パリの灯に背を向けて

■ショートシナリオ


担当:紡木

対応レベル:フリーlv

難易度:普通

成功報酬:5

参加人数:8人

サポート参加人数:1人

冒険期間:04月10日〜04月15日

リプレイ公開日:2007年04月18日

●オープニング

『あ、あなたは、普段は結構鋭いくせに、隠し事だって見抜いちゃうくせに、なんだって、肝心な所で鈍いのよ! わ、私は、あの人みたいに大人しくもないし、可愛げもないかもしれないけど。ず、ずっと、見てたんだから。これからだって、見てるんだからね!!』

「‥‥参った」
 気付かなければ、良かったか‥‥いや、それはそれで‥‥。ぼんやりと物思いに沈んでいるのは、ブラン商会店員、リュック・ラトゥール。
「‥‥リュック?」
「うわっ」
「うわって何よ。失礼ね」
 いつの間に立っていたのか、目の前で眉を寄せているのは、ブラン商会の一人娘、シャルロット・ブラン。
「店番中にボーっとしちゃって。ここのところ、おかしいわよ? 体調でも悪いの?」
「い、いや、そういう訳じゃ。すいません。何か?」
「父さんが奥で呼んでるわ。帰って早々、何かしら。お店は私が見てるから、行って来て頂戴」
「はい。じゃ、ちょっとの間お願いします」
 奥に続く扉を閉めると、それに寄りかかって肺の底から息を吐き出した。いきなり本人が目の前に立っているのは、かなり心臓に悪い。

 きっかけは、これといって無かったと思う。ただ、先月の雛祭り辺りからどうも妙だと感じ始めて、すると、それまでの色々な事が引っ掛って‥‥いやでもまさか、と思った所に、例のアレを思い出してしまった。聖夜祭の予行演習で、シャルロットが叫んだ『愛の言葉』。
 今思えば、毎回のように、ダンスのパートナーやらカップル役やらをやるように言われていたり。‥‥でも、それは他に適任が居ないからだと思ってたし。
 そういえば、男装の彼女も、まるで見せ付けるように寄り添っていたり。‥‥でも、単にシャルロットの趣味に沿っているだけだと思ってたし。
 さらに、例の言葉だって、他の男の事だと‥‥‥何で思ったんだろう。思い出せば出すほど、あからさまに‥‥自分の事のような、気がする。
(「いやでもレティはそりゃ可愛いけど別にそんな大人しくもないし‥‥それで、気付かなかったのか?」)
 微妙かつ男らしからぬ責任転嫁兼現実逃避をしてみるものの、現実は逃げる以上の速さで追いすがって来て脳内を支配する。
 そう。全ての事象は、1つの仮定さえ置けば、驚くほどすっきりと繋がってしまうのだ。
(「マジかよ‥‥」)
 その事に気付いてしまい、リュックはここ数日うだうだと悩んでいる。自分の馬鹿な勘違いだったら、いい。何の問題も無い。
 もう一度、大きく息を吐き出した。‥‥もし、勘違いでなかったら‥‥自分に返せる答えなど、何度考えても、たったひとつきりしか、ないのである。

