愛の秘薬

■ショートシナリオ


担当:桜紫苑

対応レベル:4〜8lv

難易度:やや難

成功報酬:3 G 16 C

参加人数:8人

サポート参加人数:-人

冒険期間:11月06日〜11月12日

リプレイ公開日:2005年11月17日

●オープニング

「よぉ、トリス」
 1つの依頼を終え、潤った財布でエールを一杯と立ち寄った酒場に見知った顔を見つけ、彼は軽く手を挙げた。
 許可も取らずに彼の前に陣取ると、ゴブレットに注がれたエールを喉へと流し込む。
「やっぱ、依頼の後のエールは美味いよなー!」
 礼儀に適ったとは言い難いが、目の前の男も何も言わない。
 ここは王侯貴族のおわす宴席ではなく、キャメロットの市民が憩う酒場なのだ。彼が誰であろうと、今は騒がしい酒場の片隅でエールを飲んでいるだけのただの男だ。
「それで」
 卓の間を忙しそうに行き来している店の看板娘にエールの追加を頼むと、冒険者はずずいと身を乗り出した。
「こないだの依頼で何かあったって? んん?」
 無表情な男の顔を覗き込むと、彼は器用に片方の眉を上げる。
「何か悩んでるなら、おにーさんが相談に乗るぞ?」
 返ったのは小さな吐息が1つ。
「溜め込むなよ? 別に、好奇心で聞いてるわけじゃないぞ」
「‥‥分かっている」
 ようやく口を開いたかと思えば、短い一言だけだ。冒険者は道化師もかくやとばかりに大仰に肩を竦め、嘆いて見せようとしたのだが。
「この薬があれば、トリスタン様は私のモノも同然!」
 やけに弾んだ声が彼の耳を打った。
 何だか聞き流す事が出来ない内容だったのは、気のせいだろうか。
 興奮気味な高い声が聞こえていないわけでもあるまいに、トリスは素知らぬ顔でゴブレットを口元へと運んでいる。
「すごーい! シェリーったら、そんなものどこで手に入れたのよ!」
 冒険者は、ちらりと隣の卓へと視線を向けた。
 仕立てのよいドレスに、丁寧に手入れされた髪。酒場には場違いな娘が2人、そこに陣取っていた。
 上品なドレスも着崩されて品位を保つ事が出来ず、かと言って下品にもなりきれず、妙に浮いた雰囲気を漂わせている娘達だった。
「この間ね、トリスタン様の運勢を占ったという占い師のお婆さんに会ったのよ。なんでも急ぎの旅でお金が入り用になったから、秘薬中の秘薬を売る事にしたとかで」
 聞き耳を立てつつおかわりのエールを口に含んだ冒険者は、噎せ返りそうになった。
「‥‥トリス‥‥」
 ゴブレットを卓に戻して、彼は再び吐息をついた。
 だが、周囲など気にも留めていない娘達は、夢中で話を続けている。
「だから、あるだけ全部買い占めたのよ。そんな凄い秘薬、他の人に渡してたまるものですか!」
「きゃー♪ さすがシェリーねっ! それで、それで、そのお薬に何が入ってて、どんな効果があるの? 教えて、シェリー!」
 媚びを含んだ友人の言葉に、シェリーと呼ばれた娘はしばらく勿体ぶっていたが、彼女自身も話したくて仕方がなかったらしい。幾分、声を潜めて語り出した。
「秘薬だもの。作り方は教えてくれなかったけど、材料は教えてくれたわ。まず、イモリの黒焼きでしょ、それからクレイジェルの干物に、南の方にいるって言う大ナメクジと大ゴキブリ、ポイズントードの卵‥‥」
 冒険者は、思わず口元を押さえた。
 想像するだけで気持ちが悪い。
「というか、クレイジェルの干物って何だよ」
 小声で突っ込みを入れた彼の耳に、トドメの一言が飛び込んで来る。
「その薬を飲むと、飲ませた相手に夢中になっちゃうんですって! 飲ませた相手しか見えないってぐらいに、恋焦がれるの! つまり、惚れ薬ってやつね」
「シェリー! まさか、それをトリスタン様に飲ませちゃうの!?」
 げ、と冒険者は青ざめた。
 惚れ薬なんて嘘に決まっているだろ、とか。
 材料を聞いた時点で嫌悪感を催せよ、とか。
 言いたい事は色々とあったが、今は、目の前の男の反応が怖い。
「当然でしょ! 今度の父様のパーティ、ちょっとしたツテからトリスタン様をお招きする事が出来たんですもの。この機会を逃す手はないわよね。私は、超絶美形と噂の円卓の騎士様と激しい恋に落ちるのよ!」
ーー横見ろよ、横っ!
 とある冒険者曰くの「キラキラ美形オーラ」を傍迷惑に放っている男が、大量にいてたまるか!
 彼の心の叫びも知らず、今にも高笑いをしそうな娘の言葉の真偽を、一応、本人な確認してみる。
「パーティとか、招待とか本当なのか?」
 ややあって、彼は頷いた。
「そういえば、断り切れなかったものがあったと思う」
 がくりと項垂れた冒険者は、盛り上がりまくっている娘から飛び出した更なる恐怖の言葉に凍り付く事となった。
「でも、トリスタン様がそのお薬を口にされなかったらどうするの?」
「簡単じゃない。パーティの飲み物、食べ物全部に薬を入れとくのよ!」
 そんな、アナタ、危険物を会場中にばらまくつもりデスカ‥‥。
 唖然とした冒険者の目の前、トリスはとんと卓に拳をおいた。
 激しくはないが、彼にしては珍しくも苛立った仕草だ。
「トリス?」
「‥‥依頼を出す。パーティには私以外にも大勢の者が招かれているはずだ。彼らを守らねばならない」
 騎士としての務めか。
 はたまた、身の危険を感じたのか。
 彼の心中は分からぬが、確かに娘達の企みは阻止せねばならない。
 頷いて、彼は席を立つトリスに続いたのだった。

