【夜叉】人喰い

■ショートシナリオ


担当:御言雪乃

対応レベル:11〜lv

難易度:難しい

成功報酬:5

参加人数:7人

サポート参加人数:1人

冒険期間:10月15日〜10月20日

リプレイ公開日:2008年10月25日

●オープニング


 拳が疾った。
 重い拳だ。鉈のような一撃であった。
 それを巨漢がわずかに身動ぎし、かわした。
 頬をかすめて拳が疾りすぎる。火ぶくれのできそうな打撃であった。
「へっ、やるじゃねえか」
 ニヤリとし、巨漢が頬を拭った。
 とらりとした血に手が真紅に染まっている。拳がかすめた事により、巨漢の頬が刃で切り裂かれたかのように割れていたのであった。
「強えなあ、おめえ。ぞくぞくするぜ」
 巨漢が笑った。顔に鬼の相が浮かび上がっている。
「おまえもな」
 対する男が答えた。
 こちらも巨漢だ。体躯だけみれば、先の巨漢よりもわずかに大きい。
 先の巨漢は名を虎魔慶牙(ea7767)。もう一人の巨漢の名は風魔の善鬼といった。
「そうかい」
 嬉しげに唇を歪め――
 次の瞬間、慶牙の拳が消失した――ように見えた。それほどの迅さで、今度は慶牙が拳を繰り出したのだ。
 常人にはとらえられぬ一撃。が、善鬼は常人ではなかった。
 善鬼がすうと身を沈めた。その顔があった空間を慶牙の拳が貫く。
 下方から、ぎらりとした眼で善鬼が見上げた。それを、底光りする眼で慶牙が見下ろす。
 からみあう高圧の殺気に、空間に亀裂が入り――
 ぱっと二人は飛び離れた。間合いをとる。
 慶牙がくつくつと笑った。
「面白えなあ」
「ああ、面白い」
 善鬼もまたニッと笑った。
 刹那だ。二匹の鬼が動いた。
 轟、と。
 まるで岩と岩をぶち当てたような音が響いた。
 二つの拳が――慶牙のそれと、善鬼のそれが、互いの顔面をとらえている。異様な硬質の音響は、拳が顔面をうった音であったのだ。
 たらりと、鼻と口から血を滴らせつつ、二匹の鬼が笑った。


 薄暗い部屋の中に、二つの小さな影があった。
 少女だ。瓜二つといっていい相貌をしている。
 さやかとらんであった。
 その二人の前に、別の二つの影があった。
 一人は少女だ。が、もう一人は異様なモノであった。
 髑髏に皮をはりつけたような相貌をしている。老人だが、まといつかせた気は獣のようにふつふつと煮えたぎっている。
 少女は小町といい、老人は翁といった。
「よう戻った」
 翁の口からしわがれた声がもれた。
「翁様」
 らんがたまりかねたかのように叫んだ。
「わたしたちが双子の姉妹だっていうのは本当なの?」
「うん?」
 翁の眉がぴくりと動いた。
「そのような事、誰から聞いた?」
「冒険者が云ってたわ」
「ほう」
 翁がニンマリした。
「本当じゃ」
「!」
 らんの眼がかっと見開かれた。さやかのそれもまた。
「じゃ‥‥じゃあ、知っていて、わたしたちを闘わせたの?」
「そうじゃ」
 翁の笑いがさらに深くなる。眼に刃のような光がゆらめいた。
「ならば、何とする?」
「‥‥」
 無言のまま、さやかが隠し持っていた小刀に手をのばした。同時にらんもまた。
 が――
 さやかとらんの動きが凍結した。その首筋には刃が凝せられている。
 二人の背後に、二つの人影があった。一人は少年、一人は少女だ。共に硬玉をはめこんだかのような無表情な眼をしている。
 さやかとらんは信じられぬものを見たように呆然としていた。彼女達ほどの手練れが、全く背後の存在の気配をとらえる事ができなかったのだ。
「ふふふ。残念であったな」
 翁が嘲笑った。そしてぬらりとする眼でさやかとらんを見据えた。
「共に牢に閉じこめてやる。食い物を与えずにな。助かりたくば、互いに喰らいあえ。生き残った方を再び木偶として使ってやる」


