●リプレイ本文
以前にブレダの開拓地に建設中の教会に寄進をしたマグダレン・ヴィルルノワ(ea5803)は、ブレダの街の助祭アンリエットに挨拶した際に、ちょっと眉を寄せた。相手が彼女の名前を覚えていて、丁寧な礼を述べてくれたことはありがたい。義妹に対する伝言もしかと聞いた。
しかし、人間としては大層小柄で、手足も小さく、その割に大きな目を持つアンリエットは、歳の割に少し幼げな顔立ちだ。可愛いではなく、愛嬌というのも遠い。十人並みと言ってしまえば身も蓋もないが、もちろん化粧っ気もないから、他人の気を引く雰囲気ではない。いや、それでも彼女の知人が惹かれまくったわけだが‥‥さて。
「セレスト様、服の丈の確認、よろしくお願いいたします」
「ええ、それはもう」
今は開港祭。聖母に仕える聖職者が華美を遠ざけることは承知しているが、それでは辺境伯への不敬になる。これだけくっきりした目なら、さぞかし化粧が映えるだろうから、後は全部私達に任せない。と、説法が生活の一部のはずのクレリック二人を勢いで黙らせて、マグダレンはセレストと一緒にアンリエットを着替えさせ、思うように化粧して、飾りはあるだけ全部広げた中から銀の髪留めを選び、髪だって結い上げて、非常にご満悦だった。
「これなら、辺境伯様も喜ばれますわ」
一番喜んでいるのは、マグダレン本人である。二番目は、一緒にあれこれしたセレストだろう。
そして、突然のことにきょとんとしたままのアンリエットをさておいて、彼女達はブノワ・ブーランジェ(ea6505)も『こっちに来なさい』と呼んだ。
こんなとき、もちろん男に拒否権など、ない。
その頃、明日の外出に合わせて、愛犬のウノの毛並みを梳いていたマリオーネ・カォ(ea4335)は、愛猫イチにもたれかかられて潰れかけていた。
「イチ、お前はさっききれいにしただろー。だいたい明日は留守番なんだから、邪魔しない」
言ったところで、気まぐれな猫のかまって攻撃が止むわけではないのだが。
それと同じ頃。祭りだと言うのに、誓いの指輪の片方が随分と離れた場所へ行ってしまったナオミ・ファラーノ(ea7372)は、この機に稼げとばかりに細工に凝っていた。もちろん売って、お客の反応を見るのが目的だ。
他に、稼いだお金でワインの新酒を買っておこうとか、肴は珍しい燻製があったからあれを準備しなきゃとか、色々考えているのは女心である。
なんともすがすがしい朝だった。
朝の冷たいが、身のしまるような空気で深呼吸をして、ファル・ディア(ea7935)は待ち合わせの場所に向かった。日頃は様々な日課をこなしている時間だが、今日はエレ・ジー(eb0565)が世話になっている依頼人に贈り物をするというので、買い物に付き合う約束をしたのだ。どうやらエレは、手作りのぬいぐるみを作るための材料が欲しいらしい。
別にファルが裁縫を得意とするわけでも、布地の目利きが出来るのでも、そうした知り合いがいるのでもない。家事の腕ならエレ自身が相当なものだ。まず手伝いは必要ない。
けれども、エレは祭りで立つ市で買い物をするには、幾らかどころでなく人見知りをする性格なので、買い物には付き添いがいる。しかも男性だとファル以外とは会話がままならないという、どこの箱入りかと思うような女性だった。その割にファイターだが。
「お、おはようございます。や、やっぱり‥‥にぎやかですね」
約束の時間に遅れることなくエレがやってきて、ファルの挨拶にぎこちなく微笑んだ。いつものことなので、ファルは穏やかな笑みを崩さず、まず布地を買うか、それとも市を一巡りするか尋ねた。
「あの、えと、ファルさんは、忙しくないですか?」
「‥‥たまの息抜きくらい、お目こぼしいただけるでしょう。それに今日はエレ殿の買い物にお付き合いする日ですから、時間は気にしないでください」
せっかくのお祭りですから、少し歩いてみましょうか。その言葉に頷いたエレの表情は、先程より少しばかりくつろいだものになっていた。
待ち合わせの場所には着いた。ものすごく早く着きすぎた。それというのも、愛犬ウノが早く出掛けようと急かしたからだ。その前に早く目が覚めたのは、愛猫イチが外に出させろと煩く鳴いたから。
色々理由をつけたが、それにしたってマリオーネは一時間も早くに待ち合わせ場所に着いてしまった。どう考えても、それは早すぎる。
