闇の見えざる手

■ショートシナリオ


担当:宮本圭

対応レベル:7〜11lv

難易度:やや難

成功報酬:4 G 14 C

参加人数:8人

サポート参加人数:2人

冒険期間:10月04日〜10月11日

リプレイ公開日:2005年10月11日

●オープニング

 来たか、と呟いた。
 闇が深い。常人の目ならば、おそらくまっすぐ歩くことさえままならぬだろう。だがこのちいさな匣の中は、長い長いあいだ俺にとって世界のすべてだった。今はもちろんそうではないが、今でも匣の中を知り尽くしていることに変わりはない。この匣に起こったどんなわずかな変化でも、俺が見逃すはずはない。
 いずれ来るだろうとは思っていた。おまえはそういう奴だ。一見やさしげに見えてもそれは見かけだけで、子供のように頑固で無知で、己を曲げることを知らない。目をそむけたくなるほどに。
 俺のこの胸の中を切り開いて、その裡にあるものを見せることができたなら、おまえはどんな顔をするだろう?
 早く来い。俺のところまで。



 重たい荷物を下ろしてごくりと唾を飲み込む。
 眼下にわだかまる闇は黒く濃く深く、じっと口を開けたままユベールを待っている。事前の調べによれば、この石造りの地下遺跡は堅牢に作られているらしい。地上の光など、内部には一筋さえ通さない。
 たとえば手練の冒険者ならば、きっとこの闇の中にもなんの躊躇もなく分け入っていけるのだろう。だがユベールはプロヴァンの小さな村からほとんど出ることなく育ち、長じてから神学を学んで、すこぶる若輩ながらも司祭となった。これまでの人生で、冒険を必要としたことなど一度もない。
 だがそれは、これまでは、の話だ。
 ‥‥兄さんは、ここで何を見たんだろう。
 冒険者であった兄のレオンは、数ヶ月前この遺跡に向かい、以来消息を絶った。遺跡はすでに一度調べつくされ、危険など考えられない依頼だったという。パリの冒険者ギルドに出向き、冒険者や係員に頼んで調べられるだけのことは調べてもらったが、確かなことは何もわからなかった。
 わかるのは、やはりこの遺跡の中で何かが起こったのだということだけだ。
 深呼吸してあらためて入り口を見下ろす。たったひとりの兄だった。親を亡くして以来、唯一の肉親といっていい。歳も離れていたし、十年も前に村を出て行ったきり直接会ったことは一度もないが、だからといって放ってなどおけない。
「‥‥よし」
 とはいえ、何が潜んでいるかもわからない地下へと足を踏み入れるのにはそれなりの後押しが要った。誰が聞いているわけでもないのだが、己を促す意味をこめて、よし、行こう、と呟く。
 土埃が積もった、ゆるやかな下りの石段に、慎重に足を踏み出し――。
 踏み出し――。
「そうだ、明かり」
 あわてて荷から買ったばかりのランタンを引っ張り出す。火打ち石で火を熾す作業は慣れないうえ、風が強いのでまた一苦労だった。やっと明かりを点せた頃には汗をかいていて、我ながら先が思いやられる。
 あらためて荷を背負い直して、明かりを掲げながら石段を降りていく。狭い。ユベールは人間の男性としては小柄なほうなので平気だが、たとえばジャイアントならば頭がつかえてしまいそうだ。道幅も決して広いとはいえない。兄は――兄はどうだったろうか? 十年の年を経て、彼はいまどんな男に成長し、どんな思いでこの階段を降りていったのか。
 ここで兄の身に何が起こったのか。
 確かめねばならない。最悪の事態が起こったのならば、受け止めなければならない。自分はそのために来たのだから。
 闇の向こうで何かが動く気配を感じた。心臓が跳ね上がり、そちらに灯を向ける。それと同時に、もろくなっていたらしい足元の石が崩れ、緊張のあまりおろそかになっていた足が、たやすく床を踏み外した。
「うわ‥‥!」
 咄嗟に手がつかまるものを探すが、そんなものはどこにもありはしない。
 元々、体を動かす仕事は不得手である。踏みとどまることなど到底できない相談だった。堅い石段を一番下まで転げ落ち、新品のランタンはその短い命を終え、ユベールは足をくじいた。

