【黙示録】あやつり人形
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■ショートシナリオ
担当:谷山灯夜
対応レベル:11〜lv
難易度:やや難
成功報酬:7 G 30 C
参加人数:8人
サポート参加人数:-人
冒険期間:04月24日〜04月29日
リプレイ公開日:2009年05月08日
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●オープニング
目の前に置かれた銀の小刀。聖なる力が宿ると言われるそれを両手で握る。
「‥‥んっ!」
一思いに喉まで突き立てようとする。だが、寸でのところで剣を落としてしまう。
「だめ。神さまをこれ以上裏切る事はできない‥‥」
神から頂いた命を捨てることは何よりも大罪である。これ以上の罪を重ねる事はできなかった。しかし‥‥。
かつん、かつん、とあの足音が聞こえて来る。また、あの男がやって来たのだ。いや、あの男は、ただの男ではない事は、既に判っている。わたしの心から一番大切な物を略奪し汚した悪魔だ。
立て付けの悪い扉が開き、その悪魔が目の前に現れた。赤い衣を纏い、負傷したように足を引きずっている。
「なにやら取り込み中のようだったな。これは失礼した」
崩れて座るわたしと銀の小刀に上から視線を落す。蛇の瞳孔にも見える金の瞳が冷たい。
「それで、先般の申し出だがそろそろ受諾してもらえそうかね。前にも言ったとおり、最期まで拒絶してもわたしは一向に構わないのだ。だが、神を裏切ったまま生きるのは苦しかろう。これは、慈悲でもある」
悪魔の言葉は耳に甘い。わたしは、折れそうな心を必死に保ち、首を振った。
「無理矢理というのは私の美学に反するがそろそろ潮時ではなかろうかね。7日後の夜にもう一度来る事にしよう。良い返事を待っている」
それまでは享楽に身を預けるが良い、と言い残して悪魔は踵を返しまた闇の中に消えた。その言葉にわたしの心が戦慄する。だが、わたしの体は熱を帯びて反応してしまうのだ。
なぜ、こんな事になってしまったのだろう。あと数時間もしたら「仕事」を終えた彼がやってくる。わたしを慕いわたしに救いを求めた神の信徒を奈落の底へと導く彼が帰ってくる。なのに、わたしは彼を受け容れてしまうのだ。違う、喜んでこの身を預け汚らわしい享楽に耽ってしまうのだ。何より、わたし自身がそれを期待し楽しみにしている事が恐ろしい。いえ。それを恥ずべき事と思う心が薄くなってきている事こそ恐ろしいのだ。
あのならず者が帰って来た。
「アルカディー‥‥」
目の前の男は高らかに笑うとわたしに奴隷に命ずるが如くに奉仕を要求する。求められる事が嬉しい‥‥。
ほんの僅かな一瞬だけ、脳裏に言葉にならない感情が涌いた。
7日後。あのデビルに再び魂を求められた時。わたしはまた逆らう事ができるのだろうか。それ以上に、例え逆らう事ができたとしても、わたしは人の心を保っているのだろうか。野獣の心に支配された悪魔の奴隷に変わっているのではないだろうか‥‥
その依頼が持ち込まれた発端はただの偶然でしかなかった。ひとりのならず者が恐喝の件で捕らえられた。
「俺の後ろには誰がいると思っているんだ!」
小者の常套句ではある。だが、捕えられた男は異常に見えるほど震えていた。次の朝、その男が絶命した事さえ病気か凍死で済ます事になっていた。
だが、報告を聞きつけて来たパーヴェル・マクシモアの登場で事態は一変する。
「これはデビルの仕業だ。外傷がない、だと? 覚えておくのだ。これはデスハートンというデビルの術である。だが問題はそこではない。何故デビルがこんな事をする必要があったのかこそが重大なのだ」
小悪党の殺害にわざわざデビルが繰り出してくる必要はない。ならば、この男は口封じのために殺されたと見るのが正解であろう。
「この男に関する情報を集めて欲しい。棲んでいる所、縄張り、暗黒街との繋がりに系列。何か重大な事件に結びついているやも知れない。いや、結びついているはずだ」
