●リプレイ本文
●私闘〜渓とアマツ〜
ドレスタットの街を出て、移動に半日。街道をそれてからも一時間ほど。その立ち位置から、十メートルも行けば海になる。海面までは二十メートルを越えようか。眺めの良い場所だ。反対側は潅木の茂みや盛夏に茂った草で見通しは悪い。街道からも離れたから、誰かが突然来ることもないだろう。沖合いを通る船があるようだが、それがここに近付くことはない。
二人にとって、ここは絶好の場所だった。ゆえに居場所と定めてから‥‥どれだけ時間が過ぎたかは、もうよく分からないが。最初の夜と日の出は強烈に意識したものの、以降は夕暮れもなにもただ過ぎたからだ。
巴渓(ea0167)とアマツ・オオトリ(ea1842)は、示し合わせたように額の汗をぬぐった。埃でざらついた腕で拭ったのが、汗だけではないのも同じだ。さすがに目に血が入ると動きが鈍るので、二人ともそれは避けていた。
だがそれとても一瞬のことで、またアマツは刀を握り、渓はナックルを着けた両拳を構えた。どちらもオーラの使い手だが、休みなく戦い続けている今、新しくオーラを練る余裕はない。すでにその力も残っていないというべきか。
別に依頼で敵味方に分かれたわけでもなく、殺しあうほどの理由もない。ただ、どうしても倒したいと互いに思ってしまったのだ。
「しぶといとこまで似てなくてもいいんだぜ」
「それはこちらの台詞だ」
ひたすらに動き続けているせいか、どちらの声も掠れていた。息が切れるから、滑らかな言葉など出てこない。それでも互いにしぶといと評価しあう程度には、彼女達はまだ元気があった。
それが、精神力だけで持たせているものだとしても。少なくとも渓の不自然な動きに、アマツが気付く程度には。
「ケイッ」
わざと拳を引いた、そうとしか見えない動きを目にして、アマツが短く叫ぶ。それに渓が応える間はなく、すでに少なくはない出血をしていた二人に何かが突き立つように当たっていった。それも、倒れ伏すまで何度も。
やがて、渓とアマツが目を覚ましたのは石牢一歩寸前といった狭い部屋の中で‥‥
「岬で魔法の光らしいものが見えたって通報で駆けつけたのよねー。それはもう、急いで大変で、大迷惑よ。血で汚れた服は焼かなきゃだし、荷物を改めるのが面倒だし。でも、他力本願な自殺志願者を救ったとセーラ様は喜んでくださるかしら」
二人がまず好きになれない性質が匂いたつような女が、怪我が中途半端に残る状態にポーションを飲まされた渓の髪をぐりぐりと引っ張りながら言った。とんだ邪魔だと食って掛かれば、残っている怪我を容赦なく蹴りつける。
女の服装からドレスタットの海戦騎士団だとあたりをつけたアマツの抗議も、やはり無視された。それでも暴力に訴えないのは、アマツのほうが怪我がひどいからだろうか。
どちらにせよ、しばらく謹慎していろと言い放った女は、二人に恨まれることを心地よしとするような顔付きで言い放ったものだ。
「ポーションが買えなくて死ぬ人はたくさんいるのよ。そんな甘えた根性なら、田舎に引きこもって二人で傷の舐めあいでもしていたら」
ドレスタットから一週間も歩けば、どこの国でもない荒野も広がっているぞと言い置いた女は、手間賃として現金を始め荷物を幾つか持ち去り、二度とは二人の前に現れなかった。
アマツと渓が自前のポーションで傷を癒して、海戦騎士団の詰め所の一つらしい建物から追い出されたのは、それから四日も後のことである。
●気の早いお祝い〜結夏とゆかいな仲間達・壱〜
