【目指す光の】  北に大乱の気配あり

■ショートシナリオ


担当:小沢田コミアキ

対応レベル:フリーlv

難易度:難しい

成功報酬:0 G 78 C

参加人数:10人

サポート参加人数:4人

冒険期間:11月04日〜11月11日

リプレイ公開日:2005年11月11日

●オープニング

 先の神剣争奪によって道志郎の名は多くの冒険者の知るところとなった。春の那須行の後に藤家を出奔して修行と見聞の旅へと発った後に江戸の冒険者たちと交わった道志郎は、お忍びで江戸を訪れていた那須与一の助力を得て冒険者らとともに庶民連帯チーム結成のために働き、遂には庶民チームによる神剣の獲得に至る。
 その後の彼の動向は冒険者らの注目を集めていたが、それら関心とは裏腹に、探索行で負った傷がもとで道志郎は暫しの療養生活を強いられていた。
 あれからおよそ一月。
「なんだか出遅れてしまった観が否めないが――」
 道志郎が包帯をめくる。はらはらと捲れた下から現れたのはすっかり傷の塞がった腕。その腕で、道志郎は刀を掴んだ。
 いよいよ、道志郎の次の冒険が始まる。


 翌日。
 ギルドには新たに上野行の依頼が張り出された。依頼人は道志郎。そして目的地は上州は新田郡太田宿。上州騒乱の元凶である謀反人、新田義貞が本拠、金山城の城下町である。今、上野でもっとも危険な地域の一つだ。
 ――北の地で何かが起ころうとしている。
 旧知の冒険者からその報せを聞かされた道志郎は、上野行への決意を固めた。噂と呼ぶにも酷く不確かなその報せを頼りに、これより道志郎は当てのない上野行へと身を投ずる。
「何か確証がある訳ではない。けれど、北で何かが起ころうとしているような、そんな気がするんだ」
 今回の上野行の目的は、義貞領内奥深くまで潜り、その内情を探ること。新田領は今まさに上杉家をはじめとする近隣領主と戦のさなかにある。当然、旅の者への警戒も平時の比ではない。不穏な動きを見せればどんな目に遭うか分からない。特に現地でのいざこざなどを起こすのは絶対に避けねばならない。派手な戦闘などはもってのほか。たとえ身は潔白であろうとも源徳方の間者の疑いを掛けられれば命取りだ。その危険を掻い潜って内情を探るという危険な依頼である。

 ――さて。
 ではここで、この危険な旅路へ出る前に少し上州の情勢についておさらいしておこう。

 上州は古くから小領主の林立する地域であった。それが上野国として今のかたちに落ち着いたのは源徳家康による関東平定以後のことである。源徳に臣従する上杉家が国司に就任し、上野は源徳の支配下となる。
 これに反発したのは新田荘に広く領地を構えていた新田家である。古くから新田家によって開発されて栄えた新田荘の半分ほどは、源徳の台頭と上杉家の国司就任により他の領主に奪われた。これに端を発する上杉と新田の確執は、新田義貞による反乱によって弾けることとなる。義貞のまいた騒乱の火種は、江戸の神剣争奪の騒ぎによる源徳不審を追い風に瞬く間に上野中に広まった。
 今、上野は酷く危険な状態にある。
 源徳が神剣問題に掛かりきりになっている間に、義貞は近隣領主を平らげて瞬く間に失われていた旧新田荘の多くを奪い返した。現在は本拠を新田館から金山城へと移し、さらに上杉の領地を奪い取って上州を平らげようという勢いである。この破竹の攻勢には、夏の反乱に呼応して義貞の下へ馳せ参じた新参の三家臣によるものが大きいといわれている。忍者集団や怪しげな妖術使いなどの4郎党を従えたこの三家は、反乱以前から義貞を支えていた新田四天王と並び称されて今では新田七党と呼ばれているらしい。この十一の郎党を従えた義貞は今や破竹の勢いだが、その足元は磐石とは言い難い様だ。
 それは他愛もない噂だ。
 というのも、義貞が謀反の兵を起こす際に新田四天王の一人が義貞を諌め、それが元で失脚したとの噂が江戸でも囁かれるようになったのだ。失脚した四天王の一人は新参三家に追い落とされ、遂には新田家を追われたという噂までまことしやかに流れ始めている。また、近頃では新田領内で民草も不穏な動きを見せているらしい。噂では松本の何某という冒険者が民を集めて自警のために勢力を起こしたそうだ。上州は古くからヤクザ者の多い土地と言われている。そういう侠気の気風もあってか、民草の動きも活発化を見せている。
 それらの混乱から情報もやはり混乱し、正確なところはほとんど江戸ではつかめないといった状態だ。終いには魔物が出没するといったような噂までが流れ始め、情報はいよいよ錯綜を始めている。
「まずは北の地で何が起こっているかを掴む。俺に、力を貸してくれ」