「‥‥大体素人がひとりで探索しようなんていうのが、間違いだと思うのよ」
「はあ。でも」
 神妙に頷いたユベールを見返して、受付嬢は片手を向けて彼の弁明を遮った。
「でももだってもなし。冒険者を雇いなさい! 足を傷めた程度ですんだからいいけど、今度は首の骨を折るかもしれないわ」
「痛そうですね」
「折ったら死ぬのよ!」
 幸いユベールには癒しの魔法の心得があるので、足の怪我は自力で治せたが、新品だったランタンは転げ落ちた拍子に火が消えてしまったらしい。手の届く範囲を探してみたが、とうとう見つからなかった。明かりもなく内部を歩き回るのはどう考えても不可能なので、ひとまずこうしてパリに戻り、兄のことを調べてくれた冒険者ギルドの受付嬢に顛末を話したのだが。
「ねえ、お兄さんのことが気になるのはわかるけど、ここは専門家に任せて待つことはできない? レオンさんが帰ってこなかったってことは、その遺跡になにか危険が潜んでる可能性は充分あるのよ。失礼だけど、あなたはどう見ても戦い向きじゃないし」
「お気遣いはありがたいのですが」
 ユベールは首を振る。
「最初私は、兄は悪魔に囚われているのだと思いました。そんなことを匂わせていたネルガルはあの後、冒険者によって討たれたと聞きます。でも兄は、未だに姿を現してはくれない‥‥姿を現せない事情があるとしたら、それはなんなのか。遺跡の奥で、兄の身に何が起こったのでしょう」
 受付嬢には答えようがない。
「冒険者を集めるのは、お任せします。私ひとりでは無理なのは、自分で実証してしまいましたし‥‥でも私はできれば、その方々に同行して、真実を確かめたい。いえ、できればではなくて‥‥その‥‥必ず」

●今回の参加者

 ea0858 滋藤 柾鷹(39歳・♂・侍・人間・ジャパン)
 ea1252 ガッポ・リカセーグ(49歳・♂・レンジャー・人間・イギリス王国)
 ea1671 ガブリエル・プリメーラ(27歳・♀・バード・エルフ・ロシア王国)
 ea2206 レオンスート・ヴィルジナ(34歳・♂・神聖騎士・人間・ノルマン王国)
 ea2562 クロウ・ブラックフェザー(28歳・♂・レンジャー・人間・イギリス王国)
 ea4813 遊士 璃陰(26歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 ea5180 シャルロッテ・ブルームハルト(33歳・♀・クレリック・人間・ノルマン王国)
 ea6337 ユリア・ミフィーラル(30歳・♀・バード・人間・ノルマン王国)

●サポート参加者

マリウス・ドゥースウィント(ea1681)/ フォルテシモ・テスタロッサ(ea1861

●リプレイ本文

「まさかユベールはん一人で遺跡に潜るなんて」
「え」
「せめて一言でも、わいに言うてくれたらええのに‥‥水くさいわ」
「え、ええとあの、ご迷惑かと思って‥‥それに兄のことは私の問題であって、璃陰さんたちには関係のないことですし」
「関係ない‥‥ユベールはん、わいのことそないに思うてたんや‥‥」
「いえ、だから」
 先ほどから隣でいじいじしている遊士璃陰(ea4813)に、ユベールが必死な顔で、そうではないんですと言い訳している。どちらとも付き合いが深くないためとりあえず静観していたがとうとう見かねて、彼らの前を歩いていたレオンスート・ヴィルジナ(ea2206)‥‥通称リョーカが振り返った。
「ちょっとお、さっきから聞いててめちゃくちゃ呆れるんだけど」
「そうだな。ユベール殿をあまり困らせるものではない」
 ちらりとそちらに目を向け、滋藤柾鷹(ea0858)も助け舟を出した。
「できる限り己の力で対処しようとする姿勢は立派だ。偶々今回はユベール殿のみの力では及ばなかったから、拙者らに助力を求めた。まあ怪我をされる前に求めることができれば最良であったが、そう責めるほどユベール殿に非があるとは思えぬ」
「責めるっていうか、頼りにされなかったからいじけてるんでしょ、要は。放っときなさいよ」
 ガブリエル・プリメーラ(ea1671)に手を引かれ、璃陰のほうを気にしながら、ユベールが女性陣の列に引っ張り込まれる。
「ああーっ、ユベールは〜ん」
 情けない声をあげる璃陰の肩を、慰めるようにガッポ・リカセーグ(ea1252)がぽんと叩いた。
 パリから目的の地下遺跡への道は、それほど遠くはない。移動時間を考えても日程にはやや余裕がある。旅慣れない依頼人を気遣うのと、調べもののために後から出発するというクロウ・ブラックフェザー(ea2562)が追いつくのを待つのとで、歩みはのんびりしたものになっていた。おのずと互いの口数も多くなるというもので、ユリア・ミフィーラル(ea6337)がガブリエルの肩越しに司祭に声をかける。
「ユベールさん、保存食は持ってきてるんだよね?」
「あ、はい。ギルドの方が必要なものを教えてくださったので‥‥前に行ったときも持って行きましたし」
「もしかして、そのまま食べてた?」
「え、そのままだと駄目なんですか?」
「駄目じゃないけど、何日も続けて食べることが多いから結構飽きちゃうんだよね。時間があるなら何か手を加えたほうが、味に変化があっていいと思うよ。今夜あたり教えてあげようか?」
「そうしてもらいなさいよ。ユリアは料理の本職だし。ねえ?」
 ガブリエルが水を向けると、シャルロッテ・ブルームハルト(ea5180)も控えめに頷く。
「覚えて損になるものではありませんから‥‥あの、ユリアさん、私も教えていただいていいですか」
 家事の心得があるためか、シャルロッテもユリアの話には興味があるのだろう。ユリアは笑って、もちろんと頷いた。

