彼と彼女と或る冬の休日

■ショートシナリオ


担当:宮本圭

対応レベル:フリーlv

難易度:易しい

成功報酬:4

参加人数:8人

サポート参加人数:2人

冒険期間:11月25日〜11月28日

リプレイ公開日:2005年12月07日

●オープニング

 暦は十一月も半ばを過ぎて、秋という季節も終わりを告げつつあった。朝夕の冷え込みはここのところ日に日に厳しくなってきているし、日中でも外出には外套がなければ冷たい風がこたえる。冬が近いのだ。
 そして今ここに、冬が身に染みている二人組がいる。
「‥‥まただわ」
「また、とは」
 着ぶくれた人々が行きかう人波の中で受付嬢が呟くと、それを受けて隣を歩いていた記録係が、一応、という感じで尋ねる。
「‥‥また素敵な男性との出会いがないまま、今年が無為に過ぎようとしているのよっ」
「確かにあと一ヵ月半ほどだが」
 やはり、といった風情で首を振る記録係は、その手の科白はもういい加減聞き飽きているので返答もおざなりだ。
 彼らは例によって、職場の休憩時間を利用して食事をとりに行くところである。ここまではいつもどおりなのだが、目当ての店に向かう雑踏の中で、受付嬢が誰か見覚えのある者を見かけた。以前話したことのある冒険者だというので声をかけようとしたのだが、その直前その冒険者がひとりではないことに気づいたのだ。
 見るからに仲睦まじげな冒険者の二人組は、そこはかとなく親密な空気を醸しながら、人ごみの中に消えていった。
「あれはどう見ても恋人同士よね」
「お前、まさかまたふられたのか」
「‥‥そうよっ。悪かったわねどうせ『また』よ! なんでわかるのよっ」
「お前が唐突に恋だの愛だの持ち出すのはふられたからに決まってる。くだらん想像をしてないでさっさと行くぞ。その冒険者が誰かは知らんが、幸せなようで何よりじゃないか。不幸であるよりはずっといい」
 ここのところは日中でも冷え込むことが多く、息を吐き出すと白い靄が現れては消える。見透かされて顔を赤くして黙った受付嬢の顔を男はしばらくじっと眺めていたが、やがて手を伸ばしその腕を引いて歩き出した。
「まあ、これから冬だしな」
「言いたくないけどそっちの言動だって充分唐突よっ」
 つんのめりそうになりながら受付嬢がのたまうと、そうか? と記録係は首をひねった。
「寒いから寄り添いたくなる。ごく自然なことだろう」
「‥‥‥‥」
 実利主義者らしからぬ同僚の言葉に黙りこみ、それから受付嬢は先を歩く背中に目を向ける。
「そういえば、そっちはどうなのよ? その手の話全然聞かないんだけど、誰かいい相手がいるわけ?」
「‥‥今教えてやろうかと思っていたが、やはりやめた」
「えええ? 何なのよーそれ、信じられない!」
「お前にだけは教えない。知りたかったら自力で気づけ」
 気がついてみれば、服ごしに接触したてのひらと腕が温かい。そんなわけで冬は、寄り添う季節。

●今回の参加者

 ea1641 ラテリカ・ラートベル(16歳・♀・バード・エルフ・ノルマン王国)
 ea3869 シェアト・レフロージュ(24歳・♀・バード・エルフ・ノルマン王国)
 ea5283 カンター・フスク(25歳・♂・ファイター・エルフ・ロシア王国)
 ea6707 聯 柳雅(25歳・♀・武道家・人間・華仙教大国)
 ea7191 エグゼ・クエーサー(36歳・♂・ファイター・人間・フランク王国)
 ea8898 ラファエル・クアルト(30歳・♂・レンジャー・ハーフエルフ・フランク王国)
 eb3503 ネフィリム・フィルス(35歳・♀・神聖騎士・ジャイアント・イギリス王国)
 eb3530 カルル・ゲラー(23歳・♂・神聖騎士・パラ・フランク王国)