●今回の参加者

 ea0233 榊原 信也(30歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 ea0541 風守 嵐(38歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 ea0889 李 焔麗(36歳・♀・武道家・人間・華仙教大国)
 ea2478 羽 雪嶺(29歳・♂・侍・人間・華仙教大国)
 ea2480 グラス・ライン(13歳・♀・僧侶・エルフ・インドゥーラ国)
 ea3874 三菱 扶桑(50歳・♂・浪人・ジャイアント・ジャパン)
 ea4889 イリス・ファングオール(28歳・♀・神聖騎士・人間・神聖ローマ帝国)
 eb0712 陸堂 明士郎(37歳・♂・侍・人間・ジャパン)
 eb1098 所所楽 石榴(30歳・♀・忍者・人間・ジャパン)
 eb1568 不破 斬(38歳・♂・浪人・人間・ジャパン)

●サポート参加者

白翼寺 涼哉(ea9502)/ 所所楽 林檎(eb1555)/ アルディナル・カーレス(eb2658)/ 所所楽 柊(eb2919

●リプレイ本文

 神聖暦一千年、十一月四日。道志郎は江戸を北に、上州へ旅立った。イリス・ファングオール(ea4889)らと共に街道を駆け太田宿まで。時節はもうじき霜の降ろうかという冬の始まりである。グラス・ライン(ea2480)が道志郎へ笑いかけた。
「なんや、昔思い出すね。些細な噂から狐に辿り着いた時のようにな。皆頑張ろうな」
 グラスやイリスが道志郎と初めて那須へ旅立ったのがちょうど一年前のこと。あの頃から皆、一回りも二回りも成長しての二度目の旅。そう思うと感慨深い。
 もう一人の陸堂明士郎(eb0712)も那須戦役を共した仲だ。あの冒険で結んだ縁はまだ続いている。
「時期に関所だ。道志郎殿、速度を落とそう」
 関では多くの民が列を作って並んでいる。人の出入りはかなり多いようで商人や職人達の他、雑多な人達の姿が見られる。道志郎達の後ろにも流民のような風体をした男が並んでいる。
 番兵の誰何にイリスが受け答える。
「‥‥この国でも戦争でたくさんの兵士さんが亡くなられたと聞きました。どうか、皆さんに神の慈悲がありますように祈らせてください‥‥」
 何も知らぬ門兵を騙すのは少し心が痛んだが、暫く行列で待たされた後で四人は通行を許された。預けていた武器を陸堂が門兵から受け取る。
「道志郎殿」
「すまない、陸堂さん」
 道志郎が腰へ刀を差した。旅立ちの朝に医者へ腕の怪我を見せた所、診断は完治とのこと。憂いはない、後は存分に働くだけだ。別行動の仲間も既に行動を開始している。宿内に入ると通りは行きかう人で随分賑わっている。後ろに並んでいた流民が道志郎のすぐ傍を追い越していった。
『‥‥感謝する』
 すれ違いざまにそう、小さく一言。
(「‥‥あ」)
 見送ったその後姿はボロを纏って変装しているが忍びの風守嵐(ea0541)だ。嵐も那須で虎人の陰謀を追い詰めた仲間。そしてこの北行の情報を道志郎に託したその人でもある。それに勇気付けられたのか、道志郎が一度、ひとり深く頷いた。
「皆、気を引き締めていこうか」