「そうかよ」
 慶牙の唇がきゅっと吊り上がった。
「翁の塒がわかったかよ」
「うむ」
 肯いたのは異形の者であった。
 河童。磯城弥魁厳(eb5249)である。
 彼は、前回の依頼において、不審な一人の男を尾行した。その結果、一つの家屋を突き止めた。場所は江戸はずれである。
「やはり、江戸か」
 慶牙が唸った。
 夜刀衆は江戸に潜んでいる。その情報を、彼もまた風魔小太郎より得ていたのであった。
「とうとう決着をつける時がきたか」
「待っていたぞ」
 ぬうと、慶牙の背後に人影が浮かび上がった。
 白蛇丸と自ら名乗る忍び。氷雨雹刃(ea7901)である。
「死合えれば、俺はそれで良い」
 舌なめずりし、雹刃は冷酷に笑った。


「小町、よくやった」
「う、うん」
 翁に褒められ、小町は複雑な表情をうかべた。さやかとらんが真実を知った事を翁に告げたのは小町であったからだ。
 ――ごめんね、らん。
 小町は胸の内で謝った。しかし、同時に仕方ないとも思った。
 ――だって、わたしは死にたくないんだもの。
「‥‥翁様」
 小町が、座した三人を見て、身をびくりと竦ませた。暗殺者の彼女にとっても、三人は異質な存在であったのだ。
「あれは‥‥」
「人喰いじゃ」
 翁が答えた。
「わしがつりあげた傑作の一つ。他にも酒呑がおるがな」
「酒呑?」
「そうじゃ。鬼王酒呑童子の名を冠した者ども。つくりあげたわしですら、そら恐ろしくなるほどの奴らじゃ。それよりも」
 翁は人喰いと呼ばれた三人を見つめた。
「佐武、中也、紅美。あの人喰いの中に、さやかからんを加えるのも面白い」


 あれから一月ほども経っただろうか。闇が重く支配する牢の中で、さやかとらんは蹲っていた。どちらもやつれ、以前の面影はない。ただ眼ばかりがぎらぎらと光っていた。
 さやかはちらりとらんを見た。らんもまたさやかを見た。
 もうあまり体力は残っていない。翁を殺る為には、体が動くうちにここから出なければ――
 さやかの眼に殺気がこもった。そしてらんの眼にも、また。

●今回の参加者

 ea0629 天城 烈閃(32歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 ea4734 西園寺 更紗(29歳・♀・浪人・人間・ジャパン)
 ea5708 クリス・ウェルロッド(31歳・♂・レンジャー・人間・イギリス王国)
 ea7767 虎魔 慶牙(30歳・♂・ナイト・人間・ジャパン)
 eb0712 陸堂 明士郎(37歳・♂・侍・人間・ジャパン)
 eb3797 セピア・オーレリィ(29歳・♀・神聖騎士・エルフ・フランク王国)
 eb5249 磯城弥 魁厳(32歳・♂・忍者・河童・ジャパン)

