彼女の想いと彼女の‥‥。
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■イベントシナリオ
担当:蓮華・水無月
対応レベル:8〜14lv
難易度:普通
成功報酬:0 G 83 C
参加人数:7人
サポート参加人数:-人
冒険期間:11月29日〜11月29日
リプレイ公開日:2009年12月08日
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●オープニング
タチアナが最初にジュレップ家に足を踏み入れたのは、お腹にアルスが居ると判った時だった。その頃は恋人だったジュレップ家の若君が、その事実を知るや否や彼女を家族に会わせたいと言ったのだ。
知らせるつもりはなかった。だがその事実は友人からすぐに彼に伝わり、余りに熱心にどうか家族にと言う彼に頷いて、タチアナはジュレップ家に足を踏み入れ。
待っていたのは、息子を誑かした、という非難の言葉。祝福されると思ってはいなかったが、それでもその言葉は彼女の心を打ち砕いた。
彼の弟夫婦はタチアナに気を使ってくれた。けれども彼の母親の怒りを解く事はどうしても出来ず、家を捨てて駆け落ちしようと差し伸べられた彼の手を、タチアナはただただ縋りつきたい想いで取ったのだ。
そこに何としても彼と結ばれたいという、強い想いがあったかどうか、彼女にも判らない。今でも覚えているのはそれよりも、1人で居たらお腹の子共々アイリーンに殺されるかもしれない、という恐怖。
そうして駆け落ちした夫を、ジュレップ家が勘当し、跡継ぎが夫の弟に定まった事をしばらくしてからタチアナは聞いた。自分のせいでと謝る彼女に、生まれた我が子を抱いた夫は惜しくはないと笑ったのだ。
なのに、幸せにささやかに続いていく筈だった暮らしは、唐突に終わりを告げた。息子が村の付近に姿を見せ始めた恐獣に襲われたのを、身を挺して救った夫は喰い殺されたのだ。
息子が恐獣に興味を持ち、何度叱っても側に行って見ようとするのを、苦い思いで見つめていた。嫌な予感がしていた、その予感は惨い現実としてタチアナの前に現れ、そして。
(私、は‥‥)
その時のことを思い出し、タチアナは瞑目する。後悔がこみ上げてきて、二度と同じ事は繰り返さないと誓う。
だが、何もかもを捨ててやり直そうと思い、なけなしの勇気を振り絞って援助を申し込んだジュレップ家で、彼女は夫を殺したと罵られ、息子を奪われた。それを、罰だと思った。
そう、思って‥‥でもどうしても、今度こそ手放したくないと願ったのに。彼女がやる事はいつも、一番悪い方へと転がっていく。
「ママ‥‥ご飯が出来た、って」
物思いに沈む彼女に、アルスがおずおずと声をかける。別れる前と変わらない、否、その頃よりずっと自分に気を使った声色。
捨てたと思われたのだろう、と彼女は考える。一瞬でも考えなかったと、彼女には言えない。このまま逃げてしまおうか、諦めてしまおうかと一度も考えなかったと、アルスの目を見て言う事が彼女には出来ない。
だからタチアナは何も言わず、判ったわ、と頷く。ローゼリットに連れられ、ジュレップ家の小さな離れでアルスと2人暮らすようになってからずっと、そんなぎこちない暮らしが続いている。
◆
ローゼリット・ジュレップは苛立っていた。それははっきりしない伯母の態度でもあるし、せっかく母に再会出来たのに日に日に萎れていくアルスの姿にでもあるし、それらを見ながら何も出来ない自分自身への歯がゆさにでもあった。
伯母を、離れに置いたのは彼女だ。冒険者の助力を得てようやく伯母を取り戻し、アルスと再会させたまでは良かったが、感動の再会と名付けても良さそうな母子の対面にしては些かよそよそしい空気に、すぐにでも村に戻るという彼女達を蓄えもなかろうし冬が終わるまでは、と押しとどめたのだ。
