鬼火

■ショートシナリオ


担当:御言雪乃

対応レベル:1〜5lv

難易度:やや難

成功報酬:0 G 81 C

参加人数:8人

サポート参加人数:5人

冒険期間:11月25日〜11月28日

リプレイ公開日:2005年12月07日

●オープニング

 江戸の大火の後、数日。
 夜はどっぷりと深く、ねっとりと重く、凍るほどに冥い。
 その中に、か細い提灯の灯りが揺れながら。わずかに浮かびあがっているのは娘と荷を背負った商人風の男。
「本当に危のうござんすよ」
「ええ、おかげさまで」
 娘が微かに笑う。
 所用で外出したものの、思いの外遅くなっての帰り道。偶然に出会った小間物の商人に送ってもらうこになったのだが。
「昨今、火事だのなんだので、お江戸も物騒になりやしたからね。先日も――」
 ゆらゆらと。提灯で足下を照らしながら、男は続ける。
「お前さまと同じように、帰りが遅くなった娘さんがござんしてね。なかなか帰らないと思ったら、とうとう一夜明け。翌日には路地裏でおっ死んでるのが見つかったらしゅうて」
「まあ、こわい」
「いやいや。こわいのはこれからで」
 男の声がやや低くなったようだ。
「見つかった娘さんなんでござんすが、これがえらく惨たらしい殺され方で‥‥なんでも獣に体中を食い荒らされていたようでしてね」
 びくりとして左右を見まわす気配。そして娘の応え。
「‥‥野良犬の仕業かしら」
「いやいや。とても犬なんぞの仕業とは見えなかったそうで。‥‥多分、お化けの仕業だろうってね」
「‥‥」
 ややあって、娘がくすりと笑った。
「もう師走が近いってのに、お化けのお噺は季節外れでございますよ」
「いいや、これが季節外れじゃねえんで」
「えっ」
 はじかれたように顔を向けた娘の視線の先。薄黄色に染まる男の口がにいっと吊りあがり――それはべりっと耳まで裂けた。
「ひっ」
 娘のあげかけた悲鳴は、すぐに闇にのまれ――
 しばらくして闇の中から声がもれてきた。
「‥‥儂は腕じゃ」
「ならば儂は眼を喰らわせろやい」
「乳房は柔らかくて美味いぞい」
「唇を寄越せ」
 幾つかの何かが、何かを争う声。
 そして何かが引き裂かれ――
 闇の中に、くちゃくちゃと咀嚼音が響き、やがてそれも静まり――
「まだ足らぬのう」
「足りぬ」
「足りぬ」
「足りぬ」

「もっと殺して喰らおうぞ」
「喰らおう」
「喰らおう」
「喰らおう」

「江戸の結界が解けて、良かったのお」
「まさに」
「まさに」
「まさに」

 くつくつと嗤いながら、その何者かは夜の底に気配を消した。

「‥‥皆様もお気づきのことと思いますが、大火の後、とりわけ寛永寺が焼け落ちてからというもの、巷は妖しの噂であふれかえっておりますが――」
 帳面をめくると、間に挟んであった紙片を冒険者ぎるどの手代は取り出した。墨で描かれているのは頬っ被りをした人相書き。二人の面相であるが、まるで双子かと見紛うばかりによく似ている。世の中すべてを嘲笑ってでもいるかのように細く吊りあがった眼。怜悧そうな高い鼻梁。酷薄さを窺わせる薄い唇。
「今、世間様を騒がせております太郎左と次郎左という人殺しでして」
 押し入った家の者はたった一人を残して惨殺し、その様を生き残りの者に見せつけていくのだという。
「火事の後始末でお役人衆もなかなか手がまわらず、おまけにこの二人、神出鬼没。そこで、こちらにおはちがまわってきたというわけで‥‥」