 界隈には多くの人が忙しなく行きかい、至る所で炊煙があがっている。街は活気に溢れ、特に工廠などは活発に動いている。正しく乱世の町という風情だ。なかなかの義貞の統治振りだ。
 だが嵐は、そこに微かに流れるある種の臭いを敏感に感じ取っていた。
(「隠程の者が消息を絶つとは‥‥何かが動いているな。それも、オレ達の舞台でも」)
 数ヶ月前、隠という名の忍びが北の地で消息を絶った。不穏な空気が北で渦巻いている。
 酒場では三菱扶桑(ea3874)は昼間から酒を煽っている。
「上野で最も危険な地域の一つとは、なかなか楽しそうな場所だな」
 その風体はさながら鬼のよう。硬い岩石を思わせるいかつい筋肉の鎧と、何よりもその天を突く巨躯。歯を剥き出して笑うと尚更鬼の如くだ。三菱は流れ者のヤクザとして市井に紛れていた。
 新田荘は大小多くのヤクザ組織があり、この大田宿にも幾つかの縄張りが存在する。民にも反骨の気風が根付いている。義貞もそれを警戒してか、昨今では目を光らせている。暫く前にもとある組が手入れを喰らったばかりだそうだ。
「何だ、情けない話だな。上野の侠客は腰抜け揃いか?」
「馬鹿野郎、何せ相手はお上だからな。だが俺らもやられてばかりじゃねえ」
 この境遇に耐えかねたとある侠客が、東のとある村が組織した自警団に一家を率いて合流したらしい。今、新田荘の侠客筋ではこの流れに乗るか否か、他の組の動きを見つつ静観の態であるという。
 同じ頃。
「いよいよ、この国も『刻』が動き出して来ているのですね‥‥その高波に飲まれる事無く。大きな流れに流される事無く。己が道を、貫き通しましょう」
 李焔麗(ea0889)は流れ者の冒険者として潜入している。
「なるほど、義貞の募兵ですか」
 酒場を回ると、金の臭いをかぎつけた食い詰め浪人達も多く流れてきている。浪人達の間では暫く前からそんな噂でもちきりの様だ。
「なるほど。新田七党十一朗――確か四天王に、新参の三家臣とその配下の四氏族を並び称してそう呼ぶという話でしたね」
 得意の話術で聞き出してみると、新参の家臣である華西虎山という武将が近々兵を募るという話だ。華西はこの乱で頭角を現した武将。身の丈6尺の大男で、武芸に秀でた猛将という話だ。噂はやはり不破斬(eb1568)の耳にも入っていた。
 昼間の内に市中を回った所、どこも開発事業で慌しい。夕刻からは日雇い人足が酒場へ繰り出して賑わっている。
「華西殿は新参の武将と聞いた。そこでなら士官の口もあるかと思っていたのだが、その話詳しく聞かせて貰えぬか」
「ああ、俺たち人足の中でも腕に覚えのある奴は兵として召抱えるってぇ話だな」
 開発の指揮を執っているのもはやり華西、近々正式にお触れが出るだろうという話だ。
「あんたも士官の口を探して?」
「武者修行中の身だ。稼ぎの口を捜していてな」
 ついでに近辺に良い宿はないかと訪ねると人足達が親身に相談に乗る。
「かたじけない。人の多い場所なら旅で得た物を売るのにはいい。それに、華西殿か。募兵の話も魅力的だ‥‥そうだあんた、この大薙刀買わないか?」
 さて。
 その華西が守るのは金山城。大田宿はその谷筋にあたる登城口の傍に栄えて急速な開発が進められている。険しい岩山とその周りの峰々へ複数の砦を配したこの長城は、数多くの石垣と石塁によって固められた難攻不落の城。関東屈指の山城である。
 月は厚い雲に隠れ、今宵の闇は一層濃い。その夜の金山城を闇から闇へ飛ぶ影があった。麓を目指し、石垣の縁を駆け抜ける。その背を複数の影が間隔を詰めながら走っている。男は追われていた。
(「‥‥まずい、逃げ切れない‥!」)
 必死で逃げるのは榊原信也(ea0233)。その行く手へ忍び装束の男が立ち塞がった。白刃が煌く。それを信也は横飛びにかわし、脇の石塁へと飛んだ。だが不覚にも足は石塁を踏み外す。足首に手裏剣が刺さっている。転落しそうになるが片手を突いて信也は持ち堪える。その時には、飛び移った影が三方から彼を囲んでいた。間髪を置かずに忍者刀が襲う。避ける信也。足を庇いながらでは巧くいかず血が噴き出す。それを物ともせずに彼は駆け出した。その先は切り立った崖。意を決すると信也は石塁を蹴って跳躍した。遁走の術による跳躍なら、崖の向こうの楼閣に飛び移れる筈。
(「‥‥‥‥‥!‥‥」)
 その時だ。背中に焼けるような感触。跳躍した信也の背へ立て続けに手裏剣が突き刺さる。失速した信也は岩肌を転げる。谷間へと落ち、それきり見えなくなった。


