【怪盗と花嫁】暗黒を往く狂気

■ショートシナリオ


担当:宮本圭

対応レベル:5〜9lv

難易度:やや難

成功報酬:3 G 95 C

参加人数:8人

サポート参加人数:-人

冒険期間:04月17日〜04月24日

リプレイ公開日:2005年04月25日

●オープニング

 膝をついてそこに手を触れる。壁の石の一部をはずすと、そこには黒々とした闇が口を開けていた。城のあちこちに何者かが出入りした痕跡が残されていたが、どうやらこの入り口は見つからずに済んだようだ。
「いまいましい冒険者どもめ」
 吐き捨てるように呟く。
 あと少しだった。いま一歩だった。地にはもっと怨嗟の声が溢れ、大気はもっと血臭にまみれるはずだった‥‥そのことは口惜しいが、だがまあよかろうと思い直した。一時的にであれパリを混乱に陥れることができ、おかげで彼は契約をさらに進めることができた。新たな力を手に入れたのだ。
 小娘を奪われたのは確かに少々痛手だが、それぐらいなら後からいくらでも巻き返しはきく。
「明かりを」
 先触れとして灯を持って先に闇の中に踏み込んだ騎士に鷹揚にうなずく。マント領の騎士団の紋章は白い山羊だったが、今彼を守るように取り囲む騎士たちの衣服には黒い山羊の紋が縫い付けられていた。黒、それはすなわち闇の色。どのような光をもを貪欲に吸い込み、喰らい、呑み込む色だ。
「聖遺物の力さえ手に入れれば、恐れるものなどない」
 怪盗などというわけのわからぬ輩に感づかれはしたが、先んじているのは未だこちらなのだ。
 入り口の仕掛けを動かすために外していた手袋を、はめ直そうとして笑みが深まった。
 てのひらを染める乾きかけた色。爪の間にはさまった赤黒い血。それを浴びた瞬間はまだ記憶に新しい。貴族のたしなみとして以前より剣術はもちろん学んでいたが、実際に刃が皮膚を裂き肉を割り骨を絶つ感触はなんという恍惚だったことだろう! 傷から噴き出した熱いほどの血飛沫は、今まで彼が味わったどのような葡萄酒よりも甘露であった。あれこそがこの世の真実であるのならば、今まで自分の知っていた世界とはなんとつまらぬ味気ないものであったことか。
「どうなさいました?」
 部下に問われて我に返りその顔を見返す。黒山羊の紋章をつけた騎士は怪訝そうにこちらを見ている。きっとこの男には、彼がたった今世界の秘密、知恵の深遠に触れたことなど永遠にわかるまい。だがこのような凡愚でさえ血を、肉をそなえているのだ。
 今や彼を魅了してやまないものを。
 彼はただ、騎士を哀れむような、いとおしむような目で見つめ笑んでうなずく。
 足元には彼自らが斬った、マント領から逃げようとした騎士の死体が無造作に転がっていた。
「いや。参ろう」
 そうして彼は地下への入り口、暗黒の遺跡の中へと踏み出す。
 暗黒はどのような光をも貪欲に吸い込み、喰らい、呑み込む色。
 彼の中に巣食い始めたものに、まだ誰も気づいてはいない。

