娼館のアナイン・シー〜道化の瞳〜
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■ショートシナリオ
担当:紡木
対応レベル:11〜lv
難易度:やや難
成功報酬:7 G 30 C
参加人数:6人
サポート参加人数:2人
冒険期間:02月07日〜02月12日
リプレイ公開日:2008年02月13日
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●オープニング
●
「娘よ」
月明かりの無い夜。
「そなたは、いつ見ても‥‥」
2階の小さなテラス。そこに寄り添う2つの影。
「その姿、朽ちさせずに手に入れるには、如何にすべきか。‥‥氷の棺に閉じ込めようか、魂を抜き取り物言わぬ人形にしてしまおうか」
歌うように、囁く声。
「いやしかし、棺に込めては、この白い肌に触れること適わぬ。人形にしては、瞳の色が褪せよう」
するすると、長い指が頬を伝い、髪を絡めとり、梳き下ろす。
「やはり、我が同胞とするのが良いな」
滑らかな首筋に唇を寄せ、くすり、と笑みを漏らす。
「‥‥‥っ」
ささやかな吐息が、娘の肌をくすぐった。
「その声、その姿、私の全てを以って愛してやろう。‥‥心が欲しい等と、世迷いごとは申さぬ」
「ああ‥‥」
娘の溜息に、陶酔が滲む。
「館が完成したら、迎えに来よう‥‥ほんの、数日だ」
「待って、います‥‥」
私を、ここから連れ出してくれる日を。‥‥私の全てを、壊してくれる日を。
ばさり、と羽音が響く。
星明りの元、大きな蝙蝠が去ってゆく夜空。
それを、テラスの真下から、道化が見つめていた。
●
たちこめる酒精の匂い。
豪華な衣装を纏った男が、隣に座る女の肩に手を回した。
「私のアナイン・シーは、今宵もご機嫌斜めのようだ」
ぐい、と抱き寄せた体は、何の抵抗も無く胸に落ちてくる。アナイン・シー‥‥絶世の美貌と伝えられる月のエレメントの名で、妓女を呼ぶ。
「こ、これは、照れているのですよ」
甲高い、男の声。
「ええもう、旦那様の所にお迎え頂く日を、一日千秋の想いで待っているのですから。ええもう」
丸い腹をゆすりながら、派手な袖飾りを大袈裟に揺らしながら、この店―娼館―の主人は言い募る。
「はっはっは‥‥私も、一日も早くお前を連れて帰りたいのだ、しかし、私の‥‥なぁ?」
ちらり、と店主に視線をやる男。
「そうですなぁ、いつの時代も、嫉妬深い奥方というのは、やっかいな‥‥ととと」
わざとらしく、口を塞ぐ主人。その様子に、くく、と男は喉の奥で笑った。奥方への愚痴は、彼がここへ来る度に漏らしている。そのため、妻を貶されたという怒りは微塵も無く、寧ろ共犯者を喜ぶような表情を浮べた。
「ねえ、私のアナインー・シー、私を、愛しておくれ。ずっと可愛がってあげるから」
ばしゃっ‥‥。
思い切り顔にかけられた水を、娘はゆるゆると拭った。
「いい加減におしっ‥‥なんだ、今日の態度は!!」
だん、と床を踏み鳴らす店主。手は上げない。傷がつくと『商品』の価値が下がるからだ。
「お前を、買い取ってくださるっていう、旦那様だよ! 顔と声しか取り得のない、愛嬌の無い妓女に金を積んで下さる方なんだ。笑顔のひとつでも浮べて媚をお売りよ!!」
じっと黙ったままの娘を、忌々しげに睨み付ける。
「いつも泊まって行かれるのに、今日は帰ってしまったじゃないか。其の分、儲け損ねは身代に加えておくよ。高い金払って買い取ったんだ、それだけの働きをおし。顔が上玉だからって、あんな無茶な金額払ったってのに‥‥。ま、それも彼がお前を言い値で買い取ってくだされば帳消しどころかこっちの儲け。‥‥最後くらい、相応の働きをするんだね」
ダンダンと階段を踏み鳴らす主人の背中を見送り、娘は溜息を吐いた。
「疲れた‥‥」
寝台に横たわり、目を瞑る。今日は、夢すら見ずに眠りたい。‥‥幸せな夢は、今の彼女には残酷だから。
●
バササッ。
羽音で、飛び起きた。
「あ‥‥」
しかし、朝日の中羽ばたき、窓枠にとまったのは、待ちかねた姿ではない。
「‥‥隼?」
呟きに、疑問が交じる。この鳥を、町中で見かけるとは。
「出身は、地方の小さな村。村は、盗賊集団に襲われ壊滅。男と老人は殺され、女子供は売り飛ばされた‥‥」
背後からあがった声に、振り返る。
「あなた‥‥は?」
赤い髪、緑の瞳、ボロボロのマント。少年とも少女ともつかない顔立ちの、小柄な‥‥パラ。