 次郎左が娘の髪の毛を掴んで顔を仰のかせると、太郎左は娘の父親の首にあてた刃をひいた。
 しぶく鮮血は狭霧と変じ。血の雨をあびたようの面を深紅に染めると、娘は声ひとつ上げることなく気を失った。
「美しい女が苦しむところを見るのは面白いのお」
「夜歩きをしていたお前が悪いのだ」
 倒れた娘を見下ろし、太郎左と次郎左はにんまりと嗤った。
「江戸くんだりまで来てみたが、なかなかに」
「ゆっくりと肉を噛みちぎって殺すのも良いが、人の真似をして殺すのはもっと興がのる」
 

●今回の参加者

 ea9450 渡部 夕凪(42歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 ea9913 楊 飛瓏(33歳・♂・武道家・人間・華仙教大国)
 eb1568 不破 斬(38歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 eb2919 所所楽 柊(27歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 eb3513 蛟 清十郎(26歳・♂・侍・人間・ジャパン)
 eb3525 シルフィリア・ユピオーク(30歳・♀・レンジャー・人間・フランク王国)
 eb3534 平山 弥一郎(38歳・♂・侍・人間・ジャパン)
 eb3752 敏輝 香美奈(39歳・♂・侍・人間・ジャパン)

●サポート参加者

李 雷龍(ea2756)/ 鎌刈 惨殺(ea5641)/ マミ・キスリング(ea7468)/ 呂怒裏解守 世流万手主(eb1764)/ 玄間 北斗(eb2905

●リプレイ本文

●傷痕
 それは歌であったろうか。
 それとも嘆きか。
 川面を見つめる娘の面は人形のように白く、その眼は硬玉のように何も映してはいない。ただぶつぶつと呪詛のごとき呟きを繰り返すばかり。娘は――壊れていた。
「‥‥家族が殺され、それからはずっとあの様子であるという」
 平山弥一郎(eb3534)が溜息を零した。
 ややあって、懐手の浪人――不破斬(eb1568)がもたれていた板塀からギシリと背をはなした。
「他にも‥‥あの娘と同じように気がふれた者がいる。別の娘は身を投げたらしい」
 告げた。
 彼は被害に遭った者達の状況を聞き込んできたものだが、結果は惨憺たる有様で。
 おまけに敵の行動範囲も完全には絞り切れず、地獄を覗いてきただけの始末となっている。
「これもすべて、寛永寺を護れなかったが為‥、か。あの時止めきれていれば泣かずに済んだ者達ばかりだろうに‥」
 娘の横顔から視線をそらし、渡部夕凪(ea9450)がぎりっと歯を軋らせた。
 江戸の大火。
 それにより上野の寛永寺が消失し、霊的結界が破られた。今や江戸は霊的においては丸裸同然だ。
 そして起こった此度の凶行。おそらくは呪的備えをなくした江戸の悲劇につけいった妖しの類いなのだろうが――口惜しい。
「‥これ以上の犠牲は、食い止めねば。少なくとも太郎左と次郎左の所業は‥‥此の侭のさばらせる訳にはいかん」
「人間側もやられるだけでは割りにあいませんからねえ」
 弥一郎もまた、凶賊の正体を本能的に人ではないと看破している。彼は伏せていた眼をぎらとあげた。
「此度は逆に追い詰め、教えましょうか。人にも牙と爪があるという事を」
「じゃあ、やっぱ俺か〜」
 すっと。
 それまで背を丸めて蹲っていた所所楽柊(eb2919)が立ち上がった。
 すでにその背の丸みは消えうせ、心魂に気は満ちた。柊は、やる気だ。
「これは、また命懸けになるな」
 空っ風に袖はためかせ、斬がくるりと背を返した。

