水の中に溶かしてメッシュの金網を底に張った枠をゆすって繊維を掬って、水切りしてある程度乾いたら、何かに挟んで重石を載せて一晩置いておくんだったかな? 水の中に何か繊維の繋ぎになるものを入れていた気もするんだけど‥‥なんだったろ?」
「私の知識も同程度ですね。繊維の繋ぎですか‥‥それは分かりかねます。私に指摘できるのは、日本の伝統的手法で作る場合、何らかのもので補強した布で繊維の含まれた液体をすくっていた、という事くらいでしょうか」
山田リリア(eb4239)が憂いに満ちた表情で呟く。と、そこで口を開いたのが秀之。
「昔テレビで見たんだよな。作り方は、え〜と、そうそう。木の枝の皮を剥くんだよ。んで、そいつを皮がばらばらになるまで煮込む、はず。ここで『アク』とか何かを入れるらしい。テレビだと煮込むときに助手の女の子が何か薬を混ぜて、『手がぬるぬるしまーす』って言ってた。そのあと水洗いして、ごみを取り除くんだったよな。で、1昼夜水に漬けておく、多分。そいつを、叩いて柔らかくするらしい。で〜、だ」
ふふん、とたっぷりもったいぶってから、彼は続けた。
「ここで隠し味の洗濯糊を少しだけ加えるんだ。テレビで女の子がそうやってたんだ、間違いない。加えてから、ギュンギュンかき混ぜんだよ。ミキサーがあれば一発だがね。ここまで行けばあと少しだ。アミの上に同じ厚さになるように広げて天日干しよ! コレで完成するはず」
おー、と一同。これは、かなり具体的な情報だ。アヤメ・アイリス(eb4440)は皆の話を黒板に纏める。
「要するに、細かくバラバラにした植物繊維を薄く纏める、という事ですね。木から繊維を得る為には、皮を剥いて灰汁で煮る、と。それを水に曝して綺麗にしてから叩いて解し、細かく砕く。出来上がった液体に糊を加えて漉き上げ、水分を切り乾かせば完成‥‥と、こんなところでしょうか」
「素材となる木の選定については、具体的にどの木が使用に耐えうるのか分からないので、可能な限り多くの種類を試しておくべきでしょう」
リリアの指摘に、秀之が賑やかに賛同。
「いっぱいたくさん、いろいろやってみよう! 他にはアクと洗濯糊な! いや〜さすがN○K。いざと言う時に役に立つぜ!」
秀之、受信料払ってた甲斐があった、と満足げ。で、アクって何? と聞く彼に、銀麗が説明を。
「灰汁かぁ。石灰水くらいなら簡単に出来そうだよね。洗濯糊は何の為に入れるのかしら? 粘度を高める為かな」
何となく作業の流れが見えて来て、マリエも俄然乗ってきた様子。あんたもすごいな! と秀之に感心されて、小学校の時の理科の先生が格好よかったのよね〜などと少々脱線。
「ねえトック、何か手近なものから糊を作るとしたら、何を使う?」
マリエに聞かれ。パラ執事も頑張って考える。
「そうですね、糊といえば、小麦粉を練ったものとか‥‥」
「グルテンだね。他に適切なものが見つからなかったら、それで行こう」
上手く行くかどうかは別にして、どんどん話が纏まって行くのは気持が良いもの。
「元々マリエさんの『木があるなら紙を作ればいいのに』という発言が発端となっている様ですし、素材は主に木という事でいいと思います。ただ、繊維の取り出し方が難しいので、他の植物などから繊維を取る事も試してみればいいと思います」
「うん、そうだね。じゃあ、それはアヤメにお願いするね」
提案に、マリエ即答。
「後は木の皮を煮詰める鍋と‥‥」
「漉くための道具にはリリアさんの言う通り、布地を使うのがいいかな? 木枠を作る材料には困らないよね。あとは溶かした繊維を溜める大きな桶が必要だね」
「漉き機を作るのは、腕の良い木工職人の方に任せた方がいいかも知れません」
