博士の無敵の実験室

■ショートシナリオ


担当:宮本圭

対応レベル:3〜7lv

難易度:普通

成功報酬:2 G 66 C

参加人数:8人

サポート参加人数:-人

冒険期間:01月26日〜02月03日

リプレイ公開日:2005年02月05日

●オープニング

「いいかね、用意するのは壷だけでは駄目なのだよ。壷に入れるためのサソリ、百足、蜘蛛‥‥それも毒のある種類の虫たちを用意しなくてはいけないのだ」
「‥‥壷に入れるって、虫をですか?」
「そう。それが『蟲毒』といわれる所以なのだよきみ。ジャパンや華国の文字ではこう書く。たくさんの虫の毒、なかなか華国人もうまい字を考えるじゃないか、うん。さらに『壷』という字は『こ』とも読むそうで、これは『蟲』という字と読みが一緒だ。つまり『蟲毒』は『壷毒』でもあるわけで、‥‥ところで何の話だったかな?」
「虫を壷に入れるところまでです、先生」
 弟子はそう答えた。
 魔法使いにして学者のアスター氏は、多くのすぐれた学者がそうであるようにとても学識豊かで知的好奇心も旺盛だが、それゆえにしばしば自らの思索の大海原へと旅立ってしまう。旅立つだけなら一向に構わない。アスター氏が他の学者と違っているのは、彼がよく己の内なる海で方向を見失い、自力では現実に戻ってこられないところだった。
「そう、もちろんそうだ。毒虫たちをひとつの壷に押し込めてだね、するとどうなる?
 餌を与えられないまま暗い壷の中に閉じ込められた虫たちは、やがて共食いを始めるんだ。互いに死力を尽くして生き残るために戦い、やがていちばん強い虫が最後に一匹だけ生き残る。この虫の背負う怨念はとてもすさまじいもので、人ひとり簡単に呪い殺すことができるといわれているそうだ。これが『蟲毒』だよ。華国の古い呪いの方法なんだ」
「魔法でない呪いって、本当に効果があるんですか? 先生」
「どうかな。私もこの間、知り合いのところで文献を見せてもらっただけだからね。いや、実に有意義な時間を過ごした。東洋の文献というのは本当に目にする機会が少ないから私もついつい読みふけって、夕方になったのも気づかずに長居してしまった‥‥いかん、また話が逸れたな。そうそう呪いの話だった。魔法ではなく呪いというものが実在するか否か、これは私にもわからないのだよ。仮に呪いを行使して人が死んだとしても、その死因が呪殺か自然死かを見分ける方法はいまのところ確立されていない。見た者の主観に頼るより他にないのだ。だからこそ証拠が残らないよう、相手を呪い殺したいと願う者も多いわけで‥‥」
「つまり」
 放っておくとまだまだ続きそうなアスター氏の弁舌をさえぎるべく、弟子はひややかな声を発した。
「‥‥試してみたくなったんですね? 蟲毒」
「そのとおり」
 ふたりが背にした戸からは、しきりにかさかさという音が聞こえていた。ときどき、戸の表面をひっかくような気配も伝わってきている。アスター氏の自室に通じる戸はしっかり閉まっていたが、そうでなければ蟲毒に使われる(予定だった)毒虫たちが一斉に押し寄せて、悠長に呪いについての講義をぶっている暇などなかったはずだ。
「いやあ、虫の動きが緩慢だったから、油断していたな。はっはっは」
 なじみの商人がやってきて置いていった荷物を、まずアスター氏は嬉々として開けた‥‥中身は毒蜘蛛や百足、そしてノルマンではまず見かけることのないサソリ。はじめて見る種類の虫たちにアスター氏は大喜びして、毒針に刺されないよう注意しながら壷に虫たちを放り込んでいく。しかしやがて暖かい室内で毒虫たちは次第に活発に動き始め、しかもアスター氏は生来の不器用で非常に手際が悪かった。
 ‥‥戸の向こうはは現在毒虫たちの巣になっているだろう。
「どうやってこの真冬に虫なんて取り寄せたんです!?」
「そこはそれ、私にだってへそくりというものがあるのだよ。インドゥーラはこの時期もなかなか暖かいらしいねえ、うん」
 ‥‥一体いくらかかったのかは聞かないでおくのが賢明だ。アスター氏は研究費の捻出のために何人かの貴族をパトロンとしているが、彼が普段こんなことばかりしているのをちらりとでも聞いたら、貴族たちは即刻アスター氏への投資を取りやめただろう。
「大体先生、蟲毒でいったい誰を呪い殺すつもりなんですか?」
「呪い殺す‥‥誰が、誰を? 私が? 蟲毒で? 失敬だな君は。私が何故そんなことをしなければいけない?」
 演技などではなく心から不思議だという顔をしている。嫌な予感がして弟子は師匠の顔を見た。
「何故って、蟲毒って人を呪い殺す方法なんでしょう? 呪殺する相手もいないのに使ってどうするんですか」
「‥‥‥‥」
 数秒の沈黙が訪れたあと、ぽん、と学者は膝を打った。
「なるほどその通りだ。わが弟子だけあっていいところに気がついたね、うん」
「‥‥要するに考えていなかったんですか」
「いやあ、文献を見た途端、これは是非一度実験しなくてはと、とるものもとりあえず」
 まったく悪気のない科白に、弟子の中で何かが切れたようだ。かたんと席を立ち、きっぱりと告げる。
「やめます」
「は?」
「弟子をやめます。今日を限りに、我々は弟子でも師匠でもありませんっ。
 あなたは優秀な学者ですけど、あまりにも非常識すぎる! それが天才というものなのだと思って耐えていた私が愚かでした‥‥いいえ、たとえ本当にそうだとしてもこんな騒ぎはもうまっぴらです! 私は普通に学問を学びたいだけなのです。もう勝手に蟲毒でもなんでも研究なさるといい、私は凡才でいいからもっと常識と生活力のある師匠を見つけます‥‥!」