「じっとしてるのは性に合わないや」
幸い、いつもの帽子はウノに被せてある。それをちょいと地面に置くと、もうここはマリオーネの舞台だった。道具は全部パリに置いてきたけど、なにしろ重かったから、でもその気になったら石ころ一つだってちゃんと使いこなして見せるのが大道芸人だ。
「さあさあ、皆様。ちょっと見てってちょうだい」
威勢良く声を張り上げてしまえば、一時間などあっという間のことだ。
そうして。
「そうなの、おしまいなの。これから船を観に行くんだから、止めないでっ」
こちらも約束の時間よりちょっと早くに来たマグダレンの姿に、冷やかされながらその場を後にするマリオーネの姿があった。
「よかったのかしら? お仕事でしょう?」
お弁当を作っていくとの言葉に違わず、いろいろ荷物が多いマグダレンの手から包みを受け取り、それをウノの背中に括りつけながら、マリオーネは全然平気とにっこりした。ついついいつもの仕事に熱中してしまったが、マグダレンとの約束が先なのだ。本日分の軍資金くらいは稼げたし、とは言わない。
「マグダレンのほうが大事」
あっさり言い切ったマリオーネに、マグダレンは一瞬目を丸くして、それからしっかりと頷いた。
宙を進む二人の後ろを追いかける荷物持ちウノが、彼らのゆっくりとした速度に合わせて、のんびりと歩き出した。
人波の中を歩くのだから、速度は自然と緩くなる。更に自分と相手の歩幅差を考えて、もうちょっとゆっくり。土産物でも見たらと勧めてはみたが、アンリエットは気乗りがしない様子だ。
自分は一緒に歩いているだけでも満足だが、誰にどう言われようが、姉に責められても友人に鼻で笑われても、この際酒の肴に噂されても構わないくらいにブノワはこの状況で十分だったが、だからといって一日歩かせるつもりはない。ではどこに行けばいいかと決めあぐねていた彼は、市の露店に知った顔を見付けてしまった。
「ヘラクレイオスの‥‥佳人ですよ」
「なによ、自分だって。あ、髪飾りがずれてるから直しましょ。ふーん、銀ね。銀だと、自信作があるのよね」
マグダレンが教えたとおりに結い上げたらしい髪から、確かに髪留めがずれている。ナオミが器用に髪留めを挿しなおしつつ、露店に広げた中の一品を取り上げた。同じく銀の髪留めだが、飾りが大分凝っている。会心作、なのだろう。
「せっかくだから見るだけでも見て。買わなくてもいいのよ。誰もいないとお客も寄ってこないし」
ものすごく自然に、ブノワの手に髪留めを押し付けたナオミは、アンリエットに装飾品を一つずつ取り上げては説明を始めた。ちょうどお客が途切れて、暇を持て余していたのだろう。やたらと二つ一組の品物が多い装飾品を前に、細工についての細かい話をしている。
「こっち下取りして、それから‥‥いいワインを手に入れたって聞いたんだけど」
譲ってくれるわよねと、表情で物語ったナオミに、ブノワはもちろん頷いた。他の選択肢はない。昨日から、一向にないような気がする。
髪留めが交換されるのを、困ったように見ているアンリエットに心配ないからと微笑んで、彼はナオミの作ったものを彼女の髪に挿しなおした。
みっともないくらいに手が震えたのを、ナオミは見ないふりをしてくれた、と思う。
開港祭では、港の船が様々な飾り付けをするという。しない船もあろうが、とにかくいつもより賑やかだと聞いていたマグダレンとマリオーネは、まずは港に向かっていた。中には船を飾って、甲板で飲み食いをさせるものもあるので、とりあえず乗船してみる。彼らが選んだのは、遊覧をしない船だ。
乗船するのに幾らか、更に飲み物食べ物を注文するとそれに応じて料金を支払う船だったので、もちろん弁当持参は嫌な顔をされたが、マストの上を借りたいと言ったら許してくれた。他の客の目に入らないところなので、大目に見てくれたらしい。
そんなわけで、マリオーネは広々とした港が一望できる高さで、マグダレンの弁当だけ眺めていた。手先が器用で、仕立て屋としての腕も良いマグダレンは、さらに料理も上手なのだ。綺麗に詰められた弁当に、マリオーネの目は釘付けだった。
「先にご希望を聞いておけばよかったかしら」
「そんなことないよー。全部おいしそうだもん。‥‥ほら、やっぱりおいしい」