「‥‥‥どうやって、ここに入ったの?」
妓女の問いかけに、声の主は答えない。
「売られた娘は、美しかった。多くの男が群がり、その心を欲しがった‥‥しかし、それは」
にぃ、と笑う。
しかし、それは。真心ではなく、支配欲。歪んだ笑顔の下にちらつくそれに、いつしか娘は耐えられなくなった。
バサリ、とマントを翻す。その下から、派手な衣装が現れた。
「心など、無ければいい!」
ばっ、と両手を天にかざし、次いで、心臓を押さえ、蹲るパラ。
「そうすれば、もう苦しむことはないのだから」
呻く様に、語る。
「‥‥‥」
押し黙った妓女に、もう一度、にぃ、と笑いかけ、大きく手を振って、ゆっくりと、大袈裟にお辞儀。
「ヴィッツ!」
声を掛けると、隼がバサリ、と羽を広げ、パラの肩に留まった。そのまま去ろうとする後ろ姿に、妓女が声を掛ける。
「その子、ヴィッツというの?」
「ああ」
ぴた、と足を止め、振り返る。
「‥‥いい、名前ね。あなたは?」
「長い名前は、ロスヴィータ・ロベルティーネ」
少しだけ、妓女の目が見開かれる。
「呼び名はロロ。道化のロロだ」
ふ、と。先程とは違い、少し優しげな笑みを浮べると、ロロは今度こそ階段を下りた。
「娼館のアナイン・シーは、人ならざる者に魅入られている」
突然現れた怪しいパラに、店主が怪訝な視線を向けた。
「何を、言ってるんだ」
「攫われても、いいのかい? 大事な商品なんだろう?」
にぃ、と浮べる笑みは、得体が知れない者のそれ。
何となく不安になって、視線を泳がせる店主。
その耳元で、道化は囁く。
「冒険者ギルドを知っているかい?」
●リプレイ本文
その日も、男は娼館を訪れるべく、馬車を降りた。
「お待ちなさい」
静かな声振り返り、目を剥いた。美しい女。真白い装備の為か、その姿は、夜闇の中でほの白く輝いているようにも見える。
「貴方から微かに魔の残滓が感じられますわ‥‥」
「‥‥何?」
女‥‥リリー・ストーム(ea9927)は、男に向かって手をかざし、目を閉じた。
「闇に魅入られた女‥‥これは‥娼館? 貴方、今のままだと近い日に死を迎え、魂が永劫の苦しみの中を彷徨いますわよ‥‥魔を討っても、魂が欲に塗れ憎悪の念に囲まれていて、ジーザスの力が届きませんわ‥‥」
男の返事はない。悲しげに男を見遣ると、女は背を向けた。物陰から2匹の白い獣が姿を現す。片方に跨ると、静かに去っていった。その真下を駆ける、大きな動物‥‥男には、狼のように見えた‥‥が駆けていく足音だけが、こだまする。
「今の馬、飛んで‥‥?」
まるで、教会壁画のペガサスのように。
「気味が悪い。魔だと? もうすぐ死ぬだと?」
溜息を吐き首を振る。近頃、何かと気に食わない事が多い。妻の事、今の女、他にも‥‥。小さく舌打ちすると、道を急いだ。こんな時は、ただ憂さを晴らすに限る。
それを、物陰から覗く者。
「なかなか、役者じゃないか」
リリーの演技を思い出し、笑みを漏らす。近い日に、死‥‥とは。
「‥‥くく」
あながち、外れでもない。呟くと、道化は暗い小路へ消えてゆく。
今回、リリーは思う所あって事に参加しているが『依頼』を受けてはいない。目指す所が、娼妓を守るだけではないからだ。その為『旦那様』と接触を図った。
対人鑑識に特に優れている訳ではないが、彼に関して判ったことが、ひとつ。‥‥ナイトである自分と、近い階層に位置する者‥‥貴族。
「厄介ですわね」
「あなたの技量じゃ、見習いが妥当でしょうな」
表向き娼妓として護衛をする、と言ったオグマ・リゴネメティス(ec3793)に、店主が告げた。護衛だから客は取らない、と断るより先に。
「他の娼妓にばれないように」
「はい‥‥」
「‥で、先程の質問ですが、狙われているらしい娼妓は、ここではベルトと呼ばれております。依頼の期間が5日間なのは、とりあえずです。解決しないなら、延長を申し出るか、改めて人を雇います」
依頼に関して一通りの情報を聞き出すと、オグマはベルトの部屋へと向かった。
「ルーイです。よろしく」
今日から小間使いとして働くことになった、と新顔が挨拶に来た。
「‥‥よろしく」
妓女は、少しだけ目を細めて、言葉を返す。みすぼらしい服の、小柄な少年に。
「お姉さんの名前は?」
「ここでは、ベルト‥と呼ばれてる。最近は、そうね‥‥アナイン・シー‥そんな風に、呼ぶ人もいるわ」
「‥‥そんな呼び方、嫌です。お姉さんのほんとの名前は?」
