【神剣争奪】虎長暗殺

■ショートシナリオ


担当:御言雪乃

対応レベル:1〜5lv

難易度:難しい

成功報酬:0 G 81 C

参加人数:8人

サポート参加人数:-人

冒険期間:09月29日〜10月02日

リプレイ公開日:2005年10月10日

●オープニング

 その若者は紅をひいたような朱い唇をしていた。
 あげた、その眼差しの先。
 白銀の月を背に、蝙蝠のような影が躍りあがっている。
 きら、と。
 月光をはねかえし、二条の光芒が疾った。
 ほとんど動いたとも見えず――しかし若者は振り下ろされたふたつの刃をことごとくかわしている。
 振り返った若者の手には、いつの間に抜き払ったのか白々とした刃が一振り。すぐさまその姿は狭霧のようにしぶく鮮血の彼方に朧と霞んだ。

「――さすがは才蔵殿。お見事でござる」
 声に。
 才蔵と呼ばれた若者がちらと切れ長の眼を動かした。
 闇の奥に。
 いや、闇が凝固したように。
 すうと人影が浮かびあがっている。
 総髪の、端正な面立ちの男。どこか夢幻の風に吹かれて。
「何者だ。服部の手の者とも思えぬが」
「このような伊賀猿など――」
 うすく笑い、総髪の男が死体のひとつを足でごろりと転がした。
「拙者、九鬼花舟と申す軍学者でござる」
「九鬼花舟‥‥。なぜ、俺を才蔵と知っておる?」
「才蔵殿を存じ上げぬ兵法者が世にあろうか」
「ふっ、ぬけぬけと。‥‥で、その軍学者が、俺に何の用だ」
「才蔵殿に愚策を披露いたしたく、推参仕った次第――」
「愚策?」
 振り向いた才蔵の眼前。花舟はにんまりと。
「左様。拙者、愚考するに源徳はジャパンの盟主たる器にあらずと存ずる。ジャパンひろしといえど、その器量あるは、まずは真田――」
「なに!?」
 才蔵の眼が、わずかに細められた。
「――何がいいたいのだ、おぬし?」
「されば――」
 花舟の眼に妖しい炎がちろちろと。
「虎長を始末なされよ」
「ぬっ!」
 さしもの才蔵が小さく呻いた。
「虎長を‥‥始末せよ、と?」
「左様でござる」
花舟が頷いた。
「虎長が暗殺されたとなると、世の者は下手人を誰と思うでござろうか。時も時、ちょうど神剣諮問の時勢。少なくとも、平織の者は源徳を疑うはず。疑心は暗鬼となり、乱を呼びまする」
「理屈はそうだが――」
 才蔵は優美な唇をゆがめた。
「虎長ほどの者、そう簡単に討てるとは思えぬ」
「討てずとも――」
 刹那、才蔵の手から銀光が疾り――
 手裏剣が撃ちこまれた樹木からたらたらと血が滴った。
 一瞬後、別の樹木から人影が飛び立ち――
「蔵人!」
「おお!」
 花舟の叫びに呼応して巨漢が立ちあがった。舞わせた長槍は電光の迅さで飛鳥のような人影を貫き――
「――しくじったな」
 幾許か、後。樹の根本に蹲る死体の面体をあらため、花舟が薄ら笑った。
「ふん。俺の槍から逃れるとは、ただの鼠ではあるまい。が、手応えはあった。もっても、あと数刻じゃ。それより――」
 蔵人と呼ばれた巨漢は、闇の奥に視線を投げた。
「さっさと姿をくらましたようだが‥‥彼奴、どうでるであろうか」
「案じるには及ばぬ。あの者なら、必ず虎長めを討つであろうよ。真田十勇士の一人、霧隠才蔵ならば、な」
 いって、花舟はきゅうと唇をつりあげた。