 見つかった書類は、報告書の束の中に挟まっていたそうだ。探すのにずいぶん難儀したらしいが、一年前の収穫祭の折に整理が行われる前は、パリギルドの書庫は今よりもずっと混沌とした状態だった。あの頃だっら、難儀どころの騒ぎではなかっただろう。何しろ見つかったのはたった一枚の羊皮紙のきれっぱしだ。
「考えてみりゃ依頼から誰も帰ってきてないんだから、報告書ができてるわけないもんな‥‥」
 溜息をついて、クロウが首を振る。ギルドの書類は基本的に持ち出し禁止だ。ギルドの薄暗い書庫の中、頼りない燭台の明かりで書面を読むことになる。目を細めて上から下まで眺め回したが、やがて小さく肩を落とした。
 過去の遺跡探索の依頼を引き受けた冒険者たちの署名の中に、東洋のものと思しき名は含まれていなかった。
(「‥‥あの覆面野郎は、一体何者なんだ?」)
 以前に一度だけ対峙した、あの幽鬼のような人影。身軽な身のこなしは『忍術』を思わせた。レオンと同行した仲間に忍者がいたのでは、と推測したようだが、忍術はジャパンの忍びのみが使えるものだから、その可能性はこれで消える。
 思い出されるのは、覆面からのぞく醜く焼けただれた顔。‥‥火傷?
 どうした? と声をかけられ、クロウははっと面を上げた。
「‥‥ん、なんでもねえ。手伝ってくれてありがとな、フォル姉」
「礼には及ばぬ。さっさと仲間を追うのじゃな」
 セブンリーグブーツがあるとはいえ、追いつくのは早いほうがいいに決まっている。

●匣
「ギルドでの資料によると」
 ガッポの手にした枯れ枝の先が、がりがりと土の上に線を引く。
「階段を降りてしばらく通路がまっすぐ続く。それから二股の分かれ道。右手に折れればすぐに部屋があり、左手には‥‥」
「罠がありました。先に訪れた冒険者の方々の手で、すでに解除されています」
 一瞬ガッポが言いよどんだのを察して、シャルロッテが口を挟む。ああ、そうだった、とガッポは頷いた。
 繰り返すが、ギルドの書面は基本的に持ち出し禁止である。ガッポもシャルロッテも、以前の資料を漁って遺跡についての記述を見つけ出してはいたが、そういった事情があったため、内部構造は頭の中にしかない。写しでも作ればよかったのだが、そのときは思いつかなかった。だからこうして、遺跡に下りる前に改めて内部について確認しあっているというわけである。
 明かりや武器の準備をしていたリョーカも、ガッポらが地面に描いている内部の地図を覗き込む。
「まあまあ広そうね」
「そうだな。古い資料だからどこまで当てになるかは分からんが、構造そのものはそう変わっていないと思う」
 この遺跡にはわかっているだけでも過去に二度、冒険者が立ち入っていた。まず、復興戦争から間もない頃に一度。そして、マント領の遺跡との関連性を調べるためにもう一度。ユベールの兄レオンがこの遺跡で消息を絶ったのは後者のときだ。そしてガッポたちの持つ内部の情報は、前者のときの報告書を参考にしている。
「中の通路は狭いのよね、確か」
「そうですね」
 リョーカに目を向けられたユベールが考え込む。
「たとえばの話ですが、ガッポさんとリョーカさんが横に並んで進むのは、ちょっと無理があるかと」
 リョーカは人間にしては大分大柄な体格だし、ガッポのほうはやや胴回りがたっぷりしている。引き合いに出されたふたりは肩をすくめると、では進む順番はそれを参考に決めよう、ということにした。
「四角いのね」
「え?」
 戸惑ってシャルロッテが見上げると、ガブリエルがほら、と地面を指差した。
「上から見るとほぼ真四角なんじゃないかしら、この遺跡」
 もちろん手書きだし、記憶を頼りに描かれたものだから多少のずれはあるだろう。だがガッポの描いた地図は、全体を見ると確かに正方形のかたちをして、その中央部だけがぽっかりと空白だ。ちょうど‥‥空の匣のように。
 数時間ほど前に追いついたばかりのクロウが、眉間に皺を刻みながら中心部を指す。
「ここが怪しいよな、露骨に」
 実際に中を見ないことにはなんとも言えないが、ここだけ何もないというのはいかにも不自然だ。
「マント領の遺跡みたいに、最深部に何かある‥‥いうことも考えられるしなあ」
 と璃陰。自らの描いた図面を見下ろしながら、ガッポが軽く鼻息を吐く。
「この手の地下迷宮というのは、それぞれ個性がある。何かの拍子でそれが変わってしまうこともある。だが、それが元からあった個性にしろ、変化によって与えられたものにしろ、そこには何かの理由、思惑があるはずだ」
 彼の持論らしい。
「さて、この遺跡は一体どういう思惑で、こんな姿をとっているのだと思う?」

