闇牙
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■ショートシナリオ
担当:御言雪乃
対応レベル:2〜6lv
難易度:やや難
成功報酬:1 G 1 C
参加人数:9人
サポート参加人数:2人
冒険期間:12月15日〜12月18日
リプレイ公開日:2005年12月28日
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●オープニング
それは、血のように深紅い。
緋の着物をまとった童が森の中を歩んでいる。烏羽のように黒い髪を肩より長くのばした、人形のように端正な相貌の女童だ。
もし天に眼があり口があったなら、あっと声をもらしていたかも知れぬ。
なぜなら、その女童の顔は、かつて一反妖怪を、そして山姥の封印を解いた奇怪な童の面相に著しく相似していたのだから。
と、女童の歩みがとまった。
つっと上げた視線の先。眼に染みるほど鮮やかな蒼い空に、墨を落したような染みがひとつ見える。
それは見る間に大きくなり、漆黒の烏の姿となって――女童の肩の上に舞い降りて来た。
「どうした?」
女童が問うと、まるで人語を解しているかのように烏が頭を動かした。嘴を女童の耳元に近づけ――
「そうか。江戸が焼けたか‥‥」
ニンマリ、と。
女童は美しく、そして邪悪な笑みを浮かべた。
「花舟や蔵人もやりおる。京もうかとはしておれぬのう」
口元に嗤いをはきつつ、女童は烏に眼を遣った。
「此度はぬしで楽しませてもらおうか」
カラコロ。
襟元をかきあわせるようにして、お栄は足を速めた。すでに夜は深く、彼女の下駄の音だけが石畳に高く響く。
――こんな寒い夜じゃ、ろくに客もつきやしない。
胸の内で一人ごちる。――お栄は夜鷹であった。
病気の父と弟を養うためには普通の生業ではやっていけない。承知でなった夜鷹だが、こんな夜には愚痴の一つもつい零してしまう。
と――
お栄の足がとまった。何か、物音のようなものが聞こえたが――
振り返る。
遠くに、影。一つ。どうやら網笠を被った侍であるらしい。
その物腰に、何故とは知らぬ不安にかられ、お栄はさらに足を速めた。が、侍との距離は開かぬ。と、いうことは――
我知らず、お栄は駆け出していた。
やがて――
お栄の眼は光を見とめた。
提灯の灯り。浮かび上がっているのは身なりからして公家のようだ。
――助かった。
まろぶように辿りついて見れば、やはりそこには公家が一人。傍らには御供の侍が一人いる。
「お、お助けを」
「どうしたのじゃ」
公家が問うた。
お栄は必死に息を整えつつ、
「怪しい者に追われております」
訴えた。
が、公家に慌てた素振りはない。むしろ楽しげに、
「怪しゅうはない。あれは供の者じゃ」
「えっ」
お栄は息をひいた。
その様が面白いのか、公家はニタリと笑うと、足元に目を向けた。
その時になって、ようやくお栄は公家の足下に獣が蹲っている事に気づいた。
闇が凝ったような黒い犬。両の眼が緑色に光っている。
「烏丸、やれ」
公家が命じた。
瞬間、黒犬がはねた。黒い颶風と化して襲いかかる。
がちり。
お栄の腕の肉が噛み裂かれた。
血飛沫を散らせ、それでもお栄は必死になって逃げる。
「ははは。もっと早く走らねば、尻を食われるぞ」
公家の高笑いが響く。
それを耳に。お栄は泣きながら、ふと思った。
これは罰なのだろうか、と。
刹那。
背に重みがのしかかり、お栄の首の筋がぶちりと断ち切れた。
とたん、糸の切れた人形のようにお栄の身が地に転がり――
「やめよ」
声がした。
ばっと黒犬が飛び退り、公家と供の者が眼を凝らし――人影を見出した。そして、あっと息をもらす。
鈴懸に結袈裟という人影の姿は山伏のものであるが。その面は、人ではない。天狗だ。