その判断は間違ってなかったはずだと、今でもローゼリットは思っている。だがそれ以上は介入してはならぬと、母にきつく命じられた。
『ローゼリット、そなたは生まれながらに貴族の娘だと言う事を、忘れてはなりませんよ』
母は彼女にそう言った。それはタチアナを卑下する言葉ではない。ただ、伯母は生まれながらに貴族に従う事を義務づけられた人で、彼女は生まれながらに庶民を従わせる事を許された人。それを忘れるな、と言った。
言いたい事は判ると、ローゼリットはキャシー号のふかふかの羊毛を丁寧にときながら思う。それは彼女から伯父の形見を渡す事が出来なかったのと同じ理由だった。
彼女が伯母に怒れば、伯母は謝罪し、従うだろう。だがそれは彼女の「命令」だからだ。そのつもりはなくとも、伯母は彼女の言葉をそう受け取り、従うだろう。
それが理解出来る。出来るからローゼリットは今日も、馬場でキャシー号の淑女教育に勤しみながら、時折思わしげな眼差しを離れに向けるのだ。
このまま時間が解決するのを待つのは、ローゼリットの気性には合わない。祖母は離れで暮らす叔母達には何も言わず、ただ「どうするつもりだい」と孫に尋ねたきり。この事態をどう収めるのか、孫を試しているつもりだ。
ローゼリットはキャシー号の毛並みを整え、馬場に引き出しながら考える。伯母の考えを知りたい。このままジュレップ家での生活を望むのならその様に差配しても良いし、あくまで村の暮らしに戻ることを望むなら勿論援助する。
だが、伯母の心が知りたい。ジュレップ家に留まり続けるのは、僅かなりとも彼女の意志があるはずだ。なのになぜ母子はぎこちなく、アルスは沈むのだろう。家を飛び出してでも会いたいと望んだ母ではなかったのか。
「キャシー号‥‥そなたには判りますか?」
「ブンメエェェェッ!」
物憂げに話しかけた少女に、励ますようにキャシー号は高らかに鳴き声をあげた。それに僅かな頷きを返し、ローゼリットはため息を吐く。
ふと、頼りない視線を向けた先にある王城は、今日も威風堂々と陽精霊の光に輝いていて。
「‥‥せめて、アルスを元気付けられれば良いのですが」
少女がそう呟いたのに、ンメェェェ、とキャシー号はまたいなないた。
●リプレイ本文
ジュレップ家の屋敷には今日も、些か陰鬱と言える空気が漂っている。その主な原因は言うまでもなく、ジュレップ家の離れに滞在する、今は亡きジュレップ家の長子の未亡人とその息子の、ぎこちなさ過ぎる空気のせいだ。
故に、母子への干渉を禁じられたローゼリットの苛立ちは募る一方であり、それがさらに使用人達をざわつかせる原因になっている。その事実にはどうやらローゼリットも気付いているようで、この所は日頃以上に冒険者から預かっている競争羊・キャシー号の淑女教育に精を出す日々で。
「‥‥ローゼさん。羊に相談する姿は、傍から見てるとちょっと心配よー?」
驚くほど真剣に、キャシー号を1人の羊(?)として扱い語りかけるお嬢様の姿に、ローゼリット様はこちらに、と使用人に案内されてきたラマーデ・エムイ(ec1984)を始めとする冒険者達がはっきり身を引いたのも、無理からぬ事だった。まぁ普通、引く。親切ならラマーデのように心配してくれるかもしれない。
まぁ、とローゼリットはラマーデの言葉に初めて気付いたように顔を上げ、それから真剣に話し合っていた(らしい)キャシー号の豊かな毛並みを見下ろした。そのキャシー号はやって来た冒険者の中に愛する白羊の王子様ディアッカ・ディアボロス(ea5597)を見つけ、ブホッ、鼻息も荒く目を輝かせる。どこからどう見ても獲物を見つけてターゲッティングしている狩人の目だが、こう見えて彼女は彼女なりに王子様との再会を喜ぶ乙女心だ(意味不明)
