【源徳大遠征】殲滅、武田水軍

■ショートシナリオ


担当:御言雪乃

対応レベル:11〜lv

難易度:普通

成功報酬:6 G 65 C

参加人数:8人

サポート参加人数:3人

冒険期間:10月22日〜10月27日

リプレイ公開日:2008年11月03日

●オープニング


 山間の荒寺。
 その境内で、一人の少年が木刀を振っている。
 年の頃なら十二、三。瞳の大きな、どこか柔らかな感じのする少年であった。
「も、もういいかな、姉上」
 少年が木刀をとめた。すると大きな叱咤の声がとんだ。
「だめよ。まだ百回して振ってないでしょ」
「でも‥‥」
「仕方ないわね」
 姉上と呼ばれた少女が溜息を漏らした。
 こちらは十五、六といった年頃だ。まだ幼さが残っているが、美しく高貴な顔立ちをしている。やや痩せた肢体はしなやかそうであり、しかし胸と腰には女の艶のようなものが滲みはじめていた。
「じゃあ、かかってきて。今日の成果を見てあげる」
 少女が木刀をかまえた。すると少年もまたしぶしぶといった様子で木刀をかまえた。
「何してるの。早く打ってきなさい」
「う、うん」
 肯くと、少年が足を踏み出させた。
 次の瞬間だ。乾いた音をたてて、少年の木刀がはじきとばされた。
「もう」
 腰に手をあてて、少女がぷっと頬を膨らませた。
「何してんのよ。しっかり木刀を持ってなきゃだめでしょ」
「で、でも‥‥」
 少年は今にも泣き出しそうだ。
 その時、けらけらと笑う声が響いた。はっとして振り向いた少女は、本堂の屋根の上に腰掛けた雲水の姿を見出している。
 反射的に少女は木刀を青眼にかまえた。
「誰、あなた?」
「誰だっていいじゃねえか」
 雲水は笑いをおさめ、答えた。笠の為に顔は見えないが、声から察するに少年であるらしい。
「おめえ、大久保忠吉の妹で、鶴だな。そっちは弟の忠胤」
「わたしたちのことを知っているとは‥‥」
 少女――鶴の眼に殺気が燃え上がった。
「武田の手の者か」
「ちげーよ。俺は武田じゃねえ」
「だったら何者なの」
「云ったろ。誰だっていいじゃねえかって。それより」
 雲水の口調に、薄く笑いの波が立った。
「面白い事を教えてやる。源徳がたつぜ」
「えっ!?」
 さしも勝気な少女も顔色を変えた。
「源徳――家康様がたたれる!?」
「そうだ」
 雲水の笠が揺れた。
「江戸を取り戻す為にな」
「それは本当なの」
 鶴が問うた。曲者の云う事など信じられぬと思いつつ、縋りつきたくなる甘い内容のこもった雲水の言葉である。
「本当だ」
 雲水が答え、鶴の面に喜色がよぎった。が、次の雲水の言葉が鶴に冷水をあびせた。
「喜ぶのは早え。云っておくがな、家康はおめえたちの敵だぜ」
「えっ」
 一瞬戸惑い、しかし次の瞬間、鶴は嘲笑った。
「何を云っているの。大久保家は源徳譜代。家康様が敵とするわけがないじゃないの」
「知らねえのか」
 今度は雲水が嘲笑った。
「甲斐の武田に攻められた際、大久保忠吉は源徳を見限り、上杉を頼った。すでに家康にとっては敵と同じだ」
「まさか――」
 鶴は息をひいた。
 そんな事はないと思いつつ、鶴の脳裏をよぎったものがある。江戸における乱の事だ。
 華の乱とよばれるその戦において、家康は伊達政宗と上杉謙信に裏切られた。為に江戸を追われ、三河に落ちのびるなどというはめに陥っている。
「家康は裏切り者を許さねえ。たとえそれが譜代の者であってもな」
「そんな事――」
 あるはずがない、と鶴が叫びかけた時だ。背後から足音が響いてきた。
「鶴姫様、いかがなされましたか」
「治兵衛、あの雲水が」
 鶴が、治兵衛と呼ばれた老人から本堂の屋根に眼を戻した。が――
 すでに、そこには雲水の姿はなかった。