色々な祝いの品を持って、竜騎亭を訪れた源真結夏(ea7171)には、連れが四人もいた。お祝い事なのでと荷の引き取りに来ただけのヴァルフェル・カーネリアンや、たまたま顔を出した結城鷹臣、そしてアニエス・グラン・クリュとマギウス・ジル・マルシェだ。この中で竜騎亭のディアヌと面識があるのは結夏とマギウスだけである。
そして、彼らが店を訪れた理由は『ディアヌの出産祝い』だったが、これには居合わせた夫のダカンが怪訝な顔をし、弟のアンリは結夏とマギウスにしたり顔で語ってみせた。
「確かに姉ちゃんのつわりが長かったけど、生まれるのは年末か新年だ。見ろ、まだおなかが小さいだろ」
見ろと指差されて、素直にディアヌの腹部を覗き込んだのは結夏とアニエスだけだ。他はたいてい気まずそうに視線を他所に向けている。アンリはそれが気に入らなかったようで、マギウスの手を掴むと無理やり少し膨らんできたおなかに触らせた。
「そんで、赤ん坊はこのくらいの大きさ」
結夏に示されたのは、やはりマギウスである。ディアヌも頷いているので間違ってはいないようだが、ダカンが重さは三人分くらいと言い添えた。
「この間はばたばたしてて、いつ生まれるのかも聞かなかったから、今日は赤ちゃん抱っこさせてもらうつもりだったのよ」
「練習してみるぅ?」
「マギウスさん、目ぇ回してるけど‥‥」
なんだか浮かれているアンリに振り回されたシフールを痛ましげに見つつ、でも助けないで、結夏はアニエスと卓を一つ占拠した。男どもは男同士でつるんで酒を飲むらしい。そこに混じるよりは、女同士でおいしいものをつまんだほうが楽しめよう。
ダカンに聞きたいこともあるが、それは後回しにして、結夏はもっと気になることを尋ねてみた。アンリが妙に浮かれているように見えるのだ。これは、なにかある。
ただ、ディアヌに聞いて、その説明の長さに閉口しなかったわけではない。相変わらず、彼女はのぉんびり話したからだ。簡潔に言えば、先月結婚した三番目の姉が病気がちの母親と同居することになったので、アンリはダカンの口利きで海戦騎士団の帆船の見習い水夫になったのだ。それで喜んでいるらしい。
「えー、じゃあ、今度来てもいないのね。でも、騎士団の船なんてすごいじゃない」
「でぇしょお。そぉれでねぇ」
生真面目に聞いているアニエスがどこで相槌を打てばいいの考えているのを横目に、結夏はにこやかにダカンに呼びかけていた。
「アンリがすごい船乗るんでしょ? それなら、魔法に慣れておくのもいいと思わない?」
「ああ、魔法は普通に使うしなぁ」
うまい具合に騎士も二人いるし、自分も火の精霊魔法、マギウスは陽の精霊魔法を使う。一度見るだけでもしておけば、後々何かで役に立つかもと、誰よりも乗り気になったアンリにまた振り回されて、マギウスは目を回している。
そして、こんな浮かれているのに魔法や技を見せて大丈夫かとヴァルフェルや結城が渋い表情なのには、『お祝いなのよ』と押し切って、結夏は自分の意見を通した。アンリにわくわくとした顔でお願いされて、彼らも仕方ないという気分になったようだ。
アンリとディアヌ、居合わせた他の客が皆の魔法説明を興味深げに聞いている間、結夏はダカンにもう一つの気がかりを尋ねていた。返事は、あまりにそっけない。
「昨日、処刑した。場所は教えないぞ。行けば痛くもない腹を探られるからな」
「そう言われるとねぇ‥‥二人一緒かしら」
頷きを返されて、結夏は深く息をついた。一つの事件の加害者が最後の望みを果たして、被害者が元気に笑える日常を取り戻しているのなら、彼女にはもう言うことはない。
「おなかすいたわ」
後は、楽しい休みを過ごすだけだ。
●ごくごく普通のお休み〜フェノセリアのドレスタット観光?〜
