●リプレイ本文
●かの国の‥‥
冒険者の為に新年会、その会場となる酒場から上機嫌な鼻歌が聞こえて来る。
太陽は既に落ち、周囲に闇が満ちる頃。
もうそろそろ、新年会の参加者達が集う時間だ。
「んで? この後、どうすればいいんだ?」
ライル・フォレスト(ea9027)の手元では、炊きあがった飯が湯気を立てている。その郷愁を感じさせる香りに、葛城伊織(ea1182)は不覚にも緩んだ目元をぐいと袖口で拭いた。まさか、イギリスで米飯に出会えるとは。
この時期に露店で見つけて来てくれた幸運の持ち主と、出資してくれたトリスタンに感謝だ。
「皆で食うには量が少ねぇな。ちっちぇのにするか」
ぶつぶつと呟きながら、伊織は手を水で濡らして炊きたての飯を手早く握ってみせた。
「‥‥それだけ?」
目を丸くしたライルに、おうよと伊織は胸を張る。
「味付けは塩だけだ。食う時に崩れないように、しっかりと握っとけよ。あ、でも硬くなり過ぎても駄目だ。こう、ふわっとな」
教えられた通りに、ライルは飯を手に乗せた。
かなり熱い。
「‥‥伊織サン、ヒートハンドでも使ってるのか‥‥?」
「うんにゃ。こんなん、気合いだ気合い!」
ジャパンの料理は気合いで出来ているのか。
ライルに偏った誤解を与えてしまった事を知らぬ伊織は、メインの鶏煮込み鍋の側へと戻っていく。これも、ジャパン風にしたかったのだが、さすがに材料の全てを揃えるのは無理だった。それでも、少しなりとジャパン風味に近づけようとした伊織の努力の結果、スープでもシチューでもない、ほんのりジャパン風の鍋が完成した。
「わぁ、これがジャパンの料理なのだ!」
ヤングヴラド・ツェペシュ(ea1274)が上げた歓声に、伊織は自慢げに胸を張る。
「でも、1つしかないのだが?」
「これは、皆で突っつくんだ。なんか、仲間って気がしてくるだろ」
そんなものかと、ヴラドは差し出された2本の木の棒を手に取って首を傾げた。渡されたのはいいのだが、これは何だろう。
「ヴラドさん、これはお箸って言います。これを使って食べるんですよ」
耳打ちして、甲斐甲斐しく使い方を教える少女に、ウォルフガング・シュナイダー(ea0433)は目を細めた。なんだか微笑ましい光景で、心温まるというものだ。今日は新年を祝う宴だ。自分も彼らのように素直に接してみよう、彼女に。
「ユイス、美味そうだぞ。食べてみろ」
見様見真似で箸を使い、渡された小皿に鍋の具を取り分けて、ウォルフはユイスの前に置いた。
「こっ、こんな事して貰わなくとも、自分で出来‥‥」
頬を染めたユイス・イリュシオン(ea9356)の表情に、ウォルフは苦笑する。どうやらまだ緊張気味のようだ。
「別に、誰が取ってもいいじゃないか。俺は、ユイスにしてやりたいと思ったからしたまでのこと」
「っ!」
傍目にも赤く染まったユイスに、ライルは戸惑った。ここで割り込める雰囲気ではない。ないのだが、とりあえず給仕の役目だけは果たさねばならない。こそっと、ウォルフとユイスの前にゴブレットを置く。
目礼を返したウォルフと違って、ユイスは周囲を気にするどころではなくなっているらしい。
「で、なんで伊織さん達は皆と食べないんだ?」
「んー? とりあえず賄い食ってところか?」
謎だ。
ジャパンにはどうやらライルの知らぬ事がまだまだたくさんあるらしい。
まぁいいか。
伊織達の卓にもゴブレットを置いて、ライルは片目を瞑ってみせた。
「ハーブワイン。俺秘蔵の」
「おお、ありがとな!」
にかっと笑って親指を立てた伊織に同じポーズで応える。
こちらもどうやら良いムードである。長居するのは野暮と言うものだ。
「‥‥俺も、早く切り上げよっと」
