●リプレイ本文
●状況偵察
ゲヘナに向かう冒険者の数は多い。
地獄門とディーテ城を攻略した彼らが知ったのは、モレクに力を与えていたゲヘナの丘の存在。
丘に捧げられる夥しい数の魂の悲痛な嘆きが、声無き叫びが、今にも聞こえて来そうだ。
「無念の思いを抱えて魂を喰らわれた者達の為にも、我々は進まねばならん」
重苦しい空気を振り払うように、彼らは唇を噛み、拳を握り締めて丘へと向かう。
モレク亡き後、丘を占拠しているのはエキドナというデビルだ。
蛇の下半身を持つ女デビルは、魔物の母とも呼ばれているという。丘を目指す冒険者に紛れながら、オイル・ツァーン(ea0018)はそっと周囲へと視線を走らせた。デビルの故郷たる地獄に、人が快適に過ごせる場所などあろうはずもない。
彼ら冒険者が、地獄攻略の足場としている救護所を主とした後方でさえも、仲間達が根気強く浄化し、人が過ごしやすい環境にしたのだ。
ー今も母子誘拐が続いているとすれば、攫って来た者達に関わるデビルの動きもあるはずだ
丘に集うデビルの動きは様々だ。冒険者達を牽制するもの、攻撃を仕掛けて来るもの、様子を探るもの。その姿形も多種多様で、シフールのように小さく、周囲に紛れ込むものもいれば、羽根を持ち、空から偵察して来るものもいる。
母子が何処に捕らえられているにしろ、早く救い出さねばならない。
ーそれらしい者はおりましたか?
突如として語りかけて来た里市静(eb2153)の声に驚く事もなく、オイルは変わらぬ状況を語る。そうですか、と考え込む気配が伝わって来て、オイルは眉を寄せた。
ー何を考えている?
勿論、と静が笑う。
ー情報を得る為の手段です
途切れた声に、オイルは深く息をついた。何が起きるか分からない場所で、情報は喉から手が出る程に欲しいものだ。だが、大切な仲間に無茶をさせたくもない。相反する心に煩悶する彼の肩に、リース・フォード(ec4979)が手を置く。
仲間を危険にさらしたくないのは、彼も同じ。だが、それ以上に、今も怯えているであろう母子を思うと居ても立ってもいられなくなるのだ。
「ある程度の位置は、静に伝えてあるんだ。か細い、呼気を幾つか感じたから」
ぎゅっと、胸を押さえてリースは目を瞑る。その表情は厳しい。
呼気を感じる事が出来るという事は、近くに探している者達がいる可能性があるという事だ。けれど。
「‥‥静からの連絡を待とう。行動に移るのはそれからだよ」
感じ取った不安を打ち消すように、穏やかに笑って見せる。
偵察班からの報告を待つ者達も、なかなかに集まらぬ情報に焦れている頃だろう。
ーもう少しだから、ね
借りた指輪の力を使うか数瞬だけ迷い、リースはそれから手を離した。仲間達への言葉は祈りのように空へと散らして、彼は再び瞳を閉じたのだった。
●囚われた人々の元へ
ー聞こえる?
ユリゼ・ファルアート(ea3502)の囁き声に、強弓を手に精神を研ぎ澄ましていた天城烈閃(ea0629)が顔を上げた。
ー聞こえる。何か分かったのか?