 気が付いたら、ここに来ていた。一度も来たことの無い場所だけど、外から見た事があったから迷わなかった。いつもは、来る必要は無かったのだ。代わりに、来てくれる人が居たから。
「ありがとう、ございます」
 シャルロットは、手渡された茶を一口啜った。じんわりと熱が染みて、頭の靄が、少しずつ晴れていく。同時に、先程までの醜態を思い出して顔が熱くなった。
「ごめんなさい。何か、混乱しちゃって」
 酷い顔で冒険者ギルドを訪れたのが、少し前。偶然居合わせた顔馴染みの冒険者が、シャルロットを椅子に座らせて、お茶を淹れてくれたのだ。
「ちょっと、びっくりな話を聞いてしまって‥‥」
 立ち聞きする気は、別に無かった。ただ、聞こえてしまっただけで。帰ってきたばかりの父と、呼び出されたリュックの声。
『リュック、急な話なんだけどね、しばらく、ジャパンに行ってみる気はないかい?』
『‥‥‥は?』
『知り合いの商人がね、いや、彼はノルマンの人間なんだが、ジャパンで店をやっていて、しばらく手伝ってくれる人間を何人か探してる。短くて3ヶ月、長くて半年ってところかな』
『何でそんな半端な期間、ってか、俺ジャパン語なんて話せないし‥‥それに、月道ってそんな安く通れるもんじゃないでしょう? むしろ馬鹿高い‥‥現地の人間とか雇った方がよっぽど‥‥』
『彼の息子が、今支店の開店準備をしていてね、本店の者が、何人かそっちの手伝いに掛り切りになってるらしい。その店が軌道に乗るまで、人手不足なんだよ。だから半端な期間。ジャパン語の事は、心配しなくて良い。短期間で、みっちり仕込んでくれるから。月道の通行料も、うちで出すから問題ないよ』
『うちでって‥‥そんな』
『実を言うとね、人手を探してるって話を聞いて、こちらからお願いしたんだ。なんでかって? この店は、私と妻で始めた、1代限りの店だね。商売の方法も自己流だし。それに比べて、彼の家はね、代々続く、大きな商家なんだよ。そういう店っていうのは、後進を育てる方法も、代々受け継がれている。そうしないと、店が潰れてしまうからね。そういう場で揉まれるってことは、すごく、勉強になると思うんだ。残念だけど、私は、そういうのはあまり得意じゃないからね。未だに、自分の商売も試行錯誤だし。リュック、君には、商才があるよ。だから、それをもっと伸ばして欲しいんだ』
『それって‥‥殆ど俺の‥‥』
『うん。君の為でもあるね。でも、それ以上にこの店の為でもあるんだ。ほら、この前からジャパン製品を扱い始めたけど、正しい使い方とか、季節の決まり事とか、いまいち覚束ないだろう? その辺、勉強してきてくれると助かる。それに、君の成長は、店にとってものすごく大きいんだよ』
『‥‥ありがとう‥‥ございます。でも、その間店のことは‥‥』
『この間、ずっとてこずっていた、大きな商談がやっと纏ってね。しばらくは、家を離れずに済みそうなんだ。それから、もう1人、手伝いを入れることにしたんだよ。まだ13の男の子なんだけどね。そういえば、君も、うちに来たときは、13歳だったんだよなぁ‥‥大きくなったね。何だか、息子の成長を目にしている気分だよ』
『出来の悪い息子で、申し訳ありません』
『何言ってるんだね。先が楽しみで仕方が無いというのに。‥‥ま、この話は、無理にとは言わないよ。ご両親とも話し合うといい』
『はい。明日には、お返事させてもらいます』
 そこまで聞いて、シャルロットはふらりと店を出た。そして、何となく歩いているうちに、ここに来てしまった。
「リュックは、行きます。絶対。そりゃ、数ヶ月で帰って来ますけど‥‥もう、19なんです。もし‥‥もし、帰ってきた時に、可愛いお嫁さんと一緒だったりしたら‥‥」
 どうしよう、と蚊の鳴くような声で呟く。パリに居るなら、いい。何があってもすぐ分かるし、それなりに対策なり‥‥最悪でも心の準備なりできるだろう。でも、自分の届かないところでは、どうしようもない。そもそも‥‥自分には、口を出す権利なんて、元々ありはしないのだけど。
 何も伝えずに、今日まで過してしまった。何を言うつもりも、無かった。リュックには長年想う相手がいたし‥‥それ以上に、自分がどう見られているかも、よく分かっていたから。
「お嬢さん!」
「‥‥リュック」
 ドアを開けて、中を見回して、リュックは、すぐに自分を見つけてくれる。いつだってそう。
「急に居なくなるから、心配しました。どうしたってんです?」
「どうして、ここが分かったの?」
「何となくです。‥‥すいません。ご迷惑おかけしました」
 最後の一言は、冒険者達に向かって。
「さ、帰りましょう」
 伸ばされた手を、握る。その暖かさに、シャルロットは泣きそうになった。