●それぞれの
「いやっ」
 簪しゃらりと揺らし、町娘がもがいた。その手を掴んでいるのは地回りのちんぴらだ。
「いいじゃねえか」
 下卑た笑いを浮かべつつ、二人のちんぴらが娘を引きずって行く。
「ちょいと、そこの兄さん」
 猫のような声音。
 煩そうに振り返ったちんぴらであるが、すぐに面相がにやけて崩れる。
 なぜなら――ちんぴらを呼びとめたのは二十歳そこそこの極上の美女。ジャパンでは珍しい黒皮のベストとパンツをまとい、上着で多少隠されてはいるものの、胸元にははちきれんばかりの双丘。ごくりと唾を飲み込み、ちんぴらは女――シルフィリア・ユピオーク(eb3525)に眼を吸い寄せた。
「な、なんだてめえ」
「放しておあげな。それよりさ、ちょっと聞きたいこがあるんだ」
 云って、シルフィリアは紙片をひらひらとさせた。よく見れば、二つの人相が書かれている。
「こんな顔の奴ら、見たことないかい。娘の後を尾行て、押し込むらしいんだけどさ」
「知らねえな」
 紙片を一瞥し、鼻で笑うと、娘を掴んでいるのとは別のちんぴらがずいとシルフィリアに歩み寄った。
「俺達と付き合えや。女一人と男二人じゃ数が合わねえんだ」
 ちんぴらが手をのばした。
 と、横からのびた手がちんぴらのそれをがっちりと掴んだ。のみならず、一気にちんぴらの手を捻り上げる。
「女性に無体は良くないですね」
「は、放しやがれ!」
 眼に涙をため、救いを求めるようにちんぴらが眼を向ければ、もう一人のちんぴらの首には刃が凝せられている。
「しばらく悪さができないようにした方が良いみたいですね」
 云うと、刃の主、マミ・キスリングはちんぴらの手を絞りあげている李雷龍に微笑みかけた。

 蛟清十郎(eb3513)は番所での聞き込みを終えた後シルフィリアと別れ、長屋を重点的に聞き込みをかけていた。
 問う内容は江戸市中で起こっている血なまぐさい事件に関して。問うのが白面の可憐な若武者であることに、住民達は怪訝な眼を向けたものであるが。
 そうだねえ、と首を傾げて応えてくれたものは番屋の聞き込みで知り得たことばかり。諦めて立ち去りかけた彼は、ふと小耳に挟んだ一言で足をとめる。
「今、なんと?」
「だからさぁ、他に聞いた惨いことっていったら、けっこうな数の野良犬の死んでるのが見つかったくらいさ」
「野良犬が‥‥死んでいた?」
 人殺しと犬殺し。一見無関係に見える点と点。未だ結びつける糸は見定められぬが‥‥
 そのとき、清十郎の脳裡をひとつの影がよぎった。
 前回の依頼。寛永寺焼失の前に伊達政宗江戸屋敷の裏門辺りで見かけた総髪の若者。
 その軍学者然とした若者からゆらと立ちのぼったのは、確かに魔性ではなかったか!
 野に放してはならぬ。そう清十郎の勘が告げている。
 実はこの時、彼自身ですら気づかないことであったが、この広い江戸において、最も魔界に近づいた者の一人は――清十郎であった。
 が、そこまでだ。
 この時まだ、魔性の若者へとつながる糸を清十郎は掴みとれてはいない。

「ここか」
 閉めきられた家屋を前に、楊飛瓏(ea9913)が低く呟いた。傍らで敏輝香美奈(eb3752)が頷く。
「誰も住んでいないようだな」
 彼らが立つ家屋。被害者の一人の住まいであったものだが、生き残った娘は身を投げて果てている。閉じられた戸はここ数日開かれた様子はなく、すでに息をしてはいなかった。
「骸、か」
 香美奈がぽつりともらした。
 その言葉に呼応するかのように、木枯らしで戸ががたがたと鳴り――飛瓏の眼が冴え冴えと、夜空の星のごとく冷たく煌いた。
「悪逆非道の振る舞い、許してはおけぬ。己が武に誓い、この闇を払おう」
「その為にも、なんとしても奴らを誘き出さねばな」
 香美奈の言葉の通り、彼ら冒険者は敵を己が地に誘い込む事に腐心していた。その成否が即ち此度の依頼の鍵となる故に。
「――あんたら、何してんだい」
 声がした。
 振り返った二人は、怪訝そうな顔つきで見据える女を見とめた。どうら近所の者であるらしい。
 香美奈が口を開いた。
「ここが難儀にあった家と聞いて‥‥。私は最近引っ越して来た平山という家の居候なのだが」
 と、一旦言葉をきり、町名を云いそえてから続ける。
「――娘が所用で夜中に外出する機会が多いので気になってな」
「そうかい。そりゃあ心配だねえ」
 女が気の毒そうに合点した。そして――
 足早に去っていく女の背を見送りながら、そっと飛瓏が囁いた。
「あの雀はよく囀ってくれそうだ」

