【臥竜遊戯】 龍と迦陵頻迦
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■ショートシナリオ
担当:津田茜
対応レベル:6〜10lv
難易度:難しい
成功報酬:9 G 0 C
参加人数:4人
サポート参加人数:-人
冒険期間:04月19日〜05月04日
リプレイ公開日:2008年04月29日
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●オープニング
ちらちらと雪の如く微風に舞う淡い花弁がやわらかに春を謳う。
流行り病にも似た市中の遊興熱もいくらか落ち着きを取り戻し、八百八町と呼ばれる巨大な町も麗らかな陽射しの中で、のんびりと寛いでいるかに見えた。
「さて、どちらから手を付けたものか」
思案を促す割には殊勝さの欠片も組み込まれておらぬ男の声に、回廊の階で散り落ちる桜を見上げていた北畠顕家はちらりと形の良い眉を動かす。都の貴人より花と喩えられた秀麗な容貌を過ぎった懸念の色に、隻眼の男はひどく満足気な笑みを浮かべた。
「いい加減、猫被りにも飽いてきた。京の都にも何やら風が吹き始めたと聞く。そろそろ潮時だとは思わんか?」
「戯言を。こちらとて全てが其許の筋書き通りには進んでおらぬ。陸奥司様も悪路王に手を焼いておられるとの事。白河が動けば鬼も動く。いっそ奴等が鬼共を操っているのではないかと思えてきたわ。――東海に至っては国家泰平を謳いに野心を隠し、世情に阿る者も出る始末」
「武士とは皆そういうものだ。野に放たれたばかりの都雀でもあるまいし、まだ慣れておらんのか」
あいかわらず硬いコトだ、と。公卿の出自を持つ将軍を揶揄するように肩をすくめ、伊達政宗はふと思いついた風に口角をあげる。
ただひとつの眼に揺れた策意の光に、顕家はわずかに顎をあげた。――類希なる覇気と野心家を秘めた漢は、難物ではあるが無能ではない。だからこそ御し難い、という表現もできるのだけれども。
「越後を覗いてくる気はないか?」
聞きなれぬ地名に僅かばかり逡巡し、思い当たる名にまた眼を細める。
上杉謙信。源徳氏の討伐に名を連ねた諸将の内で最も意外であり、それゆえに世を震撼させた男がそこにいた。
「前回の礼を兼ねて何度か使いをやったがイマイチ手応えが鈍い。動かぬならそれでよいが、こちらの足並みを乱そうと躍起になっている輩もいることだ。面倒だが手打っておいた方が良かろう。――殊のほか大義名分や形式を重んじる癖のある男故、其許が適任だ」
政宗の言葉に、顕家は軽く吐息を落とす。
源徳討伐に名を連ねたことすら意外だったのだ。――何を今更、と。少し鼻白んだ気配を払いのけるかのように、政宗はぱちりと弄んでいた扇を鳴した。軽やかなその音に、顕家は視線をまた庭へ視線を向ける。
思案を紡ぐ沈黙の後、彼は風に運ばれた花弁を掌から解き放った。
「趣旨は判らないでもない。だが、不用意に私が越後へ動けば、蘆名、佐竹に波が立つ。‥‥共に越後との関係は宜しくないと聞き及ぶ」
「仰々しく兵を並べずとも越後の桜を愛でに足を伸ばしたコトにでもすればよいのだ。奥州は広い。悪路王の噂なら、あちらも穏やかでは居られぬだろう。――江戸の冒険者を何人か供に連れて行くというのはどうだ?」
「何を馬鹿な」
謙信の冒険者嫌いは有名だ。
いささか人の悪い冗談だと反射的に顔をしかめた顕家に、政宗は悪びれる風もなく太い笑みを閃かせる。
「手が足りぬのであれば、どのみちこちらで見繕うしかあるまい。――大言壮語は耳にするが、迂闊さも目立つ。実際のところどこまで使えるものやら‥‥使い捨てる駒ならばそれでも良いが、見誤っては眼も当てられぬ。越後なら、試金石にちょうど良かろう」