●今回の参加者

 ea0346 パトリアンナ・ケイジ(51歳・♂・レンジャー・人間・イギリス王国)
 ea1674 ミカエル・テルセーロ(26歳・♂・ウィザード・パラ・イギリス王国)
 ea2004 クリス・ラインハルト(28歳・♀・バード・人間・ロシア王国)
 ea3502 ユリゼ・ファルアート(30歳・♀・ウィザード・人間・ノルマン王国)
 ea8284 水無月 冷華(31歳・♀・志士・人間・ジャパン)
 ea9927 リリー・ストーム(33歳・♀・ナイト・人間・ノルマン王国)
 eb1460 エーディット・ブラウン(28歳・♀・ウィザード・エルフ・イギリス王国)
 eb5977 リディエール・アンティロープ(22歳・♂・ウィザード・エルフ・フランク王国)

●サポート参加者

エリーゼ・ロータス(eb8396

●リプレイ本文

 行かせてください。きっぱりと、リュックは言った。

 大量の布を前に、針を運んでいるのは、パトリアンナ・ケイジ(ea0346)とブラン家家政婦マリー。
「ねえ、マドモワゼル・マリー? 正直なところ、リュック君とシャルロットお嬢さんはその‥剣と鞘の関係になれますかな?」
「マドモワゼルなんて歳じゃありませんよ」
 36歳の彼女は、照れたように笑うと、続けた。
「そうですねぇ。正直、難しいと思うのですよ。その、気持ちの在り処が違うといいますか‥お互いがとても大切なことは同じなのですけど‥‥」
 ほうっ、と溜息。会話の間も、2人の運針はいささかも揺るがない。

 別室では、エーディット・ブラウン(eb1460)とミカエル・テルセーロ(ea1674)が、シャルロットにお守り作りを指南している。布や毛糸を束ねて、何やら製作中。
「いいですか〜告白で大切なのは、勇気とタイミングと少しの努力なのです〜」

「言葉については現地に行けば何とかなるものです」
 水無月冷華(ea8284)に付いてジャパンの勉強中のリュック。
「しかし、しきたりや作法は重要です。越えてはならない一線という物がありますから」
 外国人だから知らない、では通らない。雛祭の時も感じたが、遠く離れた2国の文化は多くの点で異なる。‥慣れるまで、苦労しそうだ。

「貴女、恋で悩んでますわね? 恋愛のことならお姉さんにお任せ♪」
 そんな訳で、リリー・ストーム(ea9927)恋愛相談室。
「私、顔に出やすいんでしょうか‥」
 なんだかんだでバレまくっている。
「どうかしら。でも、だからって相手に悟ってもらうことを期待してちゃ駄目。何事も1歩踏み出さないと良い方へは進みませんわよ。恋も商売も‥ね♪」
「そりゃ、リリーさんくらい綺麗だったら‥」
 リリーは、くす、と笑みを返す。
「良い話をしてあげましょう‥ある1人の男性が居ました。彼に想いを寄せる魅力的な女性は何人か居ました。その事にも気付かない馬鹿な女が1人、彼に猛烈アタックしましたわ‥‥。彼は最初、ぶっきらぼうな態度を取りつつ断っていたものの、最後はそのコの想いに応えてくださいました。そのコはその後、彼に大切にされ‥彼に想いを寄せていた方達からも祝福されて、幸せになりましたとさ‥ってね」
 そっと触れたペンダントの形は、愛しい人と分け合う心。
「それって‥」
「彼が周りの女性の想いに気付いていたら‥そのコが途中で諦めていたら‥結果は違ったのかも知れませんわね‥」
 幸せな微笑みは‥‥とても美しかった。

 出立の前日、冒険者達が友人や馴染客を招いての送別会を計画してくれたので、その日は臨時休業。準備の間も、リュックは冷華の教授を受けていた。
「ジャパンの品物を扱うならば、これくらいは覚えてください。間違った解釈や捏造した話を広められては此方が困ります。ジャパン人を敵に回すことになりますよ」
「はい。肝に銘じておきます」
 リュックが頭を下げたところに、クリス・ラインハルト(ea2004)がやって来た。
「そろそろ、リュックさんもこちらへ♪」
「‥今回は執事ですか?」
「はい♪ 今日のボクはリュック『ご夫妻』付き執事なのです」