 嵐のような荷造りを済ませて弟子が出ていったあとも、アスター氏は彼の言ったこと――天才とか常識とか――がいまひとつ理解できなかった。理解できなかったのでしばらく沈思黙考していた。
 自分はそんなにも非常識だろうか。考えてみても、常識というものを明確に定義することができなかったので結論は出なかった。しかしどうやらまた教え子に逃げられてしまったらしいことはなんとか把握できた。これで何人目だったかな?
「人を教え導くというのは難しいものだな」
 誰に聞かせるでもなく落とした呟きに、そういえば似たようなことを言った古人がいたと思いついた。はて誰だったろうと記憶の棚をあさり‥‥かりかりかさかさという隣室からの音に思考を邪魔された。
「ああ、そうだった」
 何かが倒れたような音も聞こえてきた。とにかく毒虫をという大雑把な注文をしたせいか、そういえば虫籠に混じって、けっこう大きな箱もあったような気がする。まだ開けていなかったはずだが、何かの拍子で開いてしまったのだろうか。
 家は広いのであのまましばらく開かずの間にしてしまってもさほど支障はないのだが、自室には貴重な蒐集品や文献も置いている。毒虫たちに汚されたり壊されたりしたら困ってしまう。どうすべきかと首を傾げ、うむ、とひとつ頷いた。
「こういうときは冒険者ギルドに行けばいいのだったな‥‥そうか、これが常識的な判断というものだな。うむ、きっとそうだ。あの子は私がすぐにこの着想に辿りつかなかったので、私を非常識だと断じたのだろう。早まったことをしたな、私にもこうやって常識的な判断ぐらいはできるというのに」
 今さらそんなことを証明しても仕方ないのだが、アスター氏はそんな些細なことは気にしない性分だった。