●闇の見えざる手
 がつん。
「あいたっ」
 ランタンの作り出す明かりの中に、鈍い音とともにリョーカの悲鳴が短く響く。彼の上背と、下り階段の天井の高さを考えあわせれば、あまりにも予想通りの展開だった。心配するより先に、やっぱり、と誰もが思ってしまっても無理もない。
「天井がいささか低いようだ。頭上に気をつけたほうがよいな」
「そういう注意はもっと早く言ってちょうだいよっ」
 やはり同程度の身長の柾鷹は、背を丸めながらきざはしを降りている。頭を押さえながらリョーカが抗議すると、後ろのほうからおずおずとシャルロッテが、治しましょうかと申し出た。
「大丈夫よ、痛かったけど」
 多分こぶぐらいはできているだろうが、さすがにこの程度で魔力を消耗させては悪い。
 無事階段を降りきって平坦な通路に出る。ユリアがランタンを掲げると、道幅がやや広くなっていた。柾鷹やリョーカが、慎重に背を伸ばしてみた。天井もどうにか頭をぶつけない程度には高くなったようだ。
「ちょっと肌寒いみたいね」
「結構降りたもんね‥‥防寒具が必要なほどじゃないけど」
 腕をさすりながらガブリエルが言い、ユリアも明かりで周囲を照らし出しながら首を縮めた。
 何人かが持つ灯の輪の外で、闇が濃くわだかまって冒険者たちを待っていた。天然の洞窟とは違う証拠に、石造りの壁や床は表面がなめらかで凹凸も少ない。ところどころに彫り物のようなものも見受けられるがかなり風化しており、素人目ではそれが壁画なのか文字なのかさえ判然としなかった。
「とにかく進もか。ユベールはんはわいの後ろにいてな」
「あ‥‥はい。ありがとうございます、璃陰さん」
「じゃあ俺からはこれ、貸しておくわね」
 リョーカが渡したのはヘキサグラム・タリスマン。祈りを捧げることによって、デビルの活動を妨げる護符だ。
「見てるだけっていうのも辛いでしょ? いざというときはよろしくね」
 祈りに時間がかかるので、急な戦闘には使えないのがこの品の難点だが、そこまで説明しても仕方あるまい。
 誰が先頭を務めるかで少しもめたが、魔物の存在が否定できないこと、視力に優れていることも考え合わせて、一番前は柾鷹。次いで罠や仕掛けがあることを考慮してガッポ。後方支援組を守るために次が璃陰、その後ろにはユベールも含め、魔法を使うガブリエル、ユリア、シャルロッテが続く。さらに後方からの奇襲を警戒し、リョーカ、クロウが最後尾‥‥これを基本的な隊列ということにして、奥へと進むことになった。