細かく刻んだハーブをまぶして焼いた鶏肉を口に放り込んだマリオーネが、指についたソースまで舐めながら満面の笑みを浮かべた。嬉しいと言うのが、言葉だけではないことを雄弁に物語る笑顔だ。つられて、マグダレンが目を細める。
余人のいない場所で、にこやかに、料理の一つ一つに大げさなくらいに感想を述べる、年上には見えない笑顔の同族といると、下から響く喧騒が小さくなる。種族が違う義妹や種族を問わない女友達と一緒の時とは違う感覚だ。くるくると変わる表情と話題が、シフールにしては一つ物事に囚われがちな自分を落ち着かせてくれるようで、食べることも忘れて見入ってしまう。
「あ、ごめん。パンが綺麗に千切れなかった。半分こにするにはっと」
「あら、わたくしはそちらで。味見をしたので、たくさんは食べられませんから」
実際は味見など一口二口だ。でもあまりにおいしそうに食べてくれるマリオーネに、もっとたくさん作ってくればよかったと思っていたから、彼女は小さいパンを取った。申し訳なさそうな顔はされたくないから、ちょっと本当のことを言わなかっただけのこと。それに、なんだか見ているだけで、自分も食べたような気になったので、マリオーネに食べたいだけ食べさせてあげたかったのだ。
これはマグダレンの分と、料理を取り分けてくれる姿に、彼女も満面の笑みになった。
祭りともなれば、人出は多い。ましてや道が交差するところだと尚更だ。人の流れに沿えばどうということもないのだが、あいにくファルとエレはそれに逆らうところに出てしまった。
目の前の大きな背中についていけば大丈夫。それは判っているのだが、人との波を横切るのはなかなか大変だ。エレなど、誰かに当たると謝ろうにも言葉がすぐ出てこないから、もごもごと口を動かしているうちに遅れてしまう。危うくはぐれそうになったことも、すでに片手では数え切れないほどだ。今も、ファルの背中を見失いそう。
ここで大きな声で名前を呼べばいいのに、その声も出なくて泣きそうになったエレは、誰かに手を握られて振り払おうとした。エレ殿、とよく知る声を耳にしたのは、ようやくこのときだ。
「すみません、離れてしまって」
人波の中でよろよろしていたエレに気付いて、ファルが腕を引いてくれていた。緊張と驚きで耳どころか首まで真っ赤になったエレは、しばらくそのままで手を引かれて歩く。ようやく人波を抜けた頃合には、手まで赤くなって、まるで発熱しているようだ。
ただし本人も、そして連れまで『人が多くて暑かったし』と思い込んでいる。繋いだ手は、なんとなくするりと離れた。
「ええと、どこに行きたいですか?」
「あ、あの、お料理とか、み、身だしなみのこととか」
休憩がてらになにかおなかに入れてから、飾り物を見て回りましょうかと言うファルの意見は、エレの考えとはずれている。彼女は手を握られて歩きながら、じっと彼のローブの袖口を見ていたのだ。ほつれていたら直してあげるのにと思ったところで、都合よくほつれは見付からない。そこから日頃の食事はどうしているだろうとか色々、あれこれ考えていて、それを口走っただけだったりする。
でも、一緒にご飯が食べられるのならそれでいいと思う理由も分からないエレには、自分達がかみ合っていないことなど気にならなかった。
今考えているのは、ファルはどんな食べ物が好きなのだろうということだ。
ワインの新酒を譲ってもらう約束もしたし、そこそこ品物も売れたので、ナオミは一度店じまいして市を見て回ることにした。珍しい織物を見たら足を止めて、模様をじっくりと観察する。手触りや厚さ、着心地には、あまり興味がない。この模様を自分の作る装飾品に使えないかなと、思わず考え込んでしまうわけだ。
布地屋、古道具屋、様々な野菜や果物が並ぶところまで眺めて、最後に彼女が足を止めたのは豚肉の燻製を扱っている店だった。実は昨日もここで立ち尽くしている。
「あの人が帰ってくるのは、何日の予定だったかしら」
祭りだというのに、ナオミの隣の住人は出掛けてしまっている。仕事だから仕方がないとは思うが、祭りならではの賑わいを一緒に見たかった気分もあるわけで。
せめて、おいしいものでも食べさせてあげたいと目を留めたのが、この店だったのだ。昨日訊いたら、祭りのために特別に作ったものだというし‥‥