「それでは再建の見込みは?」
「‥‥」
 無言のまま、寛永寺の僧侶は首を振った。
 対する斬もまた言葉なく、黄昏に黒々と無残な屍をさらす寛永寺境内を見渡した。
「時に」
 ふっと思い出したかのように斬は問うた。蛮行を続ける二人の凶賊と寛永寺焼失とのつながり。
 すぐに僧侶は寂しく笑った。
「寛永寺はお江戸の鬼門を護っておりました。が、鬼門封じの鎮護寺もこの始末。すでに鬼門は開かれ、悪気が流れ込んでおります。‥‥おそらくその両名、人ではござりますまい」
「それでは妖しの類いと!?」
「然り」
 僧侶は重々しく肯首した。

 同じ頃。
 鎌刈惨殺が提供してくれた彼の家の中で、柊はしゃなりしゃなりと歩いていた。それが刀を落とし差しにしての侍姿であるから、なお可笑しい。
 姉様――所所楽七姉妹のうち、彼女は四番目である――の挙措を思い浮かべての見よう見真似。俺も一応女だし、と囮役となった上は真剣そのものだが‥‥見守る惨殺と呂怒裏解守・世流万手主――賊の逃亡阻止の為に壁の補強に駆けつけてくれたものだが――が腹かかえて笑い転げるのにはさすがに閉口した。
「キミ達な〜」
「いやいや」
 いつの間に。入り口に佇む弥一郎が提灯をおいた。
 娘を夜に使いに出すのを心配する父役。それに徹した彼は、今も町にその芸を見せてまわってきたところであった。そして戻ってみると、今度は柊の芸だ。なかなかに楽しい。
「姉上様も、そのようでしたよ」
 別の依頼で所所楽の姉妹を知る弥一郎である。彼はひょいと眼を遣り、
「それに、身近にもっと良いお手本がありますから」
「よしとくれ」
 役所の聞き込みを終えて戻ってきたばかりの夕凪が顔を顰めた。
「手本なら、あっちがお似合いだ」
「ご指名かい」
 立ちあがったのはシルフィリアである。そして――女豹のように柊を襲った。
「や、やめ――」
「じっとしてなって」
 じた、ばた。
 柊の顔をのばし、こねくりまわし、あるいは紅と白粉をすっとはき――
 そこに、偽の警戒強化地区の情報をふれまわっていた玄間北斗が戻ってきた。が、部屋の中を一目見たとたん、あっと声をあげたきり呆然とする。
「やっぱり元が愛らしいと映えるねぇ〜。髪を伸ばしてみたらどうだい?」
 固唾を飲んで見守る冒険者の前に、シルフィリアは己の作品を披露する。とたん、ほお〜と溜息。
 そこに立つは、凛々しくも美しい姫武者であった。これがあのむさくるしい(バキッ)柊とは、とても思われぬ。
「でかした!」
 冒険者達が一斉に小膝を叩いた。