いや――やはり、人だ。人影は天狗の面をつけている。
「な、何者じゃ」
「とは、こちらの台詞だ」
応えると、天狗面はするすると歩みだし、お栄の側に屈み込んだ。
「惨いことを‥‥」
お栄が事切れていることを確かめると、天狗面は顔を上げた。
「逃さぬぞ」
言葉が終わらぬうち、天狗面の腰の刃が閃いた。一瞬後、とうてい刃の届かぬ距離であるのに、公家の供の者の一人が仰け反った。
「なにっ」
公家がかっと眼を剥いた。その前に、すうと天狗面が迫る。
と――天狗面の足がとまった。見えぬ刃にはたかれたように振り返る。
その背に吹きつけてくるもの。凄絶な殺気。いや、妖気。
ほとんど反射的に天狗面は刃を疾らせている。が――
刃は受けとめられている。刃に、ではない。緋の衣を纏った女童の繊手に、だ。
「邪魔はさせぬぞ」
「ぬっ」
天狗面が刃を振りかざした。しかし女童は寂然と佇んだまま。ただ唇のみキュッと吊り上げて。
「お前には、斬れぬ」
「俺なら、どうだ」
声が。
今度は女童がはじかれたように振り向いた。金色に光るその眼は、闇の向こうに立つ天狗面と同じく山伏姿の、こちらははっとするほどの美丈夫の姿をとらえている。
「気配を感じさせぬとは‥‥何者じゃ、おぬし」
「木枯らしびゅうびゅう丸」
「なにぃ」
女童の口が歪んだ。と、見るや――
女童の身が宙に舞った。まるで空を飛んでいるとしか思えぬ動きで、高塀の上に降り立つ。
「おぬしたちと遊んでおるほど暇ではないのでのう」
ふっと。女童の姿が闇の向こうにかき消えた。
「待て、冬威」
後を追おうとした天狗面を、美丈夫がとめた。
「もはや追っても及ぶまい。それより娘をこのままにはしておけぬ。番所に運んだ後、お前は冒険者ぎるどにゆけ」
「冒険者‥‥ぎるどでござりまするか」
冬威と呼ばれた山伏は天狗面をあげた。あらわれたのは眉のはねあがった鋭い顔つきの若者だ。
美丈夫はふむと頷き、
「このまま捨ておいては、ただの野良犬の仕業となってしまうだろう。それでは娘が浮かばれまい。‥‥九門が云うには、このような事件に対するにはうってつけの者であるらしいぞ、冒険者というのは」
「金剛坊が‥‥」
冬威が跪いた。
「では風神坊冬威、師、鬼一法眼の命により、冒険者ぎるどへと馳せ参じまする」
「おいおい」
美丈夫――鬼一法眼は苦笑しつつ、頬をぽりぽりと掻いた。
「お前は堅苦しいのが玉に瑕だなあ」
●リプレイ本文
●闇夜
血が滲んだような月。
夜空を不吉に朱く染めていたそれも、今は暗雲に隠れ。夜は真にその色を取り戻している。
その暗天から眼をそらし、天道椋(eb2313)は陰に身を潜めたまま仲間の姿に眼差しを投げた。
闇の彼方、けぶるように白く浮かびあがるのは――匂い立つような肉体を艶やかな着物で包み込んだ狭霧氷冥(eb1647)だ。唇に紅だけを点し、常の晒しをとりはずした胸元にはたわわな双丘が夜目にも鮮やかに。
「仕掛けは万端‥後は獲物が掛かったら美味しく料理しますかね‥‥」
軽口のように呟く椋の頭にはすでに手拭はない。即ち――彼は本気であるという証し。
すでに夜は昏く。人の通りも絶えた。
と、別所の陰中に一瞬の光。
それは金銀妖瞳。氷の志士、和泉みなも(eb3834)である。
まるで少女にしか見えぬ面を微かに震わせて。それは寒さのためというより、憤怒のせいで。
志士であれ公家であれ、共に神皇様に仕える身ならば民を護りこそすれ、まさか無残の所業に及ぶとは。言語道断。許すまじ。
みなもの眼に、抑えても抑え切れぬ蒼い炎がゆらと揺らめいた。
そして――
さらに離れた処。氷冥を見下ろす屋根の上にクリス・メイヤー(eb3722)は潜んでいる。
さらと銀糸を垂らし、身を低く。この位置ならば物見に易く、また威嚇の一撃を放つことも容易である。
――憐れな娘を弔うためにも、必ずや捕らえてみせる。