「それね、明後日くらいに食べるとしたら、炙るといいのかしら? 他においしい食べ方ってある?」
これを買ったら、また店開きする前に一度家に寄らないといけないなと考えながら、ナオミは料理の仕方を聞いていた。多分、もう一度野菜の露店にも寄ることになるだろう。
ナオミが景色の良いところがあると勧めてくれたので、行ってみた先には人気がなかった。景色が良い分吹きさらしで、かなり寒いからだろう。何気なく自分が風上に回ったら、不意に礼を言われた。
「ヴィルヘルムは男の見栄だから気にするなと言いますが、殿方でも寒いものは寒いでしょう?」
「あの人らしいですね」
思わず納得してしまったブノワに、アンリエットがはあと返事とも溜息ともつかない声を返した。今まで、色々とあったのだろう。
「僕も真似をしてみたいので、お付き合いいただけますか?」
まじまじと自分を見上げる栗色の瞳に、ブノワは穏やかに微笑みかけた。
おなかもいっぱいになったし、港を行きかう船を眺めるのにもそろそろ飽きたし、なんと言ってもマストの上は寒いので、マリオーネとマグダレンは地上に降りることにした。待ちくたびれていたらしいウノは、すっかり昼寝と決め込んでいる。たたき起こすのが、なかなか大変だ。
「ウノの分を忘れていましたね。何か残しておけばよかったかしら」
お祭りだから何かいいものを作ってやればよかったと反省しているマグダレンに、絶対駄目と言い張ったのはマリオーネだった。
「マグダレンの作ったもの食べさせちゃったら、他のもの食べなくなるから駄目」
「あら、まあ」
それにどうやら、待っている間にウノも他のお客から色々もらっていたらしい。見れば口の周りに油などつけている。おなかいっぱいで寝ていたものらしい。
では、食後の散歩と洒落込もうかと、ウノを連れた二人は船を下りた。案内はマグダレンが担当だ。なにしろマリオーネは、一月前にパリから到着した途端に依頼に出掛けるのが続き、ドレスタットの街はほとんど知らない。マグダレンも依頼で遠方に出ることが少なくないが、以前からいる街のことだから、マリオーネを案内することは造作もないのだ。
「どこから回るのがいいかしら」
「ウノとはぐれないようにしないと。マグダレンも、はい」
港の一角で、さてと首をかしげたマグダレンが呼ばれて振り返ると、ウノの首に細い引き綱を回し、それを左手に絡めたマリオーネが、彼女に右手を差し出していた。
よそ見していてはぐれたら困るから、手を繋ごう。
まったく言葉通りで、他に他意は見当たらない言葉に、マグダレンは頷いて左手を述べた。
「あー、やっぱりマグダレンは手も小さいね」
シフールの中でも小柄なマクダレンと、大柄なマリオーネとでは掌の大きさが違う。握ってから、なんだか感心したように言われて、マグダレンは何か言おうとして‥‥しっかり、でもきつくないようにと握りなおしたマリオーネの心遣いに、何を言うつもりだったか忘れてしまった。
はぐれないように、しっかりと握り返す。
開港祭では、毎日決まった時間に領主からの振舞い酒などが配られるらしい。人見知りが高じて噂話に疎いエレと、待ち構えて物を貰うなんてことは考えもしないファルは、何故かその喧騒に巻き込まれていた。領主の館で何か珍しいものがあるらしいと聞き違えたのだが、酒に殺到する男達の流れに逆らって戻るのは至難の技だ。
とりあえずは通りの隅で、この騒ぎが収まるまで少し待とうということになった。エレは先程から、ファルの袖にしがみついている。
「やれやれ、困ったときに来てしまいましたね。大丈夫ですか」
こくこくと頷くのがやっとのエレを、通りの端、どこかの家の壁際に立たせて、誰かが不意に近付かないように庇う位置に立っているファルの背中に、時々誰かがぶつかっていく。血の気の覆い男が多いと言われる港町だから、振る舞い酒には走らずにいられないのだろうか。つんのめってエレに当たっては本末転倒なので、ファルは壁に片手をついた。心配そうに見上げてきたエレに、にこりと笑ってみせる。
別に痛くないですよと、何気なく間近にあった金髪を撫でて、ファルは不意に手を止めた。エレは彼の様子を窺うように上目遣いでいるが、別に嫌がってはいない。クレリックということもあって、多少触れても驚かれることはないが、今のはちょっと失礼だったかと思ったのだ。