●サポート参加者

カノン・リュフトヒェン(ea9689

●リプレイ本文

 向き合いて
 想い操る
 夜刀翁
 捕らわれし心
 権化とぞなる


 江戸外れにあるその屋敷を取り巻く空気は鬼気に満ちて。天すらも哭いているかのように風が唸っている。
「あれか」
 物陰から屋敷を見つめる者があった。
 巨漢だ。虎のものに似た獰猛ともいえる気をまといつかせている。――虎魔慶牙(ea7767)であった。
「そうじゃ」
 肯いたのは異形の者――河童だ。伊達家忍軍黒脛巾組忍び――磯城弥魁厳(eb5249)である。
「奴はこの屋敷に入っていった」
 魁厳が云った。
 奴とは、鬼一法眼殿の庵近くの森にひそんでいた男の事である。その男の後を尾行し、魁厳はこの屋敷を突き止めたのであった。
「老人の姿を一度だけ確かめた事がある。あれがおそらく翁であろう」
「ほう」
 興味深げに声をあげた者がいる。
 侍だ。革の鎧をさらりとまとい、無造作に髪を後ろで束ねただけのいでたちなのだが、まるで礼装しているかのような美しさがある。それは彼の精神の格調の高さ故であるのだが――当人は知らず。陸堂明士郎(eb0712)という。
「どのような老人だ?」
「よくはわからぬ」
「まあ、いいさ」
 慶牙は唇を吊り上げ、楽しそうに笑った。
「どのみち夜刀衆一人たりとて逃がすつもりはないからなあ。子供に殺しをさせ、それを世の為と謳う愚行、許すものかよ。この地を修羅と為す。常に死地に身を置く戦さ人の怒り、夜刀衆とやらに見せてやるぜ」
「せやけど」
 と、ひやりとする声がかかった。
 顔を動かした慶牙の琥珀色の瞳を、じっと見返しているのは女だ。巫女装束をまとったその姿は花のように可憐そのものである。が、その眼の何たる凄絶さか。
「敵の本拠地に乗り込むわけやけど、一筋縄ではいかへんやろねぇ」
 女――西園寺更紗(ea4734)は冷徹な声音で云った。
「俺が調べてみよう」
 進み出た者がいる。天城烈閃(ea0629)という名の冒険者だ。
 すると六人目の冒険者――セピア・オーレリィ(eb3797)が艶然と笑った。
「できるの?」
「ああ」
 烈閃が気品に溢れた顔を肯かせた。そして両手の指で、素早く印を組んだ。
 一息二息過ぎた――くらいだろうか。
「いるぞ」
 烈閃の眼がぎらりと光った。
「屋敷の中だ。数は五」
「五人?」
 さしものセピアの妖精のように流麗な顔も引き締まった。
 翁の根城には、翁を含めて少なくとも五人の敵がいるかもしれない。その全てが夜叉並みの戦闘力を有しているとなると冒険者であっても危ない。
「そうだ。一人は体格からして大人だ。おそらくは翁だろう。他の者は子供といったところか」
「また子供‥‥」
 更紗が沈痛な声音で呟いた。
「また子供と戦わなアカンのか。‥‥中に潜んでいるのはそれだけ?」
「ああ」
 烈閃は三度肯いた。実際のところ、屋敷の地下牢にはさやとらんが閉じ込められているのだが、風の精霊力を構成原理とするブレスセンサーは土の精霊力の強く働く地下の存在をとらえることができないのだった。
「‥‥そう」
 セピアが、誰にもともなくといった態で声をもらした。
 実はこの時、彼女はさやかの事を思い浮かべていたのであった。もしかすると屋敷に潜む四人の子供のうちの一人がさやかではないかと疑っていたのである。
 そのセピアの想いは知らず、
「よし」
 慶牙は手にあった斬魔刀をすっと腰に落とした。その身裡に高圧の殺気が膨れ上がっていく。
「いくか」
「まあ、待て」
 魁厳が慶牙の肩をおさえた。
「あれは仮にも翁の根城じゃ。何が仕掛けられてあるか知れたものではない。わしに任せよ」
 云うが早いか、魁厳は物音一つたてず、風のように屋敷の塀に走り寄った。そしてひらりと塀を飛び越えた。
「ふむ」
 音もなく地に舞い降り、魁厳は周囲を見回した。
 身動ぎし、魁厳はぴたりと凍りついたかのように動きをとめた。そして眼だけを下方にむける。
 糸。
 髪の毛のように細い糸が張られている。罠だ。
「さすがじゃの」
 魁厳はじっとりと額に浮いた冷たい汗を拭った。