そのキャシー号には「お鎮まりなさい」と指示をしておいて、ローゼリットは冒険者達に近付くと、軽く淑女の礼を取った。
「お運び、心より感謝致します。このローゼリットに叶う事であれば、何なりと仰って下さい」
「ありがとうございます――とは言え、過去にお2人の間に何があったのか、それぞれからお話を聞く必要があるでしょうね」
まずはそこからだ、とため息を吐くギエーリ・タンデ(ec4600)だ。事前に簡単な状況や事情は聞いていて、推測はある程度ぞれぞれの中にある。だがそれはあくまで推測に過ぎない。
タチアナ、アルス、そして恐らく亡くなった父親。きっと真実はこの3人しか知らなくて、そこに辿り着かなければこの母子は何処にも行けないのだろう。
どうかよろしく頼みます、とローゼリットは頭を下げた。その隙に、ついに我慢が効かなくなったキャシー号が蹄も勇ましく駆け出して、愛する白羊の王子様目掛けて『ブメエェェェーッ!!(訳・会いたかったわ王子様ッ!!)』と突進した。
◆
「その後、体調はいかがですか?」
そんな言葉と共に訪れた女医を、タチアナは少し戸惑った表情で迎え入れた。ゾーラク・ピトゥーフ(eb6105)。彼女が医者だと言うことは以前、レシュアーナからこの屋敷までの道すがらで聞いているけれど。
不思議そうなタチアナに微笑みかけて、まずは部屋に入れてもらった。まずは世間話から始まって、いきなり環境が変わると体調が崩れることも多いですから、とタチアナを心配する言葉を強調する。それにかこつけて幾つか、食欲はあるかとか夜は眠れているかとか言う質問を重ねるうち、そう言えば、という反応が出れば「じゃあ少し診てみましょうか」と触診もあわせて体調を確認する。
ゾーラクが一番心配しているのは、タチアナが望まぬ子を宿しては居ないか――と言う事だ。望まぬとは言え、彼女が逃げてきた豪商の愛人であった時期は決して短くはない。もしその兆候が見られるとすれば、また別の対応を考えなければならない。
触診や、体温、目や舌の色などを確認した限りでは、その兆候は薄いようだ。若干、月のものに遅れが見られると言うのが不安要素だが、そこはストレスや栄養状態などで容易に変化してしまうものでもある。
だが油断は禁物だ。女性の中には実際に妊娠していても、なかなかその兆候が出難い人も居る。もしそうでないとしても、月のものが遅れるようなストレスを抱えているのならやっぱり問題があるわけで。
「少し、お疲れのようですね」
だがそこは後で仲間達と相談する事にして、まずは第一所見を述べたゾーラクに、そうかもしれません、とタチアナは細いため息を吐いた。元々、こういう貴族のお屋敷は自分には向いていないのだと、強く感じる。すっかり馴染んでいる様子のアルスを見るたび、なんだか自分だけが場違いな場所に居る気持ちすらして。
「私には、悪女にはなれないようです」
ポツリ、呟いた。それはゾーラクが言った言葉だ。今のタチアナに必要なのは、ジュレップ家に乗り込んでアルスを取り戻し、自分こそが母だと告げる強い心を持つ悪女となる事だ、と。
出来ると思っていた。何としても息子を、アルスを取り戻したい。そのために必要ならば、と。
ゾーラクにはその言葉はやはり、疲れた彼女の心から出てきているように感じられた。こういう時、慰めたほうが良い場合と、慰めると逆効果になる場合がある。誰かに否定して欲しくて、同情して欲しくて放つ言葉と、そうでない本気の言葉。
今の場合は後者だとゾーラクは感じた。だから『そうですか』と頷いた。
「焦る必要はありません。まずは、アルス君を愛してあげれば」
「‥‥あの子は私に怯えています」
「ならばまずは、抱きしめてあげることです」