 薄暗くなった本堂の中。蝋燭の炎が揺らめいている。
 座しているのは四人だ。
 一人は大久保忠胤であり、一人は鶴である。二人は江戸にひそんでいたのだが、小田原藩残党の者達の手引きにより小田原に戻っていたのであった。
 そして残る二人。
 一人は鶴が治兵衛と呼んだ老人――吉野治兵衛であった。小田原藩家臣である。
 もう一人は安藤長門といった。こちらは小田原藩重臣の一人で、最後まで武田との戦を主張し続けた急先鋒である。
「おそらく」
 長門が口を開いた。
「その雲水とは、先日我らを見張っていた武田の三ツ者を始末したのと同じ者でしょうな」
「知っているの」
 驚きつつ、鶴が問うた。すると長門が小さく肯いた。
「正体はわかりませぬが」
「そんな事より、家康様が事じゃ」
 治兵衛が喘ぐような声をあげた。
「まことにたたれるだろうか」
「おそらく」
 再び長門が答えた。
「藤豊秀吉の仲介をはねつけ、江戸奪還の意思を示されたと聞いている。雲水の申す事、本当であろうよ」
「では我らを敵とする事も」
 忠胤が怯えたような声を発した。
「わかりませぬ。が、帰参の意を示し、我らの働き如何ではお許しいただけるのではないかと」
「そうでない場合は」
 鶴が問うた。長門は一瞬言葉につまり――ややあって、喉にからまる声を押し出した。
「浪人とあいなります」
「そうか」
 鶴は小さく肯いた。そしてよく光る眼で長門と治兵衛を見つめた。
「ともかく小田原を取り戻す事が先決じゃ。家康様がおたちなされる今が好期。武田の備えも薄れよう」
「では小田原港を」
「攻める。そして武田の水軍を沈めるのじゃ」
 鶴は叫んだ。そして命じた。
「江戸の冒険者ギルドに依頼を出すのじゃ。助けがいるとな」
「冒険者に、でござりますか」
 長門と治兵衛が顔を見合わせた。できる事なら冒険者の力など借りたくはない。
 が、鶴は力強くそうだと答えた。
「私は江戸にいた故、冒険者の事をよく知っている。難事を覆す事のできる者。力を借りる事ができれば、これほど心強い者達はいない」

 夜半の事だ。
 境内に立つ鶴は、人の気配に気づいて振り返った。
 小さな人影が一つ。忠胤だ。
「姉上、何をしているのですか」
「月を見ていたの」
 鶴は答えた。
「兄上も、きっとこの月を見上げていらっしゃると思って」
「姉上」
 忠胤が鶴の手をとった。
「私は‥‥恐いのです」
「大丈夫」
 鶴は忠胤の手をぎゅっと握り締めた。
「私がついています」

●今回の参加者

 ea0443 瀬戸 喪(26歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 ea2011 浦部 椿(34歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 ea3054 カイ・ローン(31歳・♂・神聖騎士・人間・イギリス王国)
 ea6264 アイーダ・ノースフィールド(40歳・♀・ナイト・人間・イギリス王国)
 eb3225 ジークリンデ・ケリン(23歳・♀・ウィザード・ハーフエルフ・フランク王国)
 eb5758 ニセ・アンリィ(39歳・♂・ナイト・ジャイアント・ロシア王国)
 eb8664 尾上 彬(44歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 ec4117 ラグナート・ダイモス(26歳・♂・ナイト・ジャイアント・ビザンチン帝国)

