●リプレイ本文
●花一輪
今日もまた、ミラ・ポゥーラー(eb0708)の髪から飾りが落ちた。
「ミラ、あんたは顔だけじゃ男か女か分からないんだから、せめて飾りくらいは綺麗に挿しな」
早く髪が伸びて、女の子に見えるようになるといいねぇと、毎日毎日、女将は同じことを言う。食い扶持に困って、『自分でも売れっ妓になれるかな?』と飛び込んだ店の女将は、ぶつぶつ愚痴は多いが案外いい人だとミラは思っていた。
ただ、姐さん達は、これまた口を揃えて、ミラのことを阿呆だと言った。自分から娼妓になろうなんて、と。
「じっと出来ないのかい、こらっ」
髪飾りを直してくれていた姐さんが、やり方をなんとか見ようと落ち着かないミラの額を小突く。自分でやるとすぐ落ちる飾りが、姐さん達だとどうしてしっかり髪に納まるのか、結局相変わらずの謎である。
けれども、髪を梳いてもらうのも、お古の衣装の色あせたリボンを結び直してもらうのも、ミラは大好きだ。最後に紅をちょっとだけさしてもらい、なんとか今日も身支度が完成した。早く一人で出来るようになれと女将は言うが、皆に色々してもらうのが楽しいミラは覚えが悪い。不器用ではないが、真剣に覚える気が足りないのだ。周りも本気で教えるつもりはない。
更に当人は働く気に満ち溢れていたが、稼ぎもさっぱりだ。そもそも飛び込んだ店が繁華街の外れで、彼女以外は人間なら三十代以上の姐さんばかりだから、常連客以外はほとんど来ない。そして彼らには馴染みの姐さんがいて、ミラにはまずお声が掛からないのだ。だから毎日、掃除や炊事をしている。新米娼妓というより、単なる下働き。
「食べるのには困らないけど、一度仕事に決めたからには、僕、来てくれた人に幸せになってもらえるようになりたーい!」
今日も着飾ったものの、相変わらずの閑古鳥に決意表明だけは元気のよいミラが、薄暗くなった通りの向こうにお馴染みさんを見つけたのはその時だ。今のところ、ほとんど唯一の『幸せにしてあげられる人』でもある。でも。
「なんだぁ、仕事中だね。今日は獲れた?」
「まあまあな。相変わらず暇か?」
漁から戻ってきて、得意先に魚を届けに行く途中のお馴染みさんは、ミラを見ると寄らない時でも声は掛けてくれる。だから今日のミラは昨日より幸せだ。
「あんたね、うちの娘と話し込むんじゃないよ。寄るなら別だけどね」
「‥‥じゃあ、後で」
「いっつもそうやって、お義母さんに怒られるねぇ」
ごくごく普通に幸せ気分を満喫しているミラの代わりに約束を取り付けてやった女将が、背後で嘆息していることなど彼女は知らない。そうして、自分を見ている男の熱っぽさも、ミラはまだ気付かないでいる。
人恋しい気持ちを覚えるのは、多分きっと、これからのこと。
●新しい家
抜き身の剣で、主が騎士の肩を叩く。その強さを計るために力一杯叩くこともあるとも言うが、儀式となってからはそうした光景は滅多に見られなくなった。この日の儀式も、剣は肩を軽く叩いたのみだ。
「名のある騎士とその許婚を迎えられて、新しい年は幸先がよい」
ブレダの領主は、そう穏やかに笑っていた。その横では、腕のよい装飾品職人が来たと奥方が目を輝かせている。
結局、我が侭に付き合わせてしまったと零すヘラクレイオス・ニケフォロス(ea7256)にナオミ・ファラーノ(ea7372)は苦笑を浮かべていた。彼女にしてみれば、今更何をと言うところである。
だいたい申し訳ないと言いながら、当然のようにご領主のところに彼女を連れて行き、『近い将来伴侶になる』と紹介までしてくれた。当地の騎士としてヘラクレイオスが認められたときには、確かにナオミも我がことのように誇らしかったが、この不意打ちには面食らったものだ。失礼がなかったかを考えると、今でも緊張で顔が火照る。
他の誰かがいれば、『緊張だけではないですよ』と指摘もしてくれようが、今回の開拓地への道行きは二人きりだ。その開拓地は、名前がカナンと決まったらしい。
ヘラクレイオスはナオミがそう名付けたケイロンに、ナオミはアルゴーに乗り、どちらの手綱もヘラクレイオスが取る。ナオミの驢馬のシャルルは並んだ二頭の後ろをゆったりとついて歩いてきた。急ぎの依頼で出向くわけではないし、荷物も多いので、馬の歩みも急いではいない。
「どうかしましたかの?」
「私がドレスタットに移ってきたときも、こんなだったと思って」
実際には、ナオミがケイロンに乗せてもらっただけで、二人ともが馬に乗っていたわけではない。だがヘラクレイオスが手綱を取っているのは同じだ。違うのは、彼女が用意した贈り物が今度は鋏ではなく櫛であることくらい。今度は髭用だけでなく、髪を整えるためのものも用意した。喜んでくれる出来かどうかは、後で見てもらっての心配かつ楽しみだ。
でも。新しい生活が始まるのは、この間と変わらない。