●今回の参加者

 ea0037 カッツェ・ツァーン(31歳・♀・ウィザード・人間・ノルマン王国)
 ea3104 アリスティド・ヌーベルリュンヌ(40歳・♂・ナイト・人間・フランク王国)
 ea4818 ステラマリス・ディエクエス(36歳・♀・クレリック・人間・神聖ローマ帝国)
 ea4825 ユウタ・ヒロセ(23歳・♂・ファイター・人間・イギリス王国)
 ea5913 リデト・ユリースト(48歳・♂・クレリック・シフール・イギリス王国)
 ea9669 エスリン・マッカレル(30歳・♀・ナイト・人間・イギリス王国)
 ea9679 イツキ・ロードナイト(34歳・♂・レンジャー・人間・イギリス王国)
 eb2287 ソウェイル・オシラ(22歳・♂・ウィザード・エルフ・ロシア王国)

●リプレイ本文

●下準備
 屋敷の主は、堅実な商売と誠実な人柄で大貴族を相手にするまでになった商人だと言う。
「だが、娘の育て方は間違えたみたいだな」
 呆れ半分に呟いて、アリスティド・ヌーベルリュンヌ(ea3104)は肩を竦めた。娘の企みが公になれば、これまで築き上げて来た信頼も総崩れだ。
「子供を甘やかしちゃいけないんだよね」
「そ、そうだな」
 彼の傍らでしゃがみ込み、大人びた溜息をついたユウタ・ヒロセ(ea4825)に、アリスティドは僅かに口元を引き攣らせた。喉まで出かかった言葉を飲み込むと、屋敷を見る。
「ともかく、だ。今は被害が出る前に常識無しで無知な娘の暴挙を止めねばならない。だが、パーティにはそう簡単に潜り込めやしないだろう」
 怪訝そうに見上げて来るユウタに、アリスティドは視線で仰々しく飾り立てられた玄関を示した。
「仮にも円卓の騎士を招くパーティだ。招待客でもない一介の冒険者が入り込めるものか」
「あ、そっか」
 冒険者トリスではなく、円卓の騎士トリスタンを招く宴は、恐らくは貴族‥‥それも、中流以上の貴族達が集うはずだ。下手をすると中流貴族でさえも招かれてはいないかもしれない。
 そんなパーティで、怪しげな薬が出回り、出席者達の口に入る事にでもなったならば‥‥。
 考えるだに恐ろしい。
 体を震わせると、アリスティドはユウタを促した。
「行くぞ。潜入する手段を講じねば、惨劇を防ぐどころではない」
「うん! あ、でもね」
 屋敷に向かって踏み出した足を止めて、アリスティドが振り返る。
「ボク、潜入するのは、おいしいご飯がいっぱいある所がいいなっ(=厨房がいいなっ)」
 無言で、アリスティドは歩き出した。

