●リプレイ本文
日が翳り。
二人の童は顔をあげた。
ふっと。
見下ろしている若者の笑みはあまりにも優しく。つられて二人の童も笑みを零した。
心の色というものはあるのだろうか。
あるとするなら、彼はさしずめ日向の色であろう。
浮薄であるのは気にいらないが、良い色をしているに違いない。
あきと才介の側で小腰を屈めている楠井翔平(eb2896)を見遣り、所所楽林檎(eb1555)は僅かに表情をゆるめた。
しかし、すぐに林檎の面は昏い翳りに覆われる。二人の童を見るに、そして三郎という童の兄の運命に想到するに、安穏としてはいられない。
「五体満足、正常な精神であるならばそれに越したことはありませんが‥‥」
過る鉛色の心象。そこに結実した内容から敢えて眼を背けるように吐露したところで。
何も変わらない。
そして聡い林檎はすでに覚悟している。最悪の可能性を。
「兄か‥‥」
佐竹利政(eb0015)がぽつりともらす。
彼にも兄がおり、それは珠玉の存在だ。
ましてや年端もいかぬ童二人。兄を求める心根はあまりにもいじらしく。きりきりと錐を刺しこまれる痛みを覚え、利政は唇を噛み締めた。
「本当に、何事もなければ良いのだが‥‥」
嘘だ。
変事もなく、その三郎が童が捜し求める三郎であるならば、なぜ故郷に戻らぬ。なぜ姿をくらます。なぜに江戸に留まり、油問屋などで働いている。
三郎と名乗るその者の行動はあまりにも不自然であり、奇妙だ。
疑問を利政が口にすると、再び林檎が重い口を開いた。
「肉体が同じでも、正体が別のものの可能性が高い気がしています」
「別物? ‥‥成り代わりといわれるか?」
「はい。確証がある、というわけではありませんが‥‥」
京都の‥‥。云いかけて押し黙る。
予断は禁物だ。ましてや、今口にしようとしたことは禁忌に近い言葉である。口にしただけで身が穢れそう気持ちの悪さがある。
それに。
それは呪詛のようで。
林檎は恐れる。
発語は発呪となり、三郎だけでなく童二人の身にも危害が及ぶのではないか。理由もなく林檎は危惧したのである。
が――
「黄泉兵であるな」
あっさりと。小野麻鳥(eb1833)は推論を口にした。
彼は闇を畏れない。陰陽道とはとどのつまりは二極の組み合わせによって定理を知る術。闇も光が在ってこそ成りうる。恐怖は光を覆い隠すだけだ。
「黄泉の兵、と?」
成り代わりまでは推測をつけていたが、まさか飛鳥争乱の禍根、黄泉兵が正体であろうとは――まさかという思いを込めて問い返す利政に、麻鳥は秀麗な面を頷かせた。
「利政殿の疑念、加えるに三郎が最後に赴いた地が飛鳥であったこと。そこから導き出される結論は一つ――」
黄泉兵の成り代わりだ。麻鳥が告げた。
その時――
「待たれよ」
静かな、しかししんと響く重々しい声音が流れ――
ひたすら沈思に耽っていた琳思兼(ea8634)が眼を開いた。
透徹した蒼の瞳。全てを見透かすように煌いている。
「突然の失踪についてじゃが‥‥確かに連想できるはその者の死。またあくまで推測の域でしかないが
現在、世間を騒がせている黄泉人や、ひと昔前の百鬼夜行騒動を考えると、あながち人ではない者の仕業であることは間違いあるまい。が――」
思兼の眼が凄みをおびて光った。
「それをもって黄泉兵の仕業と結論づけるのは早計であろう」
「では、思兼殿はなんと見られる?」
問う利政に、思兼はふむと頷いた。
「わしは‥‥ここが江戸である以上、三郎に成り代わりし者の正体が黄泉人である可能性は低いと見る」
「では、なにものが?」
「おそらくは――火車であろうか、と」
「火車?」
利政は唸った。