●今回の参加者

 ea1671 ガブリエル・プリメーラ(27歳・♀・バード・エルフ・ロシア王国)
 ea1695 マリトゥエル・オーベルジーヌ(26歳・♀・バード・エルフ・フランク王国)
 ea2059 エリック・レニアートン(29歳・♂・バード・人間・ビザンチン帝国)
 ea2148 ミリア・リネス(21歳・♀・ウィザード・エルフ・ノルマン王国)
 ea4159 リーニャ・アトルシャン(27歳・♀・ファイター・人間・ロシア王国)
 ea4792 アリス・コルレオーネ(34歳・♀・ウィザード・エルフ・フランク王国)
 ea6337 ユリア・ミフィーラル(30歳・♀・バード・人間・ノルマン王国)
 ea8650 本多 風露(32歳・♀・鎧騎士・人間・ジャパン)

●リプレイ本文

 ギルドからやってきた冒険者たちは当然来る前に事情を聞かされていたのだが、話に聞くのと実際に状況に対峙するのとは大違いである。問題の扉の向こうではかさかさと絶えず何かが動き回り這い回る音が耳に届いており、ギルドに通っている話が正しければそれは例の毒虫の群れなのだろう。冒険者たちはあまり聞きたくなさそうな顔で互いに顔を見合わせた末、ユリア・ミフィーラル(ea6337)が仕方なく口を開く。
「えーと‥‥博士」
「アスターと呼んで結構」
「アスターさん。その虫っていうのは、何匹ぐらいいるの?」
 問われてアスター氏はふむ、と顎を撫でた。
「記憶の限りでは、まずインドゥーラ産のサソリ。なかなか活きのいいものだった。ムカデが、これはよく見かける種類のもので、噛みつかれると次第に毒がまわる。それから毒グモが――」
「あ、あのう、具体的な内訳はいいですから」
 虫が苦手らしいミリア・リネス(ea2148)が顔を青くして説明を遮った。想像してしまいそうだ。
 自慢の解説を遮られて不満そうなアスター氏が語ることには、虫たちはおおよそ十数体‥‥それに物音から推測して、大きい(おそらく一メートルを越す)モンスター級の虫が一体いるのではないかという話である。
「とりあえず‥‥部屋の間取りもわからないんじゃどうしようもないし」
 壊されちゃ困るものもあるんだよね? とのユリアの問いに、アスター氏はそれはもう大仰に頷いた。
「もちろんだとも! あの部屋に限らず、この家には非常に高い価値のものがたくさん置いてあるのだ」
「家じゅうに‥‥?」
 あらためて見回すと、家じゅうを埋め尽くしているのは背よりも高い書棚、その中にぎちぎちに詰め込まれた書物。それらはほとんど今にも倒れかかってきそうな圧迫感である。
「確かに、個人でこれだけ書物を蒐集しているところは珍しいな」
 アリス・コルレオーネ(ea4792)の言葉通り、書物は基本的に高価なものである。管理にも手間がかかる。あらためて見れば確かにちょっとしたひと財産なのだろう。その手の好事家ならいい値をつけるかもしれない。
「しかし実践なきところに真理はないっ。書物で得た知識はそこまでで終わってしまう。華国の呪術の編み出した様式、それがジャパンや他の国々に渡ったあとどのように変容し、どんなかたちとなったか‥‥それはまだ完全には明かされていない。まだ誰も書物に書いたことのない事象を明らかにするには、己の手で探求するしかないのだ。そうは思わないかねきみ」
「え? え、えーと」
「‥‥倫理的に問題がある場合は、手を出さないというのもまた選択だと人々は言うがね」
 急に話を振られてあわてたミリア、やれやれと首を振るアリス。言っていることは立派だが、そもそも正しい探求とやらを完璧に実践できているのならば、こうして冒険者を呼ぶはめにはおそらく陥っていないわけで。
「そこはまあ、あれだ、諸君。世に言う箴言があるではないか、『この世に過ちなどない、酒が足りないだけだ』と」
「‥‥この人、一発殴りたい気分なんだけど?」
 めずらしく抑えた声でマリトゥエル・オーベルジーヌ(ea1695)がつぶやくのを、他の冒険者たちがあわてて止めている。