「――賢しいことを‥」
苦々しげに吐き捨てて踵を返した顕家のすらりと伸びた背中を見送って、政宗は軽く肩をすくめる。
犀は既に投げられたのだ。
江戸の統治は予想以上に順調だが、周辺国との関係は芳しくない。房総、下野、相模、それに八王子は未だ源徳派で、江戸を奪還しようと虎視眈々と狙っている。ある意味望む所だが、予想と違うのは三河の沈黙だ。待つのも限界で、こちらから動かなければならない。
今更、戻ることができぬことは、皆、知っている。――そして、理解と感情は、また別のものだということも。
必要であると理解すれば、顕家は越後へ向かうだろう。
その間に打っておきたい策もあるのだ。
●リプレイ本文
寒中に咲いた紅梅のよう――
その艶やかなる容色を都の貴人はそう評したというが。むしろ、彼自身が蕩けることのない氷の花だ。花将軍と呼ばれるこの公達と顔を合わせるのは初めてではなかったが、伊勢誠一(eb9659)は思考の片隅で漠然とそんなことを思う。
清冽すぎて近づきがたい。
江戸城で対峙した時には、ただ高貴な‥‥さすがに貴族的な脆弱さこそなかったものの‥‥品がよく、姿かたちの美しいだけの男であったものが、今はうっかりすると呑みこまれてしまうのではないかとの危惧に灼かれるほどの強い覇気に包まれていた。
ただ、そこにいるだけで背筋が伸びる。
闘技場で数多の闘士と剣を交えてきたイリアス・パラディエール(eb5648)だけでなく、伊勢に呼ばれこの場に加わった荊信(ec4274)、そして、武道家であると同時に舞踊家でもある瀞蓮(eb8219)も。数名の近習を従えて姿を見せた北畠顕家を前に、無意識に姿勢を正した。
「先ずは此方等に礼を言う。――雪が解けたとはいえ、越後は遠い。この時流で我らに与し、江戸を離れるにも勇気が要ったことと思う」
淀みなく紡がれる言葉の内にも、命じることに慣れた自然な権高さが伺える。まっすぐで歪みのない、いっそ眩しいほど清廉な‥‥内なる覇気と野心を隠そうともしない伊達政宗とはある意味、対照的だ。――このふたりを番えて江戸に送り込んだ奥州司の思惑は奈辺にあるのか。なかなか興味の尽きぬ布石ではある。
「それで、道中の様子は?」
道中の安全を最優先に。
友の為、そして、その志を遂げさせるために全力を傾けることを胸中に期した荊信が発した問いに、控えていた武士が応じた。
「恙無く‥とは、行かぬ。上州街道は相変わらずだ」
先の騒乱では戦場ともなった場所である。
国司の内示を得た新田氏は復興に尽力しているというが、こればかりは一朝一夕で治まるものでもない。さすがに鬼や魔物の被害は少ないが、代わりに山賊や追剥といった素性の善からぬ輩が徘徊していると聞こえていた。
そして、越後も。軍神と讃えられる男の直轄であるとはいえ、反乱・一揆と火種を多く抱える国だ。
「三国峠の雪解けに併せて人も荷も増えている故、遇えて我らを狙おうという無謀な輩は少なかろうが、予断を許さぬ」
太古より続く明確な階級制度が存在するこの地では、民百姓を襲うのと、貴人を襲うのでは罪の重さが違う。また、騒乱に追われた者たちの、生きるための悪事であるコトも多い。寡兵とはいえ太刀を帯びた護衛と切り結ぶ危険を冒そうという度胸もないだろう。
だが、裏を返せば、と。共に街道筋の治安を気遣う荊信と瀞蓮は、無言のうちに顔を見合わせた。
奥州の特使と知って尚、刃を向けようとする者たちがいるならば‥‥それは、奥州に善からぬ思惑を抱いている者と見て間違いはないだろう。そして、それがただの盗賊などではないことも。
「顕家殿が越後へ赴く事を殊更に隠しておらぬのなら、なおさらじゃな」
