【夜叉】犬鬼

■ショートシナリオ


担当:御言雪乃

対応レベル:11〜lv

難易度:難しい

成功報酬:4

参加人数:8人

サポート参加人数:2人

冒険期間:03月29日〜04月05日

リプレイ公開日:2008年04月07日

●オープニング


 剣風、舞う。
 大気に日光の亀裂が刻まれ、地には八人の男が倒れていた。
 盗賊だ。全員、すでに息絶えている。傷は一つ。致命を狙った、芸術的な域にまで高められた一撃であった。
 そして、一人。生き残りの盗賊がいた。
 少年だ。十五、六歳といったところか。震える手に刃をもっている。
「来い」
 少年と相対する男が云った。
 ごつい体格の男だ。その身裡に圧倒的な迫力を有している。ただそこに在るだけで、周囲の温度が数度上昇しそうであった。
 名を虎魔慶牙(ea7767)。冒険者である。
「来い」
 もう一度男――慶牙が云った。
 が、少年は動かない。動けない。瞬時にして全ての盗賊を斬り捨てた慶牙の手練を見れば当然の事である。
 そうと見てとって、慶牙はニヤリとした。
「恐いか?」
 ずい、と慶牙は足を踏み出した。すると少年がよろよろと後退った。慶牙から吹きつける殺気に押されるように。
「おまえたち、三日前村を襲い、女達を犯したな」
 慶牙が足を踏み出した。少年が退る。
「その女達も恐かっただろうな」
「ゆ、許してくれよ」
 恐怖に涙を滴らせながら、少年が云った。が、慶牙の足はとまらない。少年がまたもや退った。
「その女達も許しを請うたはずだ」
 慶牙の眼がギンッと光った。刹那、吸い込まれるように少年が慶牙にうちかかった。
 閃。
 白光が煌き、少年の刃が慶牙のそれにはじきとばされた。
「俺の知っているながとってガキも罪を犯してやがったが、おまえのように逃げはしなかったぜ」
 慶牙が鬼のように少年を見下ろした。そして拳を振り上げた。
「葉を食いしばれ」
 唸りを発して、慶牙の拳が疾った。


 今日、虎魔慶牙って人が来た。
 恐い顔をした人だ。でも、何故か恐くなかった。どうしてだか優しい人だと思った。
 一緒にクリス・ウェルロッド(ea5708)という人が来た。綺麗な人だった。でも、どうしてだかこの人の事は好きになれなかった。
 それから磯城弥魁厳(eb5249)って人‥‥も来た。変な格好をしていたので、何だろうと思っていたら、法眼様に河童だと教えてもらった。

 慶牙って人に、駿河にいくかと聞かれた。ながとって人の墓参りにいくんだって。
 知らない人だ。でも、ながとって心の中で呟くと、不思議にあったかな気持ちになる。いってみようかな。
 あっ、そんな事考えてたら。らんって子と小町って子も一緒にいきたいって云い出した。慶牙って人、どうするんだろ。

 法眼様って、どんな人なんだろう。いつもお酒呑んでるし。そうかと思えば花を眺めて楽しそうにしているし。
 馬鹿なのかな。でも、あまり馬鹿には見えないし。不思議な人だ。
 今日も何もせずに、雄太って子に木登りやらせてた。昨日は遠い川まで水汲み。剣術の練習だって法眼様は云ってたけど、嘘だよ、きっと。
 あっ、そうそう。法眼様のそばには、いつも姫子って女の子がくっついてる。この子も不思議。わたし、どういうわけか、人が近くにいると何となくわかっちゃうんだ。でも、姫子って女の子の事はよくわからない。
 そういえば法眼様もよくわからない。目の前にいても、まるでいないみたい。法眼様の苗字には鬼って字がはいっているらしいけど、もしかすると法眼様は人じゃないのかもしれない。

 法眼様に、昔の事を思い出したいかって訊かれた。
 迷った。
 やっぱり思い出したいけど、何故だかとっても恐い。思い出しちゃいけないような気がする。
 そう云うと、法眼様は微笑っていた。
 どうしたらいい、って訊いたら、法眼様は微笑いながら、
 腹が減れば、腹の虫が鳴く。そういうものだ。
 って云ってた。
 何の事かわからない。やっぱり法眼様は馬鹿なのかな、と思った。