●サポート参加者

アンジェット・デリカ(ea1763)/ フィーネ・オレアリス(eb3529

●リプレイ本文

 先ほど受付嬢がが偶然見かけた一組の男女というのは、エグゼ・クエーサー(ea7191)と聯柳雅(ea6707)のふたりだったのかもしれない。そうだとすれば恋人同士という彼女の予想は、半分当たりで半分外れだ。
 確かに彼らはついこの間までは恋仲だったし、今でもそのころと変わらずたいへん仲がいい。だが二人はつい先日、ようやく将来を誓い合い結ばれたのである。つまり夫婦だ。
 とはいえ実際には、冒険者稼業に生業にとお互いなかなか忙しい身。商売繁盛はもちろん大いに結構なことだが、せっかく結婚したことだし、たまには二人きりでゆっくりした時間を過ごしたいと思うのも事実だった。
 折しも季節はもう冬のはじめ、寒さが本格的になり雪が降るようになれば、そうそう気軽に遠出をするわけにもいかない。そうなる前に一度一緒にどこかへ出かけてみようということで、この日のふたりはちょっとした小旅行への出発前だったのだ。
「新婚旅行っていうほどのものじゃないけどな」
 目的地と見定めたのはプロヴァン領。ワインの産地である。料理人をなりわいとするエグゼが一度本場のワインを仕入れてみたいと言い出し、柳雅もそれに賛成した。三日間と定めた休みの日程上少々強行軍となるが、馬もあることだしなんとかなるだろう。
「食料よし、武器よし、毛布よし‥‥と。エグゼ殿、そちらの準備はよいか?」
 往復でもわずか三日の道程とはいえ、準備を怠るべきではない。バックパックと馬に積んだ荷の指差し確認をしながら、柳雅はエグゼに呼びかけた。返事がないのに気づいて、あらためてそちらのほうを省みる。
「エグゼ殿?」
 よもや出発前に具合でも悪くなったのかとにわかに心配になるのは、彼女の普段の生業のせいか。名を呼ばわれて、エグゼははっとしたように、柳雅の馬の鞍に落としていた視線を上げた。
「エグゼ殿、腹でも痛いのか? それならば無理をせずに‥‥」
「や、なんでもないなんでもない。こっちも準備万端、いつでも出発できるぜ」
「そうか? それならよいのだが」
 私は仕事柄慣れているから、具合が悪いなら遠慮などせず教えてほしい、と柳雅は言って、少し目を逸らして付け加えた。
「今日はだいぶ冷えるし‥‥必要ならば、寄り添えば暖め合うこともできる、と、思う」
 らしくなく頬を染めた彼女のことが、エグゼの目には大層愛らしく映ったらしい。
 可愛いと思う感情は衝動を生む。その衝動の命ずるまま、いまや妻となった娘を引き寄せる。え、という相手の声に拒否の色はなく、青年の腕は柳雅の体をすっぽりと包み込んでいた。頭ひとつ以上低いところにある、銀髪の小さな頭をかいぐり回す。
「ああもう、かわいーなー柳雅はっ」
「え、エグゼ殿‥‥本当に具合が悪いわけではないのだな?」
 何もこんな往来でと柳雅はますます顔を赤くしたが、腕の中から抜け出すよりそのことを確かめるほうが優先らしい。見上げて問うと、エグゼはてらいのない明るい笑顔を見せた。
「おう、健康そのものだって。なんたって、本職の看護人さんが毎日看てくれてるもんな!」
 せっかく結婚したというのに柳雅は未だに『エグゼ殿』という固い呼び方だが、そんなところも彼女らしくて可愛いよなあ‥‥などとぼんやりのぼせ上がっていたことは、目の前の心配顔を見ると、なんとなく言うに言えないエグゼである。
「さあ、出発出発! ゆっくり店を見て回りたいし、今日じゅうに向こうに着かなくちゃな」
 ともあれ支度を終えた彼らは、急いでパリを発って行ったようだ。