小さく嘆息した瀞蓮に、顕家はほのかに笑った。白々と冷たく、それでいて、ひどく気怠げな‥‥あるいは、殿上人と呼ばれる者の顔であるのかもしれない。漠然と胸に落ちた不安にも似た焦燥の翳に、瀞蓮は心を揺らせる。
「秘していたのでは意味がない。この顕家が越後へ赴くことに意義があるのだ」
それは、彼を迎える越後国だけでなく。越後・武蔵の両国と国境を接する上州、出羽、奥州の諸大名、豪族たちにとっても。
政宗の本意が他にあることを理解していても、無視はできない。――北畠顕家とは、そういう「駒」なのだ。
●献策
「政宗様と平織の市様の会談を、越後で謙信様同席の下で行いたいと提案してきたらどうかな?」
小柄で引き締まった体格ながら、どこか女性的な雰囲気が漂うのは言動のせいなのだろうか。イリアスの提案に、顕家はほんのわずか顎を引く。――いくらか現実離れした着眼に驚いたのかもしれない。
確かに、実現が可能なら、誰にとっても利のある話だ。
上杉謙信は諸侯への面目を施し、伊達と平織には相互の繋がりが‥‥同盟へと発展すれば、当面の懸念をひとつ減らすコトができる。
「越後としては、一考の価値ある話だろう。提案するのは悪くない。――だが、武田、新田への面当てはいかがする? こちらも我らにとっては縁ある国だ」
「‥‥あ‥☆」
穏やかに、だが失念していた急所を突かれて、イリアスは小さく声を上げる。
越後には新田氏に地位を追われた上州国司・上杉憲政が庇護を求めて滞在していた。そして、武田信玄と上杉謙信は互いに意識する関係だ。甲斐の信玄が信濃を獲った際には謙信と何度か戦ったと聞く。越後を意識しすぎれば他国に角が立つ事になる。信玄や義貞にも手を打ち、成功すれば玄妙な外交策と言える。
婀娜っぽく揃えた指を唇に当てたイリアスを視界の端に、顕家はちらりと伊勢に視線を向けた。――涼しげな眸にふと挑むような、あるいは、その胸中を測ろうとするかのような思惑の光が浮かぶ。
「其許の書状について、政宗と図った」
江戸の治安維持組織として、政宗直属の私兵部隊を設立してはいかがか、と。
出発前に、政宗に渡して欲しいと書状を託したのは先日のことだ。――ひとつめの布石への応手がこんなところで返されようとは。
受け止めようと鳩尾のあたりに力を込めた伊勢に向けられる顕家の言葉は、相変わらず淡々と淀みない。
「町奉行所をはじめ、凶賊改めなど既存の警邏組織がいくつかあるコトは存知居ろう」
支配者が交代した江戸の町がさほどの混乱もなく治安を維持し続けているのは、源徳時代の制度をそのまま存続させているからだ。
混乱を避け、そこで働く者たちを放り出さずに召抱えることで源徳氏の下士を速やかに伊達の支配下に取り込み足元の揺るぎを抑える。――伊勢の提案は、明らかにそれまでの姿勢の逆であった。当然、その地位にあることで生じる利権の幾つかを横から浚われる者たちの反発は免れぬ。
「それを踏まえた上で尚、結果を出せると言うのであれば具合案を出してみよ‥とのことだ。真に良策であるならば、私としても敢えて異を唱える理由もない」
策が成れば伊勢の立場は揺ぎないものとなり、最終的な野望への道が開ける。――だが、結果を出せずに混乱だけを生じれば、政宗の逆鱗に触れることは必須だ。
差し出された禁断の果実を前に、伊勢は細い双眸をいっそう細く眇める。沈黙の裡に勝算を計る伊勢の面に静かな視線を当てたまま顕家はつと指を上げ、伊勢の持つ《退魔の錫丈》を示した。
「法体でもない其許が刀ではなく錫丈を持ち歩く。小さな奇異でも目に付けば、人は不審として心に残す。痛くもない腹ならまだしも、思惑あっての所業なれば襤褸も出よう。‥‥噂の真意を質そうと欲する気持ちは判らぬでもないが、《軒猿》の目を侮ったのではあるまいな?」