●さあ待ちましょう
「つまりあれだ」
 長い金髪を揺らしながら、アリスはこともなげに言い放った。
「外から届けられたばかりの時には、学者さんでも捕まえられるくらいに鈍かったのだろう? それなら話は簡単じゃないか」
 もともと虫が生息するような季節ではないのだ。商人がこの家に運んでくるまでは、死なない程度の環境を保ってやっていたのだろう。それが部屋が暖かかったばかりに、虫たちの活動が活発化した――言わんとすることを察してか、本多風露(ea8650)が是と頷いた。
「部屋を冷やしてしまえばよいのですね」
「そのとおり」
 とはいえ真冬である。火を消してしまっては外と同じ、ノルマンの大多数の家と同じくここも石造りだから、下手をすれば外よりも冷える。しっかりと野外用の防寒着を着こんで、さっそく作戦開始である。
「その前にー」
 ユリアが戸を振り返ると、何かを引きずるようながさがさ、がさがさという音がしている。虫にしてもずいぶん大きそうだ‥‥おそらく一メートルとか二メートルとか、とにかくそんなモンスター級の虫だろう。
「そいつだけでもやっつけておかないとね」
 『部屋の中で一番大きな虫』と指定して、ユリアはムーンアローを放っておいた。この魔法は効果範囲に指定した相手さえ存在すれば、壁や床もすり抜けて対象に飛んでいく。三、四発続けて撃ちこむと、何かが倒れた音と、ばさばさと羊皮紙が舞う音が耳に伝わってきた。やがて静かになった。
「‥‥えーと」
 ダメージでのた打ち回った虫が、何か大事なものを壊していないことを祈るばかりだ。

「まずは、周囲の部屋の消火ね」
 ガブリエル・プリメーラ(ea1671)の言に従い、まず暖炉の火を消した。この家に入ってからやけに暖かいと思ったら、この家にはなんと暖炉が三つもあり、しかも誰もいない部屋でも火がくすぶっていたりして、冒険者たちを仰天させた。
「寒いのは苦手なのだよ」
 アスター氏はいうものの、こんな本の多いところでもし火事でも起こそうものなら、あっという間に燃え広がってしまうはずだ。そのことにはちっとも思い至らない様子の学者先生を見て、ガブリエルはひそひそとマリに話しかけている。
「学者って奴は、どこかしら変人じゃないと務まらないものなのかしら?」
 迷路のように林立する書棚を抜けて、台所の鍋の火も見に行った。焦げくさい匂いに眉根を寄せ、試しにリーニャ・アトルシャン(ea4159)が鍋の蓋を開けてみると、火にかけて以来忘れ去られていたらしい麦粥が、鍋の底で真っ黒に焦げ付いていた。
「‥‥まずそう」
「これはさすがにもう食べられないわねえ‥‥よくこれで、今まで火事を出さなかったもんだわ」
 鍋を覗き込んだリーニャとマリがそれぞれ感想を述べる。食事を作るのは出て行った弟子の仕事だったのだろう。あのアスター氏が台所でシチューの塩加減に血道をあげているところなど、とても想像できない。ユリアが首を振った。
「どのみち、あたし達の今日の晩ご飯は作らなくちゃいけないし‥‥ついでだから、アスターさんのぶんも作ろうか」
 もちろん台所は使わず外でということになるが、野外での料理は冒険者なら皆お手のものだ。