言葉で伝えられないのなら、行動で。単純すぎるが何より有効な愛情表現だろう。
ふと、その言葉に虚を突かれた様にタチアナは目を見張った。それから何かを考え込むように口をつぐんだ。
◆
ディアッカは文字通り、命の危機を感じながらキャシー号の激しすぎる愛に耐えていた。具体的には、例によって例のごとく、感極まって銜えて走り回られている振動に必死に耐えていた。
(非常に不本意、ではありますが‥‥)
視線をやった先には、うわぁ、という表情でこちらを見ているアルスの姿。何が『うわぁ』なのかは多分本人にも判って居ないが、とにかくこの光景は『うわぁ』としか表現のしようがない。
それに耐えているのは勿論、理由あってのことだ。日ごろ良く耐え忍んでいるキャシー号を労ってのことではない。アルスと、そして家の中から見ているはずのタチアナの気持ちを少しでも和らげることが出来れば、と考えてのことだ。
思いつめているタチアナ同様、母を気遣うアルスもまた緊張している様子が伺われた。そんな事もあろうかと一緒に連れてきた犬や猫と遊ばせながら、よければタチアナも一緒にキャシー号を見に来ないかと誘ってみたのだが、少し疲れているからという言葉でこれが拒否されて。
だが家の中から一緒に見ようと、親友のユラヴィカ・クドゥス(ea1704)が彼女についた。故にこの場にはアルスとローゼリットが居て、アルスの気晴らしのためにという言葉に頷いたローゼリットがキャシー号に許可を出し、そんな事情は知ったこっちゃないがとりあえず久々の王子様を堪能(?)すべくキャシー号がディアッカに突進して、現在に至る。
おかげで、アルスの緊張は良い様に解れたようだ。むしろここまでやって解れなかったら本気で救われない。楽しそうに犬や猫と遊び出した義弟を見て取ったローゼリットが、鋭く鞭をふるって「お戻りなさい、キャシー号!」と命じると、キャシー号は本気の殺意の篭った目でローゼリットを睨みつけた直後、はっと気付いたように「ブメエェェッ!」と勇ましく、本羊的には可愛らしく嘶き、ディアッカを解放した。
(やはり女の子ペットは連れてこなくて正解でしたね)
涎だらけになりながら、自分の判断の正しさをしみじみ噛み締めるディアッカだ。見た所、どうやらローゼリットがディアッカに近付くのも最近のキャシー号はお気に召さない様子である。だがここに居ればディアッカにたまに会うことが出来るし、という乙女心はとっても複雑。
そんなところに、一緒に暮らす女の子ペットまで連れてきた日には一体、どうなることか。精霊とかだと大きさ的に割とお似合いになってしまったりするのに。
ちょっと脳裏に過ぎった考えたくない光景を振り払い、ディアッカはよろよろと遊びアルスの元へ飛んでいく。それに気付いた少年がディアッカに向けた眼差しには、はっきり同情の色が見受けられた。余計なお世話だ。
「ディアッカ兄ちゃん、お疲れ様。きっとママも楽しかったと思うよ」
ある意味では嬉しい感想で労い、離れの窓の方を振り返る少年である。にぃ、と鳴いた猫が少年の手の甲をなめ、くすぐったそうに振り返ったほっぺたを犬がぺろりと大きな舌で舐めると、少年は嬉しそうにくすくす笑った。
今なら、聞けるだろうか。そっと様子を見ていたギエーリが、頷くだけで構わないと断った上でそっと、疑念を言葉に紡いで問いかける。
「アルスさん――ご父君の事故のことで、タチアナさんから責められた事が、あるのですか?」
「‥‥‥‥」
少年はその言葉にしばし、沈黙した。察したディアッカがメロディーの魔法で、少年の心を癒し、勇気付ける。
やがて、その楽の音に背中を押されるように、少年は小さく、小さく頷いた。
「うん‥‥でも、ママは、可哀想なんだ。僕がパパを殺したから」