「お姫様‥いえ、お嬢様。‥今日は王子は本命に譲ったからね」
 白手袋に蒼いリボンタイでキメたユリゼ・ファルアート(ea3502)。
「そんな沈んだ顔をなさらないで下さい。貴女の為にご用意した花も萎んでしまう。さぁ」
 プリムラの小さな花束が2つ。薄紅はシャルロットに。白色は、シャルロットからリュックへ渡すための。
「いつも、ありがとうございます」
「最後は、貴方の思いの強さと勇気次第よ」
 同じく執事衣装のリリーに、そっと抱きしめられた。

「皆さん、今回も素敵ですよ〜。流石マリーさんとパトリアンナさんです〜」
 衣装の仕掛け人は、勿論エーディット。自らもばっちり執事姿だ。

「リュック君は多分、お嬢さんの気持ちに気づいています。ですから、ここは彼が答えを出す番ではなかろうかと」
 フリフリエプロン(自作)のパトリアンナは高速で野菜を切り刻み、隣でマリーが鍋をかき混ぜている。
「ここは、お嬢さんをけしかけて誘惑させ、リュック君の答えを引き出させては如何かと思うんですが、女性から見るとどうなのでしょうね?」
「お嬢さんが積極的に動く事は、良いと思いますよ。そうでなければ、あのお2人には、ちっとも変化が無さそうですもの」
「それでは、料理を運ぶついでに、耳元で囁いてみましょう♪」
「ええ‥」
 ただ。引き出した答えが、シャルロットの望むものであるとは限らない。普段の2人を知るマリーは、そっと溜息を吐いた。
「リュックは、とても良い子なんですけどね‥‥お嬢さんのことが無ければ、うちの娘を貰って欲しいくらい」

 テーブルに着くと、対角線上に、シャルロットとリディエール・アンティロープ(eb5977)が座っていた。今回の彼は、メイド風のフリル付エプロンドレスに加え、気合の入った化粧まで施されている。
(「またエーディットさんが張り切ったんだろうなぁ‥‥」)
 エーディットだけでなく、リリーも乗りに乗って化粧の腕前を披露したことをリュックは知らない。
「そういえば、ミカエルさんは着ないんですね?」
「‥‥何をです?」
 にこ。天使のような微笑に、何故か背筋が冷えた。彼は裏表の無い素直な性格だと聞いているから‥‥多分錯覚だ。そういうことにしておこう。

 一方、リディエール。シャルロットとリュックを引き離し、かつ男の自分がシャルロットと仲良さげにしている様子を見せ付けて、嫉妬を煽ってみよう、という作戦なのだが‥‥
(「‥‥むしろ、生暖かく見守られている‥‥?」)
「リディーさん?」
 シャルロットの声で、我に返る。
「何でもありません。失礼致しました」
 ちらりとリュックを伺う。目が合ったので『彼女のことは任せて下さい』とばかりに微笑んでみるが。
(「え、ええと‥‥何か、苦笑されてしまったような‥‥」)

 リディエール達に目を向ける。内容までは聞こえないが、仲睦まじく話し込んでいるようだ。
「近所のお姉さんと女の子って感じだな‥‥」
 実に微笑ましい。ふと彼と目が合った。にこ、と微笑まれ、うっかりトキメキそうになる。危ない。何故か、いつもの控えめな微笑ではなく、少々得意げに。
「リディーさん、妙な方向に目覚めてしまったんじゃ‥‥」
 周囲の思惑を他所に、しあさってな心配をするリュックであった。

 廊下に出た所で、ユリゼに声を掛けられた。胸元には錫の勲章。執事長の印だろうか。
「ニコラさんとコレットさん、幸せそうね」
 今回は、クリスの計らいで幼馴染の2人も招待されている。「招待状にニコラ・アーロン『夫妻』って。これ、僕とレティのこと‥‥だよな?」と首を傾げていたニコラを「とっとと結婚しろって事だ」と小突いて来たのが、ついさっき。隣で笑うコレットは、前よりずっと綺麗になっていた。
「はい、本当に」
 心からの笑み。そこに、かつてのような影はない。
「早いわね。貴方の依頼を受けてもう5ヵ月。あの時何ていい人なんだろうって思って、次の恋の手伝いも絶対しようって思ったの‥今はお姫様の味方だけど」
 そんな感じである。
「もう、あの2人のことあまり辛くなくなったでしょ? 誰のお陰かしらね‥‥さ、主役がこんな所に居ちゃ駄目よ。戻って戻って」
 リュックのトレイを奪うと、ユリゼは颯爽と台所へと去っていった。
「誰のお陰‥‥か」