パーヴェルが調査を開始してから2日後に男が出没していた地点が割り出され人間関係の報告も上がってくる。男はどうも大掛かりな人身売買の計画に絡んでいたらしい。小者ゆえ頭も口も軽かったのであろう。恐喝した相手には虎の威を借りるように後ろ盾の名を上げて金銭を要求していたらしい。
「後ろ盾として名を上げたのは、アルカディー・ボドロフ。あの悪党か」
アルカディーは度々報告が上がる人身売買の組織の長である。蛮族に関してのみ言えば奴隷売買自体はキエフの法では抵触しない。だがアルカディーは神の信徒である者であっても奴隷として引き渡す事件を起こしている。居場所が特定できれば捕捉するだけの容疑を持っているのだがとにかく居場所が判らない。
「死んだ男が縄張りにしていた地域にあるのは酒場くらいか。宝石商や賭場はないようだな」
偏見があるとは言えない。両者とも闇の仕事にも繋がっている職でもあるのだ。
「酒場は20軒。住宅が100軒。これを虱潰しに当たるか」
根気がいる仕事になりそうだがデビルが関わっているのだとしたらパーヴェルには看過はできない問題だった。
「この地域にはシスター・ニーナがいらっしゃるのだな。敬虔なシスターと名高い方がいる地域でデビル絡みの事件が起こるとは。まったく、キエフの沽券に関わるな」
教会を守るのはニーナ・ズヴォリンスカヤという著名な修道女である。神に奉仕し病人を癒し、キエフの疾病率を大幅に低下させる事に貢献している。また戦禍に家を焼かれ親を失った子を受け入れて育てている事でも有名だった。
「そう言えばシスター・ニーナから申請が来ていたようだな。子ども達を巡礼の旅に出そうと思うとあるが‥‥」
如何なる理由なのかロシアにはデビルが多数現れる。そのような状況のロシアにいるのは危ういと判断されたようでパーヴェルとしては面白くはないのだが了承せざるを得ない。
「さて、どこから手を付ければ良いのか。ここは母にも口利きをして貰うべきだろうな」
パーヴェルは帰還の途中で冒険者ギルドに立ち寄ると、母、ウルスラ・マクシモアに簡単な依頼を出すことにした。
●リプレイ本文
「住み込みで雇って貰えるのでしたら、何でも致します」
ぼろぼろの身なりの少女が立っていた。戦火に焼かれ家も家族も失ったと彼女は言う。彼女の名はレティシア・シャンテヒルト(ea6215)。孤児の姿に身を落とし食事も満足にとってはいないのだが実の姿は冒険者である。レティシアはおずおずと目を上げる。視界の先に老婆、そして犬がいる。この老婆も冒険者、水上銀(eb7679)が変装した姿である。
柄の悪そうな男達がレティシアの顔を見ながら小声で相談をしている。
「子供、だよな‥‥?」
「まあ、いいんじゃねーの。子供じゃなくても。今回の商品にならないなら逆に売り先はあるはずだし」
「さっきの女の話か? 商売抜きでいい女だったな」
「酒場の景気の良い男、あれに売るのか」
「最初はな。いい夢を見る頃に有り金の全部を貰おうとするか」
盗賊特有の小声での会話であり普通なら相手の耳に届く事はないので男達は緊張感もなく不穏な話をしている。だが、それは明らかに油断であった。吟遊詩人としての技能を磨いているレティシアは如何に小声での会話であってもそれを聞き逃す事はなかった。
会話に出てくる女と景気のよい男は同じく冒険仲間のイリーナ・ベーラヤ(ec0038)にパウル・ウォグリウス(ea8802)である。レティシアの近くにいたイリーナは男たちに目を付けると「仕事はないか」と擦り寄って行った。金の豪奢の髪をかき上げ体線を強調する服、歩く度にほのかに漂う香水。それを見ていたパウルが男達に何やら囁いていた。動きだす男。
そしてレティシアは男達に連れて行かれる場所を見て悲しい気持ちになる。そこは教会であった。何も知らなければ神の導きと思えるのだろう。だがレティシアを連れているのは依頼主パーヴェルの記憶の中からビジョンとして見た男達である。
アルカディーが率いる悪党の集団の顔がそこにあった。
