謀られた婚姻
|
■ショートシナリオ
担当:月原みなみ
対応レベル:8〜14lv
難易度:普通
成功報酬:4 G 15 C
参加人数:8人
サポート参加人数:-人
冒険期間:05月31日〜06月05日
リプレイ公開日:2008年06月09日
|
●オープニング
その日ギルドを訪ねて来たのは、この土地では珍しい装いの少女。
対応した受付係が正式な名称を知る事はないのだが、凛とした立ち姿に薄桃色の千早と藍色の袴がよく似合っていた。
「こんにちは‥‥、一つ、どうしてもお願いしたい事があるのですが‥‥」
沈んだ声音で語る少女に席を勧め、受付係は事の次第を聞き始めた。
少女の名は藤村葵(ふじむら・あおい)といい、先月十八になったばかり。
昨年の暮れに天界から召喚されてしばらくは国の保護下で生活していたが、彼女の特技に興味を示した某領主が、その技を自分の民に教示する事を条件に自らの領地に招き、彼女の生活を支える事を約束したと言う。
「貴女の特技というのは、何なのですか?」
受付係の質問に、彼女は少しだけ嬉しそうな顔を見せる。
「家が‥‥あの、天界にある私の本当の家が古武術の道場を営んでいるのです。父は師範、私は師範代として多くの生徒さんを指導していました」
「コブジュツ?」
聞き慣れない単語に青年が小首を傾げると、葵はそっと立ち上がり左手首を差し出した。
「どうぞ強く掴んで下さい」
「はぁ」
言われるがまま彼女の手首を掴む。
「もっと強く握ってもらえますか?」
「痛くないですか?」
「平気です」
にっこりと笑む彼女に戸惑いつつもぎゅっと手首を握る。
何度か彼女が腕を動かそうとするが男女の力の差は歴然、少女の手首が自由を得る事はなかった。
「簡単には外せません」
「そりゃそうでしょう。もう放しても?」
「いえ、そのままで。――少し痛いかもしれませんが、ご容赦ください」
「は」
言われて聞き返した、その直後。
「!」
一瞬にして視界が逆転。
床と天井が移動した。
「――」
否、建物が転がるなど有り得ない。
転がったのは、自分。
衣服を通じて背中に伝わる床の冷たさにぎょっとした。
「何ですか今の! 魔法ですか!?」
見た目は華奢で掴んだ手首も細かった。
それで自分を転がした事に驚愕して声を張り上げれば、少女は左右に首を振る。
「いいえ。口頭で説明するのは難しいのですけれど、無駄な力を使わずに殺傷せず相手を捕えたり、身を守ることが古武術‥‥、私の得意とする体術の特徴です」
「これって相手がジャイアントの男でも出来るんですか!?」
「可能です」
はっきりと言い切る少女は、よほど武道が好きなのだ。
誇らしげに微笑む姿は花のように健気で愛らしい。
受付係は感嘆の息を吐き、彼女の手を借りながら立ち上がった。
「はぁ‥‥こんなにお強い貴女がギルドに何を依頼されるのです?」
心底不思議に思って問い掛ければ、途端に少女の表情が曇る。
「実は、私の面倒を見て下さっている領主様には息子さんがいらして‥‥」
この息子・ローリィが彼女に恋心を抱き、結婚を申し出て来たのが事の発端。
自分のこれからも判らないのに結婚など出来ないと断ると、息子は父である領主に縋ったそうだ。
「領主様はローリィ様の何が気に入らないとお怒りになられて、求婚を受け入れなければ私の保護を打ち切ると言われました。保護を打ち切られる事は構わないのです。ただ、今日まで武術を指導して来た土地の子供達とは離れ難く、私がいなくなった後は子供達が武術を続ける事も許さないと言われてしまっては‥‥」
それが哀しいのだと少女は告げた。
「ですから領主様にお願いしたのです。条件を一つ出させて欲しいと」
「条件?」
「はい。一対一で手合わせを願い、ローリィ様が私よりも強いと証明されたなら求婚をお受けします。逆に私が勝てば結婚は白紙に戻し、これまで通り子供達に武術を教えさせて下さい、と」
