●リプレイ本文
窓から入り込んできたのがなまぬるい夜風だけだと思っていたのが油断の元だったのだろうか。
クロウ・ブラックフェザー(ea2562)は大ピンチに陥っていた。
「うふふ。緊張してる? かわいいのね」
つややかな布地の夜着の襟からのぞく首筋は意外とほっそりしている。薄暗い室内でありながら、彼の視覚は目の前の女性の目元に色っぽい泣きぼくろがあるのをとらえていた。微笑を形作る唇は鮮やかな紅のいろ。
「ま、待て。だだ、騙されないぞっ、お前なんかになあ」
見ているだけで震えのくるような色気に抗しようと発した言葉が止まる。
女が夜着の前を合わせている紐を解いたのだ。ぱらり、とくつろげられた服の間であらわになった胸元は白く、しかし月光に確かな陰影をつくっていた。この誘惑が男の精気を吸い尽くす悪魔『サッキュバス』のものであることはあらかじめわかっているのだが、健全な青少年であるところのクロウは思わずごくりと唾を飲み込んでしまう。
「なあに?」
「だ、だからあの‥‥ぼ、ボク達はまだ、出会ったばかりであるからして、それで」
ちらちらと見えそうで見えないいろんな箇所に目を奪われしどろもどろになるクロウ十六歳。
「こ、こーゆー事はやっぱり、互いの事をよく知った上でッ」
「なにも言わないで」
裏返りかけたクロウの声を中途で遮り、嫣然とした笑みのまま女の顔が近づいてくる。
「何も考えなくていいの。だいじょうぶ。全部あたしにまかせて‥‥」
伸ばされた手がばちりと何かに阻まれる。
あえかな光が球形に凝集し、クロウの周囲を護っていた。『ムーンフィールド』の魔法だ。月光の結界との反発の感覚に不快げに女の顔が歪み、伸ばした腕に力をこめる。
次の瞬間、女の腕が大きく薙がれ、光のヴェールが紙のように引きちぎられていた。だがそれだけでも時間稼ぎとしては十分で、クロウは枕元に忍ばせてあった紐を引く。紐の先は別室に通じており、引けばそちらで鈴が鳴る仕組みになっている。
「クロウさんっ」
「無事かーっ、クロウはんっ」
結界を張った当のシェアト・レフロージュ(ea3869)や不寝番の源真霧矢(ea3674)が鈴の音を聞きつけなだれこんできた。クロウはへなへなとその場にへたり込み、次いではっとある事に気づく。
「ウリエル! 起きてるんだろうッ!? なんで止めてくれないんだよっ」
向かいの寝台で寝ている相部屋の男に向かって怒鳴ると、当のウリエル・セグンド(ea1662)はむくりと起き上がった。
「‥‥最初は‥‥出のタイミングを‥‥窺ってた」
無表情のまま異国の戦士は寝乱れた頭をかく。
「いよいよとなったら‥‥出ようと思ってたんだが」
「‥‥‥‥」
「まあ、それはそれとしてや」
とりなす仕草で霧矢が割って入り、肝心なことを切り出した。
「そのサッキュバスっちゅうのは?」
「あ」
クロウとウリエルが視線を戻すと、女の姿はいつのまにか、霧のように室内から消えてなくなっていた。
●恋する悪魔
「護符は効果がありませんでしたか」
翌朝。ガユス・アマンシール(ea2563)は枕元から持ち出した護符を見て、ため息をひとつ落とした。
枕元に護符を置くことで憑依を防げるという情報を得て、さっそく実行してはみたものの、その晩に早速夢魔のご来訪である。嘆息が洩れないほうがどうかしている。情報が間違っていたか、それとも単なる民間伝承に過ぎなかったか、どちらにしろこれでは夢魔を防ぐことはできないとわかったわけだ。
「‥‥でも」
朝のお茶を注ぎながら、シェアトは不安げに下宿の方向を見る。
会話の内容をどこかでサッキュバスに聞かれてはまずいということで、朝食は最寄の酒場でとることになった。サッキュバスが出るのは夜と聞いているが、念のためクロウのほかに何人か残っている。
「クロウさん、大丈夫でしょうか?」
「文献によれば、サッキュバスに憑依された者は昏倒し、眠り続けて死に至るのだとか。先ほど起きるときに覗いて来ましたが、もうお目覚めでしたよ。ばつが悪いので降りてこられないだけなのでしょう」