人身売買をしているというアルカディーの一党の居場所を突き止めその売買を止める事が今回の依頼の目的である。それが教会に連れて行かれる事で今回の件に関わっているもうひとりの人物の存在が発覚した。教会を治めているのは人徳者として高名なシスター・ニーナである。なぜ神の使徒がこのような事件に関わってしまったのか。
「まさか、本当にここだったとはな」
闇の中から声が聞こえた。「誰だ」と言う間もないままレティシアを連れていた男の一人が倒れる。一方でもう一人の男も背中から小柄で突き上げられ両手を挙げている。
小柄を片手にしたイグニス・ヴァリアント(ea4202)、それに銀やイリーナが闇の中から現れた。
「知っている事を全て話して貰おうか」
冒険者の殺気を前に、男は震えた。
「お話をして頂く事はできないのでしょうか」
ディアルト・ヘレス(ea2181)が静かに語りかけている。シスター・ニーナは俯いたまま何も話さない。
アルフレッド・ラグナーソン(eb3526)は信じられない面持ちでその場にいた。パーヴェルにニーナの事を聞いてみた時、シスター・ニーナならクレリックとしては並みの冒険者よりも強いから心配は要らないじゃないかとまで言われた程である。何かの間違いと思いたかった。
「言えない事があるってか」
アルカディーの使いを名乗る事でここまで通されたパウルが呟く。証拠は全て上がっており既に銀たちがパーヴェルへの使いを出している。
「俺の直感に過ぎないが。あんた、本気で孤児を裏切っちゃいねえだろ?」
驚いた表情を見せたニーナの手を取りるとパウルはその手に指輪を嵌めた。
「何をなさるのです!」
驚愕するニーナの身体に激変が起こる。肩幅が増え顔つきは精悍さを増す。」
ニーナは我が身に起きた変化を悟り、その上で自分の行いの全てを悟り、わっと泣き出した。
「申し訳ありません。わたしは、わたしは、なんと言うことを」
自分の犯した罪を吐露した上でニーナは自分を責め続けた。禁断の指輪には効果があるらしい。つまり相手が思い通り操る事ができるのは肉体的に女性である事が必須のようだ。
「すまん。思い当たるデビルと地獄でやり合ったんで、効果があるんじゃないかと思ってみたんだが」
アルフレッドに気を静めて貰いディアルトに身を支えて貰いながらニーナは、真っ先に子供たちの事を問うて来た。
「無事ですよ。安心してください」
セシリア・ティレット(eb4721)がその手を取る。
「教えて下さい。アルカディーさんはどこですか?」
神の使徒としてセシリアはどんな悪人でも命は命であるとニーナに話し、デビルが相手なら尚のこと守らなければと説得した。
「あなたを苦しめた相手は、デビルですよね? どんな相手なのか、教えては頂けないでしょうか」
ディアルトが優しく諭すように尋ねた。だが、ニーナは首を振るだけであった。
「もう、術は解けているんだよな?」
心配を敢えてぶっきらぼうに装いパウルが尋ねた。しかしニーナは首を振る。唇が震えている。喉元までは何かがこみ上げているように見えるが、それを口に出せば全てを失ってしまうようにニーナは見えた。
「誰か来たよ」
銀の声が頭に響く。テレパスにより部屋の外にいる銀と交信していたアルフレッドは皆に呼びかける。ニーナの変化を見た以上、女性のままで戦うのは不利である。レティシア、セシリア、イリーナが禁断の指輪の力で男性の体に変化した。
「今から戻る訳にいかないか」
物陰に隠れ気配を断ち、銀はじっと様子を伺っていた。
闇の中で赤い何かが次第に近づいてくる。それは赤い鎧の兵士であった。まるで古傷があるように足を引きずって歩いているが、その足取りに異常はない。
それはふと立ち止まるとそれは何かを呟いた。
「大いなるルシファーの力よ、神とその使徒の攻撃を受けぬ鎧と成り給え」
今のは何、と銀が思っているとそれは扉の前で静かに、そして力強く声を上げた。
「ニーナ。扉を開けて私を迎え入れよ」
冒険者は息を飲む。まさかニーナに扉を開けさせる訳にはいくまい。無理矢理ニーナを窓の外へと出すと冒険者は剣を構えた。