 ――しかし受付嬢が見かけたのは、本当にエグゼ達だったのだろうか?
 いくら馬とはいえ、徒歩で二、三日かかるプロヴァンに一日で着くには、朝早めにパリを出立しなければならない。ギルド員たちは昼食をとるために出かけていたところだったのだから、出発前の彼らを目にするには時間として少々遅すぎる。だとすれば、件の男女は果たして誰だったのか。
 そう、たとえばそれは、ネフィリム・フィルス(eb3503)とカルル・ゲラー(eb3530)であった可能性もある。寸法にして実に八十センチ近くも身長差がある、小さな彼と大きな彼女は、その日はコンコルド城のよく見える広場で待ち合わせをしていた。
 ‥‥正確に言うならば、カルルがなかなか相手を見つけられずおろおろしていたのを、ネフィリムが発見したのだが。
「カルル! 元気だったかい?」
 言うなり女性ながらもがっしりとした腕が、カルルの体を軽々掬い上げた。カルルとてパラとしてはなかなか逞しい体つきなのだが、ジャイアントのネフィリムの膂力にかかっては羽根のようなもの。迷子のような気分で半泣きだったカルルを、そのまま胸の中にぎゅうと抱きしめる。
「お‥‥おねーちゃん、苦しい〜」
「おや、ごめんよ」
 少年が自分の豊かな胸の間で息を詰まらせかけているのに気づいたネフィリムは、ようやく身を離して下に降ろしてやる。
「久しぶりでつい嬉しくてさ。ほら、顔拭きなって、こうして無事会えたんだから」
「う‥‥うん」
 今涙が出ているのは安堵のためなのだが、無造作な手つきで頬を拭ってくれる感触が思いのほか心地よくて、カルルはされるがままになっている。思わず笑みをこぼしながら、ネフィリムは軽くその頭を撫でてやった。
「思い出すね‥‥はじめて会ったときも、あんた、ケンブリッジの街で迷子になってたじゃないか」
「えへへ。そうだったねぇ」
「今日は迷わないように、ちゃんとあたしについてくるんだよ」
 うん、とカルルは、嬉しげに首を縦に振った。
 本日の彼らの目的はパリ観光。ふたりが出会ったというイギリスとはまた違う趣ではあるものの、ここパリは大きな都会だ。物見遊山の種には事欠かない。大道芸人、市場の出店や屋台‥‥隅々まで楽しもうと思えば、一日二日では到底足りない。
「ネフィリムおねーちゃん、どこか面白い所知ってる?」
「うーん‥‥そういわれても、あたしもまだパリに来て日が浅いしね。とりあえずそろそろ昼飯時だし、一緒にそのへんを見て回りながら、軽く腹ごしらえしようじゃないか」
 ほら、と差し出されたネフィリムの大きな掌を、カルルは迷わずに取った。そうして手を握り合ったふたりは、まずは食事のできる場所を探して雑多な人ごみの中に消えて行く。

 考えてみればわかることだが、ネフィリムはジャイアント、カルルはパラ。身長差もずいぶんあるし、そもそも種族が違う。
 もしも受付嬢が目撃した男女が彼らだとしても、普通はあまり彼らが『恋人同士』であるという判断は下さないだろう。もしかすると本人たちにとっては不本意かもしれないが、常識で考えるならばふたりの見た目は友人、保護者と被保護者、あるいは仲間。八十センチの違いは、この場合大きな壁となる。
 ちょうど同じ時間帯に、ラファエル・クアルト(ea8898)とシェアト・レフロージュ(ea3869)も待ち合わせをして、パリの街を見て回っていた。彼らは早朝発たねばならぬほどの遠出の予定もなく、シェアトはエルフ、ラファエルはハーフエルフと、お互い種族上の外見はかなり近い。受付嬢が見たのがこのふたりだったというのは、充分にありえる話だ。
 そして彼らは現在、シャンゼリゼの片隅で休憩中である。
「意外と探してみるとないもんねえ」
「ええと‥‥すみません」
 思わず反射的に謝ったシェアトに、ラファエルは苦笑いする。
「シェアトちゃんが謝ることないじゃない」
「でも、せっかくお付き合いしていただいたのに、結局収穫なしでしたし」
 彼らは以前にも一緒に買い物に行ったことがある。そのときはストールを探していたのだが、いまひとついい品が見当たらなかった。今度こそはと主にラファエルが意気込み、シャンゼリゼ付近の仕立て屋や古着屋を歩き回ったものの、やっぱり芳しいものが見つけられなかったのだ。
「いやねえ、そんなこと気にしなくていいわよ。色々見て回れて楽しかったもの」
「そうですか?」
 整った口元から紡がれる言葉は嘘か本当か判別が難しく、元々気を遣う性分のシェアトとしてはどうしても小さくなってしまう。そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、ラファエルは何かを思いついたらしくぽんと手を叩いた。
「そうだ。いっそ布から仕立てちゃうって手もあるわね」
「は?」
「いやだ、どうして今まで気づかなかったのかしら。出来合いのものが駄目でも、布地ならいいのが見つかるかもしれないじゃない。確かさっき布の量り売りやってる店があったし、もう少し休んだら見てみましょうか」
「え‥‥ええ?」
 料理なら多少ながら心得のあるシェアトだが、縫い物のほうはあまり自信がない。今朝外出の支度を手伝ってくれた『デリ母さん』のことが頭に浮かんだが、もし頼んだら縫い方を教えてくれるだろうか?
「ストールってどう縫うんだったかしら‥‥まあいいわ、なんとかなるでしょ。家事はわりと得意だし」
 しかしこの口ぶりからすると、もしやラファエルは自分が縫うつもりでいるのだろうか? シェアトの身に着けるものを?
「あの、いくらなんでもそれは」
「いいのいいの! 今私、すっごくシェアトちゃんにプレゼントしたい気分なの。でも下手でも怒らないでね」
 うろたえるシェアトのことなどそ知らぬ顔で、猫のイチゴは傍らの籠の中で丸くなって眠っている。