だからママを怒らないでと、いつかのようにアルスはギエーリとディアッカに懇願する。どうかママを怒らないで、悪いのは自分だから、と。
そう、必死に訴える様子は真剣で、だから冒険者は悟らずには居られなかった。恐らく、少年が引き金となった父親の死を、タチアナが酷く責めたのだろうということを。そしてその事実をアルスがいまだに、負い目と背負っているのだろうということを。
◆
ユラヴィカとリール・アルシャス(eb4402)もまた、離れの部屋の中でキャシー号の繰り広げるスリリングな光景を見守っていた。心臓に悪いことこの上ないのだが、まぁ、アルスの気晴らしになればと身を張っていることだから、後は見守ることしか出来ない。
タチアナが心配そうに、キャシー号相手で大丈夫なのかしら、と呟いた。当然ながら彼女も元々は村の住人だ、キャシー号の数々の女傑伝説は嫌というほど良く知っている。夫にも『お願いだからキャシー号にだけは乗らないで』と泣いて懇願したほどだ。
そんな事を思い出したのだろう、沈んだ表情になったタチアナを見て、加藤瑠璃(eb4288)はため息を吐いた。彼女はあまり、繊細かつ穏便な心のケアというのが得意ではない。今回もタチアナとアルスのその後が気になってやっては来たが、口を出すのは最後の手段にしておこうと決めていた。
(‥‥夫が死ぬ原因になってしまった子を疎んじたことを、悩んでいるのか)
ユラヴィカもまたそんなタチアナの様子を見ながら、さてどう話しかけたものかと首を捻った。母が我が子を疎む。別に取り立てて珍しい事というわけでもないが、そうしてしまった母が再び子と向き合うには一体、どれ程の勇気が必要になるのだろう。
そこに、無理やり他人が割って入ることも、悩ましい。だが1人で悩み続けていてはそのうち、あらぬ方向へと思考が逸れていってしまうものだ――特に暗い気持ちで考えていると、特に。
「ああ見えて、今年の羊レースはあやつらが制したのじゃ」
だからユラヴィカが紡いだのは、タチアナの呟きに応える形のそんな言葉だった。まずは話し相手になってみる。それから聞き出せるなら、追々に。
そうなのですか、とタチアナは考えるような眼差しを眼下の光景に注いだ。それからひょい、と瑠璃とリールに眼差しを移す。
「お2人のことは覚えています。羊レース、参加なさってましたね」
「ああ」
「その節はありがとう」
名指しを受けて、2人の女騎士はそれぞれに頷き、または肩をすくめた。実際にこうしてゆっくり顔を合わせてみて気付いたが、タチアナは羊レースの折、落羊した瑠璃にハンカチを貸してくれた女性だったのだ。
それを思うと、やはりアルスの事が気になって村に戻ってきていたのだろうか、と思う。だが、瑠璃から見てもよそよそしい2人の空気はやはり、互いへの罪悪感があるような気がしてならない――予想が当たっていれば、だが。
アルスも参加していて、とタチアナは呟き、また視線を落とした。その表情はやはり暗く、何かを思い悩んでいるように見える。
「‥‥もしかしたら、貴女のその様な表情に、アルス殿が気遣うのではないかな?」
リールに掛けられた言葉に、タチアナは不思議そうな顔をした。表情、と戸惑うように自分の両手で自分の顔を抑える。一体自分が今どんな顔をしているか、確かめるように。
こういうのは自分では気付かないもの、なのだろう。自分がアルスの事を口にするたびに、痛みをこらえるような表情をしている、ということは。
「過去の事情等、色々あるだろうが、先ず、笑顔というのは?」
そこに何があったのかは聞かない。恐らく話したくない、或いは話す事が心を痛めるからそれが出来ないでいるのだろうし。そういうのは多分誰にだって、リールや他の誰にだって等しく存在するはずで。