秀之と蘭、リリアの発言をアヤメが書き止めたところで、発言が止んだ。
「一通り意見は出尽くしたって事か」
なら、この手順でやってみようか、と九龍。
「私はボロを使った紙を作りましょう。出来栄えを比較する、基準になるものが必要でしょうから」
銀麗が申し出る。果たして、皆の試作第一号は古来の知恵に太刀打ちできるか。
「まあ、3人寄ればなんとやら、きっとどうにかできるわよね‥‥たぶんだけど」
蘭の言葉に、
「では早速、どうにかしに出かけようか」
と、九龍が立ち上がった。
皆がそれぞれ出かけて行く中。リリアはマリエに、少々異なった趣の話を切り出した。
「製紙方法が実用化できた場合、その影響はホルレー男爵領のみならず、この大陸全体に及ぶでしょう。しかし製紙方法についての情報が漏れていた場合、男爵様にもたらされる利益は大いに減じます。男爵様以外の者も製紙業を興そうとされるでしょうから」
故に、提案します、とリリア。
「今後マリエさんに関わる依頼を出す場合は、極めて重い罰則付の守秘義務を科すべきです。また、出来れば国王陛下またはその側近の方に直訴し、天界人に対し特定依頼外で技術情報を漏らさないようさせるべきです。男爵様が技術を独占した上で王家に献上すれば、その功は巨大なものになり、それに関わった私達冒険者の評価も上がることになります」
ぽかーん、としているマリエ。どうも、リリアの話がピンと来なかった様子。
「罰則とか、何だか怖いよ。どうしてもしなくちゃ駄目なの?」
「私達にとっては当たり前の技術でも、この世界にとってはとても重大な意味を持つのです。その扱いは厳重かつ慎重であるべきだし、可能な限り高い価値を付けて送り出すべきです」
「うーん、そうだね。ここで生み出した技術をちゃんと管理しようって話は、わかるよ。でも、私としてはむしろ、みんなに広まって欲しいんだ。まして、もしかしたら私自身も自由に使えなくなっちゃうかも、だよね。それはちょっと嫌だな‥‥」
もう少し考えてみよ、ね? とマリエ、懐柔に走る。取り合えずトックには言わないでね、と、虎の子だというチョコレートの残り最後の一個で口封じをされた。
「甘い、甘いですわマリエさん‥‥」
カップを片付けていたトックが、きょとんとしながらこちらを見たので、2人してにっこり微笑んでおいた。
●材料探し
アトリエの周辺は、実に豊かな素材の宝庫だ。裏手はすぐに山林で、これは適度に人の手が入った、良く育てられた林だ。少し下れば大きな貯水池があって、一年を通して豊かな水を湛えている。更に行けば人里で、豊富な水と勤勉な村人達によって、常になにかしらの作物が栽培されている。
「それにしても、もう少し詳しい地図があれば良かったのだけど」
まるで子供の落書きみたいな地図を眺めながら苦笑いのソフィア。何にせよ、その落書き地図にしてからが領地の重大な秘密。本来ならばそう易々と貸し出されるものではない訳で。取り合えず、主要な山道が記されていたのは助かった。
「色々な植物を、記録を取りながら集めて行こうと思います。植物はある意味、繊維の塊だから、理屈の上ではどれでも素材になり得るのだけど‥‥」
そこはやはり、向き不向きというものがある。素材の性質は勿論、確保のし易さも考慮に入れなければ安価にはならない。稀にしか生えていないのでは話にならないし、育つのに何十年もかかる大木もやっぱり不味い。
「この林は広葉樹も針葉樹も生えているのね。一応、両方網羅しておきましょう」
へーい、と後から馬を引き引きついて来るのは、ケミカが雇った村人達。ちょっとした臨時収入にありつけて、ホクホク顔の彼らである。自腹を切る事も覚悟していたケミカだが、ちゃんとマリエが出してくれた。意外と資金は潤沢な模様。実に頼もしい。