「んー‥‥それにしても最近私、地下に潜ることが多いような」
 何気ないシャルロッテの呟きに、そうなの? とガブリエルが聞き返す。前を歩く璃陰が会話に割り込んできた。
「わいとシャルロッテはん、マント領から聖櫃を運び出すときも一緒やったんや。その節はおおきにな」
「へえ、そうだったんだ。どう? 何か気づいたこととかある?」
 興味をそそられたユリアが尋ねると、シャルロッテは周囲を見回しながら慎重に答える。
「そうですね、雰囲気は似ていると思います。専門家ではないので、詳しいことはわかりませんが‥‥」
「しっ。静かに」
 言葉を中途で遮り、ガッポの小さな制止の声とともに皆の歩みが止まる。
「‥‥なにか来る。少し下がろう」
 目の前には分かれ道がある。数歩後退してじっと息を詰めていると、闇の向こうから何かを引きずるような気配が伝わってきた。のろのろとすぐそこの角から姿を現したのは、白骨と腐肉の塊と成り果て、首のないズゥンビだった。
「‥‥ッ」
 ユベールが息を呑んだのをいち早く察して、ガブリエルと璃陰が二人がかりで彼の口を塞ぐ。ズゥンビはしばらくその場に茫洋と佇んでいたが、変化を感じなかったことに満足したのか、冒険者たちのすぐ目の前をゆっくり通り過ぎていった。腐ってもげかけた足を、重そうに引きずりながら。
 ‥‥気配が充分に遠ざかったのを確かめ、皆が大きく息をつく。
「ああ、びっくりした」
「首がない奴で助かったわね。でなかったらこの距離だもの、きっと気づかれてたわ」
 安堵の息を洩らしたガブリエルが、じたばたともがくユベールに気づき、口をふさいでいた手を慌てて外す。
「すみません。驚いてしまって‥‥」
「いいのよ、それが普通だもの」
「あのズゥンビはああやって‥‥ずっと彷徨い続けているのでしょうか?」
 ユベールが何を言わんとしているか察して、柾鷹が彼の方へと目を向けた。
「気持ちはお察しする。だが奥に何が潜んでいるかわからぬ今の時点では、避けられる戦いは避けたほうが賢明であろう」
 たかだか一体の相手に遅れは取らぬという自負はあるが、戦闘の気配を察して新手が現れないとも限らない。
「はい‥‥」
「あれがレオン殿と決まったわけでもない」
 ズゥンビの状態は比較的新しかった。つまり、あの死体がズゥンビ化したのはそう昔のことではないのだ。そうと決まったわけではないが、かといって絶対に違うとも言い切れない‥‥迷いを見せた青年に、クロウが言いにくそうに声をかける。
「あのさ。マント領の遺跡とここが関係ありそうだって話は聞いたよな?」
「‥‥‥‥」
「つまりここも同様に、悪魔と縁がある場所かもしれない」
「レオンはんがここで消えてもう‥‥何ヶ月もになるんやろ? もしも生きていたとして、それは」
 それは本当に、ユベールはんの知っとるお兄はんなんやろか。
 言葉を続けようとして、璃陰は目の前の司祭が体を固くするのに気づいた。その可能性に、ユベールがちっとも思い当たらなかったはずはない。いや多分、彼自身が一番恐れているのがそれなのだ。
「‥‥わかっています。どうすべきなのかは、わかっているのです」
 もしも兄が人ならぬものとなり果て、この世のすべてに仇なそうとするのならば。

●夜の奥へ
 ユリアのムーンアローが命中し、腐肉がはじける。異臭に顔をしかめながらリョーカが刀をふるうと、刀身はチーズのようにたやすくズゥンビを裂いた。体の損傷が限界に達したのか、屍は糸が切れたようにその場にくず折れ、ユリアは大きく息をついた。
「ふう。これで全部?」
「こちらも片付き申した」