ゆうべの様子はすでにあの後、クロウと同室のウリエルから伝え聞いている。事実だけを淡々と仲間らに話すウリエル、興味深々でそれに聞き入る仲間たち(特に男性陣)、醜態を暴露されふて寝するクロウ。そんな若者らの様子を思い出してか、ひそかにガユスはひとりしのび笑う。
「でもー、問題は、この先もクロウさんが狙われるかってことだよねー?」
「確かに‥‥」
机の隅に腰掛け、かたい食事をかじりながらのララァ・レ(ea2226)の発言に、冒険者たちはうーむと考え込んだ。
「女主人の言うところでは」
アルテュール・ポワロ(ea2201)がシェアトから茶器を受け取りながら切り出す。
「確認されている限りでは、サッキュバスは一人‥‥一体というべきなのか。クロウが見張られているとばれた以上、普通なら別の獲物に狙いを定めるだろう。普通なら」
「狙いやすい相手に目当てを変えるか、あくまで最初の獲物に固執するか‥‥こればかりはそれぞれの性格によりますものね」
シェアトがそう言って金属製の器から茶をすすると、アルテュールも目顔で頷いた。
「囮の者らに頑張ってもらうしかあるまいな」
「でもでもー」
ララァが二度目の問題提起をする。
「いちおう誰が囮役かはみんなの間で決めたけど、サッキュバスさんにはそんなのわかんないじゃない?」
うっ、と男性らの間からひるんだ声が上がった。
「見張りの人に目をつけないとも限らないよねえ? 向こうは理想の女の人の姿に化けるって話だし‥‥」
ララァなんてなけなしのお金で地味にアピールしてるのに、ずるいよねーなどとよくわからないことを呟きながら、シフール娘はよいしょと背負っていた荷物を降ろした。
「たとえばアルテュールさんって、どんな人が好みなの?」
「お、俺か!? 何故俺に矛先が向くんだ!」
「あらかじめ知っておいたほうが、見かけたときにすぐ判断がつくじゃない」
シェアトが無理を言ってほかの店子に一時的に移動してもらったので、あの下宿には今冒険者たちしかいない。ララァやシェアト以外の女性を見かければすぐにそれだと知れるのだが、この手の話に慣れていないアルテュールにはそんな判断はつかない。
「そ‥‥そういうことであれば‥‥そうだな。凛とした、活きのいい女性が美しいと思う」
「ふんふん」
「瞳に力のある女がいい。美しさとはやはり顔の造作ではなく‥‥」
咳払いをしつつ大真面目に答えている神聖騎士の青年に、シェアトやララァははくすくす笑いをもらしながらそれを聞いていた。
●悪魔でも恋に
夏の夜のなまぬるい夜風が開け放った窓からするりと吹き込んでくる。窓辺に吊るしたランタンが揺れ、それにあわせて室内に落ちる影がかすかに震えた。書き物机に向かっていたガユスは顔を上げる。
風とともに部屋に入り込んできたのは、霞のような靄のような、密度のうすい不定形の黒い影。
「あーら。あっちの部屋にくらべるとむさ苦しいのねえ?」
靄が震えるようにして言葉を発した。
あっちの部屋――その意味を察してガユスが詠唱をはじめようとするのと同時に、
「お前は動くな」
するどい声に制止されてびくりと動きが止まる。体が動かない。
「これでも悪魔のはしくれだからね。これぐらいの芸はあるのよ。さて」
霧が揺らめいているのはきっと嗤っているのだろう。黒い靄はガユスの姿を検分するようにその近くを這い回ると、するりとその傍を離れた。相部屋のグレイ・ロウ(ea3079)の横たわる寝台のほうへと近づいていく。
「悪いけど、若い方が好みなのよ」
そう嘯いて、寝台の上で目を閉じるグレイの体の表面を霧が押し包む。シェアトの結界は一瞬しかもたなかった。グレイは動かない。それに調子づいて靄はかすかに歓喜するように震えてみせた。
「あたしはヒトの男が好き。お前のような屈強な男や、なにも知らない少年が肉の快楽の前に陥落するのを見るのが好き」
ガユスは呪文を唱えようとした姿勢のまま固まっている。悪魔特有の魔法だろうか。
「あたしが与えるものこそが恋だということを教えてあげるわ」
霧が凝集し別の姿へと変わっていく。
「大丈夫。無粋な苦しみなど与えない。心配しなくても、お前の心に秘めた最高の恋人を抱かせてあげる‥‥」
人型になった影がグレイの耳元へささやいたとき、鋭い音が下宿の建物中に響き渡った。