 ――翌朝。
 大田の町を走る小柄な少年の姿がある。羽雪嶺(ea2478)だ。通りを駆けると雪嶺はやがてある宿の前に足を止めた。店の者へ挨拶して中へ入ろうとすると、それを呼び止める声がある。見回りの官吏だ。
「見ない顔だな、止まれ」
「僕は飛脚だ。ここの宿に泊まってる人に大事な手紙を運ぶんだよ。通して欲しい」
「飛脚だと‥‥怪しい奴だな。手紙とやらを見せてみろ」
 半ば奪い取るように男が手紙を掠め取った。承諾も取らずに封を開けると、宛先以外は全て異国語で書かれてある。旅立ちの前にグラスに認めて貰った物だ。
「フン。妙なことをしたらためにならんぞ」
 役人は文を突き返した。顰め面の男へ雪嶺が笑顔を向ける。
「お役人さんも早くからご苦労さん。町が華やかになりそうだね、そこらで工事していてさ。でも戦の話とかでも最近はいろいろ聞くからさ、きっと地元だともっとあるんだろうね」
「ああ。最近は怪しげな連中も増えたお陰で風紀が乱れてな。だがこれも義貞様の人徳よ」
「見回り、頑張ってね」
 そうして宿へ入ると、雪嶺は二階の一室を訪れる。
「おはようございます」
 顔を出したのは焔麗だ。雪嶺が文を差し出す。先の文に重ねてもう一通をそっと手渡す。開いた文へ焔麗の視線が上下すると、やがて彼女は静かに頷いた。
 さて。表通りでは昼時を前に人だかりができている。
 シャンシャンと鈴の音。人の輪の中で若い娘が踊っている。市女笠で隠れた顔は見えないが、笠に結いつけられた七色のリボンが動きにあわせて軽やかに揺れる。拍子を取っているのは足飾りの鈴だ。右手には扇子。しなやかにも力強いその舞は武術の演舞のようだ。
(「舞師の身のこなしは軽やかであれ‥‥ってね」)
 笠から覗いた口元が笑った。扇舞の所所楽石榴(eb1098)だ。やがて舞が終わると見物客が見料を払っていく。姉妹達に見送られて江戸を発ち数日。忍んでないくのいちを自認する石榴の役目とは情報の受け取り役。舞師として周囲の耳目を集め、それに紛れて仲間達からの連絡を待つ。
(「旗っていうのは風に軽やかに舞ってこそだからね♪」)
 御代を掻き集めると文銭に混じって一通の手紙。通りへ目をやると、焔麗の後姿。文を仕舞うと石榴はその場を後にした。