 蝋燭の明かりに息をかけて吹き消すと、室内は一瞬で闇に包まれた。そっと音もなく鎧戸を押し開けて見上げれば、折しも風に流された分厚い雲が、中天の月を包み隠したところだった。もう実感でも暦の上でも冬とは到底呼べない季節だから、夜風も決して冷たいばかりではない。むしろ春めいた青臭い緑の香さえ運んでくる。
「いい夜ね」
「まったくです」
 独白めいて落とした言葉に、窓の外からいらえる声があった。
「お怪我をしたと聞いたけれど、もうすっかりよろしいようで安心しましたわ」
「そちらの冒険者に薬をいただいたものでね」
 声の主を探すような無粋はせず、杯を取り上げ軽く口を湿して、彼女は本題を切り出す。
「伯爵は逃げたそうね。あなたには行き先がわかっているのかしら」
「聖遺物のもとに違いありますまい。軍勢を破られた今、起死回生を計るにはおそらくそれしかない」
「悪あがきだわ」
「同感ですが、当人はそうは思っておらぬはず」
 先のシュヴァルツ城攻城戦において、冒険者たちは伯爵旗下の軍勢を打ち破り、無事花嫁は救出された。敗走したヴァン・カルロス伯爵は、わずかばかりの手勢とともにいずこかへ逃亡しており行方は杳として知れない。
 あれだけのデビルの軍勢を見せつけられ、遅まきながら王国騎士団も動き出し始めたという噂も洩れ聞こえてはいたが、強大な集団というのはその大きさゆえに迅速な行動が難しい。音に聞こえたブランシュ騎士団とて例外ではなかろう。そこまでにはおそらく数え切れないほどの手続き、審議、話し合いが必要になる。聖遺物の件は確かな情報とはいえないから、そうした手続きを飛ばして騎士団を動かす理由にはなりえないはずだ。
 だが今回に限っては、そんな悠長なことをしている場合ではない。
「伯爵はいったい、聖遺物をどうするつもりだというの‥‥」
「こんな言葉があります。『賢者の考えは、賢者と同じだけの知恵を持つ者にはおのずと知れるもの。だが愚者の考えは、当の愚者本人にとってさえ量るのは難しい』‥‥」
「要するにわからないということね?」
「散文的に言うならばそうです」
 マント領の地下に眠る遺跡。そしてそのどこかに存在するという『聖遺物』。伯爵はその在処を、その正体を知っているのか。聖遺物は一体どんなかたちをしていて、どんな力を秘めたものなのか‥‥なにもかもが不透明だが、だからといって何も手を打たずにいるわけにはいくまい。それは取り返しのつかない最悪の事態を招く可能性さえありうる。
 もうそろそろ、伯爵領に調査に向かった冒険者たちが戻ってくるころだ。遺跡への入り口や聖遺物の手がかりが、少しでも何かわかっていればいいのだが。
「追っ手を出すべきです。今回の件で『悪徳』を成し遂げた伯爵は、おそらく悪魔との契約をさらに深めたはず。放っておけば」
 わかりますな、と念を押す声に頷く。
「そのつもりで人を集めます。こんなふうに各方面へ恩を売れる機会はそうありませんもの。そちらはどうなさる気?」
「さて」
 闇の向こうで、わずかに口元がほころんだ気配を感じる。
「お手並みを拝見と行きたいところです」
「ここに来て傍観者に回るおつもりなの? それとも詮索はするなということかしら」
「冒険者諸君の手並みを拝見するということですよ‥‥マント領で」
 ‥‥風とともに気配が消え、冒険者ギルドマスター、フロランス・シュトルームは軽く息をついた。頭上の雲はいつのまにか過ぎ去って、あえかな月光が鎧戸から室内を照らしている。
「この騒ぎが収まったら、ギルドの警備も少し見直さなくてはね‥‥」
 もっとももし警備を強化したところで、先ほどまで窓の外に立っていた客人には無意味なことなのかもしれない。どんなに高い壁を立てたとしても、どれだけ堅牢な守りを敷いたとしても、夜風はその隙間のどこかから入り込んでくる‥‥そして、多分、怪盗ファンタスティック・マスカレードも。

●今回の参加者

 ea1807 レーヴェ・ツァーン(30歳・♂・ファイター・エルフ・ノルマン王国)
 ea2562 クロウ・ブラックフェザー(28歳・♂・レンジャー・人間・イギリス王国)
 ea3073 アルアルア・マイセン(33歳・♀・ナイト・人間・イギリス王国)
 ea3674 源真 霧矢(34歳・♂・ナイト・人間・ジャパン)
 ea4778 割波戸 黒兵衛(65歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 ea7363 荒巻 源内(43歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 ea7814 サトリィン・オーナス(43歳・♀・クレリック・人間・ビザンチン帝国)
 eb0828 ディグニス・ヘリオドール(36歳・♂・ナイト・人間・ビザンチン帝国)