かたい決意は胸に。しかしその口元を彩るのは嘲笑の翳。
そう――下手人の正体を思うだに、呆れるより他に彼は想起することができない。
公家か何者かは知らぬが、やって良いことと悪いことの区別がつかないのであろうか。権力に倦んだ時、こうまで人が腐ろうとは‥‥
容赦はしない。
クリスは心に誓った。
●二日前
むっつりと口をへの字にまげたままでいるのは白峰虎太郎(ea9771)である。臥虎のように凄みがある彼であるが、いかんせん、口数が異常に少なく――見かねた同門の朱鳳陽平が口を開いた。
「で、結局公家は駕籠を使っていて、おまけに紋は削り取られていた、と」
「そうだ」
鈴懸に結袈裟姿の――風神坊冬威が頷いた。すると、虎太郎はふうむと唸り、問う。
「犬は?」
「かなり獰猛ですが、普通の犬だと思いますよ、たぶん」
少し自信なげだが、冬威の代わりに拍手阿義流(eb1795)が応えた。声が揺らいでいるのは、彼の卓越した知識は精霊の類いに限っているからだ。
しかし、当の冬威は頭を振る。
「実際に相対した感覚‥‥普通の犬とは思えぬ」
「では妖しの類いと?」
瞠目したのは可憐な美少女。名を所所楽柚(eb2886)という。
「して――」
再び阿義流が口を開いた。
「冬威さんには、その証左となるようなものでも?」
「いや、そのようなものは‥‥。ただ、獣とは違う意志のようなものを感じたのだ。それに緋の衣の女童のこともある」
「!」
三人。柚と陽平、虎太郎が顔を見合わせた。
柚と陽平は共に依頼をこなしたことがあり、また共に妖しの裏に潜む何者かの黒い影を感じとっていた。また陽平と同門の虎太郎は当然その話を耳にしていたのである。
「あの‥‥」
いったん言葉をきり、柚は舌にからみつく言葉を押し出した。
「風神坊さん、前に金剛坊さんが依頼した件とこの件は、何か関わりがあるのでしょうか? いえ――」
冬威の鋭い眼差しを向けられ、柚は頬に桜の花を散らした。
「これは予感なのですけれど‥今まで、意図的な何者かが絡んでいるだろう気配ばかり感じておりまして‥‥。不躾ですけれど‥お師匠様である鬼一法眼さんは、何か感づいていらっしゃるのではありませんか? いつも先の見えない闇の中を歩き続けるだけで‥ここまでやってきた分、これからも進むつもりですから‥もし、ご存知なのでしたら‥」
「‥‥柚殿と申したな。可憐でつよい娘がおると九門が云っていたが‥‥まさに」
冬威が苦笑した。それは思いの外柔らかい微笑み。
「すまぬが、お師の胸中は我らでは計り知れぬ。何も話してはくださらぬからな。‥‥だがのう、九門がかかわった術師――葛葉幻妖斎と申したか――は此度関係あるまい。ふと、お師がもらされていた。何やら色が違うと、な。それと、こうも申されていた。――緋の女童は妖しなどよりももっと深い闇の意志の現れである、と」
「ふむ」
ぴくりと備前響耶(eb3824)が身動ぎした。
闇の惷動に関しては彼も感じるところである。昨今の人斬り騒ぎもその影響ではあるまいか。
「ともかく公家は捕まえてこよう。そのような輩に京が汚されてはたまらんからな。あとは煮るなり焼くなり、風神坊殿の好きになされるがよかろう」
音もなく立ちあがり、そしてすうと歩み去る。剣において達人の境地に到達した響耶の立ち居振舞いは、まるで舞いであるかのように美しく――
達人といえば――
情報を集めるべく京の街に散った六人の冒険者のうち、椋もまたそうであるかも知れない。
琵琶の腕はさほどでもないのだが、ともかく噺が上手い。達人の剣によれば斬られたことすら気づかないともいうが、彼にかかれば本人すら忘れていることでも胸の底から掘り出され、口から零れ落ちる。
その調子で酒場や井戸端会議の場など、人の集まる場所を縫っていた椋であるが――
思ったほどの収穫はなかった。被害者はやはり夜鷹が多いと判明したくらいで、次の襲撃場所を特定するには至っていない。