「‥‥あれ? これ何?」
 暖炉の火を消したはずの部屋がまだほの暖かい気がして、机の下を覗き込んだエリック・レニアートン(ea2059)が何かを見つけた。引っ張り出されたのは大きめの木製の鉢で、土のかわりに白い灰が敷き詰められている。真ん中にはほの赤く焼けた炭が小山になっており、灰の中にちいさな火箸が無造作にさしてあった。びっくりしたように風露が覗き込んだ。
「まあ、火鉢ですね。懐かしい」
 比較的文化の近い華国ならともかく、まさかノルマンで火鉢など目にするとは思わなかった。目を丸くしている風露に、アスター氏がうれしそうに歩み寄ってくる。書き物をするとき足元が暖かいので、机の下に置いていたのだという。
「きみはジャパン出身か。このヒバチ、結構便利だねえ。これはだね、知り合いの職人に言って、文献通りに作ってもらった模造品なんだ。月道ものはさすがに手が出ないから。これ、どうだね? ジャパンの本物と比べて。使い方は? 材質は?」
 どうやら自分は口を滑らせたらしいと風露が気づくより早く、アスター氏は火鉢について次々と質問を繰り出してきた。自身も東洋の文化に興味のあるエリックは、火鉢と風露を見比べてしきりに感心しており助け舟を出してはくれない。

「うーむ」
 いったんは巻物を広げたものの、アリスは肩を落とした。
「どうやらまだ、私の力が足りないようだ」
 この何も書かれていない巻物に自分の知る術を封じようとしてみたのだが、うまくいかないのだ。精霊碑文学を極めた者は、これにさまざまな魔法を封じることができるという。アリス自身もかの学問を修める身、もしかしたらと試してみたのだが。
「‥‥アリス。冷める」
 横から口を出してきたリーニャは、もちろんアリスが何をしているかほとんど理解できていない。彼女の前に置いた器を目で示して、早く食べろと促す。家の外、猫の額ほどの庭で焚き火をして、ユリアが作ったシチューだった。体が温まると、ミリアやリーニャはおかわりまでしている。
 ユリアいわく、
「待ってる間は暇だから」
 とのことで、アスター氏に了解をとって、台所にあった食材をいい匂いのする香草炒めや腸詰のソテーなどに変身させた。このところひどい食生活(例の黒焦げの麦粥で多少は察せられる)を送っていた学者氏は食べながら涙さえ流している。才能ある学者先生も、食事は美味しいほうがいいという点では冒険者たちと同じのようだ。