「さあ‥‥? どうだったかしら」
「それじゃあ、あなたを笑わすことが出来たら、教えて」
「‥‥?」
「その時は‥‥僕も」
浮べた笑みに、ベルトは一瞬目を奪われた。髪が顔に掛かっていてよく見えないが、きちんとしたら、綺麗な子なのかも知れない、と思った。
ルーイは、部屋を出た所でオグマとすれ違った。
「どうでした?」
「まだ、何とも」
小声で言葉を交し、行き過ぎる。オグマだけでなく、ルーイ‥‥ミカエル・テルセーロ(ea1674)も、従業員として潜入していた。変装の為、ミカエルは長い髪を自らばっさりと切り落とし、今は不揃いな毛先が顎の下で揺れるばかり。本人はさばさばしたものだったが、それを目にした仲間、特に女性陣はかなりの衝撃を受けていた。
初級リシーブメモリー1回で読み取れる情報は、言葉にして1フレーズ程度。また対象と物理的に接触する必要がある上、オグマの技量では3回中1回は失敗するし、使える回数も多くない。依頼人から有用な情報を引き出す事は出来なかった。
「皆様はどうしてこの職業に?」
次に、新入りとして、先輩の娼妓に話を聞く。家が貧しかったから、性に合っているから‥‥理由は様々で、答えない者も居る。その場合は、彼女達に触れ、リシーブメモリーで情報を得た。中には、知った事を申し訳なく思うような過去もあった。他人の記憶を覗くというのは、そういう事だ。
そして、ベルトは‥‥
「綺麗な音でしょう?」
オグマは、窓の側に魔除けの風鐸を吊るした。ベルトには言わないが、これはアンデッドを遠ざける効果がある。ベルトは、ただ窓の外を見つめている。‥‥何かを、待っているかのように。
夜が来る。娼館に、灯が点る。
集い始めた客の中に、エルディン・アトワイト(ec0290)の姿もあった。ゆったりと歩を進め、建物に入る。依頼人にはウィザードの冒険者を名乗っており、客の振りで護衛に付く事は知らせてある。依頼人と目配せを交わすと、打ち合わせ通りオグマを指名した。
店の外、鏡で髪や顔を確認しながら妓女の出待をしている客を装う、ゼルス・ウィンディ(ea1661)。
ギルドにて、ロロから敵は『蝙蝠に化けられ』『我がどーほーとする、と言っていた』という情報を得た。バンパイアがベルトをスレイヴ化しようとしていると考えて間違いないだろう。バンパイアは日中行動を避ける、鏡に映らない、という性質がある。手にした鏡で周囲を映しつつ、警戒の目を光らせるゼルス。そして、その上に、フライングブルームで飛び回るリアナの姿があった。
ベルト‥‥アナイン・シーは、今日も『旦那様』を迎えていた。
「今日は、験の良くない‥‥気味の悪い事が起こったのだよ。でも、お前の顔を見ていると全て忘れるようだ、私のアナイン・シー」
くい、とゴブレットを干す男。ベルトが新たな酒を注ごうとすると、水差しは空になっていた。
「ルーイ、新しいお酒を‥‥」
「はい」
こくりと頷いて、厨房へ。男は、気付かなかった。『ルーイ』が、顔に掛かった髪の向こうから、じっと、冷えた視線を送っていたことを。
別室、エルディンにしなだれ掛かるようにして、オグマが耳元で囁いた。
「アナイン・シーさんは、‥‥バンパイアを愛しています」
夜が更けてゆく。今宵も『旦那様』は泊まらずに帰った。一夜の安息を得たベルトは、自室で眠りに就いている。その隣室で、冒険者達が寝ずの番をしていることも知らずに。
「今夜は、もう来ないかな」
明け方、エセ・アンリィ(eb5757)が呟いた。エルディンに借りた鳴弦の弓を、音がしない程度にそっと弾く。
「その心、取り戻させてみせる」
「具体的な証拠はなし、ですか‥‥」
オグマから預かったスクロールを眺めるエルディン。そこには、妓女達の身の上が書いてある。しかし、複雑な読み書きが出来ない為か、あるいはそれ以上の情報は集まらなかったのか、内容は簡潔だった。昼にコルリスも妓女達の契約に関する書類を捜したが、館の奥まで忍び込む事が出来なかった。
そうして迎えた、3日目の夜。
リリーが、毛布に包まり、ペガサスに騎乗して見張っていた。今夜は曇りで、月も星もない闇夜。
バサリ。
深夜、あまり大きくはない音を聞いた。
「何だ? この音は」
木の枝に降り立った、大きな蝙蝠。それが、徐々に人に似た姿をとる。
ちりん、ちりん。妙に、不快な音。
「‥‥あれか」
目的の部屋、その窓辺に下がった風鐸。
風が止み、音が止むのを待って窓辺に降り立ち、それをはたき落とす。
ガチャン!