●サポート参加者

ヒナ・ホウ(ea2334)/ ゴールド・ストーム(ea3785)/ メイ・ホン(ec1027

●リプレイ本文


 しとしとと降る雨は銀の糸のように細く、乙女の涙のように地を濡らしている。
 それは或る魔女の仕業であるのだが、知る者はその魔女を除き、おそらく世に七人のみだろう。
 その七人のうちの二人、瀬戸喪(ea0443)と尾上彬(eb8664)は港の周囲に巡らされた柵の前に立っていた。
 小田原港。
 商船らしき千石船が数艘見える。そこから離れた位置にかたまって停泊しているのは軍船であろう。
 数は十。小田原藩のものであった船を武田が接収した、と大久保忠吉の妹である鶴が云っていた。
 すでに夜。暗天には月の煌きも星の瞬きもなく、ただ闇が辺りを包んでいた。ところどころに焚かれている篝火のみが唯一の光源である。
 ニヤリと彬は笑みを浮かべた。
 楽しくてたまらぬ。影の者が暗躍するにふさわしい乱世は彬の望むところであった。
「ゆくか」
「僕もいきます」
 喪が云った。瞳が大きく、少女のように可憐な顔立ちの喪は今、武田同心に見咎められても良いように漁師に扮装している。
「あんたが?」
 いぶかしげに彬は眼を細めた。
 喪の剣技がかなりのものである事は身ごなしを見ればわかる。が、それと隠密行動は別だ。喪が柵を越えるのは無理であろう。
「まかせろ」
 再びニヤリと笑むと、彬は身を闇に溶け込ませた。

 忍び笑う声は闇の空でした。
 女だ。空に舞っている。濡れた銀色の髪が頬にはりついている様は凄艶ともいえるものだが、その姿は闇によって黒く塗りつぶされていて地からは見えない。
 彼女こそ天候すら変えうる呪力をもつ魔女、ジークリンデ・ケリン(eb3225)であった。
「では私も調べましょうか」
 すうと、まるで流れるようにケリンの身が空を翔けた。