だがせめて、我が子に向ける表情は笑顔であっては、と思う。もしタチアナがいまだアルスを許せないと思っているのなら、それは仕方ない。だが許したいと少しでも願い、後悔しているのなら――彼女の様子を見る限り、それは一番必要な事のように思える。
「そうじゃの‥‥今のタチアナ殿はどうも、過去を恐れるあまりに何もかも一緒に怖がっておいでのようじゃが‥‥」
ユラヴィカもまた、彼女の顔の前まで飛び、彼女の顔をまっすぐ見ながら指摘する。
過去に犯した過ちを悔いるのは大切なことだ。もう二度と繰り返したくないと、過ちを恐れるのも大切な事だ。だがそれは、度を過ぎれば周囲の人間を傷付けるための刃にしかならない。
今のタチアナがやっている事は、過去に犯してしまった過ちを悔いる余り、その裏に確かにあるはずの我が子を大切に思う気持ちまで否定している。それはつまりは、アルスを愛する自分を否定しているということで。
それは誰よりアルスにとって、気の毒な事ではなかろうかと、ユラヴィカは思う。それに突き詰めていけば、タチアナがやっている事はアルスを、アルスがタチアナを慕う気持ちを否定する事にも繋がるのだ。
過去を悔やむ事は大切で、同じ過ちを繰り返すまいと志すことも大切。だが、一度間違えたからとすべてを投げ出してしまうのではなくて、何度でも間違えないように試み続けてみる方が、よっぽど良いはずだ。
その言葉にタチアナはじっと耳を傾け、唇をかみ締めた。噛み締めて、でも、と首を振る。
「私はそれだけの罪を、犯したのです」
大げさだと言われても。気にしすぎだと言われても、彼女は今でも昨日のことのように思い出せる。彼女の心無い言葉が息子を萎縮させ、怯えさせ、伺うような眼差しをさせた。夫に似たまっすぐな瞳の、明るい子供だったのに。
これはやはり、何か気晴らしが必要だろう。ユラヴィカはそう考えて、あそこでキャシー号を見ている仲間と一緒に食べるお弁当でも作らないか、と提案した。もうすっかり冬の空模様とは言え、降り注ぐ陽精霊の光は明るく暖かい。翳ってきたらウェザーコントロールでも使って、皆で陽だまりでお弁当を食べれば気分も変わるだろう。
それは良い考えだ、とリールも同意した。ゾーラクからも、どうも気鬱が過ぎてストレスが溜まっているようだ、と聞いている。皆で一緒に、という空気はただそれだけで何となく心の垣根を取り払って、気安い雰囲気になるものだ。
いつもとは違う環境で一緒にお弁当を食べれば、アルスと話す良いきっかけになるかもしれない。ローゼリットは冒険者達に、よほどの事がない限りいちいち断らなくても好きにしてくれて良い、と言っている――それほどに冒険者を信頼しているという意味でもあり、それほどに伯母達を憂えているという意味でもある。
タチアナは少し考えて、頷いた。その様子を見て瑠璃は、どうやら自分の出番はなさそうだ、と考える。力技での解決なんてない方が良いのだから、むしろ喜ぶべき事、なのだが。
「大変ーッ!! タチアナさん、大変よーッ!!」
状況を変えたのは、大声で騒ぎながら駆け込んできたラマーデの存在だった。彼女は知り合いの使用人ニナに捕まって、少しばかり世間話などをしていたのだが。
「アルス君がキャシー号に乗ろうとして、振り落とされて大怪我しちゃったのーッ」
正確には、キャシー号に挑戦してみようとしたアルスが、『王子様以外の人間がアタシの背中に乗ろうなんて百年早いわッ!!』とテレパシーが使えたなら叫んでいたに違いないキャシー号に、取り付くひまもなく逃げられた拍子に転んで膝をすりむいた、というだけである。ただそれだけの話なのだが、ニナと手を振って別れて遅れて馬場までやってきた時にその光景を見たラマーデは咄嗟に、考えた。
これ、思いっきり大げさにタチアナに伝えに行けば、色々吹っ飛んでいいんじゃないかしらー?