騒がしい宴会場の中、どこに居てもその存在を探している。気にしないフリで仕事に熱中してみても、ついつい目で追いかけてしまう。そんな相手が、彼にもいる。今日こそ、ちゃんと想いを告げよう。
そう心に決めて、彼は捲り上げていた袖をおろした。
●ダンスの後
「新年、というものは毎年訪れるものですが、今年は特別ですね」
途切れたリュートの演奏にダンスパーティは終わりを告げた。それでも踊り足りない人々の要望に応えて、即席楽士達が陽気な楽を奏で始めた。冒険者は「冒険」に関わる戦闘技能以外にも、様々な特技を持つ者がいる。特に音を奏で、歌を歌う者は多い。そんな特技を持った有志が、個々の楽器を荷の中から引っ張り出して来たらしい。
再び出来た踊りの輪を一瞥すると、ユイスはエールで喉を潤していた宴の主催者に声を掛けた。
「そうだな。イギリスにとっても、世界にとっても新しい時代が訪れたのだから」
「その新しい時代を築く為の力に、私達はなれたのでしょうか」
仲間と共に走り抜けた日々が時代を動かしたのだと、自分達の手で重い扉を開けたのだと考えてもよいのだろうか。
「無論」
ユイスの視線が、仲睦まじく踊る恋人達に向けられている事に気づいたのかどうか。
トリスタンは彼女へと手を差し出した。
「トリスタン卿‥‥」
驚いて見上げて、ユイスはおずおずとその手を取った。自然に出された手を断るのは不自然に思えたので。
「慣れて‥‥いらっしゃいます‥‥?」
宮廷の貴婦人達を相手に、いつもこんな風に踊っているのだろうか。だが、その問いに返ったのは、しばしの沈黙と否定の言葉だった。
「そういう場には、滅多に出ない」
ああ、とユイスは納得した。そういえば、彼は冒険者として放浪の旅に出る事が多いと聞く。お年頃、かつ特定の相手がいない円卓の騎士を虎視眈々と狙う貴婦人の間では、彼はもっとも出現率の低いレアな存在なのである。
「では、トリス。1曲踊って頂いてもよろしいでしょうか」
よくよく考えれば、円卓の騎士は国に16人しかいない。
一般の人からしてみれば、円卓の騎士に出会うのは、貴族と呼ばれるバンパイアに遭遇する確率とあまり変わらなかったりする。
もしかして、自分は今、貴婦人方から羨ましがられるどころか、恨まれる立場にいるのでは?
他人事のように、ユイスは考えた。雲の上の人という実感はないし、会ったこともない貴婦人方に優越感なんか感じたりもしない。優越感というのは、自分が優位に立った時に湧き上がる感情のはずだ。
仲良く踊る恋人達に重ねたのは、トリスタンではない。
あの時、探してしまった姿は‥‥。
ふと、トリスタンの足が止まった。
音楽は続いているのにと怪訝に思ったユイスが顔を上げる。
「‥‥ウォルフ」
目の前にいたのは、今の今まで思い浮かべていた人物だ。
いつの間にか、彼女の手はウォルフの手の中にある。
状況が把握出来ずに戸惑うユイスを連れて、ウォルフはダンスの輪の中へと紛れ込んだ。
「一体、いつ代わったんだ?」
「ユイスが考え事をしている間」
答えたウォルフの口調は素っ気なく、どこか怒っているかのように聞こえた。
「ウォルフ? 何を怒っている?」
「怒ってなんかいない。ただ‥‥」
口籠もるのは、ウォルフ自身が自分の感情をどう表現していいか分からないからだ。
トリスタンと踊っていたユイスは、心ここに在らずという顔をしていた。トリスタンに見惚れているとか、そんなんじゃない。何も見ていない、聞こえていない。きっと、自分の事も見えていないのだと感じた時、言いようのない気持ちが彼を占拠したのだ。
「ただ‥‥何だ? 言ってくれないと分からない」
音楽に乗り、ウォルフの手を支えにくるりと舞う。視界が回る合間に見えた彼の顔は無表情だった。
急に、ユイスの胸に不安が押し寄せて来る。
「ウォルフ」
促したユイスに、ウォルフは口を開いた。