一方、何事も起こらない事に何かを察した赤い鎧。逃げられるのでは、と銀は舌打ちしそうになったが思いに反し、それは扉の前を動かなかった。
「大いなるルシファーの力よ、我が身を無敵の体へ」
それは魔法の詠唱であった。銀はその全てをじっと見ていた。詠唱が終わったらしい。赤い鎧の兵士は扉を開けて中へと踏み込んでいく。
「あなたが今回の黒幕ですね。待っていましたよ」
凛々しい男性へと変化したセシリアが剣を引き抜き構える。傍らには胸元がぶかぶかの服を着たままのイリーナがいる。レティシアは呪文の詠唱に意識を集中させていた。
中に入ってきた赤の鎧の兵士はその様子を眺めると瞬時に事情を察したようだった。
「ふむ。女が男の格好をするのは私の立場としては僥倖とも言えるが」
金の瞳が開く。蛇の瞳のそれは不気味さよりも妖艶を感じさせた。
「所詮あなたは自分の美貌に頼りすぎよ。子供か男性を知らない人しか満足しないわ」
何事につけ自信に溢れているような赤の兵士。いや、デビルの行動の全てがイリーナの鼻に付いた。
「私が教えてあげる、キスだけで逝かせてあげるわね」
怒気を含んだ声で宣言し剣を構える。男の身に変わったイリーナと赤の兵士が差し込む月の光の下で対峙する。観る者によっては耽美と評する光景であろうか。
奇妙な間を破るようにセシリアが赤の兵士に向かい突進した。およそ前線を守る戦士の姿ではないセシリアが抜刀し兵士への間合いを詰め続ける。
「例え見切れても!」
セシリアの剣が兵士を捉える。
「その足ではかわせまい!」
その通り、赤の兵士はセシリア渾身の突撃を受けた。しかもセシリアの剣は鎧の隙間を狙う一撃であった。
だが兵士は僅かに体を反らし、鎧に当てることで急所から剣をずらす。そして、体勢を崩したセシリアに向けて反撃が襲い掛かる。
「そん、な。攻撃が効かないなんて‥‥」
驚くべき事に、セシリアの攻撃は兵士に僅かな傷を付けただけであった。
「妖艶たるゼパルの何を知っているかは判らない。だが多少の知識があれば驚くに値しない事だが」
「私が相手だ」
霊剣・日本刀炎舞。それを更に鍛えた業物を構えディアルトがゼパルを撃つ。
だが、またしてもゼパルの反撃がディアルトを襲う。鈍い音を響かせながらもパラスの鎧が激しい打撃を吸収する。ふっ、と笑うゼパル。だが虎視眈々と状況を見据えていた者がゼパルの背後から襲い掛かった。
「余裕かましやがって。これでも喰らえ!」
オーラエリベイションとオーラマックスの力を帯びたパウルがゼパルを急襲する。悪魔払いの聖剣シーグルに日本刀「長曽弥虎徹」がうねりを上げてゼパルに叩き込まれる。返す刀が再びゼパルを捉えて命中する。
「どうだ!」
日本刀を振り下ろした時、確かに手に手応えを覚えた。だが返す刀は何かに跳ね返されるように戻ってきた。
間に割り込むように牽制を行い攻撃をかわし続けていたイグニスがじっと相手の様子を見る。
「エヴォリューションにガード、そしてデッドオアアライブも使っているな。だとしても」
解せない事がイグニスにはあった。セシリアにしろディアルトにしろ、その一撃はパラスやイリーナに比して遅れが出るものではない。なのに与えたダメージに差が生じている。セシリアとディアルト、パラスとイリーナ。何が違うのか。
ディアルトもその事に薄々感じ取っていた。その様子を見てゼパルはふっと笑う。
「気付いたか。如何にも神の使徒を名乗る者の攻撃は、大いなるルシファーの加護により護られる。私の前で神の力は無力」
神聖魔法の使い手にはどれ程の衝撃がある言葉だろうか。自分が精進して得た力が仇となっているとゼパルは言い放った。だが。
「シスター・ニーナに、後で謝らなきゃ」
カウンターで受けた傷をアルフレッドのリカバーで癒して貰っていたセシリアが剣を構え直す。
「あなた、シスター・ニーナにも同じ事をしたのでしょう?」