上杉謙信といえば戦場での勇名とは別に、深く仏教に傾倒していることでも知られた男である。その謙信が治める国に魔神の影あり‥‥噂の真偽はともかくとして‥‥たとえ疑惑であっても、耳に入れば不興を買うのは間違いない。
「それに気づけぬようでは、この後もいささか心許ない。自重せよとは言わぬ。やるならば細心をもって手段を厳選することだ。――江戸ではもっと慎重に事を成せると期待しても良いのだろうな」
では参ろうか、と。
皆を促し近習たちに出立の指示を出す顕家の姿を眺め、荊信は深い吐息をひとつ。伊勢の背中をぽんと叩いて言葉を掛けた。
「気にするな。撥ね付けるなら、最初から話など聞かないはずだ。俺はお前なら出来ると信じてここに来たのだからな」
「いやはや。責任重大ですな」
荊信なりにそれを伝えようとする不器用ながら義理堅い友の言葉に、伊勢は小さく苦笑をこぼす。
●早春の風
春日山城――
難攻不落の名城と評される上杉謙信の居城は、山ひとつをそのまま巨大な城とした天然の城砦でもあった。
花の季節には、少しばかり早いだろうか。ところどころで若芽が吹き、蕾が綻んでいるものの、山全体の装いはまだ早春の中にある。
「‥‥景気はどうじゃな?」
耳慣れぬ訛りに振り返った花売りは、明らかに地の者ではない瀞蓮に驚いた風に目を見張った。
城下町を覗こうと考えていた瀞蓮なのだが、要塞としての性格を持つ山城の近隣にあるのは集落単位の農村ばかりで‥‥賑わいがあるのは郷津港に至る御成街道くらいだが、江戸の賑わいに慣れた目には、十分すぎる田舎である。
残念ながら期待していた武器屋という体裁を持つ店もない。戦さに必要な物資は調達する役目を帯びた官吏が御用商人を通じて買い付けるのが通例だ。
戦さに向けての準備は常に怠りないが、それが領内の一揆や反乱の鎮圧に向けてのものなのか、あるいは、もっと大きな戦さを見越しているのか。見極めるのは難しい。
旅人が珍しいのか方々から向けられる好奇の視線に、瀞蓮は肩をすくめた。――ある程度は覚悟していたことではあるが。
「なにやら、興行の猿にでもなった気分じゃな‥」
「まあ、大差ないだろう」
さばさばと言ってのけた荊信に苦笑して、瀞蓮はこちらを伺う視線に笑顔を返して話題を変える。
「上杉謙信とやら、義に篤かったと聞く。それが源徳討伐に手を貸した理由は今一つ見えぬが‥‥なにか目的があったのであれば、その内心が伊達家に対し必ずしも友好的と限らぬ」
「‥‥元々、源徳嫌いではあったらしいが」
自制心の強い男だが、感情のふり幅も広く好き嫌いはハッキリしている。それが、荊信が越後を歩いて得た上杉謙信の人物像だった。
親戚筋に当たる上州国司・上杉憲政が新田義貞に国を追われ越後に庇護を求めた。上杉憲政に説得されて、不承不承、源徳氏の上州討伐に応えはしたが‥‥さて、その後の心変わりの理由がどうにも不透明ですっきりしない。
掲げた「正義」を覆し、源徳嫌いに拍車をかける「何か」があったのだろうか。――あるいは、源徳氏の内に許しがたき「不義理」を見いだしたのかもしれない。
いずれにせよ、江戸で源徳氏の主張を善しとしてきた冒険者たちが夢見る「正義」と、謙信の拠って立つ「義」が激しく乖離しているのはどうやら間違いなさそうだ。
「重なっている内はともかく。離れてしまえば、伊達の敵となることもあり得るのじゃからのう‥‥難しい話じゃな‥」
深々と嘆息し、瀞蓮はちらりと荊信が伺う視線の先へと意識を向ける。敵ではないが、味方でもない。彼らの立場を代弁するかのように、一定の距離を置いて付きまとう者があった。
仕方がないとは思うが、気持ちのよいものでもない。
「そろそろ戻った方がよさそうじゃな」