 ところでこのラファエルとシェアト、以前から仲はいいのだが、第三者がひと目で恋人同士と断じることができるほど親密かといえば、やや疑問が残るところではある。脈がないこともなさそうではあるが、少なくとも現時点では互いに遠慮がほの見えることも確かだった。
 毎日たくさんの依頼人に接するギルドの受付嬢は、職業柄、自分のことはともかく他人のそうした機微には鋭い。いくらちらりと見ただけとはいえ、ふたりの間に見える微妙な距離感を見誤るとも思えない。あるいは受付嬢が見たのはラファエルたちではなく、カンター・フスク(ea5283)とラテリカ・ラートベル(ea1641)であったのだろうか。
 その彼と彼女はただいま、パリの一角、小さな仕立て屋の奥にいる。
「着替えられた?」
「‥‥と思うですけど」
 着替えのための仕切りの向こうへのカンターの呼びかけに、おずおずと遠慮がちに、仕切りの端からラテリカが姿を現した。
 白を基調としたドレスは上半身から腰のあたりまですっきりと細く、その下からはたっぷりとした裾がふわりと広がっていて、細身で小柄なラテリカにはよく似合っていた。襟ぐりや袖などの細かい部分にひだ飾りがふんだんにあしらわれ全体的に豪華だが、同時に可愛い印象の衣装でもあった。しきりにもじもじとしているのは、普段着慣れないもので落ち着かないらしい。
「思った通りだ。よく似合っているよ」
「ほんとですか?」
「僕が嘘をつくと思う?」
 われながら意地悪な質問だと思いつつも問うと、少女は真っ赤になって首を振る。そのさまがあまりに一生懸命なので、カンターは何やら、少しばかり悪い大人になった気分だった。いや実際にそうなのだろう。
 ‥‥仕立て屋を生業とするカンターは、ラテリカをここに連れてくるとまず、自分の作ったドレスの中からラテリカに合いそうなものを選び出した。
 もちろん手持ちの中で一番似合いそうなものを選んだつもりだったが、頭の中の予想図と実際に見たそれとではやはりまったく異なっている。比較して一体どちらがいいのかは当然言うまでもない。
「カンターさんもお似合いです。騎士さまみたい‥‥」
「そう? 褒めてもらえて嬉しいよ」
 一方のカンターは、独自に入手した『フォレスト・オブ・ローズ』の制服を着ている。ラテリカの物言いに軽く笑んで、彼女のほっそりしたちいさな手をうやうやしく取り上げる。桜色の爪に唇を寄せると、その面にぱっと朱が散った。
「では参りましょうか、お姫様」
「ラテリカがお姫様ですか? ではカンターさんは、今日は王子様ですね」
「騎士から格上げかい? それは光栄だな」
 本物の姫君にするように、もう一度その手に顔を寄せたカンターは、うつむいたラテリカが顔を赤らめているのを見逃した。早鐘のように胸を鳴らしながら、彼女が胸の裡でこのように呟いた言葉も知るはずもない。
(「‥‥カンターさんは、いつでもラテリカの王子様ですけども」)
 店の表にはつながれた馬がおとなしく待っていて、当然のようにそれは白い馬だ。