高位のクレリックであるニーナはおそらく最後まで戦ったはずだ。その攻撃は効かないと、神の力は無力と、何度も何度も言われたに違いない。それでもニーナは神の名の元に立ち上がったはずだ。だからこそニーナは何も言えなかったのだ。言えば、神の力が通じなかった戦いを認めてしまう事になる。それはニーナにとって我が身、肉体に起こったどんな屈辱よりも辛い事だったのだろう。
「そうですね。私も神の使徒としてニーナさんを誇りに思います」
ディアルトが剣を構え直す。
「諦めなければ勝機はあるはず。どんな怪我をされても大いなる神の名の下、必ず癒して見せます」
アルフレッドが宣言する。
「おっと、いいとこ取りされちゃ困るな」
「剣が効かないならこの拳でぶん殴るだけよ、色男」
パウルとイリーナがゼパルを取り囲む。この期に及んでさえ尚魅了の技を使わない所を見ると禁断の指輪の効果はあるようだ。だが指輪の効果を失うまでの時間は着々と進んでいる。効果、時間‥‥。その時、アルフレッドにひとつの推論が浮かんだ。銀とのテレパスで伝えられたゼパルの行動。入室の前に行ったのはエヴォリューションだ。しかし冒険者の存在を気付く前になぜ魔法を使う必要があるのか。あるとすればニーナに対しての護りの魔法になる。
「つまりゼパルも無敵は、きっと限りがある」
ゼパルの攻撃はディアルトとイグニスが完全に阻む。だが冒険者の攻撃も無効化されている。完全に互いが手詰まりとなる。
冒険者の額に汗が滲む。
だが、急にゼパルは剣を下ろした。
「私の目的は不全ではあるが達したとも言える。貴様らには策を学ばせて貰った事だしな。故に今回は貴様達の勝ちで良い」
ゼパルは愉悦の笑みを浮かべながら踵を返し移動を開始する。
「一応聞いてやる。貴様の目的って、なんだ?」
パウルの視線が鋭く光る。ゼパルはその目を見据えてふっと笑った。
「ロシアの地より神の威光を遠ざけること。柄にも無い事だが、同胞の役に立とうと思った」
今は意味が判らなくともいずれ判る、とゼパルが言った。
「‥‥させると思って?」
入り口の先には銀が結界を張り、息を潜めていた。銀の存在には気付かないでも結界に阻まれた事を知ったゼパルは、呪文を詠唱する。高速詠唱ではない。時間を掛けてゆっくりと唱えるその姿が、皆には苛立たしかった。
あらんばかりの力を込めて剣を叩きつける。しかし、剣は乾いた音を立てて跳ね返ってくるのみであった。そして、詠唱が完了する。足元の影に沈みこんで行くように、ゼパルはその姿を消してしまった。
「ご丁寧に月魔法まで習得しているんだね」
レティシアが無念そうに呟く。同じ魔法の術士として月魔法による移動を行った事が判る。当たる相手を見失い戻ってきたムーンアローによって負ったレティシアの傷をアルフレッドが癒した。
消えてしまったゼパルを追うようにイグニス達が外に出るも、ゼパルの姿はどこにいるか見えなかった。
全てが終わった朝。パーヴェルの元へ報告に向かう前にシスターニーナの様子を見に行った冒険者たちは、部屋が余りにきちんと片付いている事に気が付いた。
「置手紙が‥‥」
銀がびっしりと言葉がつづられた羊皮紙を取り上げる。そこにはニーナの謝辞が切々と書かれていた。
神の力を失ってしまったニーナは、一度修行の旅に出て自分を見つめなおしたいとそこにはあった。
「‥‥帰って来たら、夫を更正させたいとも書かれているな」
夫、つまりアルカディーのことであろう。如何なる事情があろうとも結ばれた以上は乗り越える道なのだとシスターニーナが語りかけているような気がする。セシリアの胸中は複雑ではあった。しかし、それでも同じ道を進む神の使徒の人生に敬意を表するのであった。
パーヴェルに事の顛末を報告すると、孤児達の件も了承したと簡単に言い、ご苦労様と冒険者に謝辞を述べた。冒険者が外に出ようとしたその時。特に女性の顔を見ながらパーヴェルは感嘆したように呟く。
「我が母ながらギルドマスターもそうだけど、キエフの女性は芯が強いと思う」
怪訝そうな顔を見せる冒険者を引き払うと壁に掛けてある肖像画に目を動かす。在りし日の彼女も、そんな女だったな、とパーヴェルは思い、生前の彼女が託した資金で建立された施設に、孤児達を迎え入れる手紙をしたためた。