●それは世にも恐ろしい‥‥
 円卓の騎士トリスタン・トリストラムとしてこちらに向かっているトリスよりも一足早く仲間と合流したリデト・ユリースト(ea5913)は、早速仕入れて来た情報を仲間に伝えていた。トリスの時と違って、気軽に声を掛けられないであろうトリスタンとの連絡役は、体の小さなリデトが適任だ。
「皆の事もちゃんと伝えて来たのである!」
「で、リスちゃんはなんて?」
 えへんと胸を張ったリデトに、ちょんと小首を傾げたソウェイル・オシラ(eb2287)が尋ねた。一瞬、その場が凍り付いたのは、ソウェイルの使うトリスの呼び名にまだ慣れていないからだ。
「承知した」
 トリスの口調を真似たリデトに、ソウェイルはぱちぱちと手を叩く。
「似てる似てる! 上手だね、リデトさん!」
 ざくりと、イツキ・ロードナイト(ea9679)の手元からおかしな音が響いた。
「‥‥あ。‥‥ま、いいかぁ」
 呟いて、イツキはそのまま作業へと戻った。
 彼から少し離れた所では、カッツェ・ツァーン(ea0037)達、女性陣が何やら話し込んでいる。
「でも、怪しげな薬を使っちゃうぐらい好きなのに、酒場で隣にいて気付かないものなのかなぁ」
 腕組みして、眉間に皺を寄せるカッツェに、ステラマリス・ディエクエス(ea4818)は聖書を捲る手を止めた。気のせいか、随分と使い込まれた様子の聖書である。
「恋する乙女は怖いですわね」
 何気なくステラが口にした言葉に、カッツェは小さく唸って「恋」と繰り返し呟いた。
「‥‥もしかすると、「円卓の騎士様に恋する」事に恋している状態なのかも」
 少女期によくある話だ。いつか巡り会う恋、それも吟遊詩人が歌う恋歌のような劇的な恋愛、自分1人に愛を捧げる最高(重要)の男性‥‥。
「そういうお年頃かもしれませんね」
 自身も身に覚えがあるのだろう。ステラは困ったような表情で小さく頭を振った。と、そこへ
「そっ‥‥そうなのか!?」
 それまで黙って2人の話を聞いていたエスリン・マッカレル(ea9669)が割り込んで来た。顔を見合わせたステラとカッツェに、はたと我に返って、エスリンは頬を紅潮させてあたふたと取り繕う言葉を探している。
「ふーん?」
「あらあら」
 生暖かい2人の眼差しを受けて、エスリンは居心地悪そうに身動いだ。その肩に、がしりとカッツェの腕が回される。
「い、いや、なんでもないんだ」
「まあまあ、そう恥ずかしがらなくてもいいって。あ、そうだ! 今度、女だけで恋話しない?」
「それは良い考えですね」
 ぐちゃり。
 奇妙な音が響いた後、しばし、沈黙が満ちた。
 先ほどまで大盛り上がりしていた女性陣も、思わず黙り込む。
「‥‥‥‥あーあ。でも、いいよね。別に体に害があるものは入ってないし」
「な‥‥なんか、イツキが怖い事言っているのであるッ」
「どどどどうしよう!? 俺、今、何か凄いモノ見ちゃったような気がするっ」
 血の気のひいた顔で身を寄せ合ったリデトとソウェイルに、イツキは穏やかに微笑んだ。手に持っているものは、濃い緑色をした液体である。
「ご心配なく。これはケールをすり潰した汁だよ。体にとってもいいものなんだから」
 でも、何故だろう。
 自分は、絶対に飲みたくないと思うのは。
 そんな事を考えつつ、イツキは出来たての汁を小瓶に分けた。