ばっとシーツを跳ね上げて、グレイが短刀でソレをなぎ払う。
避けられるはずのない間合いだった。だがたしかに白い肌を裂いたはずの刃は、まるで水を斬ったように手ごたえがない。刃が通り過ぎていった肌には血が流れず、えぐれたような跡だけが残り、それすらも消えていく。
「寝たふりとはねっ」
「くそ、やっぱ普通の武器じゃ」
だめか、と言いかけたグレイが相手の姿を認め目を瞠る。
ドアが開いた。グレイの警笛を聞きつけた者らが室内へと滑り込む。同時に革の鞭が閃いて悪魔へと伸び、腕に絡みついた鞭を引いて、霧矢が詠唱を始める。
ライトニングアーマー。
身にまとった雷が鞭を伝い、風精霊の巻き起こす放電が悪魔を襲った。むろんこの程度で致命傷とはならないのだろうが、初めて秀麗な顔が歪む。
「おのれっ」
長い銀髪を振り乱し吼えるその姿は――。
「男!?」
悠然と長い銀髪も白い肌も優美なかがやきを有している。骨格は細いつくりではあるがあきらかに女性のものではない。
「うっそー。サッキュバスって女の人なんじゃないの?」
「もしかして二体‥‥いた‥‥とか?」
驚愕に目を見開いたララァとシェアトの台詞に、銀髪姿の夢魔はグレイを顧みて忌々しげに舌打ちした。
「ちっ。そーいうご趣味とはねェ。男になるのはずいぶん久しぶりよ」
「な‥‥何がだよ」
「さっきも言ったはずよ。あたしは男が好きだから、狙った男が好きな女の姿をとってるだけなの」
言外に、見た目の性別などかりそめのものに過ぎないのだと教えてくる。顔をしかめたアルテュールが、
「インキュバスとサキュバスは、同じ悪魔の一人二役ってわけか」
「‥‥あんまり聞きたくないんやけど、そのココロは?」
「こいつがもし男女両方とも好きだったら、シェアトやララァも狙われてたかもしれないってことだ」
女性陣にとってはあまりぞっとしない話だ。
「あんたらは冒険者ってヤツかい。はン」
「ここの‥‥女将に、雇われ、た」
普通の攻撃が効かないのは実証済みである。ウリエルは愛用の短刀をおさめて、ぼそりとつぶやくように言葉をつむぐ。
「つまり‥‥雇い主は、ここの下宿屋‥‥だ。ここから出て行ってくれるなら‥‥」
「へーえ」
小馬鹿にした仕草で悪魔はメンバーを見渡した。シェアト、グレイ、霧矢‥‥アルテュールの携えたクルスソードに目が留まる。それに気づいてアルテュールは剣の柄に手をかけた。神聖騎士にとってこの剣は武器であると同時に、神聖魔法を使うための聖印でもあった。
「ケッ」
気に入らない、というように夢魔は鼻を鳴らす。
「いーわよ。出ていったげる。痛いのは嫌いなの」
悪魔には普通の攻撃は効かないが、かわりに神聖魔法には、悪魔に特に効力を発揮するものも多い。そのため下級の悪魔にとって、クレリックや神聖騎士と戦うことは、しばしば存在そのものを賭した行為となる。実はアルテュールはその類の魔法を扱うことはできないが、そんなことは夢魔にはわからない。
「ほんまかいな」
「あぁら」
半信半疑の霧矢の呟きへの答えには淫猥な色が漂っている。
「この場合信じるしかないんじゃないの? ここはいい狩場じゃあったけど、別にあたしはこの汚い下宿じゃなきゃ生きられないってわけじゃないのよ」
「で、でも、男のヒトの精気を全部吸っちゃって殺しちゃうのはダメだと思う!」
ララァがあわてて口を出すと、サッキュバスはにやりと唇を吊り上げた。
「じゃ、あんたは鳥を殺さずに鳥の肉を食べられる?」
「うっ」
「名残は惜しいけど、ま、ここは退いたげる」
陽炎のように、白い姿が揺らめいた。そのままもとの黒い靄のような姿に戻っていく。
「よかったわねえ。あたしを追い出せて」
哄笑を残して、風にのって窓から気配が去っていくのを、とめられる者がいるはずもなかった。
「‥‥」
夜の空を見上げながら、グレイが首をかしげた。
月のように冴えた容貌。異形と言い換えてもいい赤い瞳。見たこともないあの青年の姿が自分の心の裡にあって、サッキュバスがそれをすくいとったのだとすれば、自分の心のどこにあの姿を望む気持ちがあったのか。
「ありゃ、一体‥‥誰だったんだ?」
問いかけても、夜の月は何も答えてくれはしない。