●リプレイ本文

 すでに城下では騒ぎが始まっているようだ。城内に侵入するには、やはりホリィ・チャームが爆破した崩れた城壁からが一番簡単だろう。見張りがいれば強制排除も致し方ないという構えだったが、兵は幸い別働隊の冒険者が魔法で眠らせてくれた。
 起こさないよう注意しながら城内へと入り込む。その場を離れ庭を横切っている途中で、ずん、と腹の底に響く震動が地面を揺るがした。続いて同じ揺れが二度、三度‥‥あれは城門のほうだ。
「始まったようね」
 首から下げた十字架を握りしめ、サトリィン・オーナス(ea7814)が呟く。陽動の者たちが事を始めたのだろう。
「今ならば、城内の者たちの注意はあちらに向いているはず。今のうちに地下へ」
 アルアルア・マイセン(ea3073)の言葉に、クロウ・ブラックフェザー(ea2562)が頷く。
「怪盗のおっさんが捕まってた塔に、入り口があるって話だ。案内する」
 彼は一度、怪盗を救出するために城内へ潜入している。彼の先導で城門に向かう騎士たちを何度かやり過ごし、石造りの塔にたどり着いた。以前手こずらされたガーゴイルの像はなく、そっと様子を伺って扉を開けクロウはぎょっとする。
「血だ‥‥」
「そう古くないな」
 入ってすぐのところの壁に散る赤黒い染みを見つめて、レーヴェ・ツァーン(ea1807)が目を細めた。これだけ大量の血が壁に飛び散ったのであれば、相当の深手‥‥おそらく致命傷だ。
「ギルド関係の人間がやったのであれば、これだけの痕跡を放ってはおかんだろう。となれば」
 伯爵一派の仕業に相違あるまい‥‥レーヴェの言葉に、ディグニス・ヘリオドール(eb0828)が唾を飲み込んだ。血痕を軽く指先でなぞり、割波戸黒兵衛(ea4778)がふむと顎を撫でる。
「遺体は城内に残っとる奴が片付けたのじゃろうな。血の主が誰かまではわからんが‥‥冒険者ギルドの冒険者がヘマをして斬られたのならば、もっと騒ぎになっておっていいはずじゃ。ギルドを攻撃するいい口実になるからの」
「‥‥同士討ちか」
「然り。大方、離反する者でも出たのだろうよ。誰も彼もが盲目的に悪魔に従えるわけではなかろ」
 荒巻源内(ea7363)の覆面の奥からの鋭い眼光を、老境に差し掛かりつつある忍びは涼しげに受け流した。城門の騒ぎはまだ続いているのか、時折こちらにまで剣戟や気合の声が届いてくる。
 源真霧矢(ea3674)はクロウと一緒に、地下への隠し通路を探して壁や床を探っていた。
「霧矢、そっちは?」
「あかんなあ。クロウはんはどないや」
「あるとしたらこの辺に‥‥おっと!」
 クロウが手をかけると、敷き詰められた石の一部が大きく沈み込む。さらに周囲の石をずらすと、あっという間に人ひとりが入れるぐらいの穴ができあがった。穴の奥には、冷え冷えとした深い闇がこごっている。


●灯明
 まず明かりを点けたクロウが最初に降りて、それから全員が彼に続いた。陽光の届かない地下の空気には黴くさい匂いが混じり、足元ではかすかに冷気めいたものが漂っている。やはり明かり持ちを申し出たサトリィンが、こわごわ灯をめぐらせた。
「‥‥静かね。伯爵はもうどの位進んでいるのかしら」
「まずは、伯爵に追いつかなくては」
 彼を聖遺物の元へ辿りつかせてはならない‥‥ディグニスの言葉に皆頷く。次いでクロウが床に膝をついているのに気づき、アルアルアがその背に声をかけた。
「どうなさいました?」
「床に埃は積もってるのに、足跡がない」
 正確には足跡はあるが、どれも古いものばかりだという。冒険者たちは顔を見合わせ、霧矢が軽く舌打ちした。
「どこか他にある通路から入ったんやろな‥‥今から別の隠し通路を探しとる暇はあらへん」
「通路がいくつあるものか知らぬが、同じ遺跡に通じとるんじゃ。進みながら痕跡を探すしかあるまいの」