立ち上がると、音も立てずに歩き出す。待っていた連絡が、ただの無駄話のはずがない。指に嵌めた透明なリングを確認し、烈閃はユリゼの次の言葉を待った。
ー偵察の人達から連絡があったわ。でも‥‥
しばし空いた間から、ユリゼの躊躇う雰囲気を敏感に感じ取って、烈閃は歩みを止める。不測の事態が起きたのが、それとも、思っていた以上に敵の警戒が厳重なのか。前者であれば、他の仲間達と作戦を練り直す必要も出て来るだろう。後者であれば、力づくでも道を切り開けばいい。咄嗟の際の判断力と戦闘力を持つ者達が揃っているのだ。多少の無茶だとしても「無理」ではない。
ー私も偵察の人から伝えて貰っただけだから、詳しい事は分からないの。でも、気をつけてね
ユリゼの不安は心に影を落としたが、それは惑うほどの事でも無かろう。
ー分かった。他の者への伝達も頼む。我々は、潜入を開始する。
自分を見つめる仲間達へと頷きを返せば、それぞれが心得たように動きだす。セブンリーグブーツを履いた黄桜喜八(eb5347)の姿は、既に彼らの視界から消えている。
「さて、ここからが正念場ですね」
クリスティアン・クリスティン(eb5297)の呟きに、グラディ・アトール(ea0640)が頷いた。無言なのは、頭の中で幾つもの状況予測を組み立てているからだろうか。それが分かっているから、クリスティアンも余計な事は言わない。
「僕達の仕事は、他の班の人達とどれだけ足並みを揃えられるかに掛かっています。出来るだけ早く、安全に、人質となっている方々を救護の班にお預けしなければ」
「分かっています。任せて下さい」
落ち着いた様子のヒルケイプ・リーツ(ec1007)に微笑みを返して、クリスティアンも表情を改めた。
「では、我々も行動開始‥‥です」
差し出されたクリスティアンの手を取って、ヒルケイプは椅子代わりにしていた木の根から立ち上がる。大きな瞳の夢見がちな表情が、冒険者のそれへと変わっていくのを、クリスティアンは内心、感嘆しながら見つめた。先ほどまでとは、纏う雰囲気すら違う。
この人が、背を預けて共に戦う者ーー。
再度の認識と、安堵。
これから敵地へと赴くのに、「仲間」という言葉が持つくすぐったいような感情まで浮かんで来る。
「きっと大丈夫です。うん」
地獄に、どんな悲惨な光景が待ち受けていようとも、「仲間」と一緒ならば越えていける。
クリスティアンは、そう確信した。
●敵の目を
潜入班が動いたとの連絡を受けて、アルヴィス・スヴィバル(ea2804)は小さく手を動かした。
合図を受けて、シャロン・シェフィールド(ec4984)と伏見鎮葉(ec5421)が頷いて、それぞれの場所を確認する。
「ゲヘナの丘に攻め込んでいる人達もいるから、彼らとブッキングしないようにね。混乱しちゃうかもしれないし。僕達の目的は、あくまで捕まっているお母さんと子供の救出だから」
念を押すアルヴィスに、鎮葉は軽く手を振った。
「分かってるって。でも、ここんところ、非戦闘員というか、第一線で戦うのが仕事じゃない人間を大規模に狙う動きが多い気がするね‥‥。まあ、デビル相手に正々堂々なんて言っても無駄だと分かっちゃいるけど」
肩を竦めた鎮葉の言葉に、アルヴィス自身も共感するところがあったのだろう。大きく頷くと、常には余裕の表情を崩さない顔に、僅かばかりの嫌悪を見せた。
「まったく、何を考えているやら‥‥って、あくどい事を、だよね」
やれやれ。
そんな2人とは別の事を考えていたらしいシャロンが、不意に口を開いた。母子誘拐の話を聞いてから、ずっと気になっていた事だ。もやもやと不確かだった事が、ようやく形になりかけている‥‥そんな気がする。
「魂や命を贄とするなら時間をかける必要は無いはず‥‥ですよね」
「‥‥まあ、そうだねぇ」
相槌を打つ鎮葉に、シャロンは沈んだ顔を見せた。