「‥‥そろそろ、俺のパートナーになれ」
細い眉を顰めて、ユイスは息を吐き出す。
「何を言っている。私は、ずっとウォルフのパートナーのつもりだったのだが。ウォルフは違ったのか?」
「そうじゃない。一生のパートナーに、だ」
息が止まった。
呆然と見上げたウォルフの目は、怖いくらいに真剣で、冗談を言っているようにはとても見えない。
「ウォルフ? わ‥‥私、あなたが何を言っているのか‥‥」
忙しなく周囲に視線を走らせた後、ユイスはそろりと間近の顔を盗み見た。
「‥‥っ」
思わず顔を伏せてしまう。
頬に血が上っているのが分かる。
彼の眼差しは、ただ1人、ユイスのみに注がれていた。じっと、ずっと。
「わ‥‥わか‥‥っ‥‥た」
何度も唇を湿して、ようやく紡ぎ出した微かな声は彼に届いただろうか。
顔が上げられぬまま、彼の反応を待つユイスの手を、ウォルフはぎゅっと握り締めた。
●大好きな気持ち
「それで、ノルマンではもっともっと色々とあったのだ。地方の領地運営を手伝ったり、自警団の選抜試験の試験官をやったり、破滅の魔法陣を巡ってデビルと対決したり」
伊織が作ったジャパン風の食べ物を食べている間も、その後も、ヴラドは喋り続けた。
自分が見た物、聞いた物を語る事で、会えなかった日々を埋めようとしているかのように、ひたすらに話し続ける。
彼の話を、笑ったり、心配をしたりと表情をころころと変えながら真剣に聞いてくれる藤宮深雪に、ヴラドは不意に言葉を止めた。
首を傾げた彼女は、1年と4ヶ月前と変わらない。
いや、外見は変わった。ちょっと大人っぽくなって、少しドキドキする。
でも、彼の言葉を聞いてくれる時の仕草や、ふとした時の癖も表情も何も変わらない。
それが嬉しくて、ヴラドは話を続けるかわりに、屈託ない笑顔で彼女の手を取った。
「一緒に踊るのだ♪」
踊る人々の間をするりと抜けて、2人が踊れる場所を確保する。緩やかに曲に乗せてリードすれば、ぎこちない動きながらも彼女もついてくる。
「大丈夫なのだ、深雪ちゃん。余に身を委ねるのだ〜」
小さく曲のメロディーラインを口ずさみつつ手を引いて、ヴラドは目を瞬かせた。
先ほどまでの表情はどこへやら、彼女は泣きそうな顔で俯いてしまっている。
「ど、どうしたのだ? どこか痛いのか? 余がいない間に、誰かにいじめられたのか?」
焦りながら尋ねると、ふるふると頭を振るだけだ。どうすれば良いのか、ヴラドには全く見当もつかなかった。修行の旅に出て、経験も積んだし見識も深めたけれど、こんな時、彼女にどう接してよいのか分からない。
ー余の修行は、一体何だったのだッ!?
ぽかぽかと頭を殴って、自分の不甲斐なさを責めたい気分だ。
でも、彼は知らない。
それは、いくら修行を積んでも会得出来ないもの。心を通い合わせた夫婦でも難しいこと。だけど、互いを思い遣る気持ちがあれば、乗り越えられるもの。
相手の言葉や表情に一喜一憂してしまうのは、相手が自分ではないから。相手の気持ちは分からないから、不安を覚えながらも手探りでその心に自分の心を寄り添わしていくより他ないのだ。
ヴラドはそれを知らない。気の利いた言葉で気を逸らしたりする手練手管もない。けれど、彼女の憂いを取り除きたい一心で、伏せた彼女の顔を覗き込み、にこっと笑ってみせた。
「心配ないのだ。余は、いつも深雪ちゃんの味方なのだ」
ぽろり、と彼女の瞳から1粒の涙が零れ落ちる。
「わ? わわわ!? 泣いてはいけないのだ!」
滑らかな頬を伝った涙の粒を拭ったヴラドに、彼女は小さな声で尋ねた。
「‥‥エスコート、上手になったのは‥‥離れていた間、いっぱい他の女の人と踊ったから?」
ぱちくりと、ヴラドは目を瞬かせた。
問われた言葉を、心の内で何度も繰り返す。
これは、どう考えればよいのだろう?