「なるほど」
前置きは長かったが、此処に来て受付係も依頼の本筋が読めた。
「その息子さんが勝負を前に貴女に危害を加えようとしているのですね?」
「あの方の仕業かどうかは判りません。ですが暴漢に襲われたり、人混みの中で背中を押されて下に落とされそうになったり‥‥、良くない事が続いているのは確かです」
「ろくでもない男ですねっ」
受付係は憤りも露に依頼書に筆を走らせる。
「では依頼内容は勝負当日までの貴女の身辺警護でよろしいですね?」
確認すべく問い掛けるが、少女は難しい顔。
「ええ‥いえ、でも‥‥」
「藤村さん?」
「‥‥いえ、きっと私の思い過ごしです‥‥。その内容でよろしくお願いします」
「はい!」
葵の態度に些かの疑問は感じたものの、件の息子の振る舞いに苛立っていた受付係は力強い返答と共に依頼を受理したのだった。
●リプレイ本文
「悪い方達じゃないのだけれど‥‥何と言うか、ねぇ‥‥?」
「ねぇ」
言葉を濁しながら顔を見合わせるのは子供を持つ母親達。
今回の依頼を受けた冒険者が数手に分かれての行動中、依頼主・藤村葵が武術を教えている子供の親から話しを聞く物見昴(eb7871)への反応がそれだった。
「お二人ともお年を召されてからの息子さんだから仕方ないのでしょうけど‥‥」
聞かされる内容は良くも悪くも同じ親としての視点からの話で、総合評価としては「まぁ上々」といったところか。
葵の特技である古武術を領民に指導して欲しいという目的からは、子供達にも自衛の術を学んで欲しいという確かな優しさが感じられるわけで、人柄は決して悪くないのだ。
昴が情報収集している間、葵の傍に居たのは飛天龍(eb0010)とレイン・ヴォルフルーラ(ec4112)。
二人も一緒になって子供達との稽古中。
そして少し離れた位置から不審者がいないか目を光らせていたのは長渡泰斗(ea1984)と陸奥勇人(ea3329)の二人。
「良い道場だな」
感心した声音で呟く泰斗に、勇人も同意。
そこで学ぶ子供達の表情を見ていても判る。
この土地の領主は民から慕われて然るべき人格者なのだろう。
「それがどうしてこういう事態を招くんだか」
勇人の呆れた物言いに泰斗は失笑。
今はただ、子供達の平穏な声が辺りに響き渡っていた。
*
同時刻。
領主の館に赴いていたのはアレクシアス・フェザント(ea1565)とセシリア・カータ(ea1643)の二人だ。
今回の試合に関し、葵が身辺警護を依頼して来たと知れればどちらにも聞こえが悪い。そのため、同性であるセシリアが葵の友人として此度の件を耳にし、同じ天界人でありウィルにおいても伯爵位という身分有るアレクシアスが公正さを見極める「立会人」として名乗りを上げたとし、領主夫妻に面会を求めたのだ。
これに対し領主夫妻が面会を拒む理由など無い。
むしろ「お目に掛かれて光栄です」と彼らを歓待した。
「しかしあの娘に貴女のような友人がいらっしゃったとは‥‥」
「縁など何処で生じるか判らないこそ尊いもの――、此処へ来るまでの道中、件の道場で葵殿が子供達に武術を教授する姿を拝見しましたが、子供達にもとても好かれているようで、大変素敵なお嬢さんですね」
隙の無い笑みでアレクシアスが返せば、嬉しそうに微笑んだのは領主夫人。
「ええ、本当にとても気持ちの良い娘です。気立ても良く、あの器量。息子と一緒になってくれたら将来生まれてくる子もどんなに愛らしいか」
うっとりと語る彼女は、心から二人の婚姻を望んでいるように見える。
葵が身辺警護を依頼するに至った事態に誰がどう絡んでいるのか推測の域を出ない冒険者側は、そんな話をしている間も夫妻の様子を細かく観察していた。
場合によってはこの奥方を味方につけられないかと考えていたのが、それは避けた方が無難というのがアレクシアスとセシリア、双方が胸中で一致させた意見だった。