 本堂の中には蝋燭の炎が揺れていた。
 その黄昏色の光に浮かび上がっているのは九人の男女である。
 五人の冒険者。そして大久保忠吉の妹である鶴姫、大久保忠胤。残る二人は小田原藩重臣であった吉野治兵衛と安藤長門であった。
「港の様子は?」
 問うたのは鋼のような筋肉を身体にまといつかせた巨漢であった。名をニセ・アンリィ(eb5758)という。
「それは」
 ちらりとニセの鮮烈な相貌を見遣ると、喪は雨中の探索の結果を披露した。傍からケリンが補足する。
 するとアイーダ・ノースフィールド(ea6264)が細く尖った顎を小さく揺らせた。きらりと光ったその瞳は氷のように冴え冴えとしている。
「やっぱりね。私の見込み通りよ」
 アイーダは云った。
 小田原港に船で到着した際、彼女は遠目からではあるが船の配置等を観察しておいたのだ。その点、アイーダは狐を凌ぐ抜け目なさをもっている。
 その鋭利な感覚をもっている者がもう一人いた。
 蝋燭の炎の明かりですら玲瓏と輝く雪精にた似た娘。浦部椿(ea2011)という名の冒険者だ。
「安藤殿」
 椿が長門を見た。
 見返す長門の面には複雑な表情が滲んでいる。なんとなれば、その椿こそ小田原藩滅亡の遠因の一つであると彼は考えているからだ。
「何だ」
「小田原沿岸についての風向きをご存知だろうか」
「もちろん知っている」
 長門は苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
「この時期、風は陸から海にむかって吹く」
「では市中への延焼は心配せずともよいな」
「!」
 はっとして長門は眼を見開いた。
 彼もまた武田水軍を壊滅するに火攻めを考えてはいた。が、小田原市中へ被害が及ぶ事まで考慮してはいなかったのだ。
 恐るべき奴――そう内心長門は舌を巻いたが、しかし表情には出さぬ。またもや苦く顔を顰め――再び名を呼ばれ、顔をあげた。
 声の主はニセである。ゆらりと身を乗り出させ、
「港襲撃に際し、一つ肝要な事がある。それは小田原港と小田原城との連絡を絶つ事だ」
 告げた。
 港を襲われた武田同心は必ず城に伝令を走らせるだろう。そうなればすぐさま何百という武田兵が怒涛の如く駆けつけてくるに違いない。
「というわけで」
 ニンマリとして彬は鶴を見遣った。
「十人欲しい。あんたが選んじゃくれまいか」
「私が?」
 一瞬戸惑い、すぐに鶴は肯いた。
 ここ小田原に来てすでに一ヶ月。小田原残党の者達の顔ぶれは大まかだが承知している。そして剣の腕前も。鶴は女の身でありながら中条流の達人であったのだ。
「わかりました。選んでおきましょう」
「お願いします」
 ジークリンデが艶めいた微笑を返した。
 すでに彼女はリヴィールエネミーの呪法を発動させ、小田原残党の中に裏切り者がいない事は確かめてある。故に鶴の選別を信用しても良いと判断したのであった。
「では陽動部隊についてだ」
 七人目の冒険者が口を開いた。
「陽動部隊?」
 鶴が褐色の肌の巨漢に眼を転じた。そして面白そうに眼を丸くした。まるで仁王様のようだと感心したのである。
「そうだ。武田同心を港から引き離すに兵がいる。幾人揃えられそうか」
 巨漢――ラグナート・ダイモス(ec4117)が問うた。すると鶴に代わって治兵衛が答えた。
「八十ほどは」
「八十か。武田同心がおよそ二百。確実に敵兵を削っていくに、一向二裏がよかろうな」
 ラグナートは云った。一向二裏とは集団戦法の事であり、常に三人をもって一人の敵と相対するというものである。
「多数で一人を取り囲むとは‥‥それは卑怯ではないか」
 長門が歯をむいた。
「それに一向二裏の基本はこちらの兵数が多である場合であるぞ」
「いや」
 長門を遮ったのは最後の冒険者であった。
 カイ・ローン(ea3054)。白道一筋を貫く騎士である。
 カイは続けた。
「陽動部隊の役目は武田同心を潰す事ではない。ならば兵を損なわぬ一向二裏の戦法は有用であるかもしれぬ」
「なるほど」
 鶴は肯いた。
「わかりました。では戦法はそのようにしましょう。率いるのは私が」
「なりませぬ!」
 悲鳴にも似た声を治兵衛があげた。
「姫様がそのような事‥‥ここは我らが役目でござる」
「そうはいきません」
 鶴は澄んだ声で答えた。
「兵が命をかけて戦場に赴くのに、将が臆していてどうしますか。私――いや、では忠胤を将として出陣させます」
「あ、姉上!」
 今度は忠胤が悲鳴のような声をあげた。
「わ、私は戦など」
「心配するな」
 ぽん、と。何時の間に背後にまわったか、彬が忠胤の肩を叩いた。
 驚いたのは忠胤のみならず、鶴を含めた小田原旧臣達である。一体何時、彬が動いたのかわからない。
 驚倒する忠胤を、彬はニッと見下ろした。
「あんたには指一本触れさせやしない」


 ふっと篝火が消えた。
 暁闇。篠突く雨の中である。
 小田原港の要所要所に配置された武田同心が不安な眼を見交わした。
 その時である。
 小田原港を取り囲む柵門脇に佇む二人の同心の全身を、熱風のような殺気が吹きくるんだ。――と、判じたのも一瞬、一人の同心は激烈な袈裟斬りに骨まで断ち割られ、他方の同心は心臓を刃に貫かれて声もなく絶命している。
「やったか」
「ああ」
 肯き交わしたのは二人の巨漢である。だらりと下げた刃は雨の雫をはねちらし、すでに血糊の跡はない。――ラグナートとニセであった。
 ラグナートは港に眼をむけた。
 ジークリンデのインフラビジョンにより、彼は夜行獣並みの視力を獲得している。港の中で蠢く同心達の姿を彼はとらえた。
「二十ほどか」
 同じく赤外線視力を得たニセが獰猛にニヤリとした。ジークリンデのフレイムエリベイションにより賦活化した精神は、彼にかつてないほどの高揚感を与えている。
「やるぞ」
 ニセは、蜻蛉切と呼ばれる名槍をすらりと頭上にかかげ――大地すら両断しかねない一撃を柵にむかって叩き込んだ。