 城内からの隠し通路は皆そうなのか、それとも塔からの通路だけがそうなっているのか、ほとんど分かれ道はなかった。暗黒の向こうからは何の音も聞こえてはこない。もうずいぶん長いこと歩いているような気がして、サトリィンが声を潜めつつ呟いた。
「こう似たような道ばかり続くと、神経がすり減りそうだわ。いつどこから何が飛び出してくるかわからないし」
「少しずつ下のほうに降りている感じではありますが‥‥」
 溜息混じりのサトリィンの言葉に、ディグニスが油断なく前方を見据えながら言う。先ほどからしばらく、ずっと下り坂が続いているような気がしていた。一体どれだけ地下まで降りたのだろうと、レーヴェが前方にわだかまる闇を睨む。
「これが相当な規模の遺跡だということは、素人の俺でもわかる」
「建てるまでには、時間も手間も相当かかったやろな」
「地下深くにこんな遺跡を建てたのは、やっぱり聖遺物を祀ってのことなのでしょうか?」
 アルアルアの言葉に、クレリックであるサトリィンに視線が集中する。それを受けて考え込み、彼女は慎重に切り出した。
「ここにある聖遺物が何なのかはわからないけど‥‥位のあるデビルが伯爵に力を貸すってことは、生半可な品ではないのは確かだと思うの。それだけの品の存在が、どうして今までほとんど知られていなかったのかしら。ギルドの人たちも、怪盗からの情報でやっと聖遺物の存在を知ったわけでしょう? この遺跡は聖遺物を祀っているというより、まるで‥‥」
 まるで‥‥。
 的確な言葉を見つけられずふと口ごもったサトリィンの前で、クロウが急に立ち止まった。
「きゃ、な、何?」
「見ろよ」
 クロウの掲げる明かりの輪の中で、道がふたつに分かれている。普通ならここでどちらに進むか迷う場面だが、ここでは少し違っていた。クロウの指さす先、苔むした石の床の上に、まだ新しい足跡がある。それも複数、同じ方向へ‥‥それまで沈黙を守っていた源内が、冷たく冴えた目でそれを見下ろす。
「まだこちらに気づかれておらぬならば、好都合」
 忍びらしく闇に潜み、己に課せられた使命を果たすまで。

●暗黒を往く狂気
 追いついたのはいくつかの道が合流し、通り道が広々と通りやすくなったあたりだった。もっともそれは幅だけの話で、道の片側、切り立った崖の下では黒々とした水面が不気味に揺れている。地底湖だった。おそらく地上の城と隣り合う湖と、水脈か何かで繋がっているのだろう。
 伯爵たちと冒険者たちの間を遮るものはない。互いのランタンの明かりは、この場に自分たち以外の存在があることを教えていた。鞘を払う剣呑な音が耳に届き、レーヴェらも得物を構え、そして足音が近づいてきた。
 向こうの明かりが同じ場所にとどまったまま動かない。おそらくあれが伯爵で、騎士たちはある程度夜目が効くのだろう。にやりと笑って、黒兵衛と源内が印を構える。
「源内、おまえは伯爵殿の足止めを頼むぞい」
「心得た」
「向こうさんは暗殺が生業だそうじゃからの。ちィと驚かせてやるわい」
 飄々とした黒兵衛の軽口も最後までは聞かず、巻き起こった忍術の煙の中から源内が大きく跳躍した。
 鍛えあげた隠形の技は暗闇すらも大して苦にはしない。『疾走の術』に助けられた俊敏な動きで地を蹴り壁を蹴り天井を蹴って、向かってくる騎士たちを軽々とかわす。彼らが刃を振り下ろして斬ったと思ったのは源内の影、残像にすぎない。
 最後のひとりを飛び越えざま銀の短刀を抜き払う。
「マント領領主、ヴァン・カルロス」
 落下の勢いにのったまま小さな得物を構え目的の人物を双眸に捉える。
「お命、頂戴ッ!」
 ふたつの剣光が闇の中を交錯しぶつかり合う。