●誘導
 下働きとして潜り込む事に成功したユウタは、つまみ食いをする暇もなく、あちらこちらで雑用を言いつけられていた。1つ終われば、また1つ言いつけられて、周囲を警戒するどころの騒ぎではない。
「坊主! 瓶の水を汲んで来てくれ! 大至急だぞ!」
 空になった瓶を抱え、厨房から飛び出したユウタは、中を覗き込んでいたらしい影と寸でのところで衝突しかけて蹈鞴を踏んだ。
「わぁっ!? びっくりした!」
 瓶を頭上高く掲げたユウタに、影は慌てて走り去って行く。
「あれ? 今の、女の子の声だったよね?」
 ぴんと閃いたのは1つの答え。
 ユウタは急いで影の後を追いかけた。
 同じ頃、籠一杯の薬草を抱えたソウェイルも、屋敷の中を走っていた。アリスティドの手引きで潜入する事は出来た。後は、目的の人物と接触すればいい。
「リスちゃん、そろそろ到着するのかな」
「たぶん」
 リデトは内心、焦っていた。
 トリスが、立場上、人前でピュアリファイやアンチドートを使用出来ないならば、リデトが万が一に備えておかなければならない。しかし、トリスの元へ向かうのは、仲間達の首尾をある程度見届けた後だ。
 さもなくば、連絡役として正確な情報を届けられない。
「‥‥あっちから来るのである」
「うん」
 素早く、リデトが天井まで飛び上がると、ソウェイルは素知らぬ顔で走る速度を上げた。
「きゃあ!」
「わぁーっ! ごめんなさーい!」
 ぶつかって来た相手の頭の上に薬草をぶちまけた所へ、大きな瓶を抱えたユウタが追いついて来た。
「大丈夫? あ、草がいっぱいだよ。ボクが取ってあげるね」
 ユウタが髪についた薬草を丁寧に取り除き始め、シェリーが動けなくなった所を見計らって、ソウェイルは懐のタロットカードを取り出し、おずおずと申し出た。
「お詫びにお嬢さんの運勢を占いますね」
 手早く床にカードを並べ、我に返った娘が言葉を紡ぐよりも先に、彼女の知らぬ言葉で呟きを漏らす。知らぬ言葉で意味深に呟かれては、聞く気が無くとも気になってしまうというもの。
 黙り込んだ娘に代わって尋ねたのはユウタだ。
「今、何て言ったの?」
「あ! ごめんなさい。えーと‥‥あのね、あまりよくない結果が出たんだ。薬草‥‥イモリにカエルに黒い物‥‥何だろう。最近、何か手に入れました? それが貴女に災いをもたらそうとしています」
 ええっ!? と、役者が舞台でポーズを決めるが如くに驚いて見せて、ユウタはシェリーを振り返った。
「お嬢様、そんな変なものを持っているのっ!?」
「ちょっと待って。転換の風が吹くよ。それに縁がある者、銀色の使者が災いを打ち消す方法を教えてくれるみたい」
 座り込んだ娘の体をガクガクと揺さぶって、ユウタは訴えかける。
「お嬢様、銀色の使者が来るまで、その変なものはボクに渡しといて?」
「あ‥‥でも‥‥」
 手の中の小瓶をぎゅっと握り締めたシェリーに、全開笑顔で畳みかける。
「使者が来る前にお嬢様に災いが降りかかったら大変だもん。ね?」
「でも‥‥やっぱり駄目!」
 言うが早いか、シェリーは立ち上がり、そのまま駆けだした。どうやら恐怖よりも劇的大恋愛への誘惑が勝ったようだ。
「あーあ」
「大丈夫だよ。ちゃんと手は打ってあるんだし」
 残念そうなユウタに、カードを拾い集めていたソウェイルはのんびりとした微笑み向けた。

●揺れる心
 遠慮がちに叩かれたドア越し、家令の声が響く。
「旦那様、円卓の騎士トリスタン・トリストラム様ご到着でございます」
「分かった。すぐに行く」
 頭を抱えていた男は、窓際に立つアリスティドに苦悩に満ちた視線を向けた。
「本当に大丈夫なのか」
「勿論。今頃、仲間が薬を回収しているはずだ。‥‥今後、娘が騙される事がないように、よく言い聞かせておく事だな」
「う‥‥うむ」
 突然にやって来た冒険者の言葉を、父親である商人はすぐには信じなかったが、アリスティドの話の内容に、やがて青ざめて黙り込んでしまった。彼にも心当たりがあったのだろう。
「だが、本当に客には気付かれないのだろうな? 今日は円卓に連なる方がお見えになっている。かの方に知られるような事があっては、私はもうおしまいだ‥‥」
 その当人が依頼人ですとは、さすがのアリスティドも気の毒で言えなかった。
「仲間がうまくやってくれるさ」
 そう答えて、彼は窓の外に視線を向けた。
 彼の視界の中、占い師の弟子に扮したエスリンが娘に耳打ちをしている。うまくいけば、ここで薬を無害なものにすり替えられるはずだ。
「ええ、そうです。師は大事な事を貴女に伝え損ねてしまった事に気付き、私を遣わしたのです」
 言い置いて、エスリンは手を差し出した。
「薬の確認をさせて頂いてもよろしいですか? 薬を間違ってお渡ししていないかも気に掛かります」
 一瞬だけ躊躇をみせて、娘は小瓶をエスリンの手に置く。栓を抜き、匂いを嗅いだエスリンは、その場で昏倒しそうになった。気力と使命感と女の意地で平静を装い、元通りに栓をして、彼女は大きく頷いた。
「薬は間違いないようです」
 娘の手に戻す直前に、隠し持っていた小瓶とすり替える。
「では、師からの言葉を伝えます。多人数に飲ませた場合、我先にと貴女を奪い合う事態が起きる可能性があります。また、薬の効力は飲ませた直後、目の前に貴女がいればより一層効果があるとの事です」
 娘は小瓶を抱き締め、エスリンの言葉を繰り返すと身を翻した。その後ろ姿を見送って、エスリンは2階の窓から覗くアリスティドに頷いて見せる。
「だが‥‥彼女と同じ立場、同じ機会を与えられた時、薬を使うという誘惑に、私は打ち勝つ事が出来るだろうか‥‥」
 手の中に残された小瓶を見つめて、エスリンは苦い呟きを漏らしたのだった。