 漆黒の空が唸りをあげた――ように同心達には感じられた。が、実際のところ、彼らのほとんどはその唸りの正体を確かめる事はできなかった。首を真一文字に矢に貫かれていたからである。
 悲鳴すら上げ得ず、同心達が倒れ伏した。それでも幾人かの同心には息があり、彼らは敵襲だと叫びをあげた。
「何っ」
 呻き、数人の同心が詰め所を飛び出した。そして彼らは見たのである。闇の中から押し寄せる数十人の武装した一団を。
「おのれ!」
 同心達は抜刀した。墨を流したような闇の為に刀身は見えず、ただ風を斬る音のみした。
 その一瞬後の事だ。一人の同心がきりきり舞いした。
 何が起こったのかわからない。ただ一人の同心は眼前に立つ女と見紛うばかりに美しい男を見た。
「う、うぬは――」
 同心が歯をむき出した。応えるかのように男が微笑い、刀の柄に手をかけたまま、すうと腰を沈めた。
 刹那、吹く。刃風が。
 空間がうねり、また同心が仰け反った。その時に至り、ようやく同心達は気づいた。男が眼にもとまらぬ迅さで刃を抜き撃っているのだと。そして、その刃から迸る何かが彼らを傷つけているのだと。
「ば、化け物か」
「違いますよ」
 ただの猿楽師だと胸中にだけ呟き、男――喪はニンマリした。それは美しく、かつ酷薄な微笑であった。

「はじまったな」
 カイはフライングブルームを甲板におろした。
 突如、怒声が湧いた。船に乗り込んでいた武田兵だ。
「曲者!」
「その通りだ」
 叫び返す声は空でした。まるで羽根があるかのようにふうわりと舞い降りた影が銀光を一閃させる。背を割られ、武田兵が崩折れた。
「ふふん。フェアリーダストも役に立つんだな」
「危ない」
 カイが飛鳥のように一気に影――彬との間合いを詰めた。加速度のついた刺突は闇の一点を穿ち――彬の背を襲いつつあった武田兵の腹を貫く。刃が骨を削るごりごりという感触がカイの手に伝わった。
「すまん」
 彬は、闇の中にあってなお黒々とした刃をおろした。
 すでに船中に武田兵は残っておらぬ。最も警戒の兵数の少ない小早を狙って彼らは襲撃をかけたのであった。
「どうやら船を襲うとは考えてはいなかったようだな」
「用心深い武田信玄にも驕りがあるのかもしれぬ」
 答えたカイはすでに舷から縄梯子をおろし、水馬――カスミでひいてきた小船から小田原兵を引き上げている。鹵獲した船を小田原兵に委ねる為だ。
「じゃあ俺はいくぜ」
 彬がカイの背にむかって声をかけた。その前にはばさと羽音が空をうっている。グリフォンが舞い下りて来たのだ。
「花火をあげるとするか」
 高笑いをあげつつ、彬はグリフォンの背に飛び乗った。

 雨にうたれ、泥と血にまみれた二人の侍が倒れていた。見下ろしているのは十人近い人数の侍である。全員血刀をひっさげていた。
「これで城の援軍の到着も遅れるな」
 呟き、侍の中の一人――小田原藩旧臣の一人である松岡周太郎はぶると身を震わせた。
 寒さの為ではない。恐れのせいだ。
「冒険者という者ども、敵にはまわしとうはないな」