*
その夜、葵の家に集まった冒険者達は各々が集めた情報を公開し合う。
一人、アレクシアスだけは立会人としての公平さを保つため、また間者の類が周囲を見張っていないとも限らないため席を外していたが、情報を互いに共有する手筈はそれぞれに整えており、此処に集まっている彼らの事は、結婚を控えた葵を祝うために集まった友人として周囲に認知されていた。
領主夫妻の話、子息の話、周囲の話――一つ一つを報告し合う内、エリーシャ・メロウ(eb4333)からもたらされた情報は貴重だった。
「こちらの御領主はかなりの恐妻家‥‥もとい、気の強い奥方のようで、御子息と葵殿の婚姻を強く望んでいらっしゃるのも奥様のようです」
遅くに出来た一人息子のローリィが領主夫妻にとって何にも勝る宝である事に変わりはないが、夫人としては「女の子がいてくれたら良かったのに」と感じる事が多々あり、そこにやって来た葵だ。
夫人は彼女を娘同然に可愛がり、奇しくも息子が彼女に想いを寄せたと知るや否や「結婚して本当の娘になってしまえ」と、こうである。
数人が懸念していたような、ローリィに他の女性との望まぬ縁談が来ているといった話もない。
「ローリィ殿の剣の腕につきましては、‥‥世辞にもお強いとは言えないらしく」
武器を持たなければ尚の事。
素手で葵の体術と勝負したなら結果は明白。
冒険者達の思考は共通して一つの可能性を見出していた。
「――とは言え、まだ何の確証もない」
勇人が言い、泰斗が頷く。
「明日からも今日と同じように行動するのが無難だろう」
天龍の考えには皆が同意見だ。
「ところで」
隅の方で恐縮そうに話を聞いていた葵に視線を向けたのはエリーシャ。
「これは念のためにお聞きしたいのですが、諸々の状況は横に置くとして、対等な立場であったならローリィ殿の求婚に否やはありますか?」
互いに一人の男女としての問題であればどうだったのかと問われて、葵は目を瞬かせる。
「行く行くはローリィ殿がこの土地の領主となられるのでしょう。跡継ぎの妻となるは決して悪い選択ではない筈です。‥‥それ以前の問題とは思いますが」
これまで自らが調査して来た息子の素行を思い返して咳払いするエリーシャに、問われた本人はようやく表情を和ませた。
「結婚は、本当に好きな方と一緒に選ぶ未来だと思います。何のしがらみもないのであれば、私がローリィ様と結婚する事は有り得ません」
迷いなく言い切った彼女に、今度こそ冒険者達の胸中も吹っ切れるのだった。
●
翌日以降も冒険者達は葵の友人に扮し彼女の身辺警護を続けた。
また、刀と素手格闘を融合させた『陸奥』と呼ばれる流派の技を受け継いでいる泰斗は、武器を持ち込んで彼女と対戦するつもりのローリィ相手にどう対するのが良いか実戦形式の練習を重ねていた。
真剣と戦った経験など皆無に等しい。
同じ天界と言ってもあちらとこちらで異なる世界からの来訪者。
時には勇人や天龍、昴も加わり、組み手や模擬戦を行うなど互いの武術の腕を競い合う事もし、もとより基礎がきちんとしている葵は、対武器の戦闘でも見事に立ち回れるようになっていった。
途中、立会人となるアレクシアスが再び領主の屋敷を訪ね、この時には葵とローリィにも同席させて試合の条件などを当事者同士で確認し合った。
武器の持ち込みに関しては、泰斗達のおかげで刃に慣れた葵が異を唱える必要はなく、この決闘の公平さが保たれるため、また将来的に領主夫人になるか否かの大勝負とあれば領民にも深く関わる事から、彼らの観戦についても広く認めるよう提示した。
これに難色を示して素直に嫌がったのは件の息子ローリィ。
どれだけ甘やかされて育ったのか、自分の要求が通らなければ駄々を捏ねる子供同然の男で、そのくせプライドばかりが高いという、典型的な世間知らず。
言い換えれば扱い易い相手ということだ。