まだ冒険者の登録をして一月のフェノセリア・ローアリノス(eb3338)は、実のところドレスタットのことにもそれほど通じているわけではない。初めて受けた依頼は何かまだありそうな気配だったが、その後関係しそうな話もないので、ドレスタットの街を見て回ろうと思い立った。
一応冒険者ギルドと冒険者街とエチゴヤと酒場と食堂の幾つか、そして白クレリックのフェノセリアの場合は白の教会を知っていれば、生活に困ることはないらしい。そう友人のリノルディア・カインハーツは教えてくれたが、そればかりというのも味気ない話だ。
「ご領主様のお屋敷も少し中が覗けるそうですよ。でもドレスタットといえば、やはり港でしょうか」
「あの大きな教会は?」
最初に行くのかと思ったと、リノルディアに言われたフェノセリアだが、自分が教会に行って見物だけで済むとは思っていない。明日にでも、一人で出向いてゆっくりと思索にふけるつもりだ。それを聞いたリノルディアは、確かにそれは付き合えないと苦笑していたが。
それで二人は、まずは領主の館に出向いて、誰でも入れるという館の前部を見物することにしたのだが‥‥ここにも罠はあった。邸内の図書館だ。
フェノセリアはだいたいいつも落ち着き払って、慌てたところも浮ついたところも見せない女性だが、豪華な革張りの装丁の聖書があるのを知って、それを前にしばしうっとりしていたらしい。中の金文字を、また食い入るように眺めていた。付き合うリノルディアは、図書館の主らしいエルフに『聖職者には良くあることだ』と聞いて安心したが‥‥聖書一冊でこれなら、教会に行ったら大変なことになっていただろう。
「心の洗濯をいたしました。香草の分類を記したものもあったようですから、また日を改めて寄らせていただきます」
「そうですね。まずはお昼を食べて、エチゴヤでないお店を覗いてみましょうか」
結局半日を図書館で過ごしてしまった二人は、まだ強烈な日差しを落とす太陽を避けるようにして昼食に適した店を探した。気楽に過ごすつもりだから、領主館近くの上品や高級そうなところは避けて、でも冒険者街の中の店ではいつもと変化に乏しいから、港の近くまで出向いていく。船員相手の店が多いこのあたりは、猥雑な雰囲気に満ちていたが、様々な国の言葉が聞こえたりするところが楽しいとも言えた。
早朝の漁でとってきたばかりという魚を焼いている店で、小ぶりな一尾と塩の利いたスープを分け合って、二人は今度は買い物に繰り出した。格別なにか買いたいものがあるわけではなく、物珍しいものを見たい気分が強い。実際に白クレリックの女性とシフールの女性が歩いているのは目を引くのか、幾つかの船や道を行く船員達から声は掛けられた。面白いものを見せてあげるから寄れと言うのだ。
北の海の貝殻細工、精霊信仰の土地に伝わる織物、月道渡りの貴重な装飾品やら何やらと聞くが、大半は話だけだ。本物の貴重品は大事に梱包されて、船倉か港の倉庫にしまわれているか、すでに取引相手に引き渡したのだろう。たまに、多分本当に珍しいお菓子をくれる者もいた。どちらも子供ではないのだが、女性はこういうものを喜ぶと思ったようだ。酒を勧めてきた者もいないではないが、フェノセリアが白クレリックだと分かるとたいていは引っ込めた。気付かない者には、周囲が止めに入ったこともある。
後は、珍しい、かなり脚色していそうな話を聞けといわんばかりにまくし立てられ、気付いたら自慢話大会のようになってりしていた。
結局ここでも人の話に聞き入っているうちに時間が過ぎて、あっという間に日暮れ時になった。暗くなったら危ないよと、また子供のように心配されて冒険者街に戻り、夕食はいつも使う店で食べて‥‥二人での散策もそこまでだ。