●休日の過ごし方
 葡萄の収穫の時期を無事終えたプロヴァンの街は、そろそろ冬支度に入っているようだ。まだ夕暮れには早い時間帯だが、すでに空気はずいぶん冷たく、すれ違う人々は皆外套姿。身を切るような風に隣を歩く柳雅の背がぶるりとかすかに震えたのを察知して、エグゼはあらためてそちらに目をやった。そういえば二人とも、防寒の支度はしてきていない。
「柳雅、寒いか?」
「む。‥‥いや、大丈夫だ。普段から鍛えているからな」
「そうか? 俺は寒いなあ」
 少女らしいあどけなさを残した面に見上げられて、エグゼの顔がにっと笑う。てらいのない笑いに、柳雅は安堵したような、それでいてわずかに戸惑ったような表情を見せた。ちいさな声で、それに答える。
「‥‥エグゼ殿が寒いのならば、少し、そちらに寄ろう」
「助かるよ」
 言いながら、細い肩を引き寄せる。
 試し飲みさせてもらったプロヴァンワインの新酒は、評判にたがわずなかなか美味かった。葡萄の当たり年はこんなもんじゃないよと酒屋の主人に言われ、そういわれれば料理人としてエグゼも興味を引かれて、来年は当たり年になりますかねと尋ねてみた。
 ――こればかりは神様と葡萄の決めることだからねえ。来年またここに来て確かめてみなよ。
「来年か‥‥」
 酒屋を後にしてからは、ふたりで市場を見て回った。
 というよりも、正確にはエグゼが見たがったのだ。てっきり柳雅はどこか名所でも見て回るのかと思っていたので、何が買いたいのかと問うたところ、答えは『柳雅の服』『柳雅の靴』『柳雅の髪留め』『柳雅の(以下略)‥‥もちろん柳雅も、自分が気に入った品を気前よくエグゼが買ってくれるのは嬉しかったが、無邪気に喜べたのは最初の二つ三つまで。あれもこれもと買いたがるエグゼを、しまいには柳雅があわてて止めたぐらいである。
「大体あんな勢いで買っていたら、荷物がかさばって帰りが大変だろう」
「だって、あれ着た柳雅は絶対に可愛いと思って」
 恥ずかしげもなくそうのたまう夫を、柳雅は苦笑いして見上げた。
 夕刻を知らせる教会の鐘がどこかで鳴っている。路地にわだかまっていた枯葉が、風にかさかさと流されていった。道をすれ違う人々は仕事を終えたのか、首を縮めて急ぎ足でどこかへ帰って行くようだ。
「あのさ」
 ぽつりと、エグゼが言葉を落とす。
「知ってるよな? 俺の追ってる相手のこと。俺はそいつを追いかけて‥‥もしかしたらひどい死にかたをするかもしれない。教会に持ち込んでも、絶対に蘇生ができないような」
 神聖魔法を極めた者ならば死者をも蘇らすことができるが、それにも限界はある。柳雅は前を向いたまま話を聞いていた。
「情けないこと言ってるって自覚はあるけど、生きて帰ってこられる保証なんてどこにもないんだ」
「それで?」
 柳雅は口を開いた。怜悧とも思える声音に、エグゼは強張った喉から声を振り絞って続けた。
「俺が奴を追っている間も‥‥俺のことを想っていてほしい。俺も柳雅のことを、誰よりも強く想い続けるから。柳雅がそうしてくれたら、俺は必ず、柳雅のところに帰ってくるよ。悪魔に魂を売り渡した奴なんかに、絶対に負けない‥‥だから」
「なんだ」
 顔を向けた柳雅は‥‥笑っていた。
「そんなことでいいのか。なら簡単だ」
 私は今まで、ずっとそうしてきたのだから。
 プロヴァンの入り組んだ町並みには、あちらこちらに死角がある。夕刻が作り出した狭い暗がりは、隠れてキスをするのに好都合だったようだ。それからのち彼らの間でどんな言葉が交わされたかは、本人たちだけしか知らない。