葵の介添人として同席したセシリアとエリーシャが、時に挑発的な物言いをするなど言葉で巧く誘導したなら、相手も勢いで民の観戦を認めてしまったほどに。
「二言はありませんね?」
「しつこい!」
しっかり言質も取り、勝負の結果次第では求婚問題を白紙に戻し、葵が勝てばこれまで通りの生活を送らせるという約束を覆さぬよう宣誓させた。
いくら世間知らずと言えど、騎士の家に生まれたのなら約束を違えることの意味くらいは承知しているはずだ。
諸々の事項を確認し終えて冒険者側が席を立つ頃には不満顔で一切口を利かなくなっていたローリィ。
一方、
「葵さんのおかげで、ローリィが一人前の騎士になったようですわ」とにっこり笑う夫人と、静かに息を吐く領主の姿があった。
その長い吐息に含まれた感情の名は、まだ冒険者達の知るとろこではなかったが。
冒険者達が葵の身辺警護についてから四日。
彼女が一人にならないためか、襲ってくる者の気配はなく、念のためにと道場に通う子供達の安全にも気を配っていた成果もあり、葵が大事に思う人々に魔の手が及ぶ事もなかった。
そうして明日はいよいよローリィとの試合という、その夜。
最初に異変に気付いたのは勇人だった。
外部から侵入した緊張と、物々しい殺気。
葵の部屋近くで休んでいたエリーシャも瞬時に起き上がり身構えた頃、昴は窓から屋根へとその身を翻していた。
●
(「三人、だな」)
夜目の利く天龍が音を立てぬよう物陰から侵入者の姿を視認する頃、泰斗やセシリアも足音などからその人数を察する。
侵入者有りと、直後には冒険者達の間にも緊張が走ったが、消しているつもりらしい足音や息遣いを確認するだけで、その力量は知れた。
大した敵ではない。――もしも葵一人の家に侵入したのであれば充分な脅威になったのであろうが。
(「夜半に複数人で来訪とは無粋極まりない」)
鞘に手を掛け、胸中に呟く泰斗と廊下を挟んだあちら側には勇人がいる。
侵入者は迷わず二階への階段を上がり、この家屋の間取りに詳しい事が見て取れた。
(「黒幕は内部に、でしょうか」)
階段の上で敵の気配が近付くのを感じていたセシリア。
そしてエリーシャ。
狙われているだろう葵の部屋にはレインがいる。
最も、彼らにはそこまで進ませるつもりなどなかったが。
静かに。
‥‥静かに階段を上がる侵入者達。その頭上に小さな影がある事に彼らは気付かない。
暗闇においても何不自由のない視界を確保している天龍だ。
階段の中腹、そこという地点で彼は動く。
「―――はっ!!」
「!?」
「なにっ‥‥」
野太い驚愕の声と共に、軽い衝撃波のようなものを受けて空中に投げ出されたのは二人。
「ぶげっ」
その場に転倒させられて顔から激突したのが一人。
間に割って入った天龍が得意の武術で三人を三方向に飛ばしたのだ。
「痛‥‥っ」
転んだ男が立ち上がり掛けたのを、天龍の第二撃が襲う。
「なっ‥‥!」
「問答無用」
本気で相手しては殺してしまう恐れがあるため、あくまでも脅し程度の威力で止める。
それは投げ出された二人を下で捕獲した泰斗、勇人も同様。
「くそっ」
反射的に武器に手を掛けようとした男を軽い手刀でいなした勇人の表情には余裕と同等の迫力があった。
「そこまでにしておくことだ。それ以上は割に合わない事になる」
「くっ‥‥」
「はい、ご苦労さん。――誰に頼まれて此処まで来たのか話すつもりはあるかい?」
こちらも鞘に入ったままの刀で完全に威圧している泰斗が問うも、一応は依頼主の利益を守るという頭が働くのだろう。
「話すなら早い方が良いぞ?」
「‥‥っ」
勇人の通告に歯噛みする侵入者。
「貴方が話して下さっても良いのですけれど」
階段の中腹では、そこまで下りてきたセシリアが三人目の男に問い掛けていた。
そして、外の状況が気になったレインが扉を開け、大丈夫そうだと確認した後でランプを手にした葵が姿を見せた。