カナンと名のついた土地では、建物が二棟増えていた。そのうちの一つは、他に比べて幾らか小振りだ。建て掛けの家が幾つも見えるが、そちらも随分と進んでいるようである。今日も熱心に働いていたらしい住人が、彼らを見付けて近付いてきた。以前の様子を知るヘラクレイオスには、その差がとても素晴らしく映る。
それに、彼らが作業場を兼ねた家を建ててあるから使えと、相変わらずぶっきらぼうにもとれる口調で話しかけてくる。まだ馬に慣れないと見えて、彼ら二人を遠巻きにしているが、建てた家の感想を聞きたいのだろう。ヘラクレイオスがいなかった間のことを色々言いながら、付いてきた。ナオミにも、あれこれと親しげに話しかけてくる。
村の入口があるわけではないのだから、その家まで馬で乗り付けてもまったく構わないのだが、ヘラクレイオスはすぐに馬を降りた。示された家までは随分とある。
「どうかなさいました?」
自分も降りようとして、慣れないことで手間取っているナオミに手を貸して、ヘラクレイオスは彼女が降り際にその身体を抱えあげた。ナオミも、周りの住人も驚いた様子だが、ヘラクレイオスだけは平然としている。
「わしの故郷では、新郎は新婦を抱いて歩き、自ら新居に迎えねばならぬという習慣がある。主の御前での誓いはまだなれど、住まいが出来ているのであれば、ぜひ」
故郷の習慣でお迎えしたいと断言した彼の周囲から、数人が走って消えた。気を利かせたのではなく、他の人々を呼びに行ったのと‥‥
「私も、贈り物は用意したのですけれど」
この贈り物に見合うかしらと頬を染めたナオミを抱えて、ヘラクレイオスは揺ぎ無く歩を進めて、誰かが扉を開け放ってくれた家に入った。閉めるのも、誰かがお節介をしてくれている。否、ここの住人の習慣では、これが普通なのだろう。そんな話を、ヘラクレイオスもナオミも昨年の終わりに聞いている。
「何度となく、わしの我が侭にお付き合いいただいたのじゃ。それが無駄にならぬよう、わしはこの地でより一層精進いたしますぞ。わが心の星にお誓いする」
「‥‥私にとっては、あなたは大地に等しい方です」
互いのいる場所が、安住の土地。広げられた腕の中に、大事なものはすべてある。
やがては、自分を育んだ土地を相手に見せてやりたい。そんな希望はあるけれど、それは胸の中にそっとしまっておく。
まだ、この土地での生活が始まろうとしているところなのだから。一つずつ、願いを叶えていかねばならない。
●巡る季節
可愛い娘を送り出すのだから、大事にしてもらわないと。
明らかに楽しそうだったメドック司祭は、何度もそんなことを言っていた。ついでに『息子』の様子も気に掛けていたが、あちらはなるようになれと達観しているらしい。
一通りの挨拶回りを終えて、カナンに戻っていたブノワ・ブーランジェ(ea6505)は、春からぶどう畑になるはずの土地で石を掘り出していた。雪も降る時期にやることではないが、少しずつでも作業は進めておきたい。そうしておかないと、兄のところに出向くのも、アンリエットの母の墓参りもいつになるか分からないからだ。特にパリより遠方の墓参りは、往復だけで一ヶ月近く掛かる。
「ブノワさん、雪になりそう」
降らないうちに戻りませんかと、掘り出した石を拾い集めていたアンリエットが声を上げる。振り仰げば、空には雲が重く垂れ込めていた。時間からして切り上げ時ではある。
「寒かったでしょう。吹きさらしですからね」
別の仕事をお願いしたらよかったと今更ながら反省して、ブノワは作業用の手袋を外した。アンリエットの頬を暖めるように両手で挟む。
こんなことをしても、彼女の視線が揺るがずに自分を見上げてくれるのが、彼の幸せの実感だった。今でも自分に自信がないのだと言うが、素直にそれを打ち明けてくれるようになるまで、随分と掛かってもいる。互いに何でも打ち明けようと約束したのは、つい先日のことだ。
初めて出会ってからちょうど一年。二人とも、随分と変わったのだろうと思う。何より家族が増えた。
「貴女に風邪をひかせたら、僕は義兄のみならず姉にも姪にも叱られます」
身体を冷やしたら大変と、多分一日に何度も繰り返している言葉を聞いて、アンリエットが大丈夫だと微笑んだ。彼女も手袋を外して、彼の手を押さえた掌は確かにそれほど冷たくはないが、一度冷えてしまったらなかなか温まらないのをブノワは知っている。
「帰りましょうか」
「‥‥これは、私が持ちます」
使っていた鍬と石の入った桶と両手に下げようとしたブノワに、アンリエットが珍しく食い下がった。どちらも重いのだから自分に任せてくれと言うも、どうしても頷かない。日が暮れれば足元が危ないので、不承不承ブノワは桶を彼女に持たせたが。
「‥‥葡萄の畑で実がなって、いいワインになるのは何年くらい掛かるんですか?」