 なだらかな小高い丘の上は少し冷える。
 カンターの手を借りて馬を降りると、背後から吹き降ろしてくる風で髪がかき乱された。布のたっぷりしたドレスがはためく様が、枯葉色の下草の上でよく映える。先ほどまでラテリカたちのいたパリの街は、手前にある木立の枝の間に見え隠れしていた。
「ここから見ると、パリが小さく見えるですね」
「うん、そうだね。あんなに大きな街なのに」
「人もたくさんいるですし」
 たくさんの人と出会って、その中にカンターがいた。そう考えると、何の変哲もない出会いが、突然途方もないことに思えてくるから不思議だ。
「カンターさんと出会えてなかったら、ラテリカ、まだ恋を知らないままだったです」
 かたわらの腕にしがみつくと、背中を優しく撫でられる。見上げれば、ラテリカを見つめているカンターの笑顔があった。互いの距離が近い。唐突に、ラテリカはいつとも知れぬときに交わした約束を思い出す。
「カンターさん。あの」
「ん?」
 笑みを浮かべたまま、カンターは身をかがめた。それでも耳元にはわずかに届かず、背伸びをしたラテリカから送られた言葉に、カンターの目がわずかに見開かれた。ラテリカは頬を染めつつも、必死な顔でカンターを見ている。
 ‥‥恋人のするキス、教えてくださる約束です。
「いいのかい?」
「いいです。‥‥カンターさんに教えていただきたいですから」
 しばしの間だけ、沈黙が流れた。
 わかった、といういつになく真剣な彼の返事に、カンターの袖をつかんでいたラテリカの指がわずかに慄く。だがそれでも、手はそこから離れようとはしなかった。
 長く骨ばった男の指先が顎を上向かせると、空の色をした目がぎゅっと閉じられる。苦笑の気配とともに、まずその固く閉じた瞼へと唇が降りていった。そんなに緊張しなくてもいいよ、と言われているようだ。
 これが恋人のキスなのでしょうか‥‥とラテリカは思う。瞼や鼻先をくすぐる感触は優しく軽やかで、どこか心地いい。カンターの腕に身を預けている安堵感で、ふっと彼女の緊張がゆるんだ。ほかのキスとは確かに違う。
 だが唇は当然、そこで遊ぶだけでは終わらなかった。次の狙いは、ほうと安らかなため息を吐いたラテリカの口元へ。
 『恋人のキス』は長い長い間続いた。それこそカンターの心を、余すところなく彼女に注ぎ込もうとするように。伝えられた熱に当てられてくたりと腰が砕けたラテリカを、カンターは抱き上げて馬の鞍まで運んでいった。もしかしたらその面には満足げな笑みが湛えられていたかもしれないが、こればかりは誰にも確かめようがない。
 しばらくしてようやく我に返ったラテリカは、いつのまにか自分の指に指輪がはめられていることに気づき、カンターと視線を交わし笑みを交えあうことになる。

 ストールを探してのラファエルとシェアトの買い物の首尾は、結局、何枚かよさそうな柄の布を買ってきただけに終わった。だが別の日に、どこか近場に一緒に出かけようと言う約束が残っていた。
 幸い約束の当日はよく晴れていた。たどり着いた森は冷え枯れた雰囲気を漂わせ、かわいた風は穏やかでほどよく冷たい。あらかた落ちきった枯葉が足元で薄茶の層をなしており、彼らが歩くたびにぱりぱりと音を立てていた。
「すっかり冬なのね」
「ええ。季節って本当にあっという間」
 この時期は狩場を変えるなり冬眠するなり、動物も動きを潜めているのだろう。時折さやさやと木立を抜けて行く風のほかは、森は水を打ったように静かだった。いたずらな風にひらひらと流されていく大きな枯葉を、足元でイチゴが無心に追いかけていく。
 前日から仕込みをして、ラファエルがシェアトに作り方を教えながら作った弁当はとても美味しかった。冬場は特に新鮮なものが手に入りにくいので、どうしても似たような献立になりがちだが、工夫次第で結構いろいろと作れるものだ。家事が得意というラファエルの言は、どうやら本当のようだだった。
「私も少しならお料理できるんですけど、ラファエルさんのほうがお上手ですね」
「でも今日のお弁当は、シェアトちゃんとの共同作品じゃない。つまり半分はシェアトちゃんの手柄よ」
 気を遣うふうでもなく本気でそう思っているようなのが彼らしい。イチゴは枯葉の上を転げまわって、元気に何かにじゃれついている。その様子を眺めながら、シェアトがどこか眩しげに笑う。
「今日ももちろん素敵でしたけど、今度は春にでもまた来たいですね」
「そうね」
 冬は日が短い。太陽はすでに傾き始めていて、そろそろここを離れないと、暗くなる前にパリに戻るのは難しいだろう。立ち上がって服についた葉を払い、ねえ、とラファエルはあらたまった声を聞かせた。
「はい?」
「シェアトちゃん、前に言ってくれたわよね。冬は‥‥大切な人と寄り添って、春を待つ季節だって」
 いつか言った言葉を返されたシェアトが、はにかむように頷いた。それに後押しされ、ラファエルはさらに言葉を続ける。
「それ聞いたとき、私、頭に浮かんだ人がいたのね」
 ラファエルにならって立ち上がり、膝や裾を払っていたシェアトが動きを止めた。
「‥‥だったら、その方はラファエルさんにとって、とても大事な方なんですよ」
「そう思う?」
「はい」
「あのね」
 手を伸ばす。掴んだ彼女の手首は、細く華奢な感触を彼のてのひらに伝えた。まるでやわらかい果物を扱うように、慎重に繊細に引き寄せる。驚いたような顔を長くは見ていられずそのまま彼女の肩に軽く額を預けてしまったのは、顔を見せ合うことを恐れる臆病さと、互いの距離を少しだけ縮めたい情のせいだ。
「その子を離したくない。手を繋いでいたい。寄り添って一緒に、春が来るのを待ちたい。こう思うことは許されるのかしら」
 そっと目の高さに引き上げたシェアトの手の甲はキスを待っていた。少なくともラファエルはそう感じたので、その衝動にはあえて逆らわなかった。くちづけた手からわずかに視線を上げて、その人を見上げる。
「お願いだから、傍にいてほしい。手をつないで、一緒にいられる権利がほしい。駄目かしら?」
 ――大切なその人の時を奪うばかりでなく、自分が与えられる何かがあるのならば。
 わずかな間、時間を凍りつかせたかのように彼らは動かなかった。
「‥‥今年の聖夜祭、ご一緒できませんか」
 シェアトは伏せていた目を上げ、ふたたび時間を動かすための約束をつむぐ。
 身を寄せ合ったままそれきり言葉を途切れさせたふたりを、鳥をつかまえそこねたイチゴが不思議そうに見上げている。