その音に、ベルトが目を覚ました。
「迎えに参った」
「あ‥あ‥‥」
ベルトの顔に、喜悦が浮かぶ。しかし、フラリと立ち上がった手を、引く者があった。
「何だ、そなたらは」
物音に、控えていた冒険者達が駆け込んで来たのだ。ぽう、と、ランタンの灯りが点る。
「ルーイ‥オグマ‥‥?」
知った顔、知らない顔、それぞれに困惑の表情を浮べるベルト。
ぺち。
先程引いた手を掴み、ミカエルは自らの手でベルトの頬を叩かせた。
「壊れてしまいたいのかもしれない貴方は僕らを怨むかも。でも、僕は貴女が壊れたいなどと思う世界を、壊すものを、容認など、できない」
前髪の奥で、緑の瞳が光ったように見えた。
「何を、言って‥‥?」
エセが、鳴弦の弓をオグマに投げ渡すと、ベルトと敵の間に割って入った。そして、部屋の外に向かってベルトの肩を押す。
「行け!」
「少しの間、眠っていて頂けませんか?」
オグマが、アイスコフィンのスクロールを広げる。
「嫌‥‥」
首を振るベルト。仕方なく、そのまま発動するが、失敗。
エセの背後で、エルディンの体が白く光った。レジストデビルをエセに施す。
「成程、邪魔者、か‥‥」
タン、と床を蹴ると、敵はエセに牙を剥いた。発達した犬歯‥‥バンパイアの証。
「ぐぅっ」
エセが、マインゴーシュで受け止めると、バンパイアは牙が効かないことを察し、素早く下がる。その体が、黒く淡い光に包まれた。
「這い蹲れ」
エセを黒く激しい光が包む。生命力を、根こそぎ奪おうとするような。
「何のッ」
レジストデビルによってダメージは軽傷に抑えられた。ならばもう一度、とバンパイアが構えようとした、その時。
ビィン。
不愉快な音に、バンパイアは歯を食いしばる。
部屋の隅で、オグマが弓を鳴弦の弓をかき鳴らしていた。
ビィ‥‥ン。
音の余韻が消えぬうちに、ミカエルのマグナブロー、炎の柱がバンパイアを包んだ。
「燃えろ、与えられた幻等‥‥不要です」
「あ、あ‥‥」
駆け寄ろうとするベルトの肩を、ゼルスが押さえた。
「確かに人の心は苦しみの元かもしれません。でも、心を捨てて他人の言いなりになって、それで良いのですか? 貴女が本当に望んでいることは、そんなことではないはずです」
「嫌‥い、や‥‥」
しかし、ベルトの瞳はゼルスを移さない。ただひたすらに、愛しい相手を見つめている。
「目を覚まして下さい。どんな悪夢にも必ず終わりが来ます。貴女が、その目覚めの時を迎えるために、私達は全力で戦います」
ベルトを背に庇うと、その手から真空の刃を放った。
「ぐ‥‥」
重なるダメージに、とうとうバンパイアが膝を着く。そこへ、エセが剣を振り上げた。
「駄目!」
ベルトがその腕に飛び付こうとする。エセは、ぎょっとして腕を引いた。
全員にグッドラッグをかけ終わり、ソルフの実を飲み込んでいたエルディン。
「何をしているのです!」
素早くコアギュレイトでベルトを拘束した。
その隙に、バンパイアは自らダメージを再生し、窓際へ後退る。
「この人数相手では、分が悪いか‥‥」
逃走の気配を察し、エルディンがコアギュレイトを放つが、効かない。それならばと、ピュアリファイを連発する。回復の効かないダメージは累積し、その合間を縫って真空の刃や炎の柱が降りかかる。エセのスマッシュが入り、とうとうバンパイアは窓際に倒れこんだ。
そのまま、蝙蝠の姿を変え、ヨロヨロと飛び立つ。
「逃がしませんわ」
しかし、そこにはペガサスに跨るリリーの姿。ロスヴァイセのホーリーフィールドはバンパイアの抵抗により無効化したが、バンパイアには逃げ切るだけの力も無かった。
室内に置かれたランタンのほのかな灯りを頼りに、リリーは槍を構え突撃する。
まともに食らった蝙蝠は、庭に倒れ込んだ。変身が解け、本来の体に戻る。その姿は、既に瀕死だった。
魔法で拘束されたベルトは、それを、首を背ける事も適わず見つめ続ける。
「消え去りなさい!」
止めとばかりに、リリーが槍を構えた、その時。
ゴォッ‥‥!