 会場に戻ると、クリスによる余興が始まっていた。頭に布を巻き、浅くて大きい籠を手に、片足で立ったり、掬う動作をしたり。ひょうきんな表情を作りながら、踊り回る。見慣れない、しかし愉快な動きに、会場は大いに盛り上がった。
「以上、冷華さんにご指南頂いた『どぜうすくい』でした〜」
 指南、ということは、彼女がクリスの前で実践したのだろうか。‥‥想像すると、怖いかもしれない。

「リュックさん、酔い潰れてしまったでしょうか?」
 宴もたけなわ、という頃。突っ伏したリュックの様子を、クリスが伺う。自分がスリープで眠りに叩き落したことなど、おくびにも出さない。個室に運んだ後で、別室にファンタズムでリュックの幻影を作る。様子を見に来たシャルロットにその場を任せ、部屋を後にした。
「寝ているリュックさんになら、素直になれますよね?」

 シャルロットは、枕元にそっと花束とお守りを置いた。無防備な寝顔に、少し、素直な気持ちになる。いつだって、自分は意地を張ってしまうから。
「ねぇ、あなたは知らないでしょう?」
 鈍感で、とても優しい人。
「‥‥私、結構ずるいのよ」
 解っていた。自分がどう見られているか。気づいてくれないとこにイライラして、ホッとして。居心地の良い場所を失うのが怖くて、リュックの優しさに甘えていた。
 たくさん、背中を押してもらったのに‥怖くて。こうしてこっそり伝えて、逃げようとしている。
「ねえ、リュック」
 その時。

 べしべしと頬を叩かれ、目を覚ます。
「そろそろ幻影が消えるです」
「じゃ、早いとこ送り込まないとね」
「あの‥?」
「今、隣にシャルロットちゃんがいるです。行ってあげてください」
「はあ」
 状況が良く解らないまま、立ち上がった。
「リュックさん」
 ユリゼの声に、振り返る。
「‥一度くらい、ちゃんと1人の女の子として話を聞いてあげて。逃げる事と、答えを焦らず出すのは違う事よ」
 そして、眼差しを少し和ませた。
「大丈夫。貴方が居ない間、変な虫が付かないように騎士でいるわ。今まで以上にね」
「帰ってきたら、虫は付いてなくても、ユリゼさんに夢中でしょうね」
 苦笑していると、ミカエルがやってきた。
「これ、良かったら。餞別です」
 手渡された冊子を開く。ゲルマン語からジャパン語への、単語書き取り帳。
「僕がジャパン語を習い始めた時作ったものです」
「うわ、ありがとうございます」
「旅はね、人を一回りも二回りも成長させてくれます。新しく学ぶこと、離れることで気づくこと、例えば今まで自分がいた場所を客観的に見れるものもあります」
 各地を旅する者ならではの助言に、深く頷く。
「だけど、離れることがどうしようもなく不安な女性がいることは‥‥」
 一旦言葉を切って、続ける。
「安心させてやれ、なんて言いませんよ。押し付けになる。だけど、お嬢さんが言ってらっしゃいを簡単に言えないこと、言いたいこと、聞いてあげて下さいね」
 にっこりと笑って、会場へと戻っていった。

『あなたは知らないでしょう?』
 扉越しの声に、リュックは、ノックの手を止めた。誰と話しているのだろう?
『ねえ、リュック‥‥』
 思わず、扉を開けていた。

「リュック‥って、えぇ?」
 振り返ると、立っていたのは正真正銘リュックで。ベッドを見ると、寝ていた筈の彼が消えている。
「えぇえぇぇ?」
 何が何だか。ここに居たのは誰? 目の前にいるのは? ‥‥っていうか、そんなことじゃなくて‥‥聞かれてた? 今の全部、聞かれてた?!
「お嬢さん‥」
 少し困惑の混じった真剣な瞳。
『お嬢さんから誘惑してみる、というのは如何でしょう?』
 貰った助言。いや、誘惑は無理です。目一杯綺麗にしてもらったけど。でも、どうせ色々聞かれてしまった。
『踏み出さないと良い方へは進みませんわよ』
 そう。踏み出さないと。リリーに借りた、魅惑の香袋が香る。
「リュック!」
 今後の関係とか、向こうの思いとか。考えたら進めなくなる。あとは野となれ山となれ。
「私、あなたが好きだわ。ずっとずっと、あなたの事が好きだった」