黒の僧である彼は不死なる物の怪についての造詣が深い。火車といえば猫のような体躯をもち、死人を連れ去る妖しである。はたして憑依、もしくは成り代わりを行う術を有するのか。
が――
「なんにしろ、成り代わりであるということだけは確かなようだな」
いつの間に。押し殺した声音は翔平のものだ。
いつもの軽やかな笑みを消した面からは真意は窺い知れぬ。思いは深く胸の底に。まだ炎立つには早い。
行方知れずの兄の捜索。その行きつく先――幼き妹弟達の前途に待ちうけているのは残酷なる現実であろう。だが、それでも翔平は暴かねばならぬ。ゆかねばならぬ。
彼は冒険者なのだから。
滴る汗を拭いながら、荷受人足達はふるまわれた茶で唇を湿していた。
そのうちの一人のもとに、照りつける天陽の中、白く静やかな人影が近寄っていく。思兼である。
「少しお尋ねしたいことがあるのじゃが」
「あん?」
怪訝そうに眼をあげた人足の一人に、思兼は海の色の瞳を向けた。
「三郎という若者のことなのじゃが――」
最近の様子を訊いた。すると人足はわずかに眉根を寄せ、
「随分付き合いの悪い奴だったからなぁ」
と応えた。
辛気くさかったが、良く働いたよ。続く言葉はぎるどの調査を裏付けするものだ。
「が、最近は何か考え込んでいるようだったぜ」
「考え込んでいる?」
「ああ。じっと空を見てな。そしたらよ、風が弱い、とか呟いてやがってよ」
「風が――」
ぎくりとして、思兼は人足から天穹に視線を転じた。三郎と名乗る者が見上げたかも知れぬ空を。
蒼穹はひたすら高く、澄んでいる。ただ明るく長閑に――
が、見つめる思兼の眼には僅かな戦きがある。
ちらりと。見てはならぬ闇の淵を覗いたかのようなおぞましさ。穢土に足をとられた居心地の悪さ。
人足の存在すら忘れ、思兼は思考の細糸を手繰った。いいしれぬ不安に、あまり動かぬ彼の面がわずかに歪んだ。
「居なくなった兄ちゃんを、きっと見つけてやるからな」
翔平が顔を仰のかせると、才助はこっくりした。翔平の肩車が良いのか、時折口元を綻ばせては周囲を物珍しげに眺めている。姉のあきはむっつりと押し黙ったままだ。それでもしっかりと翔平の手を握っている。
「どうやら子供達は楠井さんのことが気に入ったようですね」
林檎がもらす。
少し見なおした。子供は見た目には誤魔化されない。魂の真相を見る。ということは、彼は信頼できる男ということか。
「ここの具合が同じなのだ」
あっさりと。頭と胸を指差して断じる。暑気にも平然とした麻鳥はにべもない。
「聞こえてっぞ」
振り返った翔平が口を尖らせた。その様に、今度は利政がぼそりと、一言。なるほど、と。
その時。
ふっと、麻鳥の足がとまった。
「いかがされた?」
「いや――」
利政に曖昧な応えを返し、麻鳥はちらりと背後を見遣った。
小間物の行商人。簪をゆらして笑い合う町娘。商家の旦那。
なんら変わったところのない江戸の風景。
麻鳥は細く白い顎に手を当て、眼を伏せた。
今、誰かに凝視られている気がしたが――
庄左衛門。三郎が住まっていたという長屋の大家。
冒険者達が最初に向かったのは彼の元であった。
最も近しい時期に三郎と接して大家ならば何がしかの情報は得られようし、また彼から長屋のことも聞けよう。長屋には三郎を知る者も数名はいるはずである。うまくすれば埋もれた端緒を掴むことができるかも知れない。
が――
冒険者達の足は庄左衛門の自宅の前で凍結した。
玄関先に張りつけられた一枚の紙片。書かれた文字は忌中の二文字だ。
「これは‥‥」
冒険者達が顔を見合せた時、がらりと戸が開き、中年の女が顔を覗かせた。
「すみません」