 魁厳の手が玄関の戸にかかった。すっと音もなく開く。
 片膝ついた姿勢のまま、魁厳は気配を探った。
 玄関からは廊下が真っ直ぐのびており、人の姿はない。もちろん気配も。ただ針が落ちる音すら聞こえかねぬほどの静寂が辺りを圧している。
 慶牙は仲間を見渡した。
 その彼の腕には黒い布が巻かれている。仲間を判別する為の印である。
 ゆく。――そう慶牙が眼で促し、廊下に足を踏み入れた。その時だ。
 突然魁厳が声もなく慶牙をとめた。
「?」
「‥‥」
 目顔で問う慶牙には答えず、魁厳が廊下にしゃがみこんだ。その一瞬後の事である。
 床にぽっかりと口が開いた。落とし穴の仕掛けである。
 下を覗き込み、烈閃ほどの男が肌に粟を生じさせた。
 穴の底には、先を尖られた無数の竹が植わっていた。もし魁厳が気づかなければ、今頃慶牙は串刺しになっているはずだ。
「やはり翁の根城である事は間違いないようだな」
 とは明士郎だ。この陰惨な罠を眼前にしながら、その落ち着き振りにはいささかの亀裂もはいってはいない。この陸堂明士郎という男、その知略といい心胆といい、只者ではない。
「では」
 明士郎が促しかけた時だ。銀光が閃いた。


 六つの影が消えていく。その背を追い――しかし七つ目の影はぴたりと足をとめた。
「ふふん」
 七つ目の、大輪の薔薇のように美しい影は、茨のように嗤った。
「ご苦労な事だ。さて」
 美影――クリス・ウェルロッド(ea5708)という名の華麗酷薄な冒険者は一つの経巻を取り出した。ムーンアローの発動式を記した巻物である。
「いますかね、小鳥達は。‥‥もしいるとして、小町なら殺しても文句はないでしょう。お零れは私がいただきますよ」
 クリスが呟いた。
 その一瞬後の事だ。月光を収束してつくりあげたかのような銀色に煌く矢が、真紅の殺意を纏わせて空を裂いて疾った。


 銀色の光矢が冒険者の傍らを疾りぬけた。
「これは!?」
 これもまた殿をつとめる烈閃の手が視認不可能な速度で動いた。何時の間に抜き出したか、その手には呪の込められた短刀が握られている。
「敵か!?」
「いや――クリスがいねえ。まさか野郎」
 はっとして慶牙は前方に視線を戻した。
「拙い。気づかれたかもしれねえ。急がねえと翁が逃げちまう」
「だめじゃ」
 魁厳が叫ぶかのようにとめた。
「どこに罠があるかしれぬ。慎重に進まねば」
「仕方ねえ。ともかく先に進むぞ」
 慶牙は告げると、もどかしげに足を踏み出した。
 炎に炙られたかのようなその焦りが、さしも一騎当千の戦鬼である慶牙の気を削いだか。潜む敵に気づいたのは、明士郎であった。
「ぬっ!」
 天井を見上げ、明士郎は呻いた。
 そこに影がはりついている。少女だ。
 そう判断するより早く、明士郎は胴田貫を薙ぎあげていた。が、疾る銀光が届くより先に少女――人喰いの一人である紅美が冒険者の背後に蝙蝠のように音もなく降り立った。
 すでに血刀をひっさげている。がくりと膝を折ったのは、背に血の花を咲かせた烈閃だ。
「死ね」
 紅美が女豹のように襲った。人形のように表情のないままで。それがかえって不気味であった。
 咄嗟に烈閃は短刀をかまえた。が、弓術ならいざしらず、剣技においては彼我の差は明らかだ。誰もが烈閃の頭蓋が唐竹割りになる様を幻視した。
 が、鼓膜に突き刺さるような金属音が響き、紅美の剣は空にはねあげられている。横から薙ぎあげられた別の一刀によって。
「ここはうちらに任せて、先にいって!」
 天に昇りたるかのように鋭刀を振りかぶった更紗の眼が妖しく光った。