答えに辿り着くより先に、感情が動いた。
嬉しい、と。
1年と4ヶ月、それは決して短い時間ではない。けれど、彼女は待っていてくれたのだ。そして‥‥。
「余は、嬉しいのだ。深雪ちゃんが、ずっと待っていてくれて嬉しい。‥‥色々とあって、余も変わったであるが、深雪ちゃんへの愛だけは変わらないのだ!」
心底から嬉しそうに笑って、ヴラドは続ける。
「いつか、深雪ちゃんとこうして踊りたくて、一生懸命勉強した。その甲斐があったのだ!」
変わらない明るい笑顔と共に、本当の気持ちを贈ったヴラドに、彼女は顔を赤らめて小さな声で心からの言葉をくれた。
「おかえりなさい」、そして「ありがとう」と。
●共に歩く人
熱気に満ちた会場から露台に出て、ライルは大きく息をついた。
冷たい空気が、酔った体に気持ちがいい。星も綺麗だし、隣にはネイ・シルフィスもいる。満ち足りた気分というのは、こんな気持ちなのだろうかと思う。
「そういえば、ユイスさんが言ってたな。今年は特別な年明けだって」
給仕で回っている間に、ちらと聞こえたユイスの言葉。
長く伝説として語られてきた聖杯が見つかり、アトランティスという未知の世界への月道が開かれた。ここから、世界もイギリスも変わっていくのだと、変える一端を担ったのは冒険者なのだと、彼女はそんな事をトリスタンと話していたようだ。
「新しい世界を開いた力、か」
綺麗な星空は、いつか見上げた空と同じだ。
新しい時代の到来と言われても、正直、ピンと来ない。
「‥‥俺は、少しでもその役に立てたのだろうか」
思わず漏れる呟き。
「少しでも、誰かの助けになれたのかな‥‥」
到来したという新しい時代に、自分はどれだけ貢献出来たのだろう。
ふと、そんな事が頭を過ぎった。
思い返す日々は、後悔の記憶だけが苦く鮮明に残っている。
彼の頭に軽い衝撃が走ったのは、知らず唇を噛み締め、拳を強く握った時の事。
振り返れば、赤毛の少女が素知らぬ顔で星を見上げていた。
「‥‥‥‥」
頭を撫でながら肩を竦めて、ライルは不意に笑い出した。
負へ傾いでいた心が、一気に平衡を取り戻す。
そうだった。
悔やむ事ばかり強く覚えているけれど、それだけではなかった。仲間と笑い合った時間、依頼人の感謝、そして何よりも彼女の存在があった。
「参ったな」
小さく呟いて、ライルも夜空へと視線を戻した。
「過去は過去、か」
ちらりと窺い見る彼女に、微笑みを返す。
「誰1人として救えなかった事もあった。けど、その人達の分までしっかり生きなくちゃ、な」
大きく頷いた彼女に、ライルは数瞬戸惑い、意を決して口を開いた。
「今度、北の森へ一緒に行ってくれないか」
一瞬、面食らったような表情を見せて、彼女はあっさりと了承した。心構えをして、いろんな気持ちを総動員して告げた言葉なのに、とライルは苦笑すると言葉を補う。
「北の森には、両親と恩人が眠っている。彼らに紹介したいんだ、君を。‥‥俺の連れ合いだって」
自分を見つめて固まった彼女の顔が見る間に朱く染まっていく。
しばらく待っても、彼女は固まったままだ。
ライルの苦笑がますます深くなる。
「俺の全てと一生をかけて、君を支えたい。‥‥過ぎてしまった事を聞く気はないよ。でも、もしも1人で抱えるのが辛かったら、俺に貰えないかな」
苦しみも、喜びも分かち合いたい。
彼の言葉は、結婚の誓いにも似て。
そう思い至った途端に、硬直していた彼女が動き出す。慌てたようにそっぽを向いて、短くライルを罵った。
「バカ‥‥」