気忙しそうな女を呼びとめ、林檎が尋ねた。
「あの‥‥大家さんを訪ねてまいったのですが、どなたかお亡くなりに――」
「ああ。残念だったねぇ。その大家さんが亡くなられたんだよ」
「えっ――」
林檎は息をひいた。代わりに口を開いたのは翔平である。
「それは、いつのことなんだい」
「夕べのことだよ。まだ矍鑠としてて、百まで生きるって噂されてたのに川に落ちて死んじまうなんて‥‥人の寿命ってのはわからないもんだねぇ」
「‥‥」
ぎるどの中。闇が濃くなった刻に落ち合った林檎から報告を受け、思兼は絶句した。
あきと才助が兄を求めて辿った道筋。それを逆になぞった冒険者達であるが。得られた結果は凄惨なものである。
すでに事故等で死亡、そうでなくても失踪。
「妹弟二人に触れた者――すなわち江戸における三郎さんを知る者はすべて、この江戸から姿を消したことになります」
林檎は暗澹たる面を伏せた。
あきと才助の存在を知った上は、三郎と名乗る者は何らかの行動に出るであろう。そう予想はしていたが、まさかこれほど迅速徹底した手段に出ようとは。無論、それは油問屋の人足を除いてではあるのだが。
「さすがに人足すべてにまでは手が回らなかったか」
麻鳥が嗤った。
「笑いごとではない」
「そう、笑いごとではないのだ」
真顔の麻鳥に、思兼の眼が薄く光り出した。
「というところをみると、何かあったのだな」
「人相を尋ねてみたのだ。長屋の者に」
腕を組み、瞑目したまま利政が口を開いた。
三郎と名乗る者はよほど用心していたものらしく、朝早く長屋を出、深夜に戻るという生活を刳り返し、極力長屋の者との接触を避けていたようだ。が、やはり完全にとはいかず――
「顔を見た者がいた」
「で」
「あきから聞いていた人相とは似ても似つかぬ――やはり別物だな」
翔平が口を歪めた。最悪の可能性がゆっくりと身をもたげる感触だ。
「その後橋の下や納屋等、文無しでも雨露が凌げそうな場所を探してみたんだが、まだ当たりはねえ」
「そうか‥‥」
思兼は深々と項垂れた。
「三郎が成り代わりと判明した以上、あの幼き妹弟には辛い旅となるのう」
ほろほろと。蒼い月光が夜気に溶ける夜だ。
川沿いを戯れるように歩く小さな影が二つ。あきと才助である。
川面を渡る風は水気を十分に含んで、二つの影を涼やかになでていく。
と――
ふらりと別の人影が現れた。長身の、体躯からして男性。しかし面は深くかぶった編み笠のために良くは見えない。
「わしじゃ、三郎じゃ」
「兄ちゃ――」
才助の手を、あきが掴んだ。声よりなにより、眼前の編み笠の男から発せられる異様な気に触発された行動だ。
「どうした、わしだ。三郎だ」
編み笠から覗く口がニンマリと。
やがて、ゆっくりと顔があがった。
「違う! 兄様じゃない」
「違わぬ。今は、わしが三郎じゃ」
三郎の手が、腰の大刀にするすると伸びる。刹那――
雷に撃たれたかのように三郎が後方にはねとんだ。地に降り立つなり、その口から喘鳴のような声がもれる。血の坩堝のような眼は物陰から忍び出た月色の髪の僧を睨みつけている。
「おぬし、人ではないな?」
あくまで淡々と、しかし刃の鋭利さを閃かせて告げる。月見の夜歩きに出たかのような風情すらある――思兼であった。
「な、何を――」
「お芝居はけっこうです」
夜色の光の尾をひいて、たおやかに現れ出でたのはのは林檎だ。あきと才助を庇うように立つと、林檎の面が凄絶に尖った。
デティクトライフフォース。命の灯火を捉える呪を操る彼女は、すでに三郎を騙った者の正体を看破している。
「不死なる化生の者よ。三郎さんをどうしました」
「奴か――」