「いい? これは偉大なる錬金術師、マリエ様のお仕事なわけよ! そして私はトックさんに次ぐ、マリエ様の(自称)部下2号なわけ! これからもいい事あるわよ、その代わりしっかり働いてねっ」
ありがたいこってす、これからもよろしくお願いしますです、と腰の低い村人達にたっぷりと訓示を垂れてから、んじゃよろしく! と、ひらり舞い上がったケミカさん。彼女は高いところからその良く見える目で探りを入れ、仲間に知らせる。
「柔らかそうな、柔らかそうなのっと。これかな?」
九龍は小枝を手に取っては、軽く力を込めてみて、その感触を確かめる。繊維を取る事を考えれば、若く、しなやかで、節の少ない木が良い筈だ。左目にかかる髪の毛を煩わしそうに掻き上げながら作業を続ける彼の傍らを、それそれ! と木の束を担いで、秀之が何度も往復している
貯水池が近付くと、植生が変わってくるのが分かる。
ふと、ソフィアは沼地に群生している植物に目を止めた。すっかり枯れている様に見えるが、その茎を折ってみれば、とろりとした樹液が滲み出る。彼女は無言でその根元を掘り起こし、根ごとその植物を引き抜いた。根を割ってみれば、溢れ出るたっぷりの樹液。
「これ、糊代わりに使えないかな」
そのドロリとした液体を指の先で練りながら、九龍がなるほど、と感心する。
「その草なら、あっちにもっと生えてるよ〜」
それはジ・アースで言うマロウと言う草である。ケミカが呼びかける。驢馬の背の荷物は、更に増えた。
一方。アヤメはトックに頼まれて驢馬を引き、鍛冶から引き取った大鍋を担がせての帰路にあった。麦わらを積んだ荷馬車が、とことこと道を行く。行き交う際に彼女は、何気なくその一本をひょいと抜いた。
「繊維といえば、これも繊維か」
そういえば、わら半紙なんてのもあったなぁ、と思い出す。一拍置いて、はっと振り返った。
「おじさん、ちょっとお願いが!」
こちらの驢馬は、大鍋と大量の麦わらを積んでアトリエに戻った。
●とにかくいろいろ作ってみよう
翌朝。冒険者達はトックが用意した朝食の匂いで目を覚ました。メニューはというと、パンと根菜のスープ、焙ったベーコン。肉が一品つくあたり、かなり豪華な部類に入るだろう。
「アヤメさん、ささ、朝ごはんでしっかり目を覚まして下さいね」
ヨレヨレと席につくアヤメ。どうやら朝は苦手らしい。スープ皿に顔を突っ込みそうになる彼女を、蘭が慌てて支える。
「トック、マヨネーズ無いか?」
「まよねず? 何ですか?」
やっぱ無いよな、と秀之、肩を落とす。
「アレがないと飯食った気になんねー」
「マヨネーズなら作ればいいんじゃない? 材料は揃うと思うけど‥‥」
マリエは気楽にそんな事を言う。
「なるほど、卵と酢と油を混ぜるんですね。酢と油はあるし、卵は農家から分けてもらえるかも。分かりました、作っておきましょう」
トックの言葉に、俄然張り切る秀之。仕事にも気合いが入ろうというものだ。
木の皮、麻の茎、麦藁‥‥。沼で発見されたマロウ。思いつく限り集められた材料を前に試行錯誤が始まる。配合やら手順やら、組み合わせ表を作り、一つ一つ潰して行く泥臭く、そして気の遠くなるような作業だ。しかし、何百年も前から研究者が遣ってきたのはこういう地道な作業。万に一つ。いや億に一つの成功も最先端の研究では僥倖。それに比べれば進むべき方法が判っている実験は平易なものだ。
ソフィアは材料を柔らかくする方法として腐敗を試みる。茹でた木の皮や麻の茎にカビなどを混入し寝かせる。しかし、腐って欲しい時に直ぐ腐らせる事は難しく、保留となる。