 気配と血臭に、すっと十兵衛の眼が開いた。
 ちらと動かした視線の先――揚屋の部屋の片隅。そこに黒々と人影が蹲っている。
「じ‥‥十兵衛‥‥さま」
 喘鳴のような声に、がばと十兵衛ははねおきた。
「新八、ではないか」
 人影の正体を見とめ、十兵衛は新八を抱き起こした。
 新八は裏柳生の一人である。暗躍を嫌う十兵衛とはそれほど近しい間柄ではなかったが――
「どうした? おまえほどの手練れが、このような――」
「十兵衛さま、申し訳ござりませぬ。柳生屋敷に戻るつもりでありましたが、力尽き――」
「そのようなことはどうでもよい。それより、その傷はどうした」
 血の気の失せた新八の面はすでに死相をうかべている。それでも必死に辿り着いた死に逝く者の思いを聞き取らねばならぬ。十兵衛が問うた。
 再び新八の口から喘ぐような声がもれ、十兵衛が耳を近寄せた。そして――
 カッと十兵衛の左眼が見開かれた。
「なに、霧隠才蔵が虎長を――」
 息をひく十兵衛であるが。
 その腕を、震える新八の手が掴んだ。
「このままでは、江戸は大乱に包まれまする。何卒、何卒――」
 声が途切れ、新八の手が力なく垂れた。まだ開いたままの彼の眼を閉じ、
「厄介なことを持ち込んでくれる――」
 十兵衛は苦い笑いを零した。次第に、その眼が異様な光を放ち始める。
「事が事だ。下手に源徳や柳生は動けぬであろう。ならば――」
 十兵衛は遠くの空へ視線を投げた。
「この江戸で頼むに足る者――冒険者か」

●今回の参加者

 ea9450 渡部 夕凪(42歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 eb0882 シオン・アークライト(23歳・♀・ナイト・ハーフエルフ・ロシア王国)
 eb2815 アマラ・ロスト(34歳・♀・ナイト・ハーフエルフ・イスパニア王国)
 eb2905 玄間 北斗(29歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 eb3111 幽桜 虚雪(31歳・♀・忍者・人間・ジャパン)
 eb3513 蛟 清十郎(26歳・♂・侍・人間・ジャパン)
 eb3525 シルフィリア・ユピオーク(30歳・♀・レンジャー・人間・フランク王国)
 eb3534 平山 弥一郎(38歳・♂・侍・人間・ジャパン)

●リプレイ本文

 雲が迅い。
 動くのは光か影か。
 宿刻は今、ゆるりと‥‥

●仕掛け
 音のやんだ境内で、渡部夕凪(ea9450)と平山弥一郎(eb3534)は深編み笠の侍と相対していた。
「ご足労をかけました、十兵衛殿」
 弥一郎の言葉に、侍――柳生十兵衛は懐手のまま、いやと応えを返した。
「で、わざわざ御出で願ったのは――」
 弥一郎の口から出たのは、霧隠才蔵の背格好及び容姿に関する問いだ。迎撃の相手を見定める事は兵法の初手である。すると、十兵衛は懐手をとき――その手に一枚の紙片が握られていた。
「そうであろうと思ってな。裏柳生の者から人相書きを手にいれておいた」
 おそろしく無精者の十兵衛にしては出来過ぎだ。受け取った紙片に視線をおとすと、似顔絵の他に背格好までもが記されている。やはり十兵衛という男、太い。
 が、太さでは夕凪も負けてはいなかった。彼女は歩み寄ると、十兵衛の耳元に口を寄せ、何事かをぼそぼそと囁いた。
「‥‥了承願えるだろうか?」
「よかろう」
 くすくすと深編み笠の内から苦笑がもれた。
「存分にやってくれ。しかし」
 十兵衛が深編み笠を持ち上げた。覗く隻眼が薄蒼く光っている。
「冒険者ってのは、面白いなぁ」

 木戸が開けられ、時折強張った顔の武士が出入りしている。
 平織虎長、江戸屋敷。
 神剣騒動に揺れる江戸においての火薬庫ともいえる存在だ。
 その平織屋敷の近く。蛟清十郎(eb3513)は屋台の蕎麦屋で蕎麦をすすっていた。
 本当は風雅に釣り糸を垂れての監視といきたかったのだが、近くに川がないのではいかんともし難い。よって次善の策とうってでたわけだが――
 三度笠の陰から走らせる彼の視線の求めるのもは、いかにもの町人だ。この剣呑な風の中、かえってぎごちない態度でいられぬ方がおかしい。もしいるとすらなら、それは――
 あくまで冷ややかに。昂ぶる心魂を底に沈めて、清十郎はただ針のように視線をとばす。
 と、清十郎の視線がわずかに揺れた。
 木戸が開き、町人風の男が姿を見せる。身なりからして御用商人であろう。
 そのとき、平織屋敷の斜め向かいの店の軒下に弥一郎が現れた。音もなく弥一郎が商人を追いはじめたのを確認し、清十郎は再び平織屋敷に眼を戻した。