効果は覿面に現れた。むしろ驚かせようと思ったラマーデが驚いたくらい、タチアナは真っ青な顔になってわき目も振らず駆け出した。
「‥‥ッ、タチアナさんッ!?」
「タチアナ殿‥‥ッ」
見ていた冒険者達も、慌ててタチアナの後を追って走り出す。向かう先は判っている、ならば慌てる必要はないかもしれないがそれでも、今のタチアナを放っておく気にはなれなかった。
◆
思えばあの日もそうだった。夫が死んだと村の人が知らせにきてくれたときのことだ。あの時もこんな風に突然で、大変だと叫ぶ言葉がまるで他人事のように聞こえて、何を言われているか判らなくて。
必死で、ようやく間取りを覚え始めた離れの中を駆け抜けて、馬場へ向かった。蹲っている息子の姿が見える。それ以外見えない。
「アルス‥‥ッ!!」
彼女の叫びに、アルスははっと目を見開いた。驚きと、僅かな怯え。幾度も見てきたその表情。
ママ、と唇が動いたのを見てようやく、ああ生きているのだ、と判った。判ったら不意に、足元がガクリと崩れて。
「ママ‥‥ッ!?」
「どう、して‥‥‥」
ぺたんと座り込んだ彼女に、駆け寄ってきた息子にうわ言のように呟いた。どうして。キャシー号は危ないから近付かないでって、昔からあんなに言っていたじゃない。
「どうして‥‥あの時だって‥‥ッ」
近付かないでって何度も言った。村の傍で見られるようになった恐獣。初めて見る大きな生き物に興奮して、隙を見て近付こうとするアルスに怖い顔をして何度も言ったのに、結局息子は好奇心に任せて恐獣に近付き、怒り狂った恐獣に食い殺されそうになって。
「ご夫君が亡くなった際、タチアナさんはアルスさんがその原因と余程強く責めたのです、ね。そしてアルスさんも己の責任と強く思い込み‥‥」
いつの間にかそっと肩を抱き、泣きじゃくり始めた彼女に確認するように尋ねたギエーリの言葉に頷く。あの時彼女は、同じ様に村人に呼ばれて、信じがたい思いで駆けつけた。そして殆ど原形も留めていないほど食い荒らされた夫と、その傍で無傷で火のついたように泣いていた息子を、見て。
お前がお父さんを殺したのよと、本気で息子を罵った。なぜ夫が。そんな哀しみが、夫と引き替えに助かった息子への怒りに変わった。あんなに言ったのに、息子が言う事を聞かなかったから。そのせいで夫は。
あの時の息子の、アルスの鞭で打たれたよりも青ざめた顔を、タチアナは昨日の事のように覚えている。葬儀を終え、哀しみに区切りがつき、怒りが収まって初めて自分がどれほど無慈悲な事を言ったか気付いた時には、アルスはもう彼女を怯えた眼差しで見つめていた。
勿論彼女が責めた事を悔み、愛情を注ごうとした事をギエーリは疑わない。だがお金がないという現実が、恐らくタチアナをジュレップ家に向かわせ、アイリーンに棒で打って追い払われる悲劇へと繋がったのだろう。
蒼白な、泣き出しそうなアルスの顔を見て、瑠璃は大きな息を吐く。
「アルス君。悪い事をしたと、思っているのよね?」
「‥‥‥ッ」
無言で何度も少年は頷く。数え切れないくらい、言い表せないくらい後悔した。目の前で自分を庇って死んだ父と、それを自分のせいだと責めた母。その通りだと、悪いのは自分なのだと。
あの優しく逞しかった父を、優しく美しい母から奪ったのは、自分なのだと。
そう思って、でも謝る事が出来なかった。幾度も繰り返した謝罪の言葉は、母の耳には届かなかった。謝る位ならなんで言うことを聞かなかったの、お父さんを返して。そう責められた少年は、次の言葉を見失った。
だが、それでも。