仄かな灯に照らし出された侵入者達の風貌。
「‥‥貴方達‥‥」
「? 葵殿はこの方たちに見覚えが?」
エリーシャに問われて葵は何度も頷く。
「確か、ローリィ様のお友達だったと‥‥」
「だろうね」
不意に同意を示す声は玄関の方から。夜道を疾走して来た昴が外を指差しながら立っていた。
「外に見張り役っぽいのが一人居たから様子を見ていたんだが、作戦失敗を察した奴が逃げ込んだのは領主の館だったよ」
「‥‥だ、そうだが?」
泰斗が男達に問い掛ける。
彼らは悔しそうに顔を歪めた。
「おまえ達何者だ!?」
自棄になった口調で言い放つ侵入者に、冒険者達は顔を見合わせる。
そうして口を切ったのは天龍。
「葵の友人だ」
「‥‥‥っ」
あっさりと言い放つ彼らに、侵入者は完敗だった。
●
「それは見事な捕り物だったな」
試合当日、その会場となる場所で可笑しそうに言うのはアレクシアス。
隣には彼の補佐を務める勇人の姿があった。
彼から昨夜のあらましを聞いたアレクシアスの感想が先の一言であり、今その侵入者達は領主の館で、領主によって収容されている。
「領主殿のあの様子ならば恐らく心配ないだろう。今後の事はお任せしよう」
「そう願う」
応える勇人の表情には呆れた色合いが滲んでいた。
今朝になって捕えた侵入者共々領主の館を訪れたのは勇人とセシリア、そしてエリーシャの三名。
昨夜の件と合わせて近頃の葵の周辺では危険な事象が続いていた事、それらにも捕えた者達が関与している事などを本人達の自白と共に領主夫妻に報告すると、意外な事に領主は「そうか‥‥」と静かに応えた後で、葵を守った冒険者達に礼を告げ、一方の奥方は心の底から驚愕したらしくショックの余りその場に倒れこんだのだった。
どうやら、ローリィをそのように育ててしまった事を悔やんでいた領主は、しかし馬鹿な子ほど可愛いという言葉通り、責任は自分にもあると思えば思うほどに息子を叱る事が出来ず、更には息子を猫っ可愛がりする夫人の押しの強さにも勝てず、今回の葵との結婚に関しても半ば操り人形のように息子の望むまま行動してしまっていたと、感謝の言葉と同じくらい、己の不甲斐なさを何度も詫びていた姿が思い出された。
奥方も同様、まさか息子がそこまでの不逞を働いてるとは想像もしていなかったらしく、今回の事を肝に銘じ、今後は考えを改めて子育てしてもらいたいと思う。――二十五にもなった男を子育てするというのも奇妙な話であるが。
「頑張って下さいね、葵さん」
場所は移り、試合前の葵の控え室で彼女に声を掛けるのはレインだ。
「ありがとうございます。皆さんのお気持ちに応えられるよう努力します」
返す葵の表情も晴れ晴れとしており、そこからは何の不安も感じられなかった。
当初、今回の試合はもはや不要とも思われたが、事前に告知し民衆の観戦を呼びかけている手前、急な中止は要らぬ混乱を招かないとも限らない。
むしろ、皆の前で敗戦する事が今回のローリィへの処罰にもなると判じた領主の決定で試合は予定通りに行われる事になったのだ。
セシリア、エリーシャも彼女の傍に。
そして試合結果は見ずとも判るとする天龍や泰斗、昴は、この期に及んでも試合を妨害する可能性がゼロで無い以上はと周囲の警戒に回っていた。
「‥‥ところで、ギルドの受付係さんから聞いたんですけど」
「何でしょう?」
「あの‥‥今回の依頼を出すときに、何か言い渋っていた事があったって‥‥」
「ああ‥‥」
何の事を言われているのか知った葵は、しばし考える。
話しても大丈夫だとは思う。
だが、それは簡単な内容でもなくて――。
「‥‥いつか、また機会があればお話させて下さい」
少なからず苦味を含んだ笑みに対し、それ以上はレインも強く言えない。
「そうですね、いつか、また」
彼女も笑んで返す。
試合開始は、もう間も無くだ――。