とはいえ、翌日からのフェノセリアは『根を詰めないように』とリノルディアから散々注意されたというのに、図書館と教会を往復するのに忙しく、それだけに充実した時間を過ごしたのだが。
さすがに、図書館の本は五日やそこらでは読みきることなど叶わなかったけれど‥‥余裕があれば、いつまででも通い詰めそうなフェノセリアであった。
●新天地・壱〜ヘラクレイオスとナオミ〜
その日、ヘラクレイオス・ニケフォロス(ea7256)はナオミ・ファラーノ(ea7372)をにこやかに出迎えた。これまで何度もパリとドレスタットで会っているが、ナオミがドレスタットに居を移すことになったので手伝いを申し出たのだ。
わが心の星への奉仕はすべて喜び。
こう機嫌よく口にした彼に、友人の誰も『手伝う』とは言わなかった。『秋も近いのにここだけ暑いわね』と言われたところで、『鍛冶場だから』と答えたのだ。馬に蹴られないうちに、皆自分の用にかまける事にしていた。
そんなことまでは知らないナオミが、荷物を積んだ船と共にやってきて、出迎えてくれたヘラクレイオスに笑顔を向け、彼が連れている馬に目をやって‥‥いささか怪訝な顔付きになった。
「立派な馬ですけれど、以前とは違うような」
「先日手に入れた馬でしてな。戦場も駆けられる良い馬ですよ。初陣はナオミ殿をお乗せすることになるが」
気は強いが、頭が良いから乗り手を振り落とすようなことはない。馬に乗りなれないナオミにそう請負って、ヘラクレイオスは彼女が乗るのを手伝ってやった。ナオミが鞍に腰を落ち着けたところで、ゆっくりと馬を進ませる。
「まあ、景色が全然違う。これは素敵だわ」
ナオミとヘラクレイオスだと彼女のほうが少し背が高いが、それとてドワーフ同士の背比べだ。馬に乗ったときの視点は、いつもとまったく違う。自分も初めて馬に乗ったときはそう思ったと、ふと昔のことを思い出しながらナオミと荷物を新しい家に運んだヘラクレイオスは、何気なく尋ねられたことに珍しく照れ笑いを浮かべた。
「まだ決めかねておって‥‥他の馬と同じ名前では嫌だと思ったりするものでなぁ」
馬の名前を問われて、確たる返事が出来ないヘラクレイオスに、ナオミも思案顔になった。楽しい思いをさせてもらったのに、名前を呼びかけられないのはちょっと残念と表情が語っている。
ふと口から零れたといった感じで、ナオミが言葉にした耳慣れない単語にヘラクレイオスが首を傾げると、今度は彼の心の星が照れたように微笑んだ。
「前にモンゴル? あちらから来た方が、ケンタウロス族の中でも慕われる方の名前だと言っていたから、どうかしらと思って」
頭の良い馬に『先生』と慕われた者の名前は合うのではないかとの申し出に、ヘラクレイオスはもちろん頷いた。
心の星が名付けてくれた名前が、気に入らないはずなどない。
「ではナオミ殿、我がケイロンにて、ドレスタットをご案内いたそう」
荷解きもほどほどに、幾つか買いたい物があるというナオミに、ヘラクレイオスは手を差し出した。
●Amour Joel〜イサの記念日〜
めったに教会には足を向けない、不信心ではないはずだが困った恋人を連れて、イサ・パースロー(ea6942)は早朝から教会に出向いていた。祈りの聖句も通り一遍のものしか唱えられず、自分の横でジョエル・バックフォードが時間を持て余しているのは承知していたが、イサは随分と長いこと手を祈る形に組み合わせて俯いていた。
そんな彼の左の薬指と、ジョエルの同じ指に揃いの指輪がある。ジョエルは普通の贈り物のように、着ている服に似合うかしらと言いながら手を差し出してくれたが、イサには大変な決心を要する出来事だったのだ。それを思い起こして、ようやく顔を上げた彼の左腕に、するりとジョエルが自分の右腕を絡ませた。引っ張っていこうとするかのように、左手も添えて。