●潜入
 平織屋敷の勝手方の中年侍はにやけていた。
 突然の虎長東下りで目もまわるほどの忙しさであり、今も勝手方の下働きの者の臨時の雇い入れ最中であるのだが‥‥
 シルフィリア・ユピオーク(eb3525)、シオン・アークライト(eb0882)と名乗る異国の女二人を前に、彼は鼻の下をのばさざるをえない。なぜなら――
 シオンのなんと美しいことか。月精をおもわせる相貌の幻想さに加え、たわわに実った胸の双丘。
 いや、胸の見事さではシルフィリアという娘も負けてはいない。どころか、大きくはだけられた襟元から覗く胸元の白さときたら‥‥
「‥‥し、紹介のない者を雇うわけにはいかぬ」
 中年侍は喘ぐような声をあげた。
「行商しに渡って来たはいいけどさ、失敗して郷に帰る金がないんだよ」
 シルフィリアは身をよじるようにしてにじり寄った。襟がさらにはだけ、胸のなかほどまでが露わになる。中年侍の眼が吸いついてきた。えーい、もう少し。
「後生だから雇っておくれよ」
 上目づかいで。胸は先端を除き、今やほとんどが露出している。
「さ、採用!」
 たまらず、中年侍が悲鳴をあげた。

 用意された女中の着物に着替えながら、ひそとシオンの口から呟きがもれた。
「不甲斐ない。もう少しですべて見れたものを‥‥」
 眼前で着替えるシルフィリアの後姿を見つめつつ、シオンは舌なめずりした。

●諜報戦
 同じ頃、アマラ・ロスト(eb2815)は平織屋敷からやや離れたところにある茶店にいた。
 平織の御用方役人はかなり吝いらしく、御用がすむと、いつも業者達はここで疲れを癒すということを聞きつけたのだ。
「なんだか、江戸に偉い人が集まってるね〜。実しやかに囁かれてる『「神剣』を巡った争いでも起こるのかな?」
 そうアマラが水を向ければ、疲れた顔で茶を啜っていた商人らしき男が頷いた。
「確かに平織様のお屋敷にはお殿様が下向されたとかで大騒ぎになっていたねぇ」
「噂では、それに乗じて魔物の姿も見かけるんだってね。去年の妖狐の事もあるからね〜。怖い怖い」
 おどけた仕草でアマラが、告げる。顔は商人に向いてはいるが、声は全周囲だ。
 彼女は、誰あろう霧隠才蔵と話している。今、ここに耳がなくとも、高名な忍びならば全ての声は聞き取るに違いない。ならばこそ、告げる。
 人が相争う間に、魔性が狙っているのではないか。有力者が集まっている今、それはジャパンそのものの危機を呼ぶのではないか。
 すでに戦ははじまっっている。そうと見てとったアマラの布石であった。

 同じく、此度の戦の真相を見ぬいている者がいる。
 庭働きの者として入り込んだ玄間北斗(eb2905)だ。
 すでに彼は日中においての警備状況を調べることを断念している。あまりの警備のものものしさに、ほとんど身動きがとれない為だ。
 が、この硬直はかえって北斗を安堵させた。この様子では、いくら霧隠才蔵とて、そう容易くは潜入できまい。
「北斗さん」
 女中の一人に呼ばれ、へいと北斗は箒をとめた。
「お茶が入ったよ」
「どうもなのだ」
 のほほんと笑い、北斗は女中に従い、御勝手へ。すぐさま哄笑が響く。まだまだ女蕩しは得意とはいえないものの、道化に徹した北斗はするりと女中達の心中に滑り込んでいる。
 そして、彼もまた才蔵に向けて、声を放つ。
「京都に続き、水戸でも黄泉人が暗躍して、死人が村々を襲っているらしいのだ」
「まあ」
 女中達が恐そうに顔を見合わせた。それに、 
「こんな時に騒乱が起きれば、立派なお侍様方が多数倒れ、死人の仲間が増えるるだけ。守部が減って敵が増えるなんて愚の骨頂なのだ」
 と畳み掛ける。
 口さがない御勝手雀。必ずや仕掛けた言辞は飛び、流れるだろう。
 
●奴は来る
 「ここか‥‥」
 夕凪は一軒の家屋の前に立っていた。
 シオンより、先日平織屋敷で普請があったと連絡があり、その糸を手繰っての探索である。虎長下向により行ったものであろうが、確かに大工ならば間取りなどは掌の内だ。
 と、立ち上る灰煙に気づき、夕凪は裏にまわった。覗いてみると、初老の体格の良い男が焚火に紙片をくべている。
「何か?」
 夕凪に気づき、男が問うた。
「いや、ちと尋ねたいことがあるのだが‥‥それは?」
「ああ」
 男は手の紙片に眼を落すと、忌々しげに口を歪めた。
「昨日盗人が入りやしてね。まあ金目のものはねえし、すぐにとっつかまえやしたが‥‥で、良い機会だってんで、普請に伺ったお屋敷の絵図面を始末しているところでさあ」
「絵図面!? 親方、平織屋敷の絵図面も所持しておるのか?」
「ええ、そりゃまあ」
 頷いて紙片を繰る親方の顔色が、やや変わった。
「おかしいなあ。平織様の絵図面がねえ。まだ燃やしちゃいねえはずなんだが」
「!」
 さしも不動の夕凪も息をひく。
 やはり才蔵は、やる気だ。