自分達が、これから助け出す母子はどんな状況なのだろうか。気に掛かる。
もしかすると、母子誘拐自体が自分達を誘き出す為の罠かもしれない。その可能性を頭に入れつつ、これからの作戦を行わねばならない。より確実に、成功率が増すように。
「罠だとしても、やるべき事は決まっているんだし。そろそろ埒を明けるとしようか、師匠」
行くよ、と呪を唱え始めたアルヴィスの目の端に、小さな光の球が過ぎる。タイミングもばっちりのようだ。
「サシャ〜、ありがとうなっ!」
聞こえるはずもないけれど、感謝の言葉を喧噪の中に流して、術を放つ。
ゲヘナを守っていたデビルの一角が乱れている。
始まった、のだ。
「よーし、来た来たぁ♪」
ぱちんと指を鳴らしたディーネ・ノート(ea1542)に、ジルベール・ダリエ(ec5609)は「元気やなぁ」としみじみ呟いてみせた。
やる気が漲っている姿を見るのは気持ちがいいものだ。
ジルベールの顔に浮かぶ表情も楽しげだ。
「皆、分かっていると思うが、私達の役目はあくまで誘導だ。あまり突っ走って人質や救出班を危険に晒すような真似だけは出来ぬ」
「分かった」
デフィル・ノチセフ(eb0072)の再確認に、ルザリア・レイバーン(ec1621)が生真面目な相槌を打つ。母子の無事は何よりも優先されるべき事だ。彼らの為に用意したポーションや借りて来た聖なる釘がある事を確認して、ルザリアは剣を抜き放った。
「子の嘆きがモレクの力の源であったと聞き及んでいますが、さらわれた親子が丘の贄にされようとしているのであれば、どんな無惨な殺され方をするか‥‥。急がねばなりませんね」
偵察隊が伝えて来た母子の位置を元に彼らは動いている。偵察隊の位置よりも、彼らは母子に近い場所まで来ているはずだ。ゼルス・ウィンディ(ea1661)は意識を集中させた。
「自ら子供を死地に送っている魔物の母が、子を守る人の母を試すなんて‥‥。許せませんわ」
術を使うまでもなく、セレナ・ザーン(ea9951)の士気は高まっている。その上に闘気を高めた彼女の前に、果たしてどれだけのデビルが倒れ伏す事になるのだろうか。頼もしい仲間の姿に、ジルベールも己の弓を確認した。
弦の張り具合、しなり具合によって、使い勝手も違って来る。
「うん。今日も絶好調そうや。頑張ろうな」
「人質を救出した後の退路の確保、それからエルフェイトとシルフェを使って‥‥」
「ちょっ、これって‥‥」
言いかけたシルヴィア・クロスロード(eb3671)の言葉は、動揺したゼルスの声で途切れた。
何事かと顔を見合わせた仲間達に、ゼルスは緊張した面持ちで自分が感知した内容を告げる。
偵察隊が呼気を確認した場所に焦点を合わせ、もっと詳しい状況を知るべく呼気を探ったのだが、その結果、判明した事は‥‥。
「20に満たない? それってどういう事?」
驚いて大声を上げたディーネを制する者はいなかった。
誰も、何も答えられないからだ。
「別の場所に移されているとかならいいんですけれど、私が感知出来る範囲には、それだけの数しか」
聞かされた話では、母子は毎日のように連れて来られていたはずだ。首に縄を掛けられ、四六時中、デビル達に見張られていると。
「‥‥罠、の可能性は考えられませんか? デビルが母子に紛れて、我々を欺こうとしているのかもしれません。現に、これまでにも後方の救護所でもデビルが怪我人に紛れ込み、何度も騒ぎを起こしています」
シルヴィアの言に、ルザリアも頷いた。
「デビルは狡猾だ。我々が救出に向かう事を予測し、人質の中にデビルを紛れ込ませているのかもしれない」
「とにかく、助け出せばいいのです。そうすれば、デビルか人かは、判断出来る者が判断してくれるでしょう?」
言い切って、セレナはメルクの背に飛び乗った。
「他の班の方々は、既に動いているのです。ここで戸惑っている時間なんてありません」