掠れる声で、彼女は続ける。
「嬉しい‥‥じゃ‥‥ないかい」
視線を逸らしたままのネイに腕を伸ばし、ライルはその体を包み込んだ。
●憧れの先
宴が進むにつれて、会場の様相は変化して来た。皆で賑やかに盛り上がる者達もまだいる。が、それぞれに自分の大切な相手と祝杯をあげ、静かに語り合う者達も増えて来た。
ようやく、人々の輪から解放されたトリスタンへと歩み寄ると、エスリン・マッカレル(ea9669)は胸に手を当て、軽く足を引いて頭を下げた。
「トリスタン卿、新年おめでとうございます」
短く返礼を返した彼に、エスリンは緊張しつつ隣に座ってよいかと尋ねる。
その答えも、短い肯定だ。
彼らしい、とエスリンは笑いをかみ殺した。
彼は、女性に優しい。
騎士なのだから当然なのかもしれないが、時には、それが「女難」と称される厄介事を招くのも確か。
分かっている。
分かっているが‥‥。
期待してしまう心を押し止め、冷静を装ってエスリンは彼の隣に腰をおろした。
ちらりと盗み見た容貌は、彫刻か何かのようだ。整っている上に表情に乏しいから、余計にそう思うのかもしれない。
考えてみれば、とエスリンは彼と初めて出会った時の事を思い出す。噂に聞く円卓の騎士に興味はあったが、それはあくまで騎士として。いつか自分が辿り着きたい理想の形が円卓の騎士、トリスタンだった。
それが変化してきたのは、いつの頃だったのか。
噂に違わぬ「女難」っぷりに呆れた事もある。守らねばと意気込んだ事も。
その1つ1つが積み重なって、階段を1段、また1段と上っていくように、思いも形を変えた。
騎士への憧れは、いつしか仄かな想いへ。
秘めたはずの思いは、周囲の親しい者達にも気づかれる程に膨らんで、もう、隠し通す自信がない。
「あの、トリスタン卿‥‥、私の話を聞いて頂けますか?」
不安で、心が押し潰されそうだ。
トリスタンが女性に一線を画して接しているのは、エスリンも知っている。
それが、どうやら出生時に受けた予言‥‥占い師の占いによるものが原因であるらしい事も。
自分の想いを告げたところで、受け入れられるとは思えない。だが、この気持ちを自分の内に抱え込み続けているだけでは、いつか後悔する日が来る。
卓の下で拳を握って、エスリンは語り始めた。
「私は、急死した兄の代わりに騎士となりました。私の義務は、幼い甥が成人するまで家を守ること。その日まで、女であることよりも理想の騎士たることを目指してきました。そして、光栄にも間近で接する事が叶ったトリスタン卿、貴方にその理想を見たのです」
トリスタンは、僅かに眉を寄せた。
常人であれば見逃すような、僅かな表情の変化だ。
だが、彼を見つめ続けて来たエスリンにはその変化が読み取れる。
ますます大きくなった不安をひた隠し、彼女は話を続けた。
「ですが、憧れと尊敬は‥‥自分でも気づかぬうちに思慕の念へと‥‥騎士としてではなく、ただの娘として貴方をお慕い申し上げておりました。あ‥‥あの、娘として、でなくとも構いません。騎士としてでも、貴方の傍らにある事をお許し頂けますか?」
言ってしまった。
彼の表情に浮かぶ拒絶を見たくなくて、エスリンはぎゅっと目を瞑る。返る言葉を待つ時間は、途方もなく長く感じられた。
やがて小さな吐息を漏らして、トリスタンが口を開いた。
「私は、生まれた時に2つの言葉を得た」
顔を上げたエスリンに、トリスタンは淡々と続ける。
「1つは、騎士としての名誉を得るというものだった。そして、もう1つは禁断の恋に落ちる、と」