吹雪が、通り抜けた。
「オルト‥リン‥デ‥‥」
飼い主をも巻き込んで吐き出された、フロストウルフの『息』は、リリーの視界を白く染め上げる。
やっと視界が利くようになったリリーが、冷気に凍えながら目にしたのは、バンパイアの喉元に噛み付くフロストウルフと、2度と動かなくなったバンパイアの体だった。
欲しがる者はいくらでもいた。商品として、慰み物として‥‥他にも。皆、ベルトの心を思う通りにしたがった。
彼は、心の在処も、意思すら問わず、ただ傲慢に存在を欲した。付いて行くのは人としての破滅。それは何となく解った。それでも行きたかった。彼が誰より純粋にベルトを欲したように、ベルトもまた欲しかった。意思も心も持たない、彼の物になりたかった。殺戮の道具でも構わなかった。彼女にとって、既に世界に意味は無かったから。
「いや、本当に有難うございました」
戦いの、次の朝。
バンパイアが倒れたことを知った依頼人は、満面の笑みで冒険者に報酬を配った。
「追い払うだけでなく、倒してしまうとは、冒険者とは素晴らしい」
しかし、冒険者の表情は優れなかった。ベルトは、昨夜から一言も話さない。動かない。愛しい相手が目の前で狼に屠られる姿を目にした妓女は、完全に心を閉ざしていた。
「あれの事は、お気になさらず。そのうち元に戻りますよ。それに‥‥」
にや、と依頼人が笑う。
「あのままでも、別段。‥‥いやね、世の中には大人しい女を好む方も‥‥ね」
下卑た笑いに、ゼルスが顔を顰める。仲間に目配せをすると、スクロールを広げた。
「幻の中で、大好きな金にでも埋もれてください」
「決して悪いようにはしません、私と一緒に来てください」
エルディンが手を引くと、ベルトは何の抵抗も無く付いてきた。成されるがまま。その言葉通りに。
依頼人には、イリュージョンで『ベルトが高額で買い取られていった』幻を見せた。領収書も書かせたので、ベルトに持たせる。『旦那様』にも『別の金持ちが彼にも手が出ない高額で彼女を身請けした』幻を見せる事になっている。こちらも、難なく成功するだろう。
エルディンは、ある教会に、寄付金10Gを添えて彼女を預けた。リリーから当面の生活費にと預かった分も、渡しておく。
「宜しくお願いします」
関係者に頭を下げると、静かに、教会を後にした。
その後、冒険者達は集めた情報をつきあわせ、ミカエルのバーニングマップで仲介人の居場所を見つけ出し、告発した。盗賊等、胡乱な相手から人を買い、卸していた『仲介人』は、人身売買の罪で裁かれる事となった。しかし、娼館側はその仲介人から『雇い入れた』娼妓数人を解放させられたのみで『娼妓には「給金」を先払いした上で雇っている』『仲介人が何処から女を連れてくるかは知らなかった』と言い張った為、咎めは及ばなかった。完全な、蜥蜴の尻尾切であった。
日当たりの良い、教会の1室。今日も、女はぼんやりと窓辺の寝台から外を眺めている。何かを、待っているかのように。
「ロベルティーネ・クラム」
ぴくり、と物言わぬ唇が震えた。懐かしい名。もう忘れたと思っていた、昔の‥‥ベルトの本当の名前。
ひっそりと入ってきた、道化と隼。
「ヴィッツは、優しくて綺麗な『ベル姉』が大好きだと言っていた」
ロロの言葉は、いつもの飄々とした調子では無かった。
それは、何処か悲しげに、響く。