三郎を騙る者の口がすっと開き。両端が鎌のように吊りあがっていく。
そして――変貌。いや、回帰か。
人のものであった面が干からび、不死なるその本性を露わにしていく。すなわち黄泉よりの使いへと。
「殺したわ」
その言葉が終わらぬうち。黄泉人の身が虚空を舞った。抜刀した刃を翻すその姿は地獄の深淵から迷い出た蝙蝠のようで。
反射的に放たれた林檎のブラックホーリーが化鳥のような黒影を撃つが、勢いはとまらない。全体重をのせた一撃が林檎を襲い――見えぬ結界にはじきかえされた。
「ぬうっ!」
うめく黄泉人の耳に、不敵な笑い声が届く。風をまいて殺到する影は利政だ。
「きえい!」
夜気を斬り裂き、利政の錫杖が疾った。
身を揺らめかせ、隙を誘った一撃であるが――黄泉人は余裕すら感じさせる動きで錫杖をかわした。のみならず、渾身の胴薙ぎが襲う。
刃鳴りの音。
火花を散らせ、二つの刃が噛み合った。穢れたる刃を受けとめたのは新陰の刃――翔平だ。
「てめえ、林檎ちゃんに何しやがるんだ」
利政のことなど眼中になく。凄愴の気すら漂わせて翔平が叫ぶ。
憤怒はさらに剣流を鋭利にし、一気に黄泉人を斬り下げた。
が、ひび割れたような声を発したのは翔平の方である。なぜなら――
刃がたたぬ。
肉を断つどころか、皮一枚すら斬れぬ。常世の魔身に現世の刃は通じぬのだ。
絶望にどす黒く面を染めた翔平は見た。月光をはねかえし、迫る刃影を。
「くっ」
胴を薙ぎ払われ、翔平が崩折れた。弧を描く黄泉人の刃はとどめを刺すべく翔平に突き立て――られなかった。時がとまったかのように。
それは比喩ではない。実際に黄泉人の身は凍結している。正確にいうと、彼の影が呪縛されているのだ。
「どけ、翔平!」
麻鳥の叫びに、はじかれたように翔平が地を転がって離れた。直後、地から噴出した紅蓮の溶岩が黄泉人を灼く。
「ふふふ。木乃伊ゆえ、よう燃える」
麻鳥がまた嗤った。
三郎の正体が黄泉人である以上、もはや殺すに躊躇いはない。もし死人返りと変じていたならば、三郎の魂に救いあれと願っていたのだが。
「せめて散華せよ」
金色の光が舞った。
「あれは‥‥」
片膝つき、利政はあきと才助の眼を見つめる。真実を告げるため。彼らはそれを知る権利があり、また知らねばならない。それが身を引き裂くような痛みをともなうものだとしても。
ややあって。
あきは強張った顔をあげた。
「兄様、死んだの?」
「ああ」
翔平が頷いた。
「嘘」
「嘘ではない」
「嘘!」
あきの拳が翔平を打った。何度も。
少女の拳にさしたる力はない。が、血の涙に濡れたそれは、何より痛く翔平の肉をきしませた。
翔平はただ。
耐えた。
そして――
しがみついて泣くあきを、翔平はただ。
抱きしめた。
再三にわたる呪による攻撃で何とか黄泉人を葬りはしたが――冒険者は惨憺たる有様だ。思兼のリカバーで何とか翔平や他の仲間の傷は癒したものの。
「滅する前に、一つ確かめたいことがあったのじゃが」
松明と化した黄泉人を眺める思兼のもらした呟き。聞きとがめた麻鳥が眉根を寄せる。
「確かめたいこと?」
「ああ。人足が言うておった。三郎、つまりは黄泉人が風が弱いと呟いていたと」
「!」
麻鳥の眼がカッと見開かれた。
ずっと胸に沈んでいた疑念。他の人間を狙うわけでもなく、まるで目標を定めているかの様の行動。それが指し示すものとは――
麻鳥は力なく肩を落した。
確かに江戸に潜入した黄泉人を弊しはした。が、果たしてそれは勝ちであったか。
もしも風が強ければ――
江戸は火の海になっていたかも知れぬ。
暑さの残る夜気の中で、一人麻鳥だけは背筋を這う氷の触手に身を震わせていた。