やはり囮を使うしかないか‥‥
確か柚の友人である白神葉月が偽の情報を流すと云っていた。警戒厳重地を触れ、下手人を任意の地に誘き出すというものだが‥‥。
頬をぱんぱん。気合を入れなおし、自らも罠を仕掛けるべく椋は雪混じりの風に顔を向けた。
お栄が襲われた地。そこは高塀と竹薮に挟まれた細い道で、昼でもどこかどんよりと暗く寂しいところであった。
「やはり人気のないところだな」
「ええ」
ぽつりともらした響耶に柚が頷いてみせた。
何箇所か、野犬に噛み殺されたとして処分された事件現場を巡ってみたのだが、共通することはぱたりと人通りが絶える刻があるということであろうか。
「どうしました?」
「いえ‥‥少し寒気が」
頼りなげに笑う柚。それが愛おしくて、問いかけの主――阿義流は袖をそっと柚にまわした。
「憐れなのは女の身。昨今の京は物騒ですから、柚さんも気をつけてください」
「ありがとうございます。でも退くつもりはありません」
赤子のように笑う柚の蕾のような唇。その眩しさに――
抱きしめたくなる衝動を阿義流は必死になって抑えつけた。
●黄昏
「よっく寝たな〜」
美貌が台無しになるほどの大きな欠伸をもらしつつ、氷冥が姿を見せた。調べは全て仲間に任せ、夜の囮になるべく眠りを貪っていた彼女であるが。氷冥を知る椋は訝しむことなく笑いかけた。
「最後の夜だね。豚鬼の時と同じ、今回もきつい役目を押しつけちゃったな」
「誰かがやらなくちゃならないからね」
何事もないかのようにニッと笑う。
「で、そっちの方はどう?」
「大丈夫。各方面への根回しは済んだ」
「そ」
愛想無く――ではない。
むしろ信頼のあらわれ。こと、口仕事に関して椋が遅れをとるようなことはない。彼が大丈夫というなら、それは大丈夫ということなのだ。
「と‥‥それから犬の正体はわかったの?」
「いえ」
申し訳なさそうに項垂れたのはみなもである。様々な書面を調べてみても、また自身の知識を掘り下げてみても、話通りの犬の物の怪はジャパンには見当たらない。
「すみません、力になれず」
「気にしないで。それより、何とか逃げ延びるつもりだから、早めに助けに来てね〜」
ひらひらと手を振り、氷冥は踵を返した。
と、その背を椋が呼びとめた。
「幸運を」
椋が施したのは グットラックの呪。効果はほどなく消滅してしまうであろうが――
「ありがと」
氷冥は力強く一歩を踏み出した。一瞬、彼女の視線が右手の指輪――石の中の蝶 にはしる。
――反応があったら、大問題だけどね。
根拠のない、漠然とした懸念。が、氷冥の不安は的中してしまうことになる。
●闇の牙
異変に気づいたのは、やはり屋根の上に潜んでいたクリスであった。
氷冥の前に浮かびあがる影。身なりからして公家ではないか。
来たな!
雷撃を放つべく、クリスが身構えた。その首に、すると繊手がのび――
ニタリ。いやに長い公家の顔にうかんだのは爛れた笑みだ。
「あんたが下手人だね」
不敵に笑う氷冥であるが。次の瞬間、彼女の眼が驚愕に見開かれた。
指輪に嵌め込まれた宝石。その中で、蝶が狂ったように羽ばたいている。それでは――
呆然とする氷冥の耳は、烏丸やれと命じる声を聞いた。刹那、吹きつける熱風の如き殺気。ほとんど反射的に氷冥は鉄の大煙管をふるっている。
それは当初の予定をかなぐり捨てた一撃であるが――結果的に、その行動が氷冥の命を救った。もし薙ぎ払わねば、刃のたたぬ身と闇の知性をあわせもつ魔性は、硬直した氷冥の喉笛を食い破っていただろう。
その時、公家の供らしき網笠の侍が身を仰け反らせた。それが隠身を解いたみなも――遅延なく援護できたのは防寒着を着込んでいたおかげなのだが――の氷輪の仕業と気づくより早く、氷冥は公家を追い越して疾り出している。
ザッ!