ヒュージクレイモアを一振りすると、セレナはメルクの手綱を握り締めた。腹を蹴ると、心得たように走り出す。
目指すはゲヘナの丘、エキドナの元だ。
迷っている暇などなかった。
●救い出す為に
「ステラさん!」
アルヴィスから借りたミラージュコートを手に取ったステラ・デュナミス(eb2099)の姿に気付いたサシャ・ラ・ファイエット(eb5300)に笑いかけると、ステラは手早くそれを身に纏った。
そうすれば、彼女の姿は周囲の景色に溶け込まれ、見えなくなってしまう。
それでもサシャは、今の今までステラがいた場所へと向かって両の手をぎゅっと握り締めた。
「どうか、ご無理はなさらないで下さい‥‥」
「あなたもよ、サシャさん。無茶をして飛び出して、その可愛い顔に傷でも作ったら、泣いちゃう人が続出よ」
誰もいない場所から聞こえて来る軽口に、サシャは思わず微笑んだ。どんな時にも、こうやって励ましてくれる仲間がいる。それが、どれほど心強いことか。
「捕まっているお母さん達、今、助けに行きます。だから、頑張って下さい‥‥」
ほんの僅か先にいる母子達へ、届きはしない励ましの言葉を贈るサシャの肩に手を置いて、リーディア・カンツォーネ(ea1225)も地獄の空の彼方、麗しの地におわす聖なる母へと祈りを捧げた。
「リーディア、あたし達も出ようか」
「はい」
フレイア・ヴォルフ(ea6557)の声に、リーディアは強く頷いた。
戦闘班がデビルを引きつけている間に、母子を救出する。
この作戦で一番重要な部分だ。失敗は許されない。
振り向けば、同じ決意を浮かべた仲間達の姿がある。
「救出した方々は、一旦、後方の救護所に収容致しましょう。ペットやくぅさんの持っている絨毯、使えるものは全部使って、全ての人達を救い出すのです」
「勿論、1人だって残すつもりはないさ。‥‥当然、デビルは1匹だって連れて帰りゃしないよ。ねえ、セイルの旦那」
フレイアの宣言に、セイル・ファースト(eb8642)は軽く肩を竦めて応えた。
彼の視線を受けたリリー・ストーム(ea9927)は、天馬の手綱を取ったまま、にこやかに笑ってみせる。
「当然ですわ。それが、わたくし達の使命ですもの」
だそうです。
両手を軽く挙げて降参の仕草をして見せたセイルに、尾花満(ea5322)は同情の籠もった眼差しを向けて、女は強いよなと呟いた。
ただし、心の中で。
「‥‥顔に出てる」
不意打ちでびしりと指摘されて、満は飛び上がった。
彼の目に映ったのは、すたすたと歩み去っていく瀬崎鐶(ec0097)の後ろ姿。思わず顔を触った満に、今度はセイルが肩を叩く。
「出撃だと言うのに、皆さん、余裕がおありですわねぇ」
ぱんと手を打って、嬉しそうに微笑んだサクラ・フリューゲル(eb8317)に、純哉くう(eb5248)は首を傾げた。今のを余裕、と言っていいのだろうか。いやいや、人間にとっては余裕の範疇なのだ。きっとそうに違いない。人間って奥が深い。
さすがに物怖じしない性格のくぅも、それを尋ねたりなんかはしなかったけれど。
「余裕っちゃあ余裕なんだろうけどねぇ」
呆れ顔の青柳燕(eb1165)に、藤村凪(eb3310)はおっとり笑顔を見せる。
「まあ、ギスギスしとるよりも、うちはええと思うし」
「そうかもしれんがの‥‥」
和やかな燕と凪の会話を聞きながら、エミリア・メルサール(ec0193)はぶ厚い雲の覆った空を見上げて眉を寄せた。雲の流れが速い。濁った血の色に似た、雲の流れが。
押し寄せて来る不吉な予感に、エミリアは胸元の十字架を握り締めた。
●衝撃と戦慄
「な‥‥なんだよ、あれ」
捕らえられた母子の間近まで潜り込んでいた若宮天鐘(eb2156)は、その光景のおぞましさに思わず声を上げた。叫びかけた天鐘の口元を、真幌葉京士郎(ea3190)の大きな手が押さえる。
その京士郎の顔も、苦々しげで必死に嫌悪感を抑え込んでいるといった様子だ。