「ふふふ」
 髑髏に皮をはりつけたような老人が嗤った。
「何を嗤う?」
「‥‥青龍か」
 老人が眼をけた。薄闇の中に、小柄の若者が座している。翁と呼ばれて恐れられている老人であったが、青龍と呼んだ若者の気配に気づく事はなかった。
「相変わらず、ぬしの気配は読めぬ」
 云って、老人の手が視認不可能な速度で動いた。
 きら、と。
 白光が閃き、一本の苦無が青龍の身に吸い込まれた。
「ふざけるのはよせ」
 青龍が云った。直後、苦無がぼとりと床に落ちた。
「やはり効かぬか」
「ふん」
 嘲笑うと、
「それよりも小娘ども、あのままに捨て置いてよいのか」
「捨て置くものかよ」
 老人が云った。
「犬鬼を使った」
 云って、老人は再びくつくつと嗤った。

●今回の参加者

 ea4734 西園寺 更紗(29歳・♀・浪人・人間・ジャパン)
 ea5708 クリス・ウェルロッド(31歳・♂・レンジャー・人間・イギリス王国)
 ea7246 マリス・エストレリータ(19歳・♀・バード・シフール・フランク王国)
 ea7767 虎魔 慶牙(30歳・♂・ナイト・人間・ジャパン)
 ea7901 氷雨 雹刃(41歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 eb0712 陸堂 明士郎(37歳・♂・侍・人間・ジャパン)
 eb3797 セピア・オーレリィ(29歳・♀・神聖騎士・エルフ・フランク王国)
 eb5249 磯城弥 魁厳(32歳・♂・忍者・河童・ジャパン)

●サポート参加者

カラット・カーバンクル(eb2390)/ オデット・コルヌアイユ(ec4124

●リプレイ本文

 生き逝きて
 また塞がるる
 清き日々
 繋ぐ絆は
 何処にありすや


 どこか夢見るような瞳の少女――オデット・コルヌアイユは、ふむー、と唸った。
 夜叉の背後存在を鍵としてバーニングマップを施したのだが、はかばかしい成果は得られなかったのだ。それではと、次にらんと小町、純が住んでた家を鍵としてみたところ、上州付近への道が示された。
「ここが小鬼の住んでいたところなのかよ」
 ぬっと虎魔慶牙(ea7767)が覗き込んだ
「正確ではありませんけど」
 答えつつ、オデットはひそかに義経という名を鍵として、三度バーニングマップを施してみた。
「下野か」
 呟くと、オデットはカラット・カーバンクルに眼をむけた。栗色の髪の可憐な娘は祈りを捧げるかのように天陽を仰いでいる。
「何かわかりましたか?」
「‥‥」
 答えの代わりにカラットはかぶりを振ってみせた。
 その意気消沈したカラットの肩に、そっと手をおいた者がいる。
 はっとして振り向いたカラットは、思わず見とれた。その手の主に、である。
 美しい。が、同時にカラットの背をひやりとなでたものがある。手の主の青の瞳にひそむ冷たき光を見とめた故である。
「気にする事はありませんよ」
 手の主――クリス・ウェルロッド(ea5708)は微笑を浮かべた。
「後は私達がやりますから。ねえ」
 クリスが視線を転じた。その先、一人の男が腕を組んで冒険者達を見渡していた。
 その男――見た者はぞくりと背を戦慄させるに違いない。まるで毒蛇を見たかのように。
 そう、まさに男は印象通り白蛇丸と名乗っていた。本名を氷雨雹刃(ea7901)という。
 その雹刃を、じっと見据えている者がいた。白髪紅眼の美騎士、セピア・オーレリィ(eb3797)である。
 先の依頼、セピア達は助けようとしていた対象者を死なせてしまった。全ては白蛇丸の独断による攻撃の為である。
 セピアもまた冒険者達を見渡した。そして二人の仲間に眼をとめた。
 一人は空を映したかのような蒼い髪と瞳をもったシフールの少女だ。可憐で一途そうで、万人が抱きしめたくなるような存在である。
 そしてもう一人。こちらは馴染みの者で、河童の忍びである。戦闘能力は高いが、クリスと白蛇丸にどのような感情を抱いているか良くわからない。
 マリス・エストレリータ(ea7246)と磯城弥魁厳(eb5249)。セピア達が駿河に向かった後、この二人をおいて、クリスと白蛇丸をおしとどめる事のできる者はいない。
 が――とセピアは思うのだ。実戦において、果たしてマリスと魁厳はクリスと白蛇丸をとめる事ができるだろうか、と。
 そのセピアの懸念を――いや、それよりも依頼そのものに漂う危険な匂いを敏感に嗅ぎ取って、西園寺更紗(ea4734)は雹刃の前に立った。
「白蛇丸殿」
「何だ?」
 雹刃がちらりと眼をあげた。その刃に似た視線を、しかし更紗は平然と受け止め、
「小鬼の二人の事どす」
「チッ」
 雹刃は舌打ちした。
「うるさいぞ、このアマが」
「‥‥」
 ぎらりと更紗の眼が燃え上がり、一触即発の剣気がその身から迸り出た。女として見下された事に怒りの火がともされたのだ。
「情報を二人から聞き出すつもりのようやけど、手荒な真似したら、それ相応の対処はとらせてもらいますえ」
「ふん」
 雹刃がニヤリとした。
「それを待つ必要はない。やるか、ここで」
「待て」
 一刀がさっと割って入った。反射的に身を引いた雹刃と更紗であるが――それきり息を引いたままだ。その一刀は、それほど超絶の殺気を纏っていた。
 刀の主――陸堂明士郎(eb0712)は静かに告げた。
「仲間割れなど愚かな事だ」
「貴様‥‥」
 雹刃がぎらりと眼を光らせた。対する明士郎は湖面の如き眼で見返す。
 空で殺気の飛沫が散った。
 刹那、その場にいた者は見たのである。空で噛み合う禍々しき白蛇と、雄雄しき銀狼の姿を。
「ふん」
 雹刃が眼をそらせた。それは明士郎の気迫に負けたというより、得にもならぬ戦いを忌避しようとする冷徹なる彼の計算以外なにものでもなかった。