 源内には及ばぬものの伯爵らに少しでも迫るためにアルアルアや霧矢が走り、サトリィンが彼らにレジストデビルをかける。剣を構えたレーヴェが黒兵衛の前に立ち、その黒兵衛は忍術をついに発動させた。
 もうもうと舞い上がった煙の中から、巨大なガマ蛙の姿ががせり上がってくる。今にも天井に頭が届きそうな忍術の化身は、ぎょっとして一瞬立ち止まった黒山羊紋の騎士らをじろりと見下ろした。
 風を切ってふるわれた巨大な前肢が騎士のひとりを吹っ飛ばす。
「派手なことだな」
 苦笑めいた独白とともに、レーヴェも別の騎士の斬撃を受け止める‥‥が、柄が伝えてきた衝撃の軽さにはっと目を瞠った。初撃は囮だ。使い手はそのままぐんと踏み込んで距離を詰めてきた。剣の間合いから、格闘戦の間合いへ。
 墨の塗られた短剣が鮮やかに閃き、かわしきれずにレーヴェの肩に血花がはじける。
「レーヴェ!」
 援護しようとクロウが反射的に弓を引き絞るが、ああ接近していると狙いをつけるのが難しい。喉元を狙おうとする腕を咄嗟につかんで阻み、レーヴェはそのまま拮抗している相手と睨みあった。押されている。力の勝負では、エルフであるレーヴェはいささか不利だ。

 源内の一撃を剣で受け流したあとのカルロスの反応は素早かった。正式な剣術を学んだ者特有の流れるような剣筋が的確に源内の急所を狙い続け、源内はそれを短刀一本で受け流し続ける。貴族のお遊戯剣術と侮っていたわけではないが、ここまでの技量とは。
「ハハハ! どうした、最初の威勢のよさはッ」
 哄笑とともに振り上げた腕に、追いついてきた霧矢の鞭が鋭く伸びた。ぴしりと巻きついた鞭に腕の動きを制され、一瞬動きが鈍る。だがそれはほんの一瞬で、カルロスが腕を引くと、逆に力負けした霧矢のほうがたたらを踏んだ。
「と、とととッ」
 だが他の冒険者たちは、その一瞬の隙を見逃さない。
 仕掛ける前から手の中の品を握り締め念じて続けていたディグニスが、ヘキサグラム・タリスマンの力を解放する。護符の作り出した結界と反発して泡のような無数の光が激しくはじけ、身悶える伯爵の口からうめきが漏れた。アルアルアが弓を構える。
「この結界は人の身には何ら影響せぬもの。デビルと通じた上、魂までお捨てになりましたか、カルロス卿」
 結界の圧力に抗するようにぎこちなくカルロスの体が動く。その首筋めがけ源内が繰り出した一撃を、伯爵は素手で受け止めた。短刀にてのひらを貫かれながら、その顔には嗜虐と恍惚とが入り混じった不気味な表情が浮かんでいる。
 剣が跳ね上げられる。仕損じたことに舌打ちし、咄嗟に源内は得物を手放して飛び退った。それでも切っ先が浅く装束を裂き、鮮やかな血がカルロスの剣を汚す。まぶしげに滴る血を見つめ、カルロスは刃に顔を近づけて――。
 それがまたとない甘露であるかのように、陶然とした顔で刀身を舐めた。引き抜かれた源内の短剣がからんと落ち、溢れた自らの血をも伯爵はうっとりと味わう。血でべったり汚れた伯爵の面を睨んだまま、アルアルアは目を細めた。
「爵位を賜った身でありながら道を外すとは、なんたる不始末」
「生意気を言うものだなァ。肉の塊ごときが」
「今の貴方はどうです? 貴族が貴族たるのはその精神の貴さゆえ。あなたは貴族どころか人ですらありません」
「つまらぬことを」
 鞭では力不足を感じ、ライトニングソードを現出させた霧矢が斬りかかる。魔力の刃がカルロスの皮膚を裂き、その体表を雷光がなぶるように這っていく。さして痛みを感じていない顔でカルロスは霧矢を見て、ゆっくりとその言葉を口にした。
『味方を、殺せ』
 デビル魔法によって与えられた命令に、霧矢の体がびくりとふるえた。
 不可視の糸に操られた動きでゆっくりと振り返る。
「くっ」
 アルアルアの放った銀の矢が放たれた。矢尻は伯爵の脇腹を貫くが、霧矢の動きは止まらない。もっと撃つべきかそれとも武器を持ち替えて霧矢に応戦すべきか逡巡している間に、ディグニスが飛び出して霧矢の進路を阻んだ。
「今のうちに!」
 アルアルアは次の矢をつがえた。ディグニスは雷の剣を紙一重でかわし、防戦にまわりながら霧矢を足止めする。源内は地面に落ちた自らの得物を拾い上げながら伯爵の下へと駆けた。
 剣の重さを乗せた一撃を、源内は軽々とかわして跳ぶ。間合いを詰め懐にもぐりこめばそれは彼の得物がもっとも威力を発揮する間合いだ。相手が距離をとろうとするよりも早く刃を走らせる。
 アルアルアが解き放った矢がまっすぐに伯爵の肩口に突き立った。それと同時に源内の刃がその胸へと潜りこみ、ぱっと紅の色が闇に散る。暗い色の血を傷から溢れさせながら、伯爵はよろけた。後ろ向きに、後ずさるように二歩、三歩、その先は――。
 ぐらりと男の影が揺らぎ、消えた。
「しまった!」
 激しい水音。アルアルアが駆け寄って見下ろしても、崖下の地底湖に落ちた男の体は、ゆらゆらと揺れる水面の奥に沈んでもう見えなくなっている。デビル魔法が効力を失ったのか、霧矢がようやく我に返ったようだ。
 それを目にした騎士たちも動きを止めている。黒兵衛のガマに振り回され、レーヴェも苦戦しつつクロウの援護を受けながらなんとか戦って、いまや戦える騎士は半分近くに減っていた。頭である伯爵を失った以上、これ以上の戦いは無意味。
 だが――。