「ああ。会談も終わる頃合だ」
「‥‥御屋敷‥‥いや、上臈屋敷であったか? よい城じゃが、勾配がキツいのが玉に瑕じゃの」
「まあ、山城だからな」
目配せと相槌でお互いの意志を汲み取り、他愛ない無駄話を装って踵を返す。
越後と伊達の関係が深まれば、いずれまた顔を合わせることになるかもしれない。互いに一筋縄では行かぬ相手だと判っただけでも十分だ。
●龍と迦陵頻迦
小さな仏像に取り付けられた鐘は、こそりとも動かない。
試しに振ってみれば可愛らしい音を響かせもするが、触れなければ静かなものだ。――尤も、目当てのモノが杖の感知できる範囲に踏み込んでこなければ、煩く鳴り響くものでもないのだろう。
「‥‥城下には出向かなかったのか?」
伊勢とイリアスの控える居室に戻った顕家は、じっと《退魔の錫丈》を眺める伊勢の姿に軽く顎を引いた。
「僕が行くと目立つからね」
「‥‥私はこちらの首尾が気になりましたので‥」
「悪路王の件については、もとより懸念はしておられたようだ。――尤も、出羽、上州との兼ね合いもある故、いきなり兵は挙げられぬ。当面は北緯の支城に警戒を命じるといったところだろう」
言外の問いに何気ない口調で答えを返し、顕家はふと思いついた風に顔を上げてふたりを眺める。
「後ほど、毘沙門堂と花畑のあたりを案内してくださるそうだ。――付いて参るか?」
「よろしいので?」
「良い。‥‥いや、むしろ誰ぞ人が居た方が良いのではないかと思う‥」
奇妙な言い回しに、イリアスと伊勢はどうしたものかと顔を見合わせた。僥倖というべきだが、何か裏がありそうな気がする。
お花畑に男がふたり。確かに、なかなかシュールな光景だ。
特使の一行を出迎えた聖将とも呼ばれる男が放つ圧倒的なカリスマ性を思い返して、イリアスはわずかに首をかしげる。
あるいは、イリアスと荊信のふたりがどこからか拾い集めてきた酒好きだという情報を許に、酒と梅干の贈呈を薦めたせいかもしれない。――顔を合わせる度に、「梅干を肴に手酌で酒を呑む男」なんて妙な先入観が点滅すれば、ふたりきりで過ごすのは確かにちょっと辛いかも。
もう1度、互いの内を探り合うように視線を交わし、イリアスと伊勢は重々しく頷いた。
■□
風はまだいくらか肌寒さを感じさせたが、淡く雲を吹き流した蒼穹の琥珀玉は春を謳うかのように輝いていた。
そう待つ程もなく、この地にも花が溢れるだろう。
愛でることが叶わないのは、心残りではあるけれど。――房総では既に戦さが始まっていた。始まったという報は届いたが、その情勢までは届かない。陸続きであるとはいえ、江戸と越後の間に横たわる距離は長く遠いことを思い知る。
謙信は房総への派兵を断った。彼らは源徳有利の情勢に乗っただけの豪族に過ぎないのだから、と。
だが、源徳氏直参の旗本である小田原については、敢えて明言を避けている。上州での新田氏の動きに加え、もうひとつ、彼を不快にさせている事情もあった。ある意味で、こちらの方が彼の中では重要であり、その是非を見極めるまでは態度を決めかねているといったところか。
「我が領内にて何やら画策している者がいるらしい。――聞けば、私が源徳に対し不義を働いたのだとか‥‥義を果たさず先に正道より背いたは奴であろうに。その汚らわしい口上を楯に我が名を貶めるとは・・」
涼やかな眸の裡に、苛烈なまでの瞋恚が揺れる。信仰心に篤い仁将とはいっても、謙信は決して寛容な慈悲の人ではない。――むしろ、烈火の如き酷烈な勘気を併せ持つ漢でもあった。
おそらく謙信の触れを受け、動き出した者たちがいるだろう。
水面に投じられた波紋の如く広がり行く動乱の気配が、冒険者‥‥否、伊達に与することを決めた者たちの前に、ただ茫洋と広がっていた。