●ようやく虫退治
「はーい、皆、ぶちかましてやる用意はいーい?」
 開けるわよー? 能天気な口ぶりとはうらはらに、ガブリエルは慎重に扉に手をかける。
 リーニャの表情に乏しい視線がほかの冒険者たちを見やる。うなずきを返されて細く開く戸に目をやる。かさかさと羊皮紙のこすれるような音は相変わらず聞こえている。すでに日はすっかり落ちていて、家中がしんと冷え切っていた。風露が明かりを掲げると、すこしずつすこしずつ、ゆっくりと、室内の様子があらわになる。
 虫の苦手な面々がごくりと唾をのみこみ、それを見守る。魔法の使える者は詠唱を始めている。
「う‥‥っ」
 まず最初に目に入ったのは、蟲だ。獲物を探してか、壁といい床といいそこらじゅうを這い回っている。たくさんの足を器用に動かしてなめらかに滑るように歩いているのがいっそう不気味だ。博士の言葉通り、サソリ、それに見たこともない色のムカデ、けばけばしい模様の蜘蛛、それに――。
「き‥‥気持ち悪い‥‥っ」
 思わず、といったようにエリックがつぶやいて、『それ』がぴくりと動いた。扉が開いて、空気の流れが変わったのを感づいたのかもしれない。毛羽立った黒い八本足。くびれた胴体、節くれだった足。
(「い、生きてる‥‥?」)
 あれだけ魔法を撃ち込んだのにそんな馬鹿なと、詠唱を続けながらユリアが口元をひきつらせる。
 見るからに毒々しい体つきの蜘蛛は、どう見積もっても体長一メートルは越えていた。
「はい、行くわよ!」
 ガブリエルの合図とともに、マリ、それにユリアの手元からムーンアローが飛び出した。大蜘蛛に命中し、光の矢といっしょに暗い色の体液がはじける。異変に気づいたらしいほかの蟲たちまで、進行方向をこちらに変えてきていた。ガブリエルがシャドウバインディングで一匹足止めする。
「リーニャ、まだだ!」
 短剣を抜いて飛び出そうとした女戦士を制し、少し遅れてアリスが呪文を完成させる。アイスブリザード。掲げた手から凄まじいまでの冷気が飛び出し、リーニャとガブリエルの間――扉の向こうで、猛烈な吹雪となって吹き荒れた。
 呪文の効果が収まるのは一瞬だ。リーニャが部屋に突入し、明かりのひとつを受け取って風露があとに続く。
「どうです、リ−ニャさん」
 揺れるランタンの明かりでは、うまく確認できない。魔法による吹雪は一瞬だったが、それでも室内の空気は靄のように霞んでいた。大蜘蛛のいたあたりに進む。リーニャが油断なく身構えているが、霜に覆われてすでに動かないようだ。
「さすがに耐え切れなかったようですね」
 ユリアのムーンアロー。続いて、冬の厳しい冷え込みで動きが鈍くなったところを、さらに魔法で追い討ちされたのだ。刀を下ろすと、まだ蜘蛛を眺めていたリーニャがぼそりと声を洩らした。
「‥‥食えると思う? これ」
 風露はややひるんだ。彼女なりの冗談かと思いたかったが、どうもそれも無理な解釈だ。
「や、やめておいたほうが‥‥毒があるという話ですし」
 そう、と闇の向こうで返ってきた返事は本気で残念そうだ。一体どう返事をしたものかと逡巡したそのとき、戸口のほうから悲鳴が聞こえてきた。
「いけない。まだ小物は残っていたのでした」
 すぐに刀を上げ、とって返す。
 寒さでかなり弱っていたこともあって虫たちの動きはにぶく、殲滅にそう時間はかからなかった。

●片付けましょう
「‥‥ああ、気持ち悪い依頼だった」
 ぶるりとエリックが身を震わせ、リーニャが不思議そうに首をかしげた。
「‥‥そう?」
「そうだよ! あの見たことない変な虫が、僕の足の上を‥‥!」
 思い出しただけで鳥肌が立ってきたと、エリックは何度も首を振る。誰も刺されなかっただけましだろうとは思うが、さすがに面と向かってそう言うのは皆控えていた。多かれ少なかれ、気味が悪いのは皆一緒である。黙々と、虫たちの死体を片付けている。
「うう‥‥素手で持つのだけは勘弁してください‥‥っ」
 ミリアはおそるおそるといった様子で箒を使い、ガブリエルはその横でさくさくと辺りに飛び散った虫の体液を拭き取っていた。奇妙な色に染まった雑巾を見て、これもあとで焼いちゃったほうがよさそうねえ、などと呟いている。
「ところで、どうする? あれ」
「あれって」
 マリの促す方向を見ると、そこにはひっくり返った大蜘蛛の死体がある。あれをどかさないことには片付けたことにはならないし、かといってあれだけ大きくてグロテスクなものだと触れるにはちょっと覚悟が要る。
「‥‥やっぱり燃やすしかないんじゃないか?」
 アリスが肩をすくめ、手を休めたリーニャが横を見る。
「‥‥やっぱり‥‥この虫、どこも、食えない? ユリア」
「毒虫料理はちょっと‥‥お腹壊しそうだし」
 そういえばリーニャは、ユリアのシチューをいたく気に入っていた。しかしさしものユリアも一メートルを越す大蜘蛛(しかも毒持ち)を料理することには、かなりためらいがある。残念そうにリーニャが肩を落とす。
「早く片付けてくれたまえよ。こう散らかっていては、次の研究に取り掛かれん」
 しぶしぶ手を動かす冒険者たちの中で、依頼人のアスター氏だけはわが道を行っていた。