 汚れた小太刀の刀身をぼろ布で拭い、柾鷹が応じる。レイピアを下ろし室内に累々と転がるズゥンビたちを眺めながら、璃陰がうんざりしたように面を上げ髪をかき上げた。
「今のところ、発見といえばズゥンビばっかりやね‥‥」
 ズゥンビは動きは鈍いが、しぶといのが厄介だ。汗で濡れた体を、埃っぽい地下の空気がゆっくり冷やしていく。
 遺跡に入ってから、それなりの時間が経過していた。罠や魔物を警戒しながら進んでいるため、広さのわりに歩みはゆっくりだった。すでに何度かランタンの油を換えている。そろそろ地上は暗くなり始めているだろう。
 戦闘ではあまり役に立たないと公言していたガッポが、屍を見下ろして屈みこんだ。
「服の切れ端が残ってるな。僧服‥‥か?」
「たぶん、そのレオンさんたちが護衛してた学者さんじゃないかしら」
 レオンは戦士だったという話だ。この死体とは服装も体格も一致しない。だが最初に見た首のないズゥンビ同様、死体となった時期はおそらくそう昔ではないだろう‥‥ガブリエルの指摘に、その可能性が高いな、とガッポも首肯する。
 一方のクロウは、
「この部屋は確か、中央部分に面してるんだよな?」
「そのはずです」
 空箱のような図面を思い起こしながら、シャルロッテが頷いた。
 ズゥンビたちの存在を除けば、これまではほぼ地図通りに進んでいた。罠といえるほどの罠もない。何かがあるとすれば図面の中央部、あの空白になった箇所だろうとクロウは考えていた。スクロールを取り出し、そこへ念をこめる。
「‥‥思ったとおりだな」
「なに?」
「この壁の向こう、空洞になってやがる。暗いから、部屋かどうかまでは分からねえけど‥‥」
 エックスレイビジョンの効果は透視だけなので、壁の向こうが暗闇だった場合は、そこに何があるかまでは見通せない。だがそれだけ分かれば充分だと、ガッポが立ち上がって周囲を探り始めた。
「どこかに、その壁の向こうに行くための仕掛けがあるはずだ。クロウも遊士も探してくれ」
 罠があるかもしれないので、そういったものの扱いを心得ているその二人に指示が飛んだようだ。しばらくしてガッポの手が、石組みの壁の一部に触れる。思い切って押すと、壁を構成する四角い石のひとつが、そのまま奥のほうへと沈み込んでいった。
 慎重に中を覗き込む。仕掛け矢が飛び出してきたりする様子はない。
「すまん。明かりを貸してくれ」
 仕掛けに取り組んでいるガッポに代わって、ガブリエルが明かりをかざした。組み石をずらしたことで現れた部分に、何かの模様が彫られているのが見えた。ガッポの得物の柄を差し入れ、軽くこつんと叩いてみる。
 かちりと、何かの仕掛けが作動する小さな音。先ほどの壁が、見えない手に操られるようにして構造を変えていく。
 数分後、壁にぽっかりと空いた穴が、冒険者たちの前に姿を見せていた。
「いよいよね」
 各々の装備を改めて確認し、念のためにランタンの明かりもいったん補充した。遺跡に入ってから何も口にしていないのに気づいて、各々が保存食を準備する。とはいえズゥンビたちの屍から発する匂いは、食事にはあまりにも不向きなので、ひとつ手前の小部屋まで後退することにした。
 遺跡内部で火を使うのはまずそうなのでユリアはだいぶ苦心したようだが、大事な場面の前に味気ない食事をさせては料理人の名折れ。全員の保存食の中身をあらためた上で、固焼きパンを薄く切り、刻んだ塩漬け肉やチーズ、香りづけのドライハーブ類などをはさんで食べることになった。
「さて、行きましょうか」
「うむ」
 リョーカが促すと、先頭の柾鷹が頷く。
 腹ごしらえを終えた冒険者たちは、夜のように暗い遺跡の最奥へと踏み出し、姿を闇に溶かしていく。