「デビルかどうかなんて、関係ないじゃんか‥‥」
混乱する頭の中、天鐘は必死で考えた。一番有効な手段。今、まさに文字通りに引き裂かれかけている母子を助ける為に、何をどうすればいいのか。
「‥‥っくしょー!」
レミエラが光を発すれば、居場所を気付かれるだろう。だが、そんな事を言っている場合ではない。視線を巡らせれば、京士郎も天鐘の考えを察したのだろう。頷いて剣を抜きはなった。
「まさか、ここでこれを使う事になるとはな」
自嘲めいた呟きは、天鐘の耳には届いていなかった。
発動させたレミエラで見えた光景をありのまま、テレパシーリングを握り締めて叫ぶ。
「リー坊!! 丘の上だ!! 下に集められた連中より先に、蛇女んトコに連れてかれた奴らを取り戻せ! 早くしないと、いたぶり殺されるぞ!」
天鐘の叫びは、即座にリースへと伝わり、そこから救出作戦へと向かう為に動き出していた仲間達へと伝わった。
伝えられた内容と、異様に少ない呼気の数とで、ゼルスは粗方を察したようだ。
「攻撃班と救護班を2班に分けましょう! 丘では一刻を争う事態が起きていると考えられます。急いで!」
このような時、少ない言葉で事情を察し、即座に対応出来るのが冒険者だ。積み重ねて来た経験と培った勘と、本能とが一瞬で状況の取捨選択を行うのだろう。
「下は俺とルザリアさん、デフィルさんに任せとき。あっちで別班の連中とも合流出来るし、情報ではこっちは青っ白いデビルやインプ達がいるだけみたいやし」
とはいえ、数は相応のものだ。
戸惑うディーネの背を叩いて、ジルベールはにっかり笑って見せた。
「突っ走ってる連中もおるし、あっちにはヴィスさんもおるやろ。こっちはこっちで数に対応出来るだけ残ってるし」
「分かった。頼んだよ〜っ!!」
勢いよく駆け出したディーネを見送った後、ジルベールはさて、と残った仲間達へと視線を移した。
「というわけやし。頼むで」
「仕方があるまい」
会話の終わりを待っていたわけではあるまいに、雲霞の如く襲いかかって来るデビルの群れに、ルザリアはクルテインで斬りつけた。いかな名剣とはいえ、一度に何十体もは斬れないが、それは盾で牽制しつつ、確実に数を減らしていく。
接近戦に不利なのは、弓を使うジルベールだ。
「ルザリア君!」
デフィルはデフイルで、ルザリアの剣に炎の力を付与したくとも、デビルに囲まれたこの状態では近づく事も出来ない。
「このぉ〜! 私を怒らせたなっ!」
作り出した炎でデビルを焼き払うが、それでも後から後から湧いて来る。何とかジルベールと背中合わせになった頃には、デフィルの息は上がってしまっていた。
「頑張りや、デフィルさん! も少ししたら偵察の皆と合流出来るし」
「わ、分かっている!」
偵察隊と合流、つまり、捕らえられた母子がいる場所だ。助けに来た身としては、無様な様は見せられない。
「まだまだ! 10でも20でも掛かって来るのだ!!」
「わあ、元気やなあ、デフィルさん」
矢を放つ合間に、ぱちぱちと手を打つジルベールは、先ほどから何かを計っているようだ。ちらりちらりと視線を動かす様子は、剣を奮い続けるルザリアも気付いていた。
「ん、そろそろかな」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、デビルの壁が崩れた。
潜入部隊として先行していたグラディと喜八の姿が、デビル達の合間に見え隠れする。
「これを待っていたのか」
捕らえられた者達を助けに行くでもなく、あまり場所も動かず、ただデビルと戦い続けていたのには理由があったようだ。ルザリアの呆れたような、感心したような視線を受けて、ジルベールは頬を掻いた。
「間違いなく、潜入班の方が人質に近いだろうしね。俺達の役目は誘導なわけやし」
「誘導の役目、確かに果たして貰いました!」