 すすうっと。
 戸が開き、ひとりでに閉まる。それは奇怪な風景だ。
 が、何事もないようにふわりと身を起こしたシオンは、何もない空間に眼を向けると、
「どうだった?」
 と、問うた。
「奥まで調べるのは無理だった。それから怪しい人影もなかったぜ」
 無影の応えの後、一息二息。シルフィリアは彩りをとりもどした。
 
●霧の足音
 女中の一人が首を傾げるのを、目ざとくシオンが見咎めた。
「どうしたの?」
「あ、ええ」
 怪訝な面持ちの女中は、ちらりと勝手口に眼をやると、ぽつりと告げた。
「八さんなんだけど、いつも長っ尻で困っているくらいなんだけど、今日はやけにそそくさと帰っていったもんだから」
「八さんというのは?」
「植木屋さんよ」

 すでに江戸の町は黄金色に沈んでいる。
 居酒屋の暖簾をくぐろうとした職人風の男を侍が呼びとめた。
 おだやかな微笑をうかべた侍の慈顔に安堵してか、職人が軽く頭をさげた。
「何か?」
「八五郎殿か?」
「殿って呼ばれるほどのモンじゃございやせんが‥‥確かにあっしは八五郎で」
「そうか」
 侍は静かに頷いた。
「ならば尋ねたいことがある。最近平織屋敷に出入りされたはずだな」
「へ、へい」
「その時に、何かありはしなんだか。不審の儀があると知らせがあってな」
「あ‥‥」
 明かに八五郎の顔色が変わった。やはり何か、ある。侍――弥一郎は詰め寄った。
「これには人の命がかかっている。隠し立ては身の為とはならぬぞ」
 声に迅雷。弥一郎は本性をひろげた。

●霧隠れ
 朧の月。
 ゆるんだ光は闇をわける力に乏しく、平織屋敷は黒に染まっている。
 その中で――
 庭の植木の一つ。人の背丈ほどのこぶりのものが震えた、ように見えた。
 やがてそれは溶け崩れるように形を変え、すくさま別様へと変形した。すなわち、人へ。
 紅をひいたような朱い唇に冷たい笑いをうかせると、人影は一歩踏み出そうとし、すぐに足をとめた。
「才蔵殿」
 すうっと別の影が、わいた。
 北斗。光を背負う忍びである。

 ほろほろとした闇に沈む夜道。
 そこに月光を織り成したような白い影が躍っている。夜鷹に凝し、不審者に備えた幽桜虚雪(eb3111)である。
 と、虚雪の足がとまった。足元を濡らすように、うっすらと霧が立ち込めだしたことに気づいたためだ。そして――
 道の彼方、霧にけぶるように提灯が揺れている。紋は平織のものだ。虚雪はその前に立ちはだかった。
「遊んでいかないかい?」
「邪魔だ。儂は屋敷に戻らねばならぬ」
 吐き捨てる提灯の主は筋骨隆々たる若侍だ。
 が、虚雪は退かぬ。
 すでに霧隠才蔵は屋敷の内のはず。しかし霧の中をゆく、この侍は――
「あら、あんた、そこのお屋敷のお侍かい? そういえば、西国から出張ってきたお偉いさんが泊まってるんだってね。何しに来たのか知らないけどさ、まさか戦になるんじゃないだろうね。ただでさえ水戸や京じゃ死人が溢れ返ってるって云うし‥いつ江戸もそうなるかって不安なんだ。いつでも戦で酷い目を見るのはあたし達下の連中なんだから」
「ええい、うるさい」
 虚雪の長台詞に飽きたといわんばかりに、若侍は邪険に押しのけようとした。その腕を、しかし虚雪はぎゅうと掴んだ。その間も霧はますます濃くなりつつある。
「そんなことを云わないで、アンタの腕であっためておくれな」
「どけ」
 若侍が虚雪を振り放そうとした、その隙を突くように、
「いかせないよ」
 なりもふりも捨て、虚雪は両の拳を疾らせた。夜気を吸わせて磨ぎ澄ませた鋼の殴撃。が――
 包みこまれるように、虚雪の左右の拳は若侍のそれに掴みとめられている。
「死ぬか、小娘」
 死神の鎌に似て。若侍の口がきゅうと吊りあがる。対する虚雪の満面は蝋のように白く。このままでは呼子笛を吹くことができぬ。