●悪しき種子
 地底湖の水面を叩くようにして黒い大きな影が走る。
 広がった翼がそのまま空中へと大きく舞い上がる。黒い鴉に似ていた。だが携えた剣と、その巨大な姿がその印象を裏切っている。クレリックであるサトリィンはそれがなんという名前か知っていた。
「‥‥アンドラス」
 その名前にはっとしたアルアルアが、クロウが弓を構え、それめがけて矢を放った。だが漆黒の体は闇に紛れて狙いにくく、矢はあさっての方向にむなしく飛んでいく。
「宴が始まる」
 地底湖の上を旋回し、ふわりと彼らの前に着地しながら、歌うように悪魔はそう告げた。
「宴?」
「聖櫃は人の手に渡った。それも又良かろう。わが契約者は人に敗れた。それも又良かろう。いずれもよき不和の種、さらなる欲の種子となる。種子はいずれ芽吹いて花開き、悪しき果実となって宴の彩りとなるであろう」
「何を言っている」
「いずれわかる。ここでお前達を皆殺しにするのも我には容易いが、それではつまらぬ」
 その言葉にこめられた威圧感に、一瞬誰もが動きを止めた。伯爵戦で消耗しきった今、これだけの大物と刃を交える余裕はもはや残っていない。
「逃げるがいい、セーラの子らよ。生きるがいい、タロンの子らよ。我らがそれを許してやろう。我らを憎みながら、呪いながら、少しずつ少しずつ死んでいくがいい‥‥」

 遺跡を出るための道を走りながら、サトリィンは思い出す。伯爵に追いつく前、考えていた疑問の答えを。
 ああ、そうだ。この遺跡はまるで、聖遺物を封じるために作られたようではないか‥‥と。