だが、彼女が出入り口に向かわなかったのは、イサが左手に口付けたからだ。どうかしたのかと、問いかけるために開こうとした唇にも。
「ジョエル、結婚していただけますか?」
「ま。あなたからそんな言葉が聞けるなんて、思ってもみなかったわ」
一世一代の告白のはずだったが、ジョエルの心底驚いたと表している声に、イサはがっくりと彼女の肩に額を落とした。
「結構緊張していたんですが、そう見えませんでしたか?」
「教会で言うのが、あなたらしいわ。汗びっしょりね」
この一言のために、ものすごく緊張したのでと姿勢を正したイサは、ジョエルがいつもに比べて随分と伏目がちなことに気付いた。名前を呼びつつ、顔を覗き込むと明らかに作った艶っぽい笑みを向けられた。瞳だけは違う様子に随分と潤んでいたが。
「人のことは言えないけれど、あなたもどうせ依頼で出かけるのでしょう。でも、戻ったら側にいてくれるかしら?」
絡んでいた腕を解いて、ジョエルの体を両腕の中に閉じ込めてから、イサはもちろんと頷いた。愛していると囁いて、誓いの言葉を口にした。普通とは、随分と異なるものではあったけれど。
「あなたを待ち、あなたの元に帰りましょう。そう、あなたともう一人の女神に誓いますよ」
求婚するのなら、聖母の前で。白クレリックであるから、もちろん結婚も同様。ただ、今の言葉は彼にとって、もう一人の麗しの聖女に向けられたものだった。
他の誰もそう呼ばなくても、彼にとってはかけがえのない女性だったから。
そうして、二人は同じ指輪をしたままに街へと出かけていき、何故か宝飾品を商う店に出掛けた。金の指輪に文字を掘り込むよう頼んで、店員から祝辞を受けて、今度は市場に向かう。イサは翌日に友人と出産のお祝いに訪ねる予定の店のことを話し、果物や蜂蜜を買い込んだ。ジョエルが入れ物を気に入ったというワインも、求める。ベルモットもワインも持っているのだが、彼女がほしいと言ったものが肝心だ。
ただ、その間にジョエルが買っていたものを夜になって見付けた彼は、頭を抱えつつ呟いていた。『それは神の御心のままですよ』と。
悪戯な聖女殿は、ベッドの上で笑い転げてくれたらしい。
●新天地・弐〜ナオミとヘラクレイオス〜
自分でも予想していたが、食器を買いに出掛けたもののどうしても気に入ったものを見付けられず、勉強するだけに終わったナオミは、ヘラクレイオスに手伝ってもらって鍛冶場の火を起こしていた。
気に入った銀食器がなくて、こんな感じと散々図面を描いたりして見せたせいか、ヘラクレイオスは自分で食器を作るつもりだと思っているらしい。だが、ドレスタットに来て最初に作るものは、ナオミは前から決めていた。
「試し打ちならば鉄が良いですかな。いきなり金銀というわけにはいきますまい」
装飾品職人であるナオミは刃物など縁がないと思っているのか、ヘラクレイオスは彼女の手元で作られていくものが何かに気付いていない。もちろんナオミも、実用一辺倒の品を作るつもりはなかった。
ようやく満足の行くものが出来上がって、それをヘラクレイオスに贈ったときには、しばらく黙られてしまって驚いたが。
「今まで色々もらったので、お返しにと思ったんです」
「‥‥いわれるほどのものを贈った覚えはないが」
髭の手入れに使う鋏を作ったナオミに、ヘラクレイオスは『自分が何を贈ったのか』と悩んでいるのが分かる表情で、でも嬉しそうに受け取ってくれた。もしもナオミが貰ったものを指折り数えて説明したら、彼はもっと違う顔になっただろう。