●匣の中身
 今までよりも、足音が高く長く響くことに気づいた。
 天井が高いのだ。頭上に明かりを掲げても、あるのは空間ばかりで何も見えない。地上近くまで吹き抜けになっているのかもしれない。それに広かった。今まで狭い通路や部屋に飽き飽きしていたせいもあって、足を踏み入れた部屋はよけいに広大に思える。室内の中心には、何か四角く大きなものが横たわっているようだ。似たような光景に、シャルロッテは見覚えがあった。
「まさか、聖櫃?」
「ちがう。それは祭壇だ」
 奥から聞こえてきた低い声にぎょっとする。反射的に一歩退いたガブリエルの足が、ぱきりと固い何かを踏み砕いた。なんだろうと見下ろすと、それは明らかに人の骨だった。
「‥‥っ」
「よく来た。この閉ざされた暗い匣の中へ」
 姿を現したのは、外套に身を包んだ背の高い人影だ。目深にかぶっていたフードをはずすと、そこには顔の下半分を布で隠した顔がある。長い前髪と暗い色の覆面の間、わずかにのぞいた目元には、ひきつれた火傷が覆っていた。
 明かりに照らされてわずかに光る目は、ユベールとよく似た色をしていた。
「‥‥何のつもりだよ。レオンさん?」
 クロウの言葉に、ようやく察したかと男が笑ったように見えた。
「レオン? 兄さん?」
「ちょい待ち! 気持ちはわかるけど、ちょっと考えて」
 踏み出そうとしたユベールをガブリエルが引きとめ、柾鷹が彼らの間に割って入る。
「ガブリエル殿の言う通りだ。この男からは尋常ではない殺気を感じる‥‥迂闊に近づけば死を招く」
「せや。‥‥あんたもそれ以上近づかんとき」
 銀の短刀を抜いて璃陰が構えると、男はこつりと足を止めた。忍び笑うような気配が、闇を伝わってくる。
「離れてさえいれば安全というのは、大きな間違いだ」
 男が弟に向かって腕を伸ばす。
 不安定に揺れ動くランタンの光の中で、ユベールの姿がぐらりと揺らいだ。突然立ち現れた黒い靄に押し包まれて、膝が体を支えきれずに固い石の床に倒れこむ。驚いて皆がそちらを見た。
「ユベールはんっ」
 あわてて支えようとした璃陰が、服ごしに触れた体がひどく冷たいのに気づく。まさか死んだのかと一瞬息を詰めたが、呼吸の証として肩が弱々しく上下していて、すぐに安堵した。だがユベールの面は驚くほど蒼白だ。
「どないしたんッ、ユベールはん、しっかり」
「璃陰さ‥‥さ、むい」
 揺さぶった体が小刻みに震えている。意識が朦朧としているのか、目の焦点が合っていなかった。リョーカと柾鷹が、それぞれ得物に手をかけながら勢いよく振り返る。男はゆっくりと握り拳を差し出し、開いた。
 そこにあるのは、白い珠。
「思った通りだ。なんとすばらしい魂‥‥」
「貴様、何をしたッ」
 柾鷹の刀の鯉口が切られ、白光が鋭く一閃した。だが威力も速さも申し分なかったはずのその一撃は、鋭い金属音とともに遮られる。刀身が肉厚の短剣の鍔で止められたのを認めて、柾鷹は目を瞠った。いつの間に抜いた?
「ユベールはんのこと、頼むわ」
「待ってください。その前に」
 身を翻そうとした璃陰を制止して、シャルロッテが彼にレジストデビルをかけた。ぐったりと動かないユベールの身柄をユリアに預けると、加護の力を受けた璃陰も反転、男へと向かう。
 確かに腕を切り裂くと見えたリョーカの斬撃が、奇妙な手ごたえとともにはじかれる。
「刀が効かない!」
 彼の唯一の銀の武器であるシルバーナイフは‥‥先ほど戦闘に備えて、床へ降ろしたバックパックの中だ。取り出している時間はない。躊躇が隙となったのか、下から鋭く跳ね上がってきた刃が、胸の筋肉へともぐりこみそのまままっすぐ鎖骨近くまでを切り裂いた。どっと溢れた鮮血が床を濡らして、リョーカは思わず膝をつく。
 普通の攻撃が通じないと知った柾鷹はオーラパワーに集中し、シャルロッテはリョーカの治療のために走る。その脇を、シルバーダガーを手にした璃陰が飛び出した。
 身軽に跳躍して打ち下ろした一撃を、レオンと呼ばれた男は軽々と受けた。火花が白く散る。
「よくも、ユベールはんをっ」
「知っているぞ」
 覆面の奥に潜むまなざしが暗く笑う。続いて返ってきた一撃は強烈で、あやうく得物を取り落とすところだった。少しでも気を抜けば、致命傷を負わせられかねない。
「お前はあれによこしまな想いを抱いているだろう。俺の弟に」
「‥‥!?」
「どうせあれは気づいていまい。大方何も知らずに、お前を友だと思っているのだろう? お前はその好意に甘え、誤解されていることを承知の上で傍にいるのではないか。意識的であれ無意識であれ、その行いはあれの信頼に対する裏切りではないかな?」
 ――璃陰さん、ありがとうございます。気をつけてくださいね、璃陰さん。
「告げられぬならば、俺が代わりに伝えてやろうか。ははッ、敬虔なるわが弟は、そのときお前に一体どんな顔を向けると思う? なんなら賭けてもいいぞ。傷ついて怯えた顔か、それとも汚らわしいという目で拒絶するか」
「黙りや!」
 怒気まじりの気迫が、心を暴こうとする言の葉を遮った。はっとして、ユリアが高速詠唱によるコンフュージョンを発動させる。男の短剣が、隙のできていた璃陰の首筋から、軌道を逸らして虚空を裂いた。
 追いついてきた柾鷹の攻撃が、レオンの胴を狙う。大刀ははじかれたが、続く小太刀はまっすぐにその胸に突きたてられた。突きの衝撃で、覆面の男は二、三歩、後ろへとたたらを踏んだ。血は流れない。
「一体、ここで何があったのか」
 ガブリエルが立ち上がる。呪文を唱え始める。
「見せてもらうわよ」