エスリンの目が大きく見開かれた。
占い師から予言されたらしいと知ってはいたが、内容までは知らなかったのだ。
トリスタンの口から初めて明かされる真実。
エスリンの真剣な気持ちに、トリスタンも真摯に誠意をもって応えてくれているのだろう。
「円卓の騎士となり、占い師の言葉は1つ成就した。もう1つも成就するのではないかと、私はそれまで以上に恋愛というものから避けるようになった。だが」
トリスタンは、賑わう会場へ視線を巡らせた。
「だが、不可能を可能とした彼らに、困難にめげることなく立ち向かっていく姿を見て、自分が逃げているだけだと気づいた。それでは、前に進めぬとも」
ゆっくりと振り返り、トリスタンはエスリンを見つめた。深い翠の瞳は穏やかに凪いでいて、エスリンが恐れていたような拒絶の色はない。
「カンタベリーのギルバードに言われた事がある。私は、こと恋愛に関しては幼子同然だと。色々と、これから学んでいかねばならぬらしい。‥‥依頼や、王の騎士として各地を共に回るとしても、女性に対する接し方が変わるわけでも、愛想がよくなるわけでもない。‥‥それでもよいだろうか?」
はい、とエスリンは答えた。そして、安堵の息を漏らす。
彼女の想いに対して明確な答えを貰ったわけではない。だが、拒絶されたわけでもない。
全ては、これから始まるのだ。
●祝福あれ
「トリスタン卿、お話し中に失礼します」
ふいに掛けられた声に、トリスタンは振り返った。
そこにいたのは、喜色を浮かべたシーヴァス・ラーンだ。
「先ほど、このパーティに出席している者が結婚の約束を交わしました。そこで、お願いがあるのですが」
先を促すと、彼はちらりと背後に視線を送る。どうやら、戸惑ったようにこちらを窺っている2人が、結婚の約束を交わした者達なのだろう。彼らに目を留めて、トリスタンはなるほど、と微笑んだ。
「このパーティで、彼らの結婚式を執り行いたいのです。幸い、今夜は司教様もご出席の様子ですし」
「シーヴァス!」
顔をまっ赤にしたユイスが、その言葉に仰天して駆け寄って来る。それを軽くいなして、彼は更に続ける。
「この2人の間を取り持ったのは、実は俺で」
「シーヴァスッ!」
「正式な婚姻は後日改めるとしても、見届けたいんです。いいだろ? ユイス」
な?
邪気を欠片も感じさせない笑顔で肩を叩かれると、それ以上の反論は出来なくなる。ただただ顔を赤く染めるユイスに歩み寄ると、ウォルフはトリスタンを見た。結婚を望んだのは自分達だ。それが少し早くなるだけのこと。何の躊躇いもない。
しばし、ウォルフとユイスを交互に見ていたトリスタンは、やがて静かに頷いた。
「宴の席ではあるが、今宵は司教殿がおられる。私でよければ証人ともなろう。2人がそれで構わないのならば、正式な結婚の手続きを行うのに問題はない」
「ちょっと待ってくれ! なら、俺達も!」
仲間達を掻き分けながら手を挙げたのは、ライルだ。
「俺も、ネイさんと結婚する!」
驚愕と祝福の歓声が飛び交う中、ポーツマスから戻って来たばかりの司教、アンドリューが厳めしい顔をしてこほんと咳払う。
「結婚とは秘蹟であるのだが‥‥‥‥なぁんて野暮は言いっこなしだな!」
会場のあちこちで、帽子やら手布やらシフールやらが宙を舞った。
幸せそうに互いの顔を見つめ合う新郎新婦に、冷やかしと祝福の口笛が吹き鳴らされる。
甘く祝婚歌を歌い上げるシーヴァスの声にトリスタンの竪琴が重なる中、冒険者達は2組の夫婦の門出を心から祝ったのだった。