 廊下の奥。おそらくは奥座敷だ。
 冒者達は障子戸の外から気配を探った。
 いる。微かな気配がした。
 最も探知能力の優れた明士郎とセピアが肯いた。
 刹那だ。
 障子を突き破って瞬光にも似た刃が突き出された。それは気配のする位置からではない。
 当然、冒険者には避けもかわしもならず――
 魁厳の胸が深々と貫かれた。
「うっ」
 苦悶する魁厳を、セピアが抱きとめた。その手を赤黒い鮮血が濡らす。かなりの深手であった。
「誰も死なせやしないわ」
 瞬間、セピアの眼が赤光を放った。すぐさま魁厳の傷が癒えていく。
 が、さすがに魁厳は動けない。血を流しすぎた。
「くそっ」
 慶牙が障子戸を開け放った。
 そこに二つの影がある。一つは見慣れぬ少年だ。血のからみついた刀をさげている。
 もう一つは見慣れたもの――小町だ。どうやら傷を負っているようだが、それはクリスのムーンアローの仕業だろう。
「貴様、小町を囮にしたな」
「‥‥」
 黙したまま、まるで死人のような顔で少年――佐武が殺到した。人の迅さではない。獣の迅さだ。
 それを明士郎は受け止めた。受け止め得たのは、剣仙の域にまで達した剣侠明士郎なればこそだ。
 その間、慶牙は小町に迫っている。弱々しく突き出された刃をはじきとばし、慶牙は小町の腕を掴んだ。
「翁はどこだ」
「‥‥」
 小町はいやいやをするように顔を振った。その顎を慶牙は掴み、
「云うんだ。云わねえと、おめえは一生人殺しの木偶のままだぞ」
「‥‥あそこ」
 血の滲むほど唇を噛み、小町は床の間を指差した。微かに掛け軸が揺れている。
「よし」
「待って!」
 小町が血を吐くうな声で呼び止めた。
「らんを助けてあげて」
「まかせろ」
 背で答え、慶牙は掛け軸をめくった。


 飛燕とは、この事か。
 下方から翻った刃の鋭さは、まさに燕返しの名に恥じぬものであった。が、その一撃を紅美はからくも受け止めている。
 さすがの更紗の満面をじっとりと汗が濡らした。かつてない強敵と相対している事を悟ったのである。
 渾身の技であれば斬る事は可能であろう。が、同時に自分も斬られる。達人及の技量を誇る更紗には勝負の帰趨は見えていた。それでも――
 更紗の眼に蒼い炎が燃え上がった。
 刹那である。烈閃の叫びが飛んだ。
「どけ!」
「!」
 絶叫の半ばで、更紗は横に飛んだ。その残影を縫うように白光が疾り、紅美の喉を矢が貫く。わずかに遅れて空気を裂く音がした。

 地下に降りる隠し階段を疾風のように駆けおり――
 雷に撃たれたかのように、慶牙は左方にはねとんだ。地に降りたった彼の首には髪の毛ほどの血筋がはしっている。
 階段最下部脇からの斬撃。下手をすれば首を刎ねられていた。
「てめえ」
 慶牙の手の中で黒々と輝く刃が、彼の動揺を示すが如く揺れた。斬撃の主の正体を少年であると見とめた故だ。
 その少年の名が中也である事は無論慶牙は知らぬ。ただ先ほどの一撃から尋常ならざる使い手である事だけは察せられた。
「あれは――」
 愕然たる呻きを発してセピアが駆けた。
 地下牢があり、その中に倒れている者がいる。身体の下にどろりと広がっているのは血溜りであろうか。
 抱き起こし、セピアは再びひび割れたような声で呻いた。
「らん!」
「何っ!?」
 慶牙の気が一瞬それた。
 氷柱を突き込まれる感覚。ほとんど本能的に慶牙は刃をふるっている。
 灼けつく激痛を覚えたのはややあっての事だ。それよりも先に慶牙の眼は、中也の身体からしぶく血の花を見とめていた。