 さやかは、哀しげな瞳で立っていた。
「いくぞ、駿河へ」
 慶牙がニヤリと笑ってみせた。するとさやかは眼をぱちぱちと瞬かせ、天の名工の手になるとしか思えぬほどの美丈夫に眼をむけた。鬼一法眼である。
 鬼一法眼は杯を傾ける手をとめ、頷いてみせた。それを確かめると、さやかもこっくりと首を縦に振り、いく、と云った。

 魁厳の差し出した雛あられを目の前に、らんと小町は戸惑ったような顔をした。
 おそらくは雛あられなど見るのは初めてなのであろう。ごくりと唾を飲み込んだ。
「食べて良いのじゃぞ」
「‥‥」
 らんと小町が顔をそらせた。それを冷笑しつつ眺めているのはクリスであった。
「まさか、あの少年達の生き残りを匿うとはね。‥‥私が居ない間に、随分と事態が動いたようで。それにしても」
 クリスはさやかに眼を転じた。
「記憶喪失とは‥‥。私にすれば、運が良いのかな? レディに敵意を向けられるのは、私の中では最も心が痛むものの一つだからね」
 くすりと苦笑した。
 と――
 そのクリスの思いをよそに、雹刃は二人の少女に歩み寄っていった。
「おい」
 雹刃が二人の少女を覗き込んだ。反射的に二人の少女が身構えた。
 雹刃が身に纏った瘴気ともいうべき鬼気――彼女達と同じ血の匂いに、無意識的に二人の少女の身体が反応したのだった。
 雹刃は硬玉のような眼を眇めると、
「訊きたい事がある。お前たちを操る者がいるはずだ。その者の正体と塒を知りたい」
「馬鹿、あんた」
 らんが、ふん、と鼻を鳴らした。
「教えるわけ、ないじゃない」
「確か純と云ったか‥‥」
 雹刃が云った。その眼に、ゆらりと剣呑な光がともる。
「仇を討ってやる」
「!」
 二人の少女の表情がわずかに動いた。それを見定め、雹刃はほくそ笑んだ。
「代わりに組織と黒幕、そして塒を教えろ」
「本当‥‥本当に純の仇をとってくれるの?」
 切実な眼で小町が問うた。雹刃はニンマリすると、
「ああ。だから教えろ。組織の事を」
「組織?」
 らんと小町は顔を見合わせた。それからかぶりを振ると、
「組織なんて知らない。わたしたちは翁様の云う事をきいていただけ」
「翁?」
 きらりとクリスの眼が煌いた。
「その翁とやらが、あなた達の黒幕なのですね」
「そう」
 頷くと、小町が翁の塒の場所を告げた。それは江戸外れの町の名であった。
「よし」
 雹刃が身を起こした。その背後にぬっと立った者がある。慶牙だ。
 慶牙は二人の少女をじろりと見下ろすと、
「俺達はこれから駿河にむかう。悪いが、お前達は連れてゆけねえ」
「えーっ」
 二人の少女は同時に声をあげた。そして思いっきり顰め面をしてみせた。
「どうしてさやかだけ」
「ずるい!」
「黙れ」
 雹刃が命じた。それだけで二人の少女は口を閉ざした。それは雹刃の言葉によるものというより、瞬間的に発せられた彼の殺気に凍結された為だ。
「忘れたか、あの恐怖を。奴は兎も角、貴様らと駿河‥‥凶と出た。ゆかば、必ず死ぬぞ、貴様ら」
「そういう事だ」
 慶牙がニンガリと笑った。
「みすみす死なせる危険を冒してまで連れてなどいけぬのさ。だが、いつまでも閉じ込めはしない。お前らの命が狙われなくなるようにしてやる」
「わたしたちの命が‥‥」
 らんと小町が顔を見合わせた。そうだ、と慶牙は答え、
「その後はお前らの自由だ。必要なら、俺の長屋にでも来い」
 告げると、慶牙は踵を返した。岩のような大きな背が、ゆっくりと遠ざかっていった。