でも、手を離すのはもったいないような気もして、一瞬自分で何をしているのか慌てたが、エレが少し首をかしげたのを機に、気を取り直した。ヘアバンドにかかる髪を払ってやって、ようやく落ち着いた通りを見て、エレに戻ろうと声を掛ける。
「あ、あの、ファルさん、や、やっぱり痛かったですか‥‥?」
「いえ、それは本当に違いますけど」
今、自分の声が思い切り震えた理由が分からなくて、ファルはちょっと途方にくれていた。エレも同じような表情で、彼を見上げながら歩いている。二人とも、妙に早足だ。
歩いて、歩いて、祭りの喧騒が遠くなったところで、二人は足を止めた。エレはついて歩いていただけだから、ファルが我に返ったのだ。
「す、すみません。ちょっと‥‥」
「え、えと、‥‥お仕事、た、大変ですか?」
気遣うように尋ねられて、ファルは内心非常に恥じ入った。エレに労わられていては、クレリック失格である。それなのに、もう一人自分がいるような心持で、エレの目は青かったんだと今更のように納得していたりもする。
こんなに自分のことが判らなくなったのは、多分生まれて初めてのこと。
買った食品を家に置き、また店を開いていた場所に戻ろうとしたナオミは、遅咲きの薔薇の花を束ねて売っているのに目を留めた。装飾品も金属の場合は鍛冶仕事だから、何時間も鍛冶場に篭るので家に花を飾ることはしない。世話がおろそかになって、早くに萎れたら可哀想だからだ。でもせっかくの祭りだし、今回くらいはいいかと思って一束買い求めた。
花でもあれば、ちょっとは気が紛れるかもと頭を掠めたのは、あっさりと忘れることにする。
「そもそもブーちゃんが嫁候補を連れてくるって言ったのに、来ないから」
それは来なかったのではなく、来た当人に泊まるあてがあっただけなのだが、責任転嫁してみる。改めて露店を開き、花は脇に飾ってみると、さっそくお客が立ち止まった。残念なことに、商品ではなく花に気を取られたらしい。
「エレ殿、花が欲しいのですか?」
布地らしき包みを持った背の高い男が、立ち止まったお客に話しかけている。ナオミが気を利かせて、すぐそこの露天で売っていたと教えてやるが、あいにくと店じまいの途中だ。ナオミが買ったときに残り二束だった薔薇は、すでに売り切れたらしい。
物怖じするらしい女性が、薔薇の花を見ながら何か言おうとしているが、なかなか言葉が出てこない。付き添っている男性も、欲しがっているのだから譲ってくれの一言くらい言えばいいのに、思案顔で佇んでいる。そもそもこの二人の間もギクシャクした感じで、一体どういう関係なのかよく分からない。
これは残念ながら商品を買ってくれるお客ではないだろうと、ナオミが思っていると、男性がひょいと首飾りを取り上げた。薔薇の花の模様を彫りこんだ飾りを革紐で吊るしたものだ。誰でも気軽に買えるように、お値段も抑え目。
「え、いや、あの、か、飾りが欲しいわけでは」
ぷるぷると、すごい勢いで首を振った女性を見て、ナオミは呆気に取られた。男性もしばし動きが止まっていたが、ちょっと慌てたように商品を戻す。ナオミに一言を詫びるところから、律儀な性格が窺えた。なんとなく落ち着かない様子だが、一生懸命女性の様子を見ているのが可愛いのか、不器用なのか。
こういう男を一人知っている。と、ナオミは思った。
「はい。あんまり香りはしないけどね」
花束を半分にして、心持ち多いほうを男性に差し出すと、相手はしばらく遠慮した後に受け取った。それから、女性に手渡しているが、視線が落ち着かない。受け取る側も明後日の方向を向いているという、不可思議な二人だった。
そのまま並んでどこかへ行くのを、手を繋いで歩いたらいいのにと見送るナオミがいる。
贈り物ばかりしてもらって、自分はなにもしてあげるものがない。風が冷たいと言いながら、高台に腰を据えて話していて、土産の話になって、ブノワはアンリエットに言われてしまった。髪留めのことを気にしていたので、薄々察してはいたことである。
「そんなことはありませんよ。いつも忙しい貴女の時間をいただきましたから」
察していたので、先に考えておいたことを告げると、アンリエットはほんのりと赤くなった。だがか細い声で、それでもと言うので、ブノワはじゃあと理由を変えた。