「か、堅いわね‥‥」
刻んで石臼で挽くが、思うようにならない。
「どれ。貸してみな」
秀之は流石大人の男の人。ゴーゴーゴーと喧しく音を立てて石臼が回転する。
(「ん? まて。変な匂いがするぞ」)
「おわ! 水! 早く水だ!」
勢い余って挽いた木屑から煙が出ている。
「力のいれ過ぎか、手順違いってようですね。茹でてからのほうがいいかも知れません」
濡れた布で火の気を消しながらリリアが呟く。
「俺は木の皮を叩いて柔らかくするか」
九龍は拐を取り気合いを入れて
「ほぉぅわぁちゃ! あちゃちゃちゃちゃちゃちゃ‥‥」
「沢山造るようになったら、それ九龍君に任せようかな」
マリエの有り難いお言葉。ぎくっとなる九龍。
「ほぉぅわぁちゃ! ほぉあちゃ! ふぁちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃ! はぅあ〜! ふぅぅ‥‥」
体力を消耗するわりに、大して柔らかくならない木の皮。とうとう息が切れる。仮にこの方法で上手く行ったとしても。彼以外に出来ないのでは、大量生産などおぼつかない。そこで木槌を借りてきて叩く。今度はゆっくりとリズミカルに。
「これなら、水車を使ってもできそうだわ」
くすりと笑うマリエ。
すったもんだのあげく。正しい手順が判った来た。木の皮を剥き、そいつを皮がばらばらになるまで煮込む。不純物を溶かすためには、灰汁よりも石灰水のほうが効率が良かった。濃度も飽和溶液を10段階くらいのレベル分けて色々試す。そのうち、濃すぎても後の行程で支障が有ることが判ってくる。
不純物を分離した後は何度も何度も丁寧に水洗い。ここで石灰水を抜いておかないと、紙を漉く作業者が手を痛めてしまうだろう。ぬるぬるするまま紙を漉いたのでは、作業員の手は一日で腫れ上がる。こうしてやっと出来たパルプ。
「やっぱり麦藁は直ぐボロボロになりますね。麻のほうが本当に良質です」
自分の知識が確かであったことをパルプの手触りで確認する銀麗。木は広葉樹よりも針葉樹のほうが質が良かった。
「樹皮をベースに麻と麦藁を加えると丁度いいかも」
糊の方も試行錯誤。
「あっれー? ねぇ。なんか固まってきた。これゴムみたいだよ」
小麦粉を水の中で混ぜていたマリエが、声を上げる。グルテンは水に溶けないのだ。糊として使うならば寧ろ溶けた澱粉のほうがいいかも知れない。
あちらではソフィアとケミカがマロウの粘液格闘中。
「つっくりましょう〜つっくりましょう〜。はってさってなにができるかな?」
「出来ました!」
天然の界面活性剤である卵白を加えて撹拌しながら加熱して出来た物は、所謂マシュマロである。舌触りは良さそうだが、今欲しい糊にはならない。
「なんか? 違いますね」
網の箱と格闘中は蘭とアヤメ。紙漉き機は、木材で四角の枠組を作り、紙漉き面に目の細かい網を張って代用する。いろいろと試される網。
「今のところシルクのスクリーンが一番かな? すぐ目詰まりするけど、簾よりもいい感じ。後は‥‥パルプ次第かな?」
悪戦苦闘の日々は過ぎ以下のことが判ってきた。
・不純物を溶かす液としては石灰(石灰水)が最も有望。濃度は飽和水溶液を3〜5倍に薄めたもの。
・材料としては樹皮をベースに麦藁と麻を混合したもの。ブレンドはこれから微調整。藁だけでも大丈夫だが、一番汚い色になる上パルプがもの凄く弱い。麻だけだと色はまあまあだが高価なものになる。
・樹は針葉樹のほうが広葉樹よりも良いパルプが取れる。木肌の白い物の方が色の薄いパルプが取れる。