地を穿つ爪音が響き、再び闇と同色の犬が躍りかかった。
息が、できぬ――
鉄枷のように首を締めつけるものの正体を見とめ、クリスの口から声にならぬうめきがもれた。
緋衣の女童! しかし、ここは屋根の上。何故――
惑乱するクリスの手が女童のそれにかかった。が、振りほどくことはかなわぬ。さらに呪を紡ぐことも――
「死ぬがよい」
女童が顔を近づけ――唇を割って這い出た舌が、ぞろりとクリスの頬を舐めあげた。
影、疾る。
それは九番目の冒険者、鳳翼狼(eb3609)。
氷冥の背に回り込んだ彼は地を滑りつつ身を低くし、まだ空にある黒犬の下に潜り入り――上と下。相対する二匹の獣の眼がぎらと煌き、そのうちの一匹である翼狼の拳が竜が昇るように黒犬の喉元めがけてぶち込まれた。
「とどめだ!」
地におちた黒犬にさらなる一撃を加えようと間合いを詰める翼狼。しかし、その腕を氷冥が掴む。
「普通の攻撃はきかない。逃げるの!」
「えっ」
はじかれたように振り向く翼狼の眼前で、平然として黒犬が身を起こした。
がくりとクリスの手が落ちた。すでに意識はない。まさにその命は風前の灯火だ。
その時――
女童の足下近くの瓦が砕け飛んだ。
「ぬっ」
視線をずらせた女童は見た。刃を振り下ろした姿勢のまま、はっしとこちらを見上げている精悍な浪人者の姿を。
「その者を放せ。さもなくば――」
再び浪人者――虎太郎は刀を振りかぶった。 ソードボンバーを放つべく。 射程にしても効果にしても、届かぬことは承知の上だ。せめて牽制となれば――
「よかろう」
薄く嗤うと、まるで雑巾でも捨てるように女童がクリスを放り投げた。
クリスの身は一度屋根瓦の上ではねると、そのまま転がり落ち――慌てて虎太郎が受けとめた。
「おのれっ!」
屋根を睨み上げた虎太郎であるが、すでに女童の姿はなく――彼は慌ててクリスを地に横たえた。
「大丈夫――」
問おうとして、虎太郎は絶句した。
――息がない!
「椋!」
虎太郎が絶叫した。
公家を護って前に立った供侍の足が凍結した。
するすると近寄る浪人者から放射される名伏すべからざる殺気に金縛りとなったためだ。必死になって供侍は喘鳴のような声をあげた。
「な、何者だ」
「備前響耶」
浪人者――響耶が刀の柄に手をかけ、すうと身を低くした。
その姿に恐怖を覚え、我知らず供侍は刃を舞わせて殺到する。窮鼠のように。
が、響耶は猫ではなく獅子であった。鼠に獅子は弊せぬ。
きら、と一瞬銀光が閃き――鍔鳴の音が響いた時、どうと供侍が崩折れた。
「ひっ」
悲鳴をあげ、公家が身を翻らせた。そのまま、あたふたと逃走にかかる。
その眼前を流星のように流れ、そして還るもの――氷輪を手に、みなもは腰をぬかした公家を冷たく見下ろし、告げた。
「罪無き民を苦しめた事、償って頂きますよ」
血がしぶき、氷冥の肩の肉がもっていかれた。致命の一撃を避け得たのは彼女の業によるものだが、さすがに衝撃までは吸収しきれず転倒する。
かっと黒犬が血のからみついた牙をむいた。その時――
光が生まれた。
ライト。阿義流によって生み出された擬似光。
それは同時に黒犬の影をも生み出し――光の彼方に、柚がすっくと立ちあがり、呪符を広げた。
刹那、発動される。影縛りの呪が。
が――快哉をあげかけ、次の瞬間柚が息をひいた。彼女の前で、動けぬはずの黒犬が足を踏み出したのである。
そんなはずは――
眼を凝らした柚は見た。黒犬の身を覆う黒炎のごとき結界を。そして聞いた、軋るような声音を。それは紛れもなく人語――
「覚エテ、オレ」
吐き捨てると、黒犬は木立の奥に飛び込んだ。そして、一息二息。ばさという羽音とともに、先の犬と同じ闇色の烏が空に舞いあがった。
クリスが安らかな息を取り戻したのは、墨を落したような不吉の影が空に溶け去った後であった。
これは余談であるが。
捕縛の後、響耶は公家に十剣党なる人斬り集団について問い質した。が、これは徒労に終わる。
そして――。
この後数日にわたって、一人の琵琶法師による鎮魂の謡が京の街に流れた。その法師は奇矯なことに、手拭を頭に巻いていたという。