誰かを思うあたたかい気持ち、女らしく振舞いたいと思う心、職人として恥ずかしくない力を身に付けたいと願う向上心、そのための学ぶ意欲、なにより転居を決めるような強い想い、他にも色々なもの。
そうしたものに比べたらほんのちょっととナオミが思った鋏は、ヘラクレイオスには随分と驚かされる贈り物だったようで‥‥お礼と引越しのお祝いにこの間は案内できなかったドレスタットで一番景色のいいところをお見せしたいとの申し出は、幾らか堅苦しいような気がしたものだ。
また、案内されたのが高台の海を見渡せる、正確には海しか見られない場所だったのもナオミには意外だった。確かに眺めはいいが、騎士であるヘラクレイオスが馬で駆けられぬ海を眺めて楽しむとは考えたこともなかったので。
だが、意外と思う気持ちもヘラクレイオスの言葉で吹き飛んだ。
「海など、船の上で幾らでも見たと思うたが‥‥境がないのでな。ナオミ殿、わしは城も領地もない、名ばかりの騎士。しかも他国の者だ。先の戦争でこの国に貢献したわけでもない。それでもご迷惑でなくば‥‥これを受け取っていただけぬか。本職のナオミ殿から見たら、さぞかし出来の悪い品ではあろうが」
差し出されたのは、二つ揃いの指輪の片方だった。確かに内側に掘り込まれた文字は随分と拙いが、『我が心の星へ永遠の愛をこめて』と読み取れる。もしかして、自分がそう読みたいだけではないかと心配になって、ナオミはもう一度目を凝らしたが、やはり間違いない。
それと、自分に似合うのかと心配になった上質のヴェール。指輪と一緒に見ると違うものが浮かんで、ナオミは慌てて俯いた。絶対に、今は顔が真っ赤になっている。
俯いたので、彼女はヘラクレイオスの困ったような、悲しそうな顔は見なかった。差出した指輪とヴェールの行き場を考えている彼に対して、ようやく声を掛けられたのは随分と経ってからだ。
「私、次に作るのは自分用の鋏と思っていたんですけど‥‥手伝っていただいてもよろしいですか?」
「おお、わしでよければ今からでも」
まるで示し合わせたように、揃ってほっと息をついた二人は、しばらくして来た道を戻っていった。行きと違うのは、ナオミがヘラクレイオスの馬に乗っていないことと、二人の指に銀色の飾りが加わったことだ。
ゆっくりとした歩みに、馬はおとなしく従っている。
●足りない言葉〜ブノワと‥‥〜
「私、あなたと会うのが、嫌です」
依頼でもないのに押しかけたブレダの街で、メドック司祭にはにこやかに迎えられ、領主夫人のマルグリットには働き者と感心され、ヴィルヘルム神父にこき使われたブノワ・ブーランジェ(ea6505)は、明日の朝にはドレスタットに戻るという夜更けに、助祭のアンリエットにそう言われた。メドック司祭に告戒を望んだのは彼だが、司祭が差し向けたのは彼女だったのだ。
そうして、言われた。自分はなぜこれほど相手を傷付けたのかと、ブノワは悩んで‥‥答えを見出せずに礼拝堂の片隅に立ち尽くしている。
「皆さんが、司祭様も義兄も私に言うんです。あなたがここに来てくれたらいいって。あなたは魔法も色々使えるし、真面目で信仰にも熱心だから。でも、そうしたら」
自分の居場所がなくなるから来ないで。
蝋燭にほのかに照らされた蒼褪めた頬の上を伝う涙を眺めて、ブノワは床に跪いた。小柄なアンリエットが俯くとあまりに小さくて、そうしても顔がよく見えない。
「あなたの『家』に訪れるなとおっしゃるなら、そうしましょう」
本当の気持ちとは違うことが唇から飛び出して、アンリエットが顔を上げた。同い年のはずだが、妙に子供じみた表情の泣き顔を拭ってやりたくて手を伸ばしかけ、止める。