不敵に笑ったグラディの視線を追えば、空飛ぶ絨毯が何人かの母子を連れて後方へと向かっている。絨毯を操っているのは、くぅのようだ。
「鐶、これをあんたに任すぜ!」
もう一枚の絨毯に、怯えた母と子を無理矢理に乗せる。河童という種族を知らぬ子供は、喜八に怯えて泣きじゃくっている。
「こら、坊主。お前は男の子だろうが。おっ母さんを守らなきゃいけない男が、泣いてどうすんだ」
ぐりぐりと子供の頭を乱暴に撫でて、後を鐶に任せる。
「使い方は色んなアイテムと同じだ。空から来る敵は、頼んだぜ」
こくんと頷いて、鐶は弓に矢をつがえた。いつでも臨戦態勢、気合い十分というところだろうか。泣いていた子供以外にも数人の母子を乗せて、鐶は精神を集中させた。ふわりと浮き上がる絨毯を飛ばせまいと、インプの群れが押し寄せて来る。
片っ端からそれを打ち落として、ジルベールは行け、と合図を出した。
「いいか! 救護所には先にくぅが行ってる! 弱ってる奴らはくぅに任せればいい! おいら達も他の奴らを助けたら戻ると伝えてくれ!」
「‥‥分かった」
喜八の叫びが聞こえた事を示すように、鐶が手を挙げる。
去って行く絨毯を見送ると、グラディは剣を持ち直した。
残る敵はまだまだ多い。
そして、その向こう側に捕らえられた者達も。
「もう一暴れ、と行きますか」
軽く眉を上げたジルベールと笑みを交わし、グラディは青白い顔をしたデビル目掛けて駆け出して行った。
●慟哭の丘
その頃、ゲヘナの丘の上では、天鐘の叫びに呼ばれて辿りついた者達が息を呑んでいた。
「なんという‥‥事を」
呆然としたシルヴィアの呟きに気付いたように、ずるりと蛇身が蠢く。振り向いた女の顔には、ぞっとするような笑み。
「虫どもがここまで入り込んで来たか」
喉の奥で笑う声に怖気が走る。思わず聖なる母に祈りを捧げたリーディアに、女は高らかな嘲笑を漏らした。
「聖なる母じゃと? 祈るだけで子の為に何もせぬ母に、祈りを捧げたとてどうなるというのじゃ!」
女の指先が、デビル達の前に並ばされた女を示した。恐怖の余り失神しかけた女にしがみつくのは、彼女の子供であろう。
「さあ、母よ、選ぶがよい。子を救いたいか。それとも己が助かるか」
どちらを選んでも助かりはしない。
それは、その場を真っ赤に染め尽くす血が示している。なのに、女は母親に選択させるのだ。笑いながら。
「止めて! 止めて下さい! どうしてこんな酷い事を!」
飛び出しかけたリーディアの腕を掴んで、オイルが背後へと引き戻す。今の状態では、敵の思う壷だ。冷静に周囲を見回せば、鎮葉と京士郎がじわり、囲みの薄い側へ気取られぬように動いている。
騎乗したままのセイルとフレイアも、いつでも飛び出せるよう得物を抜き放ったまま。ディーネとアルヴィスは静かに詠唱に入っている。
そんな仲間達の様子に気付いた燕と凪も、人質を確実に連れ出せるように経路を確認しているようだ。
後は、とオイルは反対側で怒りに満ちた表情で拳を握り締めている満と視線を交わした。彼も、恐らくオイルと同じ事を危惧しているのだろう。
恐慌状態の母親と、血と死の洗礼を受けてしまった子供達が、自分達の動きに反応しきれるか。
逃げたいという本能が働けば、助けの手に縋ってくるかもしれない。
けれど、その本能すらも麻痺した極限状態に陥った彼女達が、冒険者を助けと認識出来るのか、体を、手足を動かすだけの気力が残っているのか。
テレパシーリングを使って語らっていたらしい静とリースも、難しい顔をしている。
冒険者だけであれば、何とか出来る局面だ。
だけれど。
「皆様! お母様方!」
白い羽根を羽ばたかせ、赤い空に優雅に翔る天馬に跨ったリリーの凛とした声に、母親達はのろりと顔を上げた。
「救われたいならば、気を強く持ち、立ちなさい! そして、子供の手を握ってあげるのです。決して離してはなりません!」