「法眼殿」
 明士郎が声をあげた。その背後では、出立の準備の為に他の冒険者達が立ち働いている。
「何だ?」
 庵の柱に背を預けたまま、法眼は杯持つ手をとめた
「義経殿について、お尋ねしたき事が」
「義経?」
「はい。どうやら那須へ向かわれたご様子。その目的は如何と思われるか、存念を御伺いしたい」
「さて」
 法眼は杯をかたむけた。そして夜を結晶化させたかのような瞳をあげると、
「関東に平安をもたらさんとの事であろうが‥‥奴の生真面目さ。利用されねば良いが」
 云って、法眼は明士郎にむけて袋を放った。
「金子だ。宿と飯に使え」


 駿河にむかい、桜舞い散る東海道を上る五つの影があった。冒険者とさやかである。
 品川宿を過ぎた頃であろうか。
「あの‥‥」
 慶牙の軍馬――颯の背に揺られるさやかが口を開いた。
「どうした?」
「その‥‥ながとって人の事だけど」
「気になるか」
 さやかの背後で颯を操る慶牙が笑った。
「ながとはな、いい男だったぜ。行いは褒められたものでは無かったが、芯はしっかりしていた。そして、お前の無事を心から願っていた。敵である俺に頼んでまで、最期の一時まで、な」
「敵?」
「そうよ」
 愕然とするさやかの元に、更紗は馬を近寄せた。そして、うちは更紗と名乗ってから、
「うちと虎魔殿、それにクリス殿と白蛇丸殿は、貴方達と敵やったんよ」
「えっ」
 さやかが顔をねじむた。その戸惑ったような眼の前、慶牙は黙したままだ。
「何が‥‥」
「貴方達は暗殺者やったんよ。で、あるお人を狙っていた。そのお人を守っていたのがうちら。当然戦ったわ。そして、うちらが貴方達の仲間――これから墓参りにゆくながとを斬ったの」
「‥‥」
 さやかが息をひいた。それきり言葉もない。
 当然だ。今知らされた真実。そのおぞましき内容を俄かに信じられようはずもない。
「そ、そんな‥‥」
 ようやくさやかが、喉にからまる声を押し出した。
 その時である。凄まじい激痛がさやかの頭を襲った。
「あ――」
 悲鳴に似た声をあげ、さやかは頭を抱えた。まるで頭蓋そのもの割れそうになっているかのようだ激痛だ。いや、頭蓋の奥から何かが噴出しようとしているといった方が良いか。
「あぁ!」
 一際高い悲鳴をあげ、さやかは気を失った。