 冬の空気の中、頭上では星がよく見えている。
「疲れたかい?」
 だいじょうぶ、と答えるカルルの息が、月明かりの下で空中に白く溶けていく。
「ほら、もっとこっち寄りなよ。寒いだろう?」
 日が沈んだあとは、大地はまったく別の顔を見せる。油や蝋燭もただではないから、限られた人々以外は日が沈むと同時に眠りにつき、日の出とともに働き始める。特にこの寒いのに夜中に歩き回り星など見ている物好きは、もしかすると自分たちだけなのかもしれない。
「ネフィリムおねーちゃん、見て。すっごく綺麗だよ」
「ああ、見てるよ。あたしは星のことはよくわからないけど‥‥ノルマンもイギリスも、空はそんなに変わらないんだね」
 黒々とした夜の闇の中に、またたく無数の星が散りばめられている。雲もほとんどない冴えた空だった。しびれるような寒さを感じながら、ネフィリムとカルルはともに手をつなぎあう。そこだけが互いに体温を感じられて温かい。
「ネフィリムおねーちゃん」
「ん?」
「あのね、これ」
 懸命な様子で差し出されたそれを、つないでいないほうの手で受け取る。それは小さな壷だった。蓋をしたまま傾けてみると、中でさらさらと細かい粒が流れるような感じがしている。中身はなんだろう?
「あのね。これ、中に、星の砂が入ってるんだよ」
「星の砂?」
 うん、とうなずくカルルの姿は、わずかな月明かりの下でおぼろげにしか見えない。開けて中身を確かめようかと思ったネフィリムだったが、やはり気が変わって表面をそっと撫でるだけにとどめる。カルルがずっと手の中で握っていたのか、まだかすかに温もりが残っていた。
「星の砂か。この星たちのかけらを集めたのかな?」
「わかんない。でもね、これを持ってるふたりは、しあわせになれるんだって」
 しあわせに、か。
 曖昧でありきたりな言葉だけれど、この子の口から聞かれるというだけで、なんと特別に感じられることか。子供だましのような言い伝えを、どういうわけか馬鹿にする気になれない。ネフィリムは身をかがめて、ひょいとカルルの体を抱き上げた。そのまま、まるい頬にひとつキスを落としてやる。
「ありがとうな」
「うん。おねーちゃんも、今日はありがとうね」
 ひどく冷える夜の空気の中で、ふたりぶんの白い息が生まれては消えて行く。ふたつの息のうちのひとつが規則正しい寝息に変わるころには、ネフィリムは彼を背に負ってパリへと戻り始めていた。
「しあわせに、か」
 なれるといいね。お互いに。

 受付嬢が街中で見かけた冒険者が果たして誰だったかは、多分結局わからずじまいなのだろう。
 けれど彼らのうち誰にとっても、このわずか三日の休日は、甘く充実したものだったに違いない。