 暗い中で響く悲鳴。
 それは今ガブリエルがいるのと同じ部屋だ。血臭に満ちる中でレオンは立っている。彼の仲間たちも護衛対象である学者らも、全員絶命している。ユベールとはあまり似ていないが、レオンは精悍な顔立ちの青年だった。唯一の得物である短剣を構え、まっすぐ前を見て‥‥前?
 ということは彼の視線の先には、誰かがいるのだ。そこに満ちている暗闇よりも黒く、大きく、そして‥‥。
「‥‥気に入った」
 『何か』は確かにそう言った。リシーブメモリーが見せてくれたのはそれだけだった。

「今のところ、この場でことを構える気はない」
 レオンの言葉に、ガブリエルははっと我に返る。魔法による記憶に没入していたのは、ほんの一瞬の間のことだったようだ。読み取られたことに対して、男はなんの感想も抱いていないように見える。
「お前たちはこの魂を、ここまで運んできてくれたのだから。おかげで俺は、ここで座して待つだけでよかった。そこのお人よしが兄を探しに来るのはわかっていたが、善良な者はその善良さゆえに脆弱だ。誰かが守らねば、愚かな死者どもにさえ敵わない」
「ユベール殿はまんまと、貴様の罠にかかったわけか‥‥」
 兄を慕う弟の心を利用して、卑劣な手を使う‥‥柾鷹が顔を歪める。目を走らせると、ユベールはぐったりと動かない。息はあるようだが、ひどく衰弱している。デビル魔法によって、魂の一部を奪われたためだ。その魂の欠片は今、レオンの手の中にある。
 もし下手なことをして、あの白い珠が傷つきでもしたらどうなるか‥‥この場にいる冒険者らの誰も、それを知らなかった。
「とはいえ、わざわざここまでおびき寄せたのには、他にも理由がある」
「理由?」
 怪訝そうにクロウが聞き返すと、男が珠を軽く掲げ、何事かを唱えた。

 異変はすぐに起こった。
 床が揺れている。まるで地の奥底で、巨大な怪物が呼吸を始めたようだった。血のように赤い光の筋が足元に現れたかと思うと、蛇のように素早く、縦横無尽に走り始める。だがそれは蛇のような不規則な形をしていない。ある場所は直線、またある場所は正円と、光は明らかに何らかの規則性を備えた図形を描こうとしているのだ。まるで、まるで‥‥。
 ――それが何か判じられる前に、光が消えた。床の震動も突然治まった。始まったときと同じくらい、唐突な終わり方だった。
「やはり、まだ使えるな‥‥。だがこれだけでは足りないか」
 男は呟きながら、冒険者たちのほうを振り返った。まだ胸に柾鷹の小太刀が刺さったままなのに気づき、無造作な手つきで引き抜いて投げ捨てる。金属が石床に弾かれる澄んだ音が響いても、傷口からは血の一滴さえ流れはしなかった。
 こいつ、人じゃない‥‥ユリアが緊張した呟きを洩らすが、レオンはそれに頓着せず独白を続ける。
「まだ必要なものがあるのか、それとも贄そのものを捧げねば駄目なのか」
 訝ったガッポが試しに床を蹴ってみるが、何も起こらない。足元は先ほどの変化が嘘のように沈黙している。まっすぐにレイピアを向けたのクロウの切っ先が、ひどく震えて揺らいだ。この圧迫感は、なんだ?
 ――レオンはただそこに隙だらけで佇んでいる。
「確かめてみてもいい‥‥が、殺してなお起動できなかったら、代わりを探すのが面倒だ」
「さっきから‥‥何を言ってるんだ、てめえ」
 クロウの問いに、男は覆面の下で唇を歪めたらしい。
「世界には破滅と絶望の種が植えつけられている。この匣はいわば、その苗床のひとつ。『破滅の魔法陣』は眠ってはいるが、まだ生きている」
「破滅の‥‥?」
「儀式に必要なものを、揃えねばならない」
 それまで贄は預けておこう。どうせ短い命だ。
 レオンはそのままゆっくりと踵を返す。明かりの届かない闇の向こうへと消えつつある。
「待てよっ、その珠を‥‥贄ってまさか!」
「クロウっ」
 いきり立って追おうとしたクロウの足を、ガブリエルの鋭い叱咤の声が呼び止めた。
「ユベールさん、息をしてないわ!」
 ひどく衰弱した体には、地下の埃じみた空気さえ毒なのだ。早く処置しなければ手遅れになる。彼のせいではないのに舌打ちせずにはいられず、クロウは短く己に毒づいた。ここで二手に分かれて追ったとして、勝てる相手とは思えない。

 皆の必死の手当てでなんとか息を吹き返したユベールを、皆で担ぎ上げるようにして地上へと連れ出した。久々に目にする空はもう夜更けで、月明かりの中で司祭の顔はいっそう青白く見えた。
 可能な限り早くパリに戻ろうとしている間も、ユベールは何度も呼吸が止まりかけ、そのたびに大きく咳き込んだ。シャルロッテのリカバーもほとんど効果はない。最初はリョーカが背に負っていたが、その体勢すらも弱っている彼には負担のようで、途中からは柾鷹と璃陰が交代で、赤子のように抱いていくことになった。
 ガブリエルはじっと唇をかみしめたままときどき彼の手を握ってやり、ユリアやガッポは何度もレオンの言ったことを反芻して、そこから裏の意味を読み取ろうとしていた。
 パリの教会に運び込むと、手当てのために出てきた司祭はできる限りのことをすると約束してくれた。何かあれば冒険者ギルドに報せを送るとも‥‥冒険者たちはその言葉を信じて、パリギルドへと戻ることになる。いずれにしろ、ギルドにことの次第を報告しなければならないのだ。
 開いた匣のふちから這い上がってきた、新たな破滅の予兆について。