 噛みあう刃がぎりりと琴糸をかいたように鳴った時、二つの脚がはねあがった。
 ガッと。まるで岩と岩をぶちあてたような響きを発して、今度は二本の脚が噛み合った。明士郎と佐武だ。
「お前の相手が俺でよかった」
 明士郎は云った。もし陸奥流を能くする彼でなければ、佐武の変則的な攻撃に幻惑されていたに違いない。
「が、俺にはきかぬ」
 ギンっ、と明士郎の眼が凄絶に光った。
 次の瞬間だ。佐武が仰け反った。顔面に明士郎の頭突きが叩き込まれた為だ。
 何でその隙を明士郎が見逃そう。
 刃風が木枯らしのように鳴った時、佐武の身は胴斬りされて崩折れた。

「命には別状はないわ。リカバーも施したし」
 セピアが告げた。慶牙は肯くと、らん、と呼んだ。
「何でこんな事に‥‥。さやかはどうした?」
「さ、さやかは」
 らんがうっすらと眼を開けた。
「さっき翁が来て‥牢に短刀を投げ入れて殺しあえって。生き残った方を助けてやるって云って‥‥。そうしたらさやかがわたしを」
「そう」
 慶牙を癒しつつ、セピアが暗鬱な眼で溜息を零した。
 らんの傷は急所をはずれていた。おそらくさやかが故意にはずしたのだろう。
「さやかちゃんは一人で翁を斃すつもりよ」
「わかっている」
「待って」
 立ち上がった慶牙を、らんが呼び止めた。
「あんた‥‥虎魔慶牙っていったよね」
「そうだ」
「ふふ」
 痛みに顔をしかめ、しかしらんは可笑しそうに笑った。
「ここに閉じ込められていた時、さやかは一度だけあんたの事を話したんだ。その時だけ、あのぶすっとした子が楽しそうに微笑って‥‥きっとあんたの事が好きだったんだよ、さやかは」
「好きだったなんて云うな!」
 慶牙は怒鳴った。身体を戦慄かせて。
「さやかはまだ終わっちゃいない。さやかの人生はこれから始まるんだ」
 云い捨てると、黒々と開いた横穴めがけて慶牙は疾駆した。

 小町は呆然と座り込んでいた。
 奥座敷にはすでに明士郎の姿はない。残されているのは佐武の骸のみだ。
 小町はじっと佐武の骸を見詰めていた。まるで自身が死んでしまったかのように何も感じない。でも涙だけはぽろぽろと零れている。
 その時、小町はふっと気配を感じた。顔をあげると、一人の若者がじっと見下ろしていた。天使のように美しい若者が。
 その若者が弓に矢を番えている事を知り、ようやく小町の胸に感情が蘇った。恐怖という感情が。
「死にたくな――」
 絶叫をあげた小町がこの世で最後に聞いたのは、冷たい矢が己の首の肉を貫いた音だった。


 抜け穴を飛び出た瞬間、慶牙の身は凍りついた。
 前方の路上に二つの人影が倒れている。
 一人は老人だ。おそらくは翁だろう。
 もう一人は――
「さ‥‥さやか」
 悪夢の中で足を動かしているかのようによろけつつ歩むと、慶牙はさやかを抱き起こした。
 胸を一突きされている。すでに息はない。まるで眠っているかのような死に顔であった。
「馬鹿野郎が。死ぬなって云っただろう。ガキは死んじゃいけねえんだよ」
 さやかを抱き、ゆらりと慶牙は立ち上がった。
「すまねえ、ながと。おまえとの約束は守れなかった」
 おおう。
 と――
 虎の如き男は哀しみの咆哮をあげた。


 後の事。これは依頼とは直接関係のない話であるが。
 朝焼けの江戸を、今、一人の少女が旅立とうとしていた。見送るのは一人の巨漢である。
「じゃあね」
「ああ。元気で暮らせよ」
 巨漢は云った。少女は生まれ故郷に帰るのだという。
「ね」
 少女が、ふと足をとめた。
「さやかの代わりに、わたしが恋人になったげようか」
「馬鹿が。ませた事云うんじゃねえ」
「へへへ。嘘だよ、ばーか」
 ぺろっと舌を出すと、少女は駆け出していった。冒険者と姉が開いてくれた未来にむかって。