「ぬん!」
 ニセが刃をふるった。まるで紅い竜巻のように武田兵の血肉が舞い上がる。それは戦いというより、むしろ殺戮ともいうべき一方的なもので。
 それでも多勢に無勢。超人的戦闘力を誇るニセの身体にも、浅くはあるが少なからぬ傷が刻みつけられている。
 が、ラグナートは厳しく表情を引き締めていた。奇襲、さらには夜目がきくという効果はすでに薄れ、小田原残党が武田同心におされだしているのを見てとったのだ。港から引き離す為に後退しつつ戦っているが、このままでは全滅しかねない。
「忠胤殿」
「えっ」
 ラグナートの背後に隠れていた忠胤が、震える顔をあげた。その小さな身体を抱き抱えると、
「もはやここまででござる」
 告げた。その時だ。
 ラグナートの顔が赤く染まった。まるで夕日に照らされたように。
 あっ、と呻いた人々は見た。空に浮かぶ小さな太陽を。
 次の瞬間である。小太陽が武田軍船を呑み込んだ。
 現出したのは地獄であった。その証拠に、世界の終わりをもたらすかのように業火が船のみならず空をも灼いている。
 さらに人々は見た。噴き上がる紅蓮の炎の中に飛翔する魔女――ジークリンデの姿を。


 武田軍船が次々と炎に包まれていく。
 ジークリンデのファイヤーボム、さらにはアイーダの火矢によって。それはカイと彬によって撒かれた油の効力にもよるのだが。
 慌てたのは武田同心である。
 小さな灯火を目印に駆け戻ったのであるが――すぐにふっと火が消えた。続いて数名の同心が声もなく息絶えた。
「ど、どこから――」
 同心達は血走った眼を走らせた。
 が、アイーダは狩りの達人だ。獲物は同心達の方であった。
 同心達を屠りつつ、猫族の肉食獣のように無音のまま、アイーダは鹵獲した船めざして疾った。

 同じ時、椿もまた疾っていた。緋色の装束を翻らせ、まるで飛ぶように甲板まで駆け上がる。
 ギンッ、と椿の眼が煌いた。瞬時にして彼女の眼は武田同心の動きをとらえている。
 火を消す事に懸命になっている武田兵が三人。そうはさせぬ!
 赤光が三度閃いた。刃が刎ねたのは光のみならず、武田兵の鮮血である。
 常ならば、こうもむざと武田兵も椿には殺られはしなかったであろう。が、混乱――というよりも、むしろ錯乱した彼らは椿に抗する余力を持ち得なかったのである。
 椿はさらに油を撒くと、一気に船から駆けおりた。そして立ちすくんだ。
 小田原残党が誘き出したのは港入り口からである。そこは今、殺到しつつある武田同心によって塞がれていた。いくら武田同心が混乱しているとはいえ、たった一人での突破は不可能だ。
「こっちだ!」
「ぬっ」
 突如響いた声に、椿が視線を飛ばした。
 炎に浮かび上がったアイーダが滑るように疾駆している。たった一艘無傷なままの小早にむかって。
「よし」
 アイーダを追って、椿もまた風を巻いて疾りだした。その背もまた、落日の色に染まっていた。


 白い波飛沫をあげ、船が揺れている。
 小早と呼ばれる軍船。冒険者と小田原残党によって鹵獲されたものだ。
 小早の中には鶴と忠胤、長門と治兵衛がいる。すでに冒険者の姿はなかった。
「おそらく半数は潰せたかと」
 治兵衛が云うと、鶴は肯いた。
 残る武田軍船もすぐには動けぬはず。首尾はまずまずといったところか。
「鶴姫様、ラグナートの提案を断ってよろしかったのでございましょうか」
「うむ」
 鶴はきっぱりと肯首した。
 ラグナートは、近く行われる平織家評定の中で小田原残党が切り捨てられる事のなきように手を打てと提案してくれたのだ。が、その必要はないと鶴は思っている。まずは小田原侍の力を源徳に見せつける事が肝要であるからだ。
「忠胤、初陣はどうだった?」
「‥‥」
 忠胤は答えない。
 撤退時、数は知れぬが武田同心が追いすがってきた。ラグナートの仕掛けにより振り払ったものの、悪鬼のよう彼らの様子が今も忠胤の脳裏に蘇り、苦しめるのだ。
 その忠胤の怯えた顔が気がかりであったが、しかし今のところはまだ良いと鶴は思った。いつか少年は旅立つ時が来るのだから。
「相模天狗党、か」
 彬の残した言葉を思い出し、鶴が見上げた。空には大久保家家紋を染め抜いた旗が翻っていた。