「誕生日の贈り物でいかがですか。そろそろではないかと思うのですが」
出逢ったのが今年の初め、そのときに三十だと聞いた。今もそうなら、誕生日はそろそろだ。少なくとも年末までには巡ってくるだろう。そう思ったのだけれど。
「一応、来月の末です。‥‥拾われたのが、その日なので」
アンリエットにはあまり思い出したくない話だったかと、気付いたときには遅い。耳まで赤くなったのは、多分今の言葉を口にするのに力を入れたからだ。小さな手も、膝の上で握られている。
その手を取り上げると、随分と冷たかった。血の巡りが悪いと聞いたのも思い出す。
「ヴィルヘルムがいたおかげで、僕は貴女に会えました。貴女が大切な人のために、ここまで努力して来たから、僕が愛する今の貴女があるのでしょう。そのことに対する‥‥お礼です」
冷えた手を暖めるように握り締めて、俯いて座るアンリエットの髪留めを眺めながら、ブノワは囁いた。座って俯かれると、彼が相手の顔を見ることはほぼ叶わない。泣いていなければいいと願っていると、先程よりか細い声がした。
「私は、ブレダの街から離れたくありません」
「それは承知しています」
最初から判っていたから、自分の側に来てくれとは言わない。以前から考えていたことを告げると、アンリエットの肩が少し落ちた。それから、手が握り返される。指を絡めるようにした掌は、二回りも小さかったけれど。
思いが伝わるようにと、彼はしっかり指を絡めた。
最近、難敵を相手にする依頼を受けているとか。何気ない風を装ったマグダレンの問い掛けに、マリオーネはまあねと素直に頷いた。祭りが終わった頃に、またお呼びがかかると思うと、緊張した風もない。
「けっこー人使いが荒いんだけど、偉ぶらない依頼人でいいかな」
「そうですか。では、お帰りになる頃にまたお弁当を作りますから、食べてくださいね」
ウノとイチの分も何か用意しましょうと提案した彼女に、マリオーネは駄目駄目と首を振った。おいしい物を分けてあげるつもりは、やはりないらしい。口が肥えたら大変だと思っているのだろう。
まったくなんにも疑わず、気付かずの相手に、マクダレンは滅多に見せない甘いものを含んだ笑みを向けたが、もちろん彼は気付かない。
今はまだそれでいいと、彼女も思っていた。
楽しくお祭りを見て回るはずが、なんだか途中からギクシャクしてしまった。理由にまったく思い当たらないエレは、夕食をどうしようかと歩いていた途中でファルに置き去りにされていた。正確には『ちょっと待っていてください』と言われたので置き去りではないが、日用品を商う店に入るのに連れて行ってもらえなかったのは、誰かへの贈り物でも買うのだろうかと暗く思い悩んでみたりする。
別に、ただ買い物に付き合ってもらった相手が誰かに贈り物をしても、暗くなる必要はまったくないのだが‥‥礼拝のときに飾ってもらおうと思って探した花を、結局ファルから貰ってしまったエレとしては、なんとも言いがたい気分がこみ上げてくるのだ。まさか花を返すわけにもいかないし‥‥
布地を買った店で、おまけにくれた端切れを入れた袋を取り出してみる。薔薇はぎゅっとまとめれば香りだってあるし、うまく乾かせば長持ちするはずだ。多分。
「お待たせしてすみません。‥‥エレ殿、薔薇は嫌いでしたか?」
薔薇の花びらをむしって袋に詰めているところを目撃されて、エレはそれはそれは慌てたが、幸い袋を取り落とさずに済んだ。何をどう言えばいいか判らなくて、袋の口を縛らないままに突き出してみる。
「くださるのでしょうか‥‥」
こっくりと頭を動かしたエレに、ファルが袋を受け取ろうと手を伸ばして、買ったばかりの包みをどうしたものかと迷う素振りをした。やがて、ちょっと大きく息を吸って。
「では、交換で」
エレが渡された包みからも、ほのかに薔薇の香りがしていた。
二人とも、手元の『薔薇』を見ながら、次の言葉を探している。
まだ住人が戻らない家の扉の下に、ナオミは伝言を記した薄い板を差し込んだ。
『おかえりなさい。戻ったらうちによってね』
ワインも食べ物も、楽しい土産話も準備万端整っているから、後は一緒に頼む相手を待つばかりだ。
祭りの季節は終わっても、大事な人との時間は終わらない。