●爪と牙
 きりっとした顔立ちの娘が夜道を急いでいる。
 灯りといえば、娘の手の提灯と、妙に赤い月の光のみ。江戸の夜はしんと息をひそめているようで。
 娘はつっと足をとめ、何の為か息を深く吸い込んだ。
 その時。
 ゆら、と別の提灯が近寄り、声がした。
「こんな夜遅くに、どうしなすった?」
「笛のお稽古に‥‥家に戻るところなんです」
 応え、娘は提灯の主の顔を窺い――少し息をひいた。
 細く吊りあがった眼。酷薄そうな唇。黄色い光に浮かびあがっているのは紛れもなく太郎左である。
「それは――」
 太郎左はついと娘の懐から覗く笛を見遣ってから、
「夜道は危のうございます。お送りいたしやしょうか」
「それは‥‥ありがとうございます」
 太郎左の正体を知らぬのか、娘はにこりと微笑んだ。
 そして、幾許か。
 ぽつぽつと雑談をかわしつつ、二人は夜道をゆく。それはまるで闇を恐れ身を寄せ合う恋人のように見える。小さく笑う娘の手が、時折懐の笛にのびた。
「あそこが」
 やがて見えた明かりを指差し、娘は足を速めた。あとを太郎左が音もなく従う。
「ただいま」
 戸をがらりと開き、娘が家の中に。
 おかえりと立ちあがったのは三十路の女。おそらく娘の母親であろう。他に父親と兄らしき者の姿も見える。
「おっ母さん」
 駆け寄ろうとし、娘が身を強張らせた。
 その首に太郎左の腕が巻きつき、短刀の刃が凝せられている。
「騒ぐなよ。騒げば娘を犯し、喰ろうて後、殺す」
「騒がずば、娘は生かしておいてやる」
 声は、背後の闇の中。朧に現れた次郎左が太郎左に大刀を手渡す。
「お、お許しを――」
「といって、許すと思うか」
 ニンマリ笑うと、次郎左はどかと上がり込み、許しを請うた父親を袈裟に斬り下げ――
 無数の火花散らせ、次郎左の刀が受けとめられた。
 誰に――父親のもつ柊の小柄に。
「なにっ!?」
 かっと眼をむく次郎左の刃をぐいと突き放し、父親――弥一郎は座布団をはねあげ、隠してあった大刀をひっ掴んだ。
 と――太郎左が仰け反った。見れば、太郎左の両足が二筋の刃に貫かれている。そのひとつは魔獣エスキスエルウィンの牙を元に作られたという刃だ。なんで、たまろう。太郎左の口から獣のような絶叫が迸り出た。
 斬が穿った隙。
 それを見逃すことなく、母親――夕凪の手から迸り出た手裏剣が太郎左の大刀をはじきとしばしている。一瞬後、すると逃れた娘――柊の鉄笛が太郎左の面を打った。
「な、何なんだ、てめえら――」
 次郎左の喚く声は中途で立ち消えた。その顔面に、兄――飛瓏の脚が叩き込まれている故に。
「それを聞いたとて、もはや誰にも伝えることはできぬぞ」
「かっ」
 太郎左が飛んだ。
 宙にあるうち、その身が変形する。人と同じ大きさの狐の姿へと。が――
「ぎゃん」
 空を切り裂く衝撃波に、太郎左が撃ち落とされた。苦悶に霞む太郎左の眼は、闇の中で片目を瞑って見せる肉感的美女の姿をとらえている。
 続けて飛び出そうとした次郎左であるが。その前に立ち塞がった者がある。
 息を殺し、身を潜めていた清十郎!
「どけっ!」
「させぬ!」
 変則的に動く清十郎の刃が光流の尾をひき――
 常の彼の技量ならば、あるいは討ちもらしていたかも知れぬ。が、次郎左は狼狽の極みにあり、反対にひたすら闇の底で心魂を練っていた清十郎の一撃は渾身。
 がっ!
 血しぶきを散らせ、次郎左が吹き飛んだ。部屋の中央へ――
「無抵抗の相手に手をかけるのは、さぞや気持ち良かったことでしょうね」
 すっと、刃がのびる。次郎左の鼻先へ。
 刃の主――弥一郎の眼が、この時ゆっくりと開いた。その手の刃と同種の光を煌かせつつ。
「私も体感させて下さいよ」
「ひっ」
 次郎左の口から悲鳴に似た声がもれた。
 それは――
 追う獣が、追われる獣に堕ちた瞬間であった。
 刹那。
 夕凪の銀剣が閃き、第三の脱出口を求めて床を蹴った太郎左が壁にはじきかえされ、再び床に這った。

●後日
 娘は変わらず川面を見つめ、何事かを唱えつづけていた。それは永遠に繰り返されるかと思われたが‥‥
 娘の傍らに、一人の侍が立った。娘は当然のこと知らなかったが、その侍もまた身内を異形のものに殺された過去をもつ。
 侍はふっと屈み込むと、娘の側に二束の毛をおいた。そして、一言。
 ――仇はとった。

 歩き去る香美奈の背を追うように、嗚咽が響いた。