 強い視線を受け止める。ずっと、気づかなかった。最近、そうかも知れないとは、思い始めていたけれど‥‥
「俺は‥お嬢さんが大切です」
 何度も考えた。考えたけれど‥望まれている答えを、出すことは出来なかった。だから、悩んだ。でも。
『逃げる事と、答えを焦らず出すのは違う事よ』
 そう、逃げてはいけない。シャルロットの小さな拳が、震えている。精一杯の勇気に、応えなくては。
「ずっと、妹みたいに思ってました。今は‥だから‥お嬢さんと同じ想いは‥‥返せません」

「あぅ〜」
 ドア裏に張り付いていたエーディットが、溜息を吐いた。
「ままならないものですわね‥‥」
 リリーも残念そうだ。

 ところが、恋する乙女は強かった。
「‥『今は』って言ったわね?」
「は、はい?」
 泣かれるかな、と思ったリュックは、少し驚いた。
「つまり、未来の可能性は皆無じゃないのね? そうなのね?」
「え、あの‥」
 びしっと指を突きつける。
「決めたわ。私、諦めなくてよ。あなたが降参するまで、追いかけるわ。覚悟なさい、リュック・ラトゥール!」
 ばしっとお守りを手渡すと、横をツカツカと通り過ぎ、部屋を出た。返事は聞かない‥駄目と言われたら困る。
「今の‥宣戦布告?」
 あまりにシャルロットらしくて、笑いがこみ上げる。お守り―シャルロットそっくりのちま人形―も、リュックと一緒に震える。まるで、笑っているように。

 後ろ手に扉を閉める。リリーが何も言わずに両手を広げてくれたので、有難くそこへ飛び込んだ。
「頑張りましたわね」
 震える肩に載せられた手が、温かい。失恋の痛みに視界が滲んで、後は何も見えなくなった。

 翌日の船着場。あまり大きくない荷物と共に、リュックは船に乗り込んだ。
「行ってらっしゃい。貴方が多くの経験を得て向こうで何か見つけてくることを祈ってます」
「お体に気をつけて下さいね〜。帰ってきたらパーティーを開いて出迎えてあげますよ〜♪」
「いってらっしゃい。待ってるわ」
 それぞれの挨拶に、言葉を返す。そして。
「お嬢さん‥」
「行ってらっしゃい」
「はい。‥行ってきます」

 船が港を離れる。
 俯いたシャルロットの頭を、ユリゼがそっと引き寄せた。
「‥‥覚えてる? 雛祭にいた金髪の娘」
「はい」
 貰ったお守りは、大切に身に付けている。
「近々ジャパンに帰るの。動向は探らせるから、待ってる間にうんと素敵な女性になって驚かせてやりましょ? ‥‥ね、お姫様」
「‥ありがとうございます。ユリゼさんは、いつだって私の王子様なの。リュックなんかよりずっと素敵だわ」
 顔を上げて、笑った。

「マリー、いつぞや仰っていたこと。弟子は流石に無理ですが、僕の仕事が無いときには、マリーさえよければ、たまにそちらにお邪魔して、ご一緒に料理を作っていきたいと思うのですが、良いでしょうか?」
 少し離れた場所で見送っていたパトリアンナとマリー。
「師匠と弟子でなく、互いに、よりおいしいものをお客様に提供するために」
「まぁ‥願ってもないことですわ。宜しくお願いいたしますね」
 マリーが顔を輝かせた。うむ、とパトリアンナが頷く。どさくさに紛れるのはレンジャーの本懐。どさくさに紛れて名前を呼ぶのもレンジャーの本懐。

 そして、彼は旅立った。故郷の―パリの灯に、背を向けて。