●静けさの中で
結婚祝いで盛り上がった会場をそっと抜け出して、伊織はぶらぶらと夜の道を歩いていた。
吐く息が白い。
春は、まだまだ先のようだ。
指先に息を吹きかけた光月羽澄の手を、伊織は自分の手に握り込んで暖める。
しばらく、そうして2人して歩く。
川沿いに停泊しているのは、ノルマンへ向かう船だろうか。
そんな事を考えながら、伊織は故国へと思いを馳せた。
逃げるようにイギリスへとやって来た。だが、この異国の地で守るべき相手を見つけた。己の全てをかけてもいいぐらい、好きな相手が。
そんな伊織を横目に見て、彼女はくすりと小さく笑った。
「どうした?」
「ねぇ、トリスタン様に会った時はメロメロだったって本当?」
尋ねた伊織に返って来たのは、とんでもない言葉。
後頭部にグラビティーキャノンを食らったかの衝撃を受けながらも、伊織はしどろもどろに答えを返す。
「いや‥‥メロメロっーか、チクチクっーか、ぷすぷすっーか‥‥」
「仕方ないですね。女の方みたいな綺麗ですもの」
ちょっと待って下サーイ!
いくら何でも、惚れた相手からそんな事を言われては、立つ瀬がないというもの。
「俺が! 俺が好きなのはッ!」
急に立ち止まった伊織に、彼女は怪訝そうな顔で振り向いた。
その体を引き寄せて、腕の中に納める。壊してしまわないように、でも離れていかないように、細心の注意を払いながら、彼は彼女を抱き締める腕に力を籠める。
「‥‥俺は、羽澄が好きだ。どうしようもなく羽澄の全部が欲しい‥‥。髪も瞳も肌も心も、なにもかも俺のものにしたい‥‥」
強い抱擁に一瞬だけ驚いて、彼女は「はい」と小さく囁いた。そっと、彼の背に腕をまわす。
どれぐらい、そうやって抱き締め合っていたのか。
不意に、彼女が伊織を見上げた。
「‥‥伊織さん」
彼女の髪に頬を埋めていた伊織が、無言で先を促す。
「私は、京都を経由して江戸に行きます。江戸で合流するまで‥‥浮気しないで下さいね」
上目遣いに可愛い事を言う彼女に、伊織は硬直した。コアギュレイトもかくやという程の硬直具合である。
「伊織さん‥‥‥‥浮気、するつもりだったんですか?」
反応のない伊織に拗ねた彼女の言葉に、伊織の硬直はあっという間に解除された。
焦りに焦って言い訳の言葉を重ねる伊織に、羽澄は羽根のように軽やかな笑い声を響かせたのだった。
●後日談
パーティの礼にと、トリスタン宅の掃除手伝いを申し出た有志一同は、思わず、ほけらと口を開いてしまった。
腐っても円卓の騎士、である。客を迎えたりする事もあろう。それなりの体裁を整える必要があるのは理解出来る。出来るのだが‥‥。
「‥‥住みづらそうな家だ」
呟かれたライルの言葉に、何度も頷く有志一同。
「なんだ? この壺は」
無造作にウォルフが取り上げた壺に、家令が慌てて手を添える。
「お、お気をつけ下さい! この壺はアーサー王陛下から頂いたお品で‥‥! あっ、そちらは竪琴の音を愛でられた王妃様から直々に頂いたジャパンの文箱!」
何かに触れる度に、家令の悲鳴が響く。
これでは掃除どころか、おちおち歩く事も出来やしない。
「トリスタン卿が帰りたがらないわけであるな‥‥」
はあと深く溜息をついて、ヴラドは虹色に輝く不思議な光沢で文様が描かれた小さな櫛をそっと卓の上に戻す。
気まま一人旅では倹約質素、野宿安宿は当たり前の生活を送っているトリスタンが、屋敷に居着かない理由が分かったような気がした有志一同であった。