「どうして怒らないんですか。私、信仰ではなくて、生活のために教会に入って、ずっとあなたみたいな人を妬んでた。なのに、どうしてあなたは優しく出来るんです。どうして、誰にでも優しいの」
「‥‥誰にでもでは、ないのですが」
思い悩んでいる友人をドレスタットに置いてきたし、姪には用だけ言いつけた。色々理由はつけたが、ブレダに来たのも結局のところ自分のためだ。それでいて、目の前で泣いているアンリエットの涙一つ拭ってやれない。
彼の言葉を聞いているのかどうか、アンリエットは小声で、でも言い放った。
「どうして、危ないことを押し付けてる私を怒らないの、優しくしてくれるの」
彼女の言うことはかなり矛盾しているが、ブノワはそれには構わなかった。ようやく言うべきことを見付けて、やっと彼女の涙を拭ってやる。荷物に入れていたハンカチーフを持ってきていればよかったと、何故か思った。
「あなたが危ないところに行くのは、僕が心配です。ここで待っていてくださると思えば、勇気が湧きます」
「私だって心配なんです、待っているのは辛いの」
だからもう、顔を見ただけで苦しい。いっそ会いたくない。
「僕は、あなたに会えなくなったら辛いです。依頼がなければ、本当はここに滞在する理由もないので‥‥依頼があっても、あなたがいないなら来ません、きっと」
でも自分と会うのがそんなに苦しいなら、依頼があっても来ない。自分がどんな顔をして言っているのか分からないまま、ブノワは言葉を紡いで、渇いた音で口を噤んだ。
目の前に、自分の右手を左手で押さえて、零れ落ちそうに目を見開いているアンリエットがいる。彼女の手に唇を叩かれたと理解したのは、それをしげしげと眺めてからだ。
その間に、アンリエットはへたりと座り込んでしまった。呆然とした顔は、まだブノワを見詰めている。石の床は冷たいからと、膝の上に抱き上げてもずっと。
「僕はどうしても、あなたに心配させないような話が出来ませんが、言いたいことはたくさんあるんです。‥‥聞いて、いただけますか?」
アンリエットの頷きを胸元で感じて、ブノワは言わずにいるはずだったことを話し出した。
●竜騎亭の賑やかな夜〜結夏とゆかいな仲間達・弐〜
ブノワが戻ったら、祝い酒か自棄酒か、とにかく酒はかなり飲める友人のためにお勧めの酒をと竜騎亭のディアヌに頼んでいたイサは、友人を見てほっとした。この際表情はどうでもいい。本当は良くないが、自分が解放されるならありがたいと思ったのは事実だ。
そんなイサと同じ卓では、結夏が獲物を見つけた猫を思わせる様子で、ブノワを手招いている。彼女にディアヌへの祝いに行かせた姪の案内を頼んだブノワが、丁寧に礼を言うのは半ば無視だ。
『産婆を呼ぶ』と言われて、『赤ん坊が生まれた』と勘違いしたことはとっくに彼女の中では水に流されてしまっている。おなかの赤ん坊の様子の確認を産婆にしてもらうのかと、一つ賢くなったことでもあるし。
となれば、ここは後学のために他人の恋愛譚を聞いてみるということで‥‥イサは毎日激しい追及を受けていたのだ。恋人に知られたら、今度は何を飲ませようとされるか分からないことまで、言わされた気がする。
「さ、どうだったのか言って。まあそれなりにとか、元気でしたとか、そんなのじゃ納得しないわよ。‥‥白状おし」
仲間が揃いも揃ってお熱かった一週間の総決算とばかりに、ブノワに詰め寄る結夏は大変に楽しそうで、ついでにちゃっかりしていた。
なぜなら、この一週間、初日こそは財布を取り出した彼女だが、以降は一度として自分の財布を懐から出さずに過ごしていたのだから。
そんな彼女を咎める男など、この場にはいなかった。