「おやめいただきたい、なのだ。すでに、ここには我らの仲間が潜み入っているのだ」
「‥‥」
 才蔵の視線が薙いだ。彼の鋭敏な知覚は廊下と庭にひそむシオンとシルフィリアの気配をとらえている。
「俺をとめることが、できるか」
 才蔵がニヤリとした。
 刹那、北斗の笑みが消え、その身が強張った。才蔵から吹きつける凄愴の殺気に金縛りとなったのだ。それは、他の二人も同じ――
 敵は真田十勇士最強の一人。剣もまじえぬうちに三人の冒険者が圧倒されたのもむべなるかな。
 そのとき。
「才蔵殿」
 第三の声が流れた。
 塀越し。夕凪はぴたと塀に張りついたまま、声をあげる。
「誰に踊らされたか知らぬが、既に事は柳生の耳にある、平織家のみならず‥柳生、源徳候までも御主君の敵と成すおつもりか、貴殿は」
 強靭な声音。夜にしなって。
 若年の清十郎も声をしぼる。才蔵に刃をとらせては勝ち目はないからだ。
「真田殿の意向ではありませんね? 十勇士である貴方が、真田家を窮地に立たせる気なのですか?」
「どうです? 悪しき夢を見ていたと思っちゃくれませんかね」
 静かに告げる弥一郎は、言葉の欠片に彼我の立場の優位性を示し、ねじこんだ。たとえ依頼にしくじったとて、騒げば虎長のみは守れるのだから。
「口車に乗っちゃ駄目。あれがあなたに依頼した理由は他にあるよ。きっとお互いに良く無い方向でね」
 昂揚したアマラの訴えも闇のしじまを打った。すると――
 身動ぎしたとも見えぬのに、才蔵の手に一枚の紙片が現れた。
 あっと眼をむく北斗の前で、次の瞬間、その紙片が塵となって消える。
「これは――」
 愕然して、北斗が呻いた。
 霧が。突如漂いだした濃い銀灰色の渦が才蔵の姿を覆い隠していく。
 もはや何も見えぬ。
 そして、暗殺者の気配は消えた。後にはただ、満面を汗に濡らした冒険者の茫乎として佇む姿のみが残されている。

「霧隠才蔵の手にかかるを誉れと思え」
 若侍の手がすると虚雪の首にのびた。ミキミキと異音が響き、虚雪の顔が苦悶に歪む。その間、虚雪は解放された拳を若侍の腹に叩き込んでいるが、何の痛痒も感じないのか、若侍の面には嗜虐的な薄笑いが浮かんだままだ。
 ――こ、殺される‥‥
 死を覚悟した瞬間、虚雪は背に灼けつくような殺気をおぼえ、首をねじむけた。
 深編み笠の侍。あらたな敵の予感に戦きつつ、虚雪は賭けた。
「わ、わたしにかまわず、こいつを‥‥」
「見事な覚悟だ」
 深編み笠の侍の腰から白光が噴出した。

 うっすらと眼をあけた虚雪は、己を抱き起こしているのが深編み笠の侍であることに気づいた。
「‥‥き、霧隠才蔵は?」
「奴は去った。が、まあ、霧隠才蔵ではなかったがな」
「えっ!?」
 瞠目する虚雪。それを深編み笠の内から隻眼が見下ろしている。
「ともかく、お前のおかげだ。お前が命をはって彼奴をとめてくれねば、一騒動起きていた」
「だったらお礼として、あたしと遊ばない?」
 虚雪の生業は遊女である。ゆえの軽口であるが、彼女の首にはまだ五つの指跡が痣の如く残っている。
「冒険者ってのは、面白いなぁ」
 深編み笠の侍――柳生十兵衛はくすくすと笑った。

●真田飛聞
「才蔵」
 声がした。
 しかし、無影音無。
 背を向けたまま、霧隠才蔵は朱唇を開く。
「――、か」
「うむ。江戸に入り込んだと聞いたのでな。何ゆえだ?」
「虎長の首をとるつもりであった」
「なに!?」
 闇が微かにざわめいた。
「で、首尾は?」
「しくじった」
「‥‥」
 闇の中に小気味良げな笑いが響いた。
「霧隠才蔵ほどの者がしくじるとはのお。虎長とはそれほどの男か?」
「いや、むしろ‥‥まあ、よい。それより、幸村様に伝えてもらいたいことがある」
「よかろう。で、なんと?」
「うむ」
 才蔵は白々とした刃のような眼を闇の底に据えた。そして、告げる。
「江戸に冒険者あり。侮り難し、と」