「小鬼?」
 眼を輝かせて小町が問うた。どうやら自分達の呼び名と同じ響きに興味をひかれたらしい。
「そうじゃ」
 肯くと、マリスは過去にかかわった事のある小鬼退治の一部始終を語ってきかせた。らんと小町は興味津々といった様子で耳を傾けている。
 二人の少女はマリスに好意をもったようだ。それには彼女のチャームの呪法も大いに寄与しているのだが。
 といっても、それだけが要因ではない。世に、マリスほど可憐な美少女を憎みえる者がいようか。――ない。
「では、次は」
 過去の冒険譚を語り終えると、マリスは横笛の葉二を取り出した。そして――
 ほっ、と二人の少女は吐息をついた。マリスの奏でる笛の音に聞き惚れたのである。
 低く高く、鳥の囀りのように、あるいは嵐のように、時には舞い散る花のように、降る銀色の月光のように。笛の音は鮮やかに、涼やかに、艶やかに、世界を魅了しつつ流れる。それは名人といってよいほどの技量で。さして典雅など縁もなさそうな二人の少女の魂がひきつけられたのもむべなるかな。
「たいしたものだ」
 鬼一法眼すら感嘆の声をあげた。マリスは頬に紅を散らし――そのとたん、
 ぷぴー
 とばかりに異音が響き渡った。それがおかしいと二人の少女は腹を抱えて笑い――
 ひとしきり笑い声がはねまわった後、マリスは真顔で二人の少女の眼を覗きこんだ。まっすぐに。
「一つだけ、確かめておきたい事があるのじゃが」
「?」
 涙を拭きながら、二人の少女がマリスを見返した。マリスは真顔のまま、
「らん様と小町様にも育ての親というものがあるはずじゃ。その育ててくれた人の事が、今でも好きかな」
「それは‥‥」
 らんと小町は複雑な表情を浮かべた。
 確かに、二人の少女は翁と呼ぶ老人に引き取られ、育てられた。一つの技を覚える度に抱きしめられる、その手の温もりは今も覚えている。が――
 翁は純を殺した。そして自分達にも必殺の刃をむけた。それもまた残酷な事実である。
 らんと小町は困惑したように面を伏せた。その様を見届け、マリスは微笑をもらした。
「迷い、悩めばよい。それは本当の自分を知る為の試練だから」
 云いおいて、マリスは法眼の傍に腰をおろした。
「根は、良い子らであるようですじゃ」
「そうかな」
 ぽつり、と。法眼はそよぐ風のような声音で云った。


 宿の一室にさやかは寝かされていた。寝息をたてているところからみて、今は眠っているのであろう。
「どう?」
 自ら購入した保存食を口にしつつ、セピアが問うた。窓から通りを窺っていた明士郎は、視線はそのままに答えた。
「どうやら怪しい奴はいないようだ」
「そう‥‥」
 セピアは全感覚器を研ぎ澄ませた。微細な異変も逃さない。
 ふっ、とセピアは肩の力をぬいた。部屋の周辺に不穏な殺気は感じとれない。
 目顔で問うと、明士郎もまた肯いた。
「しかし油断するな。甘い連中ではない。必ずどこかで襲撃はあると覚悟しておいた方がいい」

 江戸の町はずれに、その屋敷は建っていた。商人の別宅という風情だ。
「やはり、ここに間違いはないようじゃの」
 物陰から屋敷を窺いつつ、魁厳が云った。
 先ほど、一人の男が屋敷内に入っていった。身形からして商家の隠居のようだ。
 が、違う。眼の配り、物腰、その全てが素人ではない。
「‥‥が、おかしい」
 魁厳が呟いた。それをクリスが聞きとがめた。
「何がおかしいのです?」
「敵の動きじゃ」
 魁厳が答えた。
「小町達が保護された時点で、敵は、塒と小町達に思わせていた場所がばれる事は想定しているはず。然るに――」
 屋敷にて敵が潜んでいる気配はない。また商人風の男も囮とは思えない。魁厳は屋敷に眼を戻した。
「かと云うて‥‥確かに、奴らからは血の匂いがする」
「さすがに俺達には気づいておらぬか」
 雹刃は顎をしゃくってみせた。
「退くぞ。ばらばらになってな」 


 土がこんもりと盛られ、枯れた花がおかれている。ながとの墓標だ。
 セピアに支えられるようにしながら、さやかはじっとその墓標を見つめていた。
「さやか」
 慶牙が花をさやかに手渡した。
「お前さんが記憶を無くす前、叫んだ。私は一人だ、そうお前達がした、とな。事実だし、ながとの代わりなど誰も出来ん。だがな、これだけはわかってほしい。お前は決して一人ではないという事を。何故なら」
 ながとの墓標の前にしやがみこんださやかの背にむけ、慶牙が告げた。
「俺がいる」
「‥‥」
 答えぬさやかの背にむかい、慶牙は続けた。
「俺が二度と一人になどさせん。一度は離した手だが、もう離さん。逃げ出そうと道を間違えど、必ず見つけてやる」
「くっ」
 さやかの口から嗚咽がもれた。そして振り向きざま、慶牙の胸に飛び込む。
 慶牙がさやかを抱きしめた。その熱い抱擁の中、慶牙の胸に顔を埋めたさやかの眼に、しかしこの時、白々とした刃の光が浮かんでいる事を誰も知らぬ。
 ただ――
 明士郎のみは奇妙な違和感にとらわれていた。
「敵の気配が全くない。‥‥何故だ?」