 大田宿では新しく城の傍に寺院が建立されようとしていた。グラスは道案内にイリスを伴ってそこを訪れている。
「うちは修行中なんよ、此方のほうの寺で修行しようと来たんや」
 方々を回って話を聞いた所、失脚した家臣というのは四天王の由良具滋。現在彼の所在の情報はどこにも流れいない。義貞の下を離れて東の自警団に身を寄せているという有力な情報も見つかった。
「ありがとな住職さん。なんや妖みたいなんが動いてる様やけど殿さんが妖の退治してくれるといいな。騒乱で民は疲弊してるというのにな」
「グラスちゃん、それじゃあ帰りましょうか」
 帰り道は迷わぬようにイリスがきちんと宿まで送り届ける。しっかりと手を繋いで貰って、グラスは嬉しさ半分で照れ笑い。
「由良さんか、忠誠は衰えてへんやろうけど、もし味方に出来たら心強いな」
「そういえば虎山って人、名前がちょっと気になるんですけど‥‥」
 那須での体験が頭を過ぎり、イリスは顔を曇らせた。決定的な遅れで多くの血を流した那須での失敗以来、イリスは悔やみ続けている。少しだけ表情を険しくし、イリスは足早に宿へ戻った。
 ――道志郎の宿。
 陸堂は道志郎と共に市井の声を聞きながら義貞の背後関係を探った。
「神剣騒動のどさくさに紛れて、旧怨を晴らす為だけに決起した訳ではあるまい。勝算が無いまま自滅する趣味はないだろうから、何かあると睨んでいるが」
 陸堂の睨み通り、この反乱には源徳を巡る策謀の臭いがする。真田家は新参者として上杉に冷遇されており、その窮状を知る義貞が受け入れるのは自然な成り行きだった。そうして共に圧政者上杉の打倒に立ち上がった筈が、神剣争奪以降は源徳不審の煽りでいつのまにか打倒源徳に摩り替わりつつあるという。
 新田軍の手勢は上州の武将など総勢約一千。現在は平井城攻略の準備を進めている。対する上杉は二千。民草はもちろん戦など望んではいないのだが‥‥。
「あくまで推測だが、新田義貞は平将門が持っていたと伝説に言われる神剣を探しているのだろうか? それとも‥‥」
 その時だ。通りを駆ける草鞋履きの音。宿へ駆け入って来たのは。
「‥‥今回は忍ばなくていいんだよね? という訳で『一応』初めまして、道志郎さん、僕は石榴だよっ♪」
「ご苦労だ、石榴。危ない目には遭わなかったか? 目立つだけに危険な役目だからな、無理はするな」
 その真っ直ぐな労いの言葉に少し照れ笑いしながら、石榴は懐から文を取り出した。
「これ、風守さんからの文だよ」
 伝達役の雪嶺の手を経て、三菱や斬らの得た情報も連なっている。
「風守さんの所に凄い情報が手に入ったって♪」
「これは――」
 少し時を遡る。
 失脚した具滋の所在を探っていた嵐は、金山城傍の土木工事現場へとやってきていた。好機は巡る。現場に華西が視察に現れたのだ。嵐の表情に緊張が走る。敵将の顔を知る千載の機。工夫達に紛れながら端目でそれを窺う。現場を回る華西は護衛に囲まれ、遠目にはその上背しか見えない。嵐が近づこうかとした時だった。
「順調のようだな、工期に遅れぬよう一層に励め」
 それを耳にした嵐の表情が固まった。
 ドクン‥!
 胸の古傷が熱く脈打つ。忘れもしない。その声は‥‥。
 不意に、一瞬だけ取り巻きの合間に男の横顔が覗いた。閃光のように記憶のその顔が蘇る。その顔はかつて那須で邂逅した男――九尾復活の陰謀に暗躍していたあの虎人。
(「‥‥何と‥‥嬉しいではないか‥」)
 踵を返すと嵐は足早にその場を去る。同じ情報はイリスも突き止めていた。当時青年僧侶を偽っていたその虎人の似顔絵を元に訪ね歩いた所、新田伊党の華西氏に間違いあるまいと多数の証言が集ったのだ。イリスの小さな胸をチクリと痛みが刺す。何かできたかもしれないのに何もできないままなんて悔しい思いは、二度と御免だ。
(「それに、道志郎さんにもそんな思いはもうさせたくない‥‥」)
 道志郎と共に那須を旅して、あれからはや一年。停まっていた刻は再び動き出そうとしている。それぞれに抱えてきた想いを胸に、上野での新たな冒険の幕は開けようとしていた。