●最高の媚薬
 後は料理が会場に運ばれるのみ。
 ぎりぎりまで厨房の様子を窺っていたカッツェも、そろそろ給仕の仕事につかねばならない。
 主が今日のパーティの為に呼んだ優秀な人材‥‥となっている以上、いつまでも厨房に張り付いているわけにはいかないのだ。
「諦めてくれた‥‥のかな?」
「そうだといいんだけど。‥‥あ!」
 給仕に向かおうとカッツェが踵を返したその時に、イツキが小さく叫ぶ。
 咄嗟に振り返ったカッツェは、その一瞬を見てしまった。
 まだ幼さの残るあどけない顔立ちをした娘が、湯気を立てるスープに小瓶の液体を注ぎ込んだ瞬間を。
ーしまった!
 2人は顔を見合わせた。
 だが、もう時間がない。
 カッツェは覚悟を決めた。
「ちょっと失礼、味見させてね」
 屋敷の給仕の手を止めて、スープを一掬い口元へと運ぶ。
「くっ!」
 カッツェの手からスプーンが落ちた。苦悶の表情を浮かべたカッツェが伸ばした指がスープの鍋をひっくり返す。
 音を立てて床に転がった鍋と、崩れ落ちるカッツェと。
 大声で何度も名前を呼ぶイツキの声を聞きながら、カッツェは心の中で料理人達に謝ったのだった。
 その頃、厨房の騒ぎが伝わらぬ広間は、和やかなパーティが始まっていた。
 主賓として主の隣に座っていたトリスタンに、頬を染めながら杯を差し出したのはシェリーだ。
「トリス、イツキが言うには体に良いものだそうである」
 卓の下に潜んでいたリデトがこっそり告げる。淀んだ沼の色をしていたが、イツキが言うのだから大丈夫だろう。多分。
 蒼白となった主の目の前、トリスタンは杯をゆっくりと呷る。僅かに形の良い眉が寄ったが、反応らしい反応はそれだけだ。
 全て飲み干し、トリスタンは期待に瞳を輝かせている娘に杯を返した。
 杯を受け取り、娘は深く一礼した。体が震えているのは、トリスタンに変化がない事で失敗を悟った為か。しかし、それ以上、その場に留まるのは不自然だ。杯を抱えて、娘は足早に広間を出た。
「お嬢様」
 唇を戦慄かせ、今にも癇癪を起こしそうなシェリーに静かな声が掛けられた。
「何っ!?」
「‥‥殿方を振り向かせる為の、一番の方法をお教えしましょうか」
 そこに立っていたのは、シェリーが見た事のない女性だ。
「それは、ご自分を磨かれる事です。外見だけではありません。内面も大切です。内側から輝く女性の魅力は最高の媚薬となって殿方を虜にするのです。覚えておいて下さいましね」
 きゅっと唇を噛んで、娘は足音も荒く駆け去って行った。
 彼女はまだ幼くて、騙されたという事実を受け止める事も、激情を制御する事も出来ないのだろう。
「ですが、きっと分かって下さいますよね」
 慈しみに溢れた笑みを浮かべて、ステラは祈るように胸元で指を組み合わせた。
 その手に握られている小瓶は一体、何なのか。
 全ては静かな微笑みの中に‥‥。