「お母さんは多分、アルス君を疎んじているのではなくてアルス君に嫌われてしまうのが怖くて立ちすくんでいるのではないかと思うんです。お母さんも人だから、一瞬、かっとなったり我を忘れたりすることもあるかもしれませんが、その一瞬だけがお母さんの全てではないですよね?」
ディアッカはそう、少年に訴える。だって彼女はこうして、血相を変えて走ってきたのだ。アルスの無事を確認して安堵したのだ。そこに愛情がないはずがない。
そうよー、とラマーデが笑った。その明るさはむしろ、この場では貴重だ。
「タチアナさんも、悪い事したなら御免なさいってちゃんと謝ればアルスくんは許してくれる‥‥もう許してると思うわよー?」
母が居なくなったと知って、少年は迷わず母を捜すことを選んだ。居るかもしれない母を求めて、ジュレップ家を飛び出し、彼ら家族が暮らした家へと戻ったのだ。
けれども互いが、互いへの罪悪感で動けない。どちらかが一歩踏み出せば解決するはずなのに、その一歩がどちらも踏み出せないのだ。
瑠璃が噛み締めるように言った。
「タチアナさん‥‥辛かったわね」
愛する子供を責めてしまった事も、その後、許したくとも許せないまま罪悪感だけを抱えて生きてきた事も、どんなにか辛かっただろう。その状況でタチアナが姿を消せば、アルスは間違いなく母が自分を疎んでのことだと思っただろう。だからこそ冒険者に、母が自分に会いたくないと言っても母を責めないでくれ、と頼んだのだ。
きっと、母は自分がついに嫌になったのに違いなく。だがそれは母にはなんら罪のない、ただ自分だけが悪いことで。母の言うことを聞かなかったせいで、父を死に追いやった――父を殺した自分を母が疎むのは当然のこと、で。
そう、アルスに思われる事もきっと、タチアナには辛かったはずだ。愛する子に、自分が愛している事を信じてもらえない事。けれどもそうなってしまったのは、そもそもタチアナがアルスを責めたから。
「夫君は、お父君は自身の意思でやりたかった事をやり遂げたのじゃ。できればそれには胸を張ってやって欲しいのじゃ」
ユラヴィカが惑う母子に言った。きっと、今の状況を誰より悲しんでいるのは、当の死んだ父だろう。彼はきっと、タチアナをまっすぐ愛し、アルスをまっすぐ愛し、愛する二人を守るために死んだ。それなのに自分の死のせいで愛する二人がこんな事になってしまったと知れば、恐らく誰より悲しむはずだ。
もし生きていたら、今の二人を見てどう思うか。それよりは、息子を助けて死んだ父を誇りに思って生きていくことは出来ないだろうか‥‥?
「‥‥ッ、ごめ、なさ‥‥ッ! ごめんなさい、アルス‥‥ッ」
「ママ‥‥‥ッ、ママッ、ママ‥‥ッ」
冒険者達の言葉に、ついに感極まって泣き出した母子に、ローゼリットがそっと涙を拭った。今こそ本当の意味で、彼女がかつてアルスに誓った言葉が果たされた時だと感じた――いつか必ず、そなたを母に会わせて見せます、と。
そんな人々の暖かい眼差しに見守られて、母子はいつしか抱き合い、泣き続けていた。今までの溝をすべて涙で埋め尽くそうとするかのように。
◆
離別を余儀なくされた母子の、苦難の日々はこれで終わり。後は誰の力を借りるでもなく、彼ら自身が未来を切り開かねばならない話である。
だがしかし、もし困った事があれば冒険者達はきっと、母子の手助けになってくれることだろう。それまではきっと、今の気持ちを大切に、未来を見つめて生きていくのに相違ない。
そしてキャシー号の行く末がどうなるかは、また別の物語‥‥かも知れない。