歩き始めるより先に、アンリエットが尋ねてきて、空いた手も彼のほうに差し出された。彼自身も、当然のようにそれを握っている。確かに二人で挨拶にあちこち巡る間、ずっと手は繋いでいたけれど。
「実は、木を植えた次の年には生りますが‥‥いいワインとなると、三十年から四十年は掛かると言われますね」
「三十年、ですか」
「その頃には、我々も六十を超えていますね。ここもどう変わっているか分かりませんが、きっと美味しいものを作ってみせますよ」
だからそれまで、いろんなことがあるだろうけれど、一緒に一つずつ年を重ねていきましょう。
それは希望で、大事な約束。
●躊躇いの先
戻ってきた自分を見て、ヴィルヘルムが不機嫌そうな顔をしたのが、源真結夏(ea7171)にはとても気に掛かっていた。後からドレスタットを出発した友人達がカナンにやってきても、ヴィルヘルムは自分に対してだけ見るからによそよそしい。
だが、結夏とて負けてはいなかった。家畜の世話をしているところまで追いかけて、相変わらず綻びたままの襟を直してやると言い張ったのだ。ついでに上着を奪い取っている。このために、わざわざ今までやったこともない裁縫の特訓をしたのだから、無視されている場合ではない。出来上がるまで、ものすごく時間が掛かったが。
けれども。
「俺が自分でやったほうが、確実に上手だぞ。これは」
「なによっ、元はと言えば、あんたが暴漢みたいな真似したからでしょ! そりゃあ、おやっさん達みたいな甘いのは期待するだけ無駄な男だって分かってるけど!」
堪忍袋の緒が切れて、大変な剣幕で噛み付いた結夏の横で、ヴィルヘルムは上着の前を止めている。手がかじかんだのか、動きが鈍かった。思えばこの寒い中、繕いが出来上がるまでは文句一つ聞いていない。
いつの間にかランタンがいるようになった薄暗闇で朧になった相手の顔を睨んでいた結夏は、問いかけを一度聞き逃した。聞き返して、応える。
国許には、従兄を通じて『こちらに骨を埋めることになりそうだ』と言付けた。その従兄は大分呆れた様子で、『波乱万丈になるようだよ』と助言をくれたが、ここに至るまでもそうだったので、これのどこがどう違うのか結夏には分からない。
今度は、声の調子が違うのを一度聞き逃し、次に聞きとがめた。
「迷惑だったらはっきり言いなさいよ。あたし、はっきりしない男は嫌い」
「どうせセレストに聞いただろうが、俺は貴族の妾の子供だ。母親はより条件がいい男に乗り換えて、それから行方が知れん。そんな親でも、たまには気になる。お前やお前の親は、もっと心配になるかもしれないぞ」
「そんなの、答えに、なってないわよ」
あんまり腹が立ってきて、言葉がぶつぶつと切れたが、手を出さないだけ自分を抑えていると結夏は思っていた。そもそもあの時、何であんなことをしたのかも聞いていないのに、親の心配などされるいわれはない。
それとも、あの時は自分が言い寄るような真似をしたから、これ幸いと手を出すつもりだったのか。と、確認しようにも、あんまり怒って声が出なかった。せめて、この答えだけは知りたいのだが。
「あー、お前みたいな女、俺にはもったいないような気もするんだけどな」
他に譲る気には、やっぱりならない。
勝手なことばかり言うんじゃないと、ようやく出そうな声を張り上げようとして、結夏は足元をすくわれた。ちょっとよろけたが、ヴィルヘルムが彼女を抱えあげているのだ。
「何をする気よ! あんたってば、ほんとにいつもいつも、いきなりでっ!」
「違ったか? お前、うらやましそうに見てたじゃないか」
そう、ヴィルヘルムが彼女のほうは見ないで口にした。結夏はしばらくその顔を見上げていたが、意味が分かって俯いた。確かに、これは自分が言ったうちに入るかもしれないが‥‥答える言葉を彼女は知らない。
「違うんなら、俺が惚れたお姫さんのお気持ちに応える方法を、教えてもらえるか?」
囁かれた声は生真面目な調子で、結夏の耳にそっと入り込んできた。
絶対に落とすなと呟いた声に、返ってきたのは吐息のような笑い声。それと‥‥
幸せはどんな形?
例えば
名前を呼び合うこと
手を繋ぐこと
一緒に働くこと
「大きな魚って言われたけど、なかなか持ちにくいね、これ」
「待ってれば、一緒に持っていってやるよ」
それとも
同じ家に帰る家族であること
離れても心が繋がっていること
同じ目的があること
「炉は最初は一つじゃろうなぁ」
「道具も人数分揃えるだけで、大変ですものね」
それから
居場所があること
迎えてくれる人がいること
迎える人がいること
「一巡りしたら戻りますから、雪の中に出かけたらいけませんよ」
「いってらっしゃい。転ばないでくださいね」
なにより
あなたがいること
わたしがいること
他の誰かが加わること
「もうラテン語なんか嫌」
「そうか。じゃあ縫い物でもするか」
けれども
あなたを想う心には
形などない