その一言は、母親達を一瞬、正気に戻すのに十分な力を持っていた。
「今だっ」
鋭い声が、彼女の夫から発せられる。
同時に、セイルは馬の腹を蹴った。周囲のデビル達をその蹄で蹴倒しながら、霊剣を奮う。その剣圧に吹き飛ばされたデビルを、後ろに乗ったフレイアの矢が仕留めていく。
デビル達に生まれた髪の毛一筋ほどの隙が、冒険者達に反撃の機会を与えたのだ。
「師匠、行きますよっ」
「分かってるよ!」
ディーネとアルヴィスの放った時間差の魔法攻撃が、デビルの動きを封じる。
「今じゃ!」
燕が示した退路に、母親達はのろのろとした視線を向けた。まだ、助けが来たという実感が湧いていないのかもしれない。
「手出しはさせません!」
人質達を連れ戻そうとするデビルとの間に、戦闘馬にのったサクラが割り込む。その後ろに騎乗した凪の弓が、デビルを射抜いた。
「皆さん、こちらです! 大丈夫。もう大丈夫ですから!」
助かるかもしれない。
そう気付いた母親達は、打って変わって鬼のような形相で冒険者達へと詰め寄って来る。我先にと手を伸ばす者達の中には、子供の事を忘れて助けの手を掴もうと必死になる者もいた。
「大丈夫です。必ず、お守りしますから、どうか!」
シャロンやサクラの天馬の背に乗せた子供を、引き下ろそうとする者まで現れた。
「落ち着いて下さい! どうか、お願いですから!」
天馬を飛ばせば、落胆の息が漏れる。嘆きの叫びと半狂乱になった母親達の金切り声が響く。
「ほほほほほほ! どうじゃ? その者達なぞ、助けてやる価値もないと分かったであろ? ここで妾の慰みになるのが似合いじゃ!」
「そんな事はありません! 今は、混乱しているだけです。人は、そんなに弱くはありません!」
毅然と言い返したエミリアに、エキドナはちらりと視線を向けた。獲物を嬲り、締め上げる蛇が舌なめずりをする。だが、エミリアの視線は揺るがなかった。そこへ、
「皆様〜っ! 助けに来ましたですの〜っ!」
空飛ぶ絨毯に乗ったくぅの、澱んだ空気すらも突き抜ける明るい声が響く。くぅの絨毯の後ろからは、鐶の絨毯も見える。
これで本当に救われる。
そう頭と心とで理解した母親と子供達が、安堵で座り込んでしまうのを支える仲間達を横目に見ながら、満は口元に笑みを浮かべてエキドナに向けて聖剣を突きつけた。
「ま、そういう事だ。これ以上、お前の好きにはさせない。人間の底力というものを、じっくりと見ていて貰おうか」
全ての者達が無事に丘から去るまで、エキドナを牽制するつもりなのだろう。
剣を突きつけられた当の本人は、面白くなさそうに唇を尖らせた。
「全く。脆弱な人間など、一時の余興にしかならぬものを。‥‥のぅ?」
最後に語りかけたのは誰へ向けてであったのか。満には知る術はなかった。
●祈る事しか
助け出した母子は、40人と少し。
実際に捕らえられた数からすれば、あまりに少ない。助けが間に合わなかった者達は、ゲヘナで生きたまま引き裂かれたり、獣に食いちぎられたりと、悲惨な最期を遂げたようだ。
それを目の当たりにした者達の中には、恐慌状態から抜け出せないまま泣き叫んでいる者もいる。
「ぜーんぶ夢でしたの。ですから、今度はゆっくり良い夢を見て下さいましの」
持っていた「夢の続き」を握らせてやったり、毛布を掛け直したり。
恐怖から抜け出せない者達へのメンタルケアにまわるクリスティアンやくぅは救護所の中でも休む事も出来ない。
「本当に、全てが悪い夢だったらよかったのですが‥‥」
哀しげに睫を伏せたサクラに、リーディアも哀しげに頷いた。
失われてしまった命は、再び戻る事はない。心に刻みつけられた、哀しく忌まわしい記憶も消える事がない。でも、とリーディアは指を組む。
「どうか、‥‥どうか、聖なる母よ‥‥この地に深く染みつく悲しき思いが‥‥魂が‥‥浄化されますように‥‥」
今は、祈る事しか出来なくても。