・紙を漉くときに混ぜる糊は、固めるためと言うよりはパルプに粘り気を与えて、漉く網の上で均一にする働きがあるようだ。マロウの粘液が今の所ベスト。グルテンを抜いた小麦粉を煮詰めた糊でも代用出来たが、濃すぎると変になった。
こうして、漸く完成した紙はクラフト紙のような色をしてごわごわしている。
「なんか、紙ナプキンの出来損ないみたいですね」
アヤメが試しにペンで書いてみる。
「あああ! 滲むわこれ」
すっと引いた一本線は、滲んで毛糸のような感じになる。
今度はマリエが試してみる。
「ん。鉛筆やボールペンなら大丈夫みたいね」
しかし、両方ともアトランティスでは手に入らない。
「このままでは、トイレットペーパーが関の山だな」
秀之は紙の丈夫さを試して言った。存外に強い紙が出来たようだが、筆記用には使えない。コストから考えて、好事家の貴族のトイレにでも置くしかなさそうだ。
「ちょっとまって!」
何やら思いついたのか画家であるケミカが提案。
「絵の具を滲ませないように、キャンバスにニカワにミョウバンを溶かした液を塗るの。紙でも同じ効果があるか。諦めるのは試してみてからでも遅くないわよね」
早速、試してみる。ニカワにミョウバンを溶かした液を刷毛で塗り、乾かすこと暫し。
「うん。表面がごわごわになって仕舞ったけど、さっきよりマシになってる。でも、アイロン掛ければ少しはマシになるかも」
滲むことは滲むが、細かい文字を書かなければ判別出来る。ペン先が良く引っかかり、そこでインクの染みを作る。でも、使い捨ての書き殴りメモには使えないこともない。
こうして、辛うじて筆記に使える紙の、試作品が出来た。まだ、ごわごわ感や滲みの問題は解決していない。色も生成の黄色い色。質としては藁半紙よりも悪い。しかし、これは今後の改良次第だろう。
ケミカは今回の結果を、用意してもらった羊皮紙に書き込んだ。比較的良い結果を残した植物の名前、外見、サンプルを纏めて絵と共に説明を。
「これがあれば紙をたくさん作る時、人を雇ってこの覚書を書き写して配ればいいわけよ」
どう? ナイスアイデアでしょ〜と胸を張る。
「なるほど。でも今後内容が増えて行く事を考えると、書き写すのは大変ね。印刷が出来ればいいのに」
何気ない蘭の一言に、ケミカの髪の毛がぴーんと立った。
「何それ? ‥‥え? 天界には手で書き写さなくても同じ絵や文章をたくさん作る方法がある? インサツ? すごーい! 紙が出来たら、次はそれよ! インサツを作ってよ、まりえ!」
「そう、そこなのよケミカちゃん!」
と、これにマリエも乗ってきた。
「印刷っていっても、色々あるから。活字を使ってブンブン大量生産なんてとても無理だけど、例えばガリ版刷りみたいなものなら、ちょっと工夫すれば出来そうじゃない?」
なるほど、と察するリリア。マリエが目指すところは、どうやらそこらしい。
「‥‥あ。あのね、滲みの問題なんだけど、紙の改良はもちろん必要としても、一緒にインクの方の改良もしてみたらどうかな。ガリ版に使うインクはもっとこう、ドロドロしてるでしょ? あんな感じに出来たら、そんなに滲まなくて済むんじゃないかな」
あらゆる発想は、繋がっている。成功も失敗も、そこから何かを生み出さずにはおかないのだ。
最後の日。食事に添えられていた薄卵色の液体に、秀之は首を捻った。
「これは?」
「まよねずでございます」
満面の笑みで答えるトック。しかしそれはどう見ても、ただの酢卵ドレッシングだった。暫くすると分離して来た。悲しすぎる。
期待を込めた目で自分を見詰めるトック。秀之は覚悟を決めて、ぐっと一気に飲み干して見せた。
「かーっ! 成功は一日にして成らず、